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旅のみちづれ


 深い海の底を、這うように泳ぐ魚。
 これは何かに似ているような気がした。それほど重要なことではないはずなのに、そんなつまらないことがすごく気になり、一生懸命考えた。そうしてやがて、何を思い起こしていたのか、それに気付く。
 そうだ、チョウチンアンコウだ。
 窓からのぞく景色は闇に沈んでいる。墨一色と言っても、水墨画というのがその一色の濃淡で一枚の絵を描けるように、黒一色の夜の世界にだって、明かりがなくても空と山との境界を知ることが出来る。
 それでも、夜の海と、夜の空の境界は曖昧だった。バスの窓から目をこらすが、そこから見える景色の中に、水平線を見つけることが出来ない。上の方に目をやれば、ほの青い宵闇の中、かすかに灰色の霞をいくつか見つけることが出来る。あれはきっと雲で、だからそれが浮かんでいるあの辺りは、空なのだろうけど。
 月は見えない。あの雲の中に、隠れてしまったのだろうか。
「……くん、皆木くん」
 隣からそう呼びかけてくるやわらかな声に、窓の外に向けていた意識と視線を、車内に戻す。
「大丈夫、眠い? だったら、眠ってくれても構わないから」
「平気です。ちょっと、外を見ていて」
「外? ああ、海だね」
 納得したように、その人は一度頷いた。そのまま、いつものように優しい笑みを浮かべる。
「チョウチンアンコウ、みたいだなって」
「鮟鱇?」
 口に出そうと思ったわけではないのに、勝手に、声にして伝えてしまった。いまの会話の流れに乗せるには、あまりに不自然な単語じゃないかと、自分で自分をばかにする。そんな風に、思ったことをそのまま口にするなんて、どうかしている。これまで、人に対してそんな接し方をしたことも無い癖に。そんなことをすれば、相手が困るだけじゃないか。
 案の定、隣に座るその人は、こちらの言ったことを不思議そうに繰り返す。
 なんでもないです、とごまかそうとして、口ごもる。変な奴だと思われるのは嫌だった。他の誰にそう思われても構わないし、実際、誠に対して、ほとんどの人はそんな風に思っている。けれど、この人にそう思われるのは、なんだか嫌だった。
「あの、えっと、バスが。このバスが、なんだか」
「……ああ、ほんとだね。似ている」
 深い夜の闇の中を、他には誰もいない山道を、幾分か遅めの速度で走っている。そのバスのヘッドライトだけが煌々と、前方を照らす。乗客も他にいないから、話し声もない。低く鈍い音でエンジンが唸り続けている以外は、何の音もしなかった。それが深海魚に似ていると思った。どこか高いところから夜を走るこのバスを見下ろしたなら、チョウチンアンコウに似ているのではないかと、そんなことをぼんやりと考えていた。
 子どもじみた考えだと自分でも思う。けれどその人は、誠のその間の抜けた説明に眉もひそめず、なるほど、と笑って頷くだけだった。
 嬉しいような、それよりも気恥ずかしい気持ちに落ち着かなくなって、誠は別のことを尋ねてみる。
「こんな風に、夜中に出かけること、よくあるんですか」
「ううん、はじめてだな」
「……ぜんぜん、人が、いませんよね」
 誠の言葉に、そうだね、と、その人は淡く微笑んだ。いつでも心を慰めてくれるその笑みがとても好きだった。けれど、今はなんとなく直視出来なくて、思わず目を逸らしてしまう。また、外の景色に目をやる。
 バスは街灯も少ない、夜の山道を走っている。時折木々の合間に空間が開けて、崖下に海らしきものが広がっているのが見える。どこに走っているのかは知らない。海に向かうのだと、そう言われて、行き先についての話題はそれきりになっている。
 腕時計をしてくるのを忘れてしまった。何しろ、出かけたのがもう寝ようかという時刻だったのだ。何とか財布と、携帯電話だけは引っ掴んでくることが出来たけれども、洗った髪の毛だって十分に乾ききっていない。少し、寒い。
 ポケットから携帯を取り出す。時間を見ると、やがて午前0時を迎えようという頃合いだった。
 ふと、隣から、誠の所作を見守るような視線に気付いて、また顔を向ける。なんだか哀しそうな目をしたその人と、目が合った。
「ごめんね、突然連れ出して」
「いいえ、それは、かまわない、んです……けど」
 寒気がして、言葉の途中で身体が震えた。それを見て、誠のまだ半渇きの髪の毛に気付いたのだろう。
「寒い?」
 いいえ、と首を振ろうとするより早く、彼の手が、誠の肩に回された。そのまま、少しだけ強い力で引き寄せられる。
「ほんとだ、少し冷えているね」
 だからこうして、身体をくっつけて温めようとしてくれているのだろうか。なんでもないことのように、寒いひとを見かけたらこうしてやるのが当然だと言わんばかりの自然な動作だ。
