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星をさずける
9

 どうやって自分の部屋まで帰ったのか、記憶もおぼろげだった。
 寝不足だったうえに、一日、まともに食事をしていなかった。意識ももうろうとしていて、無事に帰ってこられたのが不思議なくらいだった。
 上着も脱がずに、そのままベッドに倒れ込んで、気が付いたら朝だった。手入れに気をつけなくてはいけない大切なスーツも、しわくちゃになってしまっていた。お湯を注ぐだけで出来るあたたかいスープをたくさん作って、ゆっくりと時間をかけて胃に入れていく。
 星をくれないんですね、と佳介が言った声が、頭から離れなかった。伊織が、店の名前の由来を話していたから出た言葉なのだろう。彼に、どうしてあげられたのだろう。伊織に出来ることは、佳介の幸せを祈ることだけだ。幸せになってほしいから、これ以上好きになってしまわないように、離れる。
 スープを飲みながら、封筒から招待状を取り出す。返事を出さなくてはいけない。出席。欠席。ペンを持つ手が、宙で浮いたまま止まる。自分がどうしたいのか、分からなかった。
 どうして俺の幸せを、あなたが勝手に決めるんですか。
 悲しそうな、声だった。
 ペンを置いて、スープを全部飲み干す。出勤時間まで、まだあと少し余裕があった。伊織は立ち上がって、玄関脇の靴箱を開ける。探していたものをすぐに見つけて、それを鞄におさめた。
 佳介には、もう会うことは出来ないだろう。
 それでも、やらなくてはいけないことがあった。

 いつも通り仕事を終えて、日が暮れて暗くなった道をひとりで歩く。河原の遊歩道には、昨日と同じように、まったくひと気がない。どのあたりだったか、記憶を頼りに場所に目星をつける。このあたりかな、と、河原に降りる。鞄を置き、上着を脱いだ。ただでさえ、そろそろコートを手放せなくなってきた季節だ。そこから更に一枚薄着になると、冷たい空気があっという間に身体を冷やしてくる。それでも、動きにくいよりはましだと思った。着替えを持ってくるという発想はなかった。もし今夜中にみつからなければ、明日からはそうしようと思いながら、鞄から懐中電灯を取り出す。
 丸い、小さな白い光で、茂った草を照らす。地面までは、見えない。
(しかたない)
 簡単に見つけられるとは思っていなかった。少しずつ、草の根本をかき分けて、地面を照らして探していくしかないだろう。
 華奢な、ほんとうに小さな指輪だ。おそらくこのあたりに投げられただろう、と、伊織がそう思っているだけで、実際には佳介の豪腕で、川まで飛んで行ってしまったかもしれない。冷たい、暗い水の底で沈んでいる指輪のことを想像すると、胸が痛んだ。
 あれは佳介の恋そのものだ。伊織はそれを、相手の話も満足に聞かずに、ただ突き返そうとしただけだった。もっと大事にしなくてはいけないものを、粗末にしてしまった気がしてならなかった。ひとを傷付けてしまっておいて、ごめんなさいと頭を下げれば許されるとは、伊織も思ってはいない。だからせめて、あの指輪をもう一度見つけたかった。見つけて、汚れを落として、ぴかぴかにきれいに磨き直したい。
 その後それをどうするかは、見つけられたあとで考えればいいことだ。
 川に近いところから、少しずつ位置をずらしながら、草をかき分けていく。懐中電灯をかざして、少しでも光を反射するものがあれば慎重に拾い上げる。なにかの部品らしい、金属のかけら。ねじ。空き缶。いろいろなものがたくさん出てきた。ついでに拾って、一箇所にかためておく。あとでまとめて捨てよう。
 身をかがめているのがつらくなって、少し休憩することにする。集中して目をこらしていたせいか、肩も腰もばきばきに固くなっていた。息をついて時計を見てみると、すでに仕事が終わってから三時間近くたっている。終電の時間まではねばろう、と決めていた。あと一時間は探せる。
 よし、と、もうひと頑張りするために、シャツの袖をまくりなおした時だった。目の端を、影が横切った。川沿いの遊歩道を動くものがあった。シルエットからすると、自転車だろう。もしかしたら、見回りをしているおまわりさんかもしれない。悪いことをしているわけではないが、見つかれば、放っておいてはもらえないだろう。それはまずい、と、伊織は懐中電灯を消す。身動きしないように固まり、出来るだけ小さくなる。そうやって、自転車が通り過ぎるのを待っていた。
 耳を澄ます。すると、こともあろうに、すぐ近くでブレーキをかける音がした。隠れたつもりだったが、見つかってしまったのかもしれない。それでも身動きしないで、じっと身をひそめ続ける。
