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星をさずける
10

 誰かの体温に包まれて眠ったのは、ずいぶんと久しぶりだった。平日はいつも同じ時間に鳴るようにしてあるアラームに起こされて、目を開く。すぐ近くに、目を閉じて眠る佳介の顔があった。信じられないような思いで、眠る彼をじっと見つめる。その視線を感じたのか、目蓋を閉じていてもどこか優しげな印象のある目が、ゆっくりと開いた。まだ眠りの中にいるようなぼんやりとした目が、ぱちぱちと瞬きする。
「……いおりさん」
「はい」
 ぼんやりと、おぼつかない声で名前を呼ばれる。
「今日は、学校ですか」
「……きょうは、午後からで……大丈夫」
 です、と答えて、佳介はそのまま黙り込んでしまう。また寝てしまったのか、と、伊織はひとり、彼を残してベッドから離れようとした。けれど、後ろから伸びてきた手が腰を捕まえてきて、動けなくなってしまった。そのまま、引き寄せられて胸に抱かれる。何も着ていない背中に、佳介の体温がぴたりと寄り添う。
「俺のうちからなら、お店、近いですよね」
「……そうだね」
 電車に乗らなくてもいいから、普段より、一時間近く余裕がある。耳元で囁かれた声がくすぐったかった。
「でも、替えのシャツとネクタイが無いから、早めに店に行って着替えないと」
 まさかこんなことになるとは思っていなかったので、当然、着替えの用意なんてしていない。何かあった時のために、職場のロッカーにはひと揃い着替えを置いてあるので、気付かれないうちにそれに替えればいいと思っていた。
「俺ので良かったら、貸します。そんな、いいものじゃないけど」
 名残惜しそうに伊織の身体から離れて、佳介はベッドから立ち上がった。クローゼットを開けて、中を探しているらしい様子を見ながら、伊織も立ち上がる。渡してくれた、薄くストライプが入ったシャツは、佳介のサイズなので伊織には少し大きかった。分かっていたことだったけれど、そんなささいなことが嬉しくて、ひとりで笑ってしまう。佳介は伊織にネクタイも渡して、朝食の用意をします、とキッチンの方に行ってしまった。
 ネクタイを結びながら、ふと、ローテーブルの上に置かれていたものに気付く。昨日はそれどころではなくて、部屋の中の様子には、まったく目を向けられなかった。きちんと片づいた室内で、テーブルの上に雑誌が出しっぱなしになっていたのが目を引く。それも、佳介の研究分野である数学や、興味のありそうな種類のものではなく、若い女性が好みそうな、アイドルの写真がたくさん載っている雑誌だった。
 珍しさのあまり、手を取ってしまう。伊織自身も、こうした雑誌が存在することくらいは知っているけれど、実際に中を見たことはなかった。ぱらぱらとめくる。女の子向けだからか、若い男の子の写真が多い。紙面はどのページを見ても華やかだった。その中で、ふと、手が止まる。アイドルではなく、若い俳優のページがあった。写真とインタビュー。そこに、付箋が貼られていた。
 つい、インタビュー記事を読み込んでしまう。名前を聞いたことがあるような気がした。目元が涼しい、知的な面立ちの若い男の子だ。目元を細めて笑っている写真が一枚あって、その表情を、どこかで知っている気がした。
「あ、それ、実家から送ってきたんですよ」
 コーヒーを入れてくれたのだろう。佳介が、マグカップをふたつ持って戻ってくる。
「実家?」
「そうです。いま伊織さんが開いてる、そのページに載ってるの、俺の弟なんです」
「えっ」
 言われて、納得する。どこかで見覚えある、と思ったのは、笑った顔が佳介に似ているからだ。そうして、名前を聞いたことがあったことを思い出す。佳介がはじめてフォーマルハウトに指輪を買いにきた日、女性の同僚が、そんなことを言っていた。俳優の、あの人にちょっと似ていますね、と。その名前だ。
「ずっと役者として頑張ってたんですけど、最近、テレビとかにもよく出られるようになって」
 そう言って、佳介は微笑む。きっと、仲の良い兄弟なのだろう。実家から、彼の弟が載っている雑誌を送ってきていることが、家族の仲の良さをうかがわせる。
「似ていますね、佳介くんと」
「そうですか? あんまり、言われないですけど……俺が、以前、付き合ってると思ってた彼女は、俺じゃなくて弟が目当てだったんですよ」
 突然、そんなことを言われる。佳介は苦笑いをして続けた。
「あまり触れ回ることでもないので、弟がこういう活動をしていることは、おおっぴらにはしていません。けど、やっぱりどこからかは漏れてしまうみたいで……、この間、伊織さんに見られちゃったあの時は、その話をしてたんですよ。一度でいいから弟に会わせてほしい、連絡先だけでも教えてほしいって」
 あの、駅舎の前で、暗いところで話していたふたりのことを思い出す。なにかを頼んでいた彼女に対して、佳介はそれを頑なに断っていた。無理だよ、そんなのおかしい話だよ、と。
 事情を知りもせず、勝手に思い違いをしていた自分が恥ずかしくなる。勘違いをしている、と佳介は言っていた。確かに、ものすごい勘違いだ。