 ……きっとこのひとは、すごく女のひとにもてるのだろうなぁと今更のようにそんなことを思った。
 彼があまりに自然にそんなことをするものだから、誠としても、引き寄せられた身体を離すことも出来なかった。
 けれども熱を与えようとしてくれたのだろうその人の身体は、誠よりも冷たかった。こちらよりもずっと、冷えているのではないだろうか。
 不安に思っていると、彼は誠の方を見ずに、もう一度、ごめんね、と呟いた。


「旅に出ましょう」
 この人は突然、誠を訪ねてきた。
 神生総一さん。誠がアルバイトをしている書店の社員さんだ。ほんとうは営業の仕事をしている人なのだけれど、バイトが辞めてしまったり休んでしまったり、売り場に出る人間が足りない時は、神生さんと一緒に仕事をしたりすることもある。
 本が好き、という、書店で働くに当たって、褒められそうなところはそのぐらいしかない誠と違って、店長だけでなく、店の経営グループの社長にすら、高い評価を得ている人なのだそうだ。それなのに、まったく偉そうなところがない。同じアルバイトの人たちですら、誠のことを使えない奴だと面と向かってはっきり言い切ってくる。店長や、他の社員さんだってそうだ。ほんとうのことだから仕方のないと、自分でも思う。
 でも、事実であるにも関わらず、神生さんだけは、絶対そんな風に言ってこなかった。それは誠に対してだけではなくて、誰に対してでも、そうだったけれど。
 だから、好きだった。
 お昼休み、昼食をとる時、他の人が休憩室にいるのだったら、勝手口の前に座り込んでひとりでパンを齧ったりしていた。神生さんがいるときだけは、こっそり同じ部屋の、すみっこのほうで食べた。そうしていると時々、ひとりでいる誠に気を遣ってくれたのか、話しかけてくれた。人と話すのは苦手だし、相手の顔を、まっすぐ見ることが出来ない。
 幼いころからそんな性格で、親にも、男の子の癖に、とずっと嘆かれてきた。大人になったら直るのだろうと思っていたけれど、身体だけ大きくなるばかりで、少しも変わらなかった。
 神生さんだけは、特別だった。優しい、少し色の薄いその目の色をよく見たいと思ったし、少し下がった眼尻が、笑っているようにも、見かたによってはどこか困っているようにも見えるのが、すごくいいと思っていた。
 誠は彼のことが、好きだった。
 そんな人が、夜に突然、訪ねてきたのだ。
 チャイムが鳴らされたのは午後の二十三時過ぎ。今日もバイトで、数時間前に、おつかれさまです、と別れの挨拶をした。それなのに、神生さんは何故か、こんな時間に誠を訪ねてきた。
「どうしたんですか、神生さん」
「突然ですみません。せめて、連絡を入れられれば良かったのだけど、携帯を無くしてしまって」
「……おれの家、ご存じだったんですか?」
「ああ、えっと、住所だけは。少し、探しました」
 そう答えてくれた声は、少し困っているように聞こえた。
 ドアスコープを覗き見る。見慣れたその姿を確認して、誠はすぐに扉を開けた。いつものように、穏やかな笑みを浮かべて、神生さんは誠に、こんばんは、と小さく頭を下げる。
「おれ、仕事で失敗でも……」
 ひそかに憧れていた人が訪ねて来てくれたことを喜ぶよりも、とっさに、また何かやってしまったのだ、と、そう思ってしまった。そもそも、神生さんが誠に会いに来るような理由なんてない。バイトと社員さんという接点しかないのだから。
 だから、こんな時間に神生さんが誠を訪ねてきそうな用件にも、何かバイト関連のことだと思っていた。以前にも、こうやって家まで来たわけではないけれど、夜遅くになってから、釣銭が合わないんだけど、と、他のバイトの人から電話がかかってきたことがある。
 わざわざ直接、家まで赴くようなことがあったのかと、誠が顔を青くしていると、
「ううん、違うよ。そんなんじゃない」
 神生さんは微笑んで首を振る。すらりとした長身を少しだけ屈めて、誠に視線を合わせてくれる。神生さんは声も雰囲気も笑顔も、何もかもが柔らかくて優しい人だ。
「何か、用事ですか?」
「そのような、そうでないような。おれはね、きみを誘いに来たんです、皆木くん」 
 そう言って神生さんは、そっと手を伸ばして、誠の指に触れた。
 突然の接触よりも何よりも、触れてきたその感触に、身震いがしてしまうほど驚く。
「……つめたい」
「きみの手は温かい」
 神生さんはずいぶんと、冷えているようだった。夏の暑い盛りだというのに、近頃は昼と夜との温度差が大きくて、夜は風が肌寒いと感じることもあるほどだ。どこにいたのだろう、と、思わず心配になってしまう。心なしか、顔色もあまりよくないような気がした。
「出かけるって、どこへ?」