 地面を踏む足音が聞こえてくる。隠れたまま、鞄と上着をそのまま置いてあったことに気付いた。あれでは、気付いた人があやしく思うのは当然だろう。
「何をしてるんですか」
 かけられた声に、身を起こす。相手も伊織と同じく懐中電灯を手にしていて、そこから白く眩しい光が投げかけられる。職務質問だ、と、観念して手を上げる。こうなったら正直に説明するしかない。すみません、と頭を下げようとして、ふと、その声に聞き覚えがある気がした。
「綾瀬さん……」
 声をかけてきたのは佳介だった。一番、見つかりたくない相手だった。ある意味、おまわりさんよりも避けたい相手だったかもしれない。
 伊織が眩しい顔をしていたことに気付いたのか、佳介は伊織に向けていた懐中電灯の光を少しずらす。
 何をしてるんですか、と、もう一度聞かれる。
「……ごみ拾いです」
 まとめておいた空き缶たちの山を指す。佳介はそちらの方をちらりと見ただけだった。
「嘘ですよね」
「綾瀬さんこそ、どうしたんですか、こんな時間に」
 きっぱり嘘だと指摘されてしまった。もともと無理のある言い訳だったので、かわりに聞き返す。この道は、駅からも商店街からも、佳介の住んでいるアパートへの通り道ではないはずだ。
「たぶん……伊織さんと同じですよ」
 そう言って、伊織の手にしている懐中電灯を指さす。ふたりで暗い河原に、それぞれ懐中電灯を持って立ちつくしている姿は、他の人にはどんな風に見られるだろう。
「そうですか」
「はい」
 どちらとも、黙ってしまう。佳介も、指輪を探しに来たのだ。まだ見つかったわけではないのに、彼がそうして来てくれたということで、伊織はもう、救われたような気持ちになった。
「もう、遅い時間ですよ」
「大丈夫です、終電には間に合うように帰りますから」
「もしかして、仕事のあと、ずっとここにいるんですか」
 佳介の声が咎めるような言い方だったので、素直に頷けなくなる。関係ないでしょう、と笑って突き放すことが出来る自分でないことが、悲しくも、有難くもあった。
「帰りましょう。そんな格好してたら、風邪ひきます」
「でも」
「お願いします。……帰りましょう」
 まだもう少し、と、伊織は残るつもりでいた。けれど、佳介に頭を下げられてしまう。懇願するような、誠実なその声に、わかりました、と頷く。佳介はそれを確認して、伊織の手を掴んだ。引っ張られて、上着と鞄を置いたところまで連れて行かれる。
 ごみの山は結構な量になっていた。明日にでも、ごみ袋を持ってきて片づけよう。佳介が上着を取って渡してくれる。伊織がそれを着ると、またすぐ、手を繋がれた。逃げないように確認するために、捕まえられているようだった。
 そのまま、手を引いて土手を上る。遊歩道に止められた自転車を見て、佳介はどこか残念そうな素振りで手を離した。
「逃げませんよ」
「違います。……このまま帰りたかっただけ」
 ぶっきらぼうにそれだけ言って、佳介は自転車には乗らず、ハンドルを押して歩き出す。その背中を少しだけ見つめてから、伊織も彼に並んだ。
「伊織さん、うちに来ませんか」
 そう言った佳介の声は、少しだけ語尾が震えていた。帰りましょう、という言葉の向ける先が彼の住むところであったということに、胸があたたかくなる。はい、と頷く。
「……昨日は、すいませんでした」
 自転車を押しながら佳介は歩く。暗い道でみても明らかにあちこち錆びていて、かごの形も歪んでいる。タイヤが回るたびに、きいきいと金属が軋む音がした。
「僕のほうこそ、申し訳ありませんでした。あなたの気持ちも考えもせずに……」
 伊織が言うと、佳介はそこで大きく首を振った。自転車も一緒にきいきい鳴る。
「とんでもないです。俺、なんであんなことしちゃったんだろうって、ひと晩中そればっかり考えました。あんなこと……」
 指輪を放り投げたことだろう。佳介がそうするにいたった経緯は、伊織が彼の気持ちも考えずに指輪をただ返そうとしたからだ。
「綾瀬さんが悪いんじゃないですよ」
「違います、俺、ひどいことをしました。指輪を俺が投げ捨てた時、伊織さん、すごく傷ついた顔をしてた」
 思いがけないことを言われ、怯んで言葉をなくしてしまう。
「あれは、伊織さんが俺のために一生懸命選んでくれた指輪なのに。たくさんある中から、いちばん良いものを、いちばん、喜んでもらえるものをって……。うちに帰ってからも、伊織さんの顔がずっと頭から離れませんでした。それで、ああ俺は、あの人のそういう気持ちを、もういらないって言って、目の前で投げ捨てたんだって気付いて」
「綾瀬さん」
