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星をさずける
3

 裸のまま持って歩くのも気の毒なので、店からリングケースをひとつ持ち出す。費用は、伊織が自分で出した。大事にそこにおさめて、店の紙袋に入れる。
 事情を話すと、オーナーは快く快諾してくれた。売ったら終わり、だけでは商売は成り立たない。その後のアフターケアがいかに大事かという、就職して以来何度も聞かされていることを今日もまた言われる。これもケアになるのか、と思いながら、許可をもらえたことに礼を言った。
 佳介が住んでいるのは、この商店街の近くだった。フォーマルハウトには今回はじめての来訪だったけれど、きっと、商店街自体は、普段からよく利用しているのだろう。指輪を買おう、という時になって、そういえば宝石店があった、と、店の存在を思い出してくれたのかもしれない。
 外に出ると、まだ雨が降っていた。予報を見て傘を持ってきていたので、それを差して、携帯の地図アプリで道を探しながら、佳介の住むアパートに向かう。雨のせいか、道を歩いているひとの姿も少ない。彼はもう、帰ってきているだろうか。あの後、真っ直ぐ、家に帰っただろうか。
 足跡が残っていないかと、探すようなつもりで、その姿を思い浮かべようとする。肩を落とした、悲しそうな、大きな背中。幸せになるはずだったのに、うまくいかなかった。それを手助けして、仲立ちするはずだった指輪も、役に立てなかった。
「……あった。ここかな」
 二階建てのアパートは、建てられてから日が経っているのか、ほどよく古びている。隣に立派なマンションが建っているせいで、晴れた日でも一日中日陰になってしまうだろう。名簿の住所を見ると、部屋は二階になっていた。錆びの浮いた手すりのついた階段をのぼる。ぎしぎしと、一段のぼるたびに軋む音がして、少し不安だった。
 指輪を買いにきた時に、あまり予算がないんです、と、申し訳なさそうに大きな体を小さくしていたことを思い出す。質素な暮らしを送っているのだろうか。このアパートの様子も、その想像を後押ししてくる。
 突き当たりの部屋の、呼び鈴を押す。表札は付けられていないけれど、たぶん、この部屋だ。
 しばらく立ちつくして待っていたけれど、ドアの向こうはしんと静まりかえっていて、なんの反応も返ってこない。
「綾瀬さん?」
 少し控えめに、ドアを叩く。
「商店街の『フォーマルハウト』の、茅橋と申します。さきほどご来店いただいた時に、店にお忘れ物がありましたので、お届けに参りました。……綾瀬さん!」
 しんと静まりかえったドアに向けて、わずかに、声量を上げる。もしかしたら、まだ、帰ってきていないのだろうか。ずぶ濡れになって、あんな風にうつろな顔をしながらも、他に行くところがあって、そこに向かったのだろうか。それならば、心配するようなことは何もないのだが。
「失礼します」
 断りを入れてから、ドアノブに手をかける。あっけないほど簡単に、がちゃりと回る。鍵をかけていなかったらしい。開いてしまった扉の前で、しばらくどうしようか悩む。
「綾瀬さん、いらっしゃいますか。『フォーマルハウト』の……」
 不在ならば、名簿に書いてもらっている携帯の番号に連絡をさせてもらおう。とにかく指輪をお返ししなければならないし、それ以上に、ひどく気落ちした様子の佳介が心配だった。そっとドアを開けて、中に足を踏み入れる。
 もともとあまり日当たりのよくない間取りなのだろう。そのうえに、天気が悪いせいで、室内はほとんど日没後のように暗かった。玄関に、靴が一足だけ揃えて置いてある。その靴が濡れているのに気付く。きっと、彼は部屋の中にいる。並べるように靴を脱いで、室内に上がる。
「おじゃまします」
 六畳あるかないかのワンルームは、きれいに片づけられている。床に置かれているものが、ほとんど無い。若い男性のひとり暮らしの部屋としては、信じられないほどこざっぱりとしている。伊織もわりとまめに掃除や片づけをする方だが、とても、ここまでは出来ない。
「綾瀬さん!」
 物が少ないゆえに、その人の大きな体は目立った。ベッドと、ローテーブルの隙間に、うつぶせに倒れ込んでいる。慌てて駆け寄り、その肩を揺さぶる。濡れた服をそのままにしているのか、手のひらに触れる生地が冷たい。
 結婚の申込を断られてしまい、失意のあまり、早まってしまったのだとそう思った。もっと早く駆けつければよかった、と、後悔に指先が震えそうになる。
「……かやはしさん?」
 その指先が触れていた肩が、のそりと動く。寝ぼけているような、おぼつかない声で名前を呼ばれる。思わず、はい、と返事して手を引いた。佳介はうつぶせになっていた状態から顔だけを上げて、不思議そうな顔をして、伊織を見ていた。自分でも、何がどうなっているのかよく分かっていないような表情だった。
 雨に濡れたはずの頬は、今はもう、乾いてはいた。おそるおそる見た目も、濡れてはいない。
「すみません、声をかけたんですけれど……勝手に、あがってきてしまいました」
 きょとんとして伊織を見上げている佳介に、言い訳のようにそう伝える。考えてみれば、おかしな話だ。これまで二回しか会ったことのない、宝石店の店員が、顔を上げたら突然部屋にいた、だなんて。どういう状況だろうと怪しまれてもしかたない。
 佳介はうつぶせの状態から起きあがる。伊織が部屋の中にいたこともそうだが、そもそも、自分が何をしていたのかもすぐには思い出せないようだった。眠っていた、のだろうか。
「風邪を引きますよ」
 髪や服が濡れたままだ。これから夜にかけて気温は低くなる一方なのだから、そのままにして身体を冷やすのはよくない。伊織の言葉に、そうですね、と、どこかおぼつかない声で佳介が頷く。じわじわと、その表情に影が滲みはじめる。
「茅橋さん、どうして、ここに?」
「……綾瀬さんが、心配になってしまって。勝手に、押し掛けてきてしまいました。申し訳ありません」
 指輪を返しに、というその言葉は、どうしても、口に出せなかった。鞄と一緒に、店の小さな紙袋を、少しだけ遠ざける。
 顧客情報は、大事な個人情報だ。それを利用しただけでなく、おまけに扉が開いていたのをいいことに、室内まで無断で上がり込んでしまった。不快に思われても仕方がない、というだけでなく、場合によっては、訴えられたり警察を呼ばれたりしてもおかしくない状況だ。
 けれど佳介は、伊織の言葉に、ふっと微笑んだ。何日か前、指輪を選ぶ時に見せていた、あのとろけそうな笑顔とは違う。優しいのに、寂しそうな笑い方だった。
「……俺、