「もともと、俺と本気で付き合うつもりなんかなくて、弟と会うための……なんていうか、つなぎみたいな、そんな風に考えてたらしくて。女の子ってすごいですね。会えさえすればこっちのものだから、なんて、そんな話してたらしいですよ、友達同士で」
 そう言って、肩を竦める。佳介が、失恋をちゃんと受け入れられている、と言っていた時のことを思い出す。それは確かに、受け入れざるを得ない、という気がした。彼はきっと、弟を大事に思っている。自分がないがしろにされていたことよりも、弟のことをそんな風に言われたことの方が、きっと、許せなかっただろう。
「だから、俺、冷たくしてしまって……伊織さんには、嫌なところを見せてしまって、すみません」
「僕こそ……、ちゃんと話を聞こうともしないで、ごめんなさい」
「今度、紹介しますよ。伊織さんなら」
 思いがけない言葉だった。見るからに普通の人とは異なるオーラを写真からでも感じるこの人を、紹介。
 別世界の存在にしか思えなくて、想像出来なかった。むしろ、伊織としては、どちらかというと。
「……お兄さんの顔をしている佳介くんは、見てみたいかな」
 この華やかな弟に、兄である佳介はどんな風に接するのだろう。気になるのはそちらの方だった。
 照れくさそうに笑って、佳介はコーヒーのカップをひとつ差し出す。パンを焼いて、それにジャムを塗って、ふたりで一緒に食べる。いつもよりずっと、ゆっくりできるはずの朝だったのに、ひとりの部屋にいる時より、時間が早く過ぎていく気がした。あっという間に、出かけなくてはならない時間になる。
「午後からじゃないんですか」
 じゃあ行ってきます、と部屋を出ようとして、当然のように佳介も一緒に部屋を出て付いてくる。佳介は、かごが歪んだ自転車を引きながら、言いにくそうに口を開いた。
「その、河原に」
「指輪を探しに行くんですか」
「……だってあれは、伊織さんが選んでくれたものだから」
 あの指輪を投げ捨ててしまったことを、佳介はほんとうに後悔しているのだ。しゅんとしている様子に、胸がきゅっと掴まれたような思いになる。
「気が済むまで、探させてください。……それで、もし、見つけることが出来たら」
 自転車をきいきい言わせながら、佳介は前を向いたまま、少しだけ声を小さくする。
「もう一度、言わせてください。あの時、伊織さんに、練習してもらったこと。……今度は、練習じゃなくて、本番にしますから」
 言い切った彼の耳が、寒さのせいでは説明がつきそうにないほど、真っ赤になる。練習したこと。
 指輪を手にとって、そっと、大切な相手の指に与える。暗い闇の中にいても、たったひとつ、光をともせる星をさずけるように。ずっと一緒にいてください、という、相手を深く乞う言葉と一緒に。
「返事は、いまでも大丈夫ですよ」
 微笑んで言う伊織に、佳介は大きく首を振った。ぎいぎい、と、彼に賛同するように自転車も鳴る。
「駄目です、とっておいてください」
 きっぱりと言われて、はい、と頷く。今日は天気がいいし、気温も昨日の夜に比べると、少しはあたたかい。夜、暗いなかで探すよりは、ずっと見つけやすいだろう。それでも、もし、見つけられなかったら、次の休みに、伊織も一緒に探そう。その時も見つけられなかったら、ずっと、彼の気が済むまでつきあおう。そうして、それでも見つけられなかったら。
「今日は、自分の部屋に帰ります」
 伊織の言葉に、佳介は明らかにがっかりした顔をした。それがあまりに可愛らしくて、つい、吹き出してしまう。
「だからよければ、佳介くんも一緒に来ませんか」
 はい、という返事が返ってくるまでに、時間はほとんどなかった。朝の道を、ふたりで並んで歩く。
 探しても探してもあの指輪が見つからなかったら、その時は、伊織が新しいものを調達しよう。佳介がしたのと同じように、こっそり彼が寝ている間にワイヤーでサイズを計って。彼にいちばん似合うものを、この世界でいちばんふさわしいものを、贈ろう。どんなものがいいだろう、と、隣を歩く彼の指をちらちらとうかがいながら考える。
「はい」
 するとその視線を、違う意味にとらえたのか、佳介はおずおずと、右手を差し出してきた。左手だけで器用に自転車を押しながら、右手で、伊織の手を握る。あたたかい、大きな手だった。
「……佳介くん」
 その手を握り替えしながら、自然と、言葉が漏れる。
「僕は、しあわせです」
 俺もです、と、答える彼の声が、ふわふわと胸をあたたかくする。暗い中でも歩いていける、と、ふとそう思った。たったひとつ、小さいものでも、光があるから。
 世界中の人すべてに、祝福してもらえるような、そんな幸せではないのかもしれない。けれども、つないでいるこの手があれば、それだけでよかった。ひとりではなくて、ふたりだから。
 星は、この胸のなかに、もう輝いている。同じように、隣を歩んでいる人の中にも、たぶん。

 暗い宇宙に投げ出されても、きっと、ふたつの星は並んで寄り添っていられる気がした。


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