 佳介が足を止める。大きな身体は、叱られた子どものようにしゅんとして肩を落としている。気にしなくていい、と伝えるつもりで、伊織も立ち止まり、彼の背中に軽く触れた。こうして触れられることに、彼は嫌悪感を持たないだろうか、と、それを少しだけ、心の中で恐れながら。
 伊織のその仕草に、佳介はうつむかせていた顔を上げる。歩いていた道は、遊歩道が終わって橋へとつながる場所にさしかかっていた。すぐ近くに街灯が立っているから、佳介の表情がよく見えた。
 彼は伊織の顔を、しばらく何も言わずにじっと見つめた。
「俺は、2という数がとても好きです」
 黒曜石のような瞳、という表現がよく読み物の中にあらわれることをふいに思い出す。夜の中、街灯の白い光を受けた彼の黒い瞳を見ていると、こういうことか、とその表現がいおうとしていることを理解出来た気になった。きれいな、黒だった。
「2は、最小の素数であると同時に、素数中ただひとつの偶数です。さらに、素数においては唯一の高度合成数でもあります」
 この人はほんとうに素数が好きなんだな、ということしか分からなかった。分からなかったけれど、きっと、それだけ伝われば十分なのだと思えた。2という数。
「ひとは、1です。男でも女でも、どんな人間でも。ひとりの人間では、1です。でも、1足す1は、2になれます。結婚とか、世間体とか、そういう社会的な形で認められないものであっても。……それでも、ふたりいれば、それは1じゃなくて2です。2になれます」
 祈るような声で、ゆっくりと佳介はそう言った。
「俺は、しあわせになれなくていいです」
 もっとわかりやすく教えてください、と、数学の話をしていた時に、そうお願いしたことを思い出す。
「あなたが、あんなにかなしい顔をするなら、俺は、しあわせになんて、ならなくていい」
 佳介は言葉のひとつひとつを区切って、それを順番に伊織に差し出すように、丁寧に口にした。
「伊織さんが、2になるために寄り添う1に、俺を選んでくれるのなら。……俺は、とても、うれしいです」
 きっと、分かりやすいように、伝えようとしてくれている。伊織が正しく、彼の気持ちを受け取ることが出来るように。
「綾瀬さん」
「佳介、です」
「……佳介くん」
 うまく、声を出せなかった。こんなことを言ってくれた人はこれまでにいなくて、だから、どうすればいいのか分からなかった。伊織は目の前にいる佳介より、何年か長生きしていて、いろいろな経験も多く持っているはずなのに。そんなもの、まったく役立てることが出来そうになかった。きれいでかわいい女の子とおつきあいをして、将来はその子とふたりで生きることを決める。そういった、誰からも祝福される幸せな道を、進んでいってもらいたいと、そう願うのが自分のつとめだと、ずっと考え続けてきたのに。
 はじめて口にする佳介の名前に、声が震えた。年上のちゃんとした大人だと思ってくれているのに、これでは、みっともなさすぎる。それでも、何も言えなかった。
「大丈夫ですか」
 心配そうに、覗き込まれる。それに、どうにか頷き返す。何も言えそうにないし、何も考えられなかった。常識だとか、世間体だとか、そんなものが、瞬間に、小さなものに思えてしまった。だめな大人だと、心の中で呟く。いくら、立派なことを考えて、ひとのためにとあれこれ考えたって。
 だいじょうぶです、とまだかすかに震えてしまう声で答える。佳介の顔が見られなくて、少し、瞳をそらす。
「……嬉しすぎて……」
 好きな人に、こんな優しい声と言葉をもらえたら、他のことが、一瞬でかすんでしまう。頭がくらくらして、うまく、ものを考えることも出来ない。
 がしゃん、と、金属の重いものが倒れる音がする。佳介の支えていた自転車が、歩道のアスファルトの上に倒れて転がったのだと気付いた時には、伊織は、大きくてあたたかい人の体温にくるまれていた。佳介の腕が、伊織を強く抱き締めていた。
「伊織さん、かわいい」
「……僕はきみより、年上だよ」
 およそ年上の同性の男に向ける言葉ではない、と思いながら、それを指摘する。
「知ってます。でも、かわいい」
 佳介は何度も繰り返し、それでもまだ足りない、とでも言いたげに伊織を抱く腕に力を込めた。鞄が邪魔で、伊織からは彼を抱き返せない。だから首を上向けて、ごく近い距離から佳介の目を見た。まじりけのない、きれいな黒い目が、伊織の眼差しを受け止めて笑う。どちらから先にしたか分からないくらい、そのまま自然に、唇を重ね合わせていた。熱い、彼そのもののような優しいキスだった。


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