 気がついたら、そんな風に聞いていた。どうして、と、理由を聞くのではなく、行先を尋ねているのが、自分でも不思議だった。
「……海へ」
 神生さんはそう答えて、どこか照れくさそうに笑った。

 その時から、神生さんの手は冷え切っている。バスの中も冷房が効いていたけれど、たぶん、それほど低い温度設定にはなっていないだろう。神生さんの冷たいままの手が、心配だった。血圧がすごく低いと、体温も、下がったりするんだろうか。だったら、神生さんは今、すごく血圧が下がっているのだろうか。血圧ってどうして下がるんだろう。心臓が悪いからだろうか。
 誠がひとりでそんなことを考えていると、ほら、と、神生さんが窓の外を指差した。
「次の停留所で降りよう。そこから、すぐ海に出られるから」
「あ、……はい」
 ちょうど、心臓は大丈夫ですか、と質問しかけるところだった。ふいを付かれたように頷きながら、それを考え直す。また、変なことを聞いてしまうところだった。
 それにしても、どうして、海なのだろう。
「ここの砂浜はね。すごく辺鄙なところにあるから、人があまり来ないんだ。釣りをするにしても、泳ぎに来るにも、周囲に店も何もないからね。昔は、港に結構船が出入りしていたらしいけれど、今はもう、ほとんどの人が漁に出るのをやめちゃったらしい」
 時代は変わるね、と笑った神生さんのその顔が、少しさみしそうにも見えた。
 「つぎおります」のボタンを押すと、ぽん、と明るい音が静かなバスの中に響き渡った。そういえば、これまで、どの停留所の名前を告げる放送も聞いていない。あまりバスには乗らないから分からないけれど、この路線は、停まるところの少ないバスなんだろうか。そうかもしれない、とひとりで疑問に思い、ひとりで納得する。だって、こんな辺鄙な場所にまで走ってくるのだ。
「ほら、着いたよ」
 窓の外を、ガラスに額を押し付けるようにしてじっと見ていると、苦笑まじりの神生さんの声に教えられる。
 バスはゆっくりと走る速度を落として、暗くてよく見えないけれど、停留所があるのだろう道の真ん中で停まった。立ちあがった神生さんは、これまたひどく自然な動作で、誠の手を取った。
 冷たいその手に引かれてバスを降りる。運賃を払おうと誠が財布を出しかけると、いいんだ、と言われて神生さんに止められた。神生さんが払うのかと思いきや、何も払わないで、そのままバスを降りてしまう。慌てて運転席の方を振り返ったけれど、帽子を目深に被っていて、全然顔の見えないその運転手さんは、こちらの方を見ようともしなかった。
 誠と神生さんのふたりきりの乗客を降ろすと、バスはすぐに発車して、また山道に消えていった。
「お金……?」
「いいんです、今日は。特別」
 誠の呟きに、神生さんはそんな風に笑うだけだった。降りたところは、辺り一面が闇だ。
 まっすぐに伸びている道らしいものはあるが、ほとんど街灯がない。先の方に白い光が浮かんでいるのが見えたけれど、その光もとても遠くて、足元を照らしてはくれない。誠の手を引いたままの神生さんが、こっちだよ、と言って道を教えてくれる。バスの走ってきた道とは違って、地を踏んだ足の裏からごつごつした石の感触が伝わった。横道に入り込んだのだろう。
 背の高い植物が、両側に伸びている。その草をかさかさと揺らしながら、手を引いて先を歩く人についていった。石を踏む足音と、かすかに虫の鳴く声が聞こえる。とても、静かだった。
「皆木くん、ごめんね。連れ出して」
 振り向かずに、足も止めないまま、神生さんの呟くような声が聞こえた。なにが「ごめん」なんだろう、と、そんなことを考えながらも、誠は首を振る。もし、突然にこうやって連れてこられたことだけを彼が謝っているのであれば、そんな必要はないと、そう伝えたかった。戸惑ってはいるけれど、迷惑だとは思わない。
「あ……」
 けれど、何か口に出すよりも先に、目の前に広がった景色に、間の抜けた声を上げてしまった。
 一面の、開けた広い空間。足元から先に広がる地面はほのかに白くて、ある地点から、空の色とよく似た藍色に切り替わる。その藍色が、乾きかけた誠の前髪を揺らす風が吹くのと同じ動きで揺れている。
 風が吹いてくる。今晩はもともと、それほど蒸し暑い夜ではなかったけれど、それよりもここは、もっとずっと涼しい。風が運ぶ潮の香りに、ようやく、目の前に広がるものが何なのか、やっと理解できた。
「海だ」
 思わず、そんな風に呟く。そうだね、と、隣に並んだ神生さんが頷くのが聞こえた。旅の、「目的地」だ。
 砂浜を見回してみる。当り前のように、ふたりの他には誰もいない。
「おいで。もっと近くで、見ようよ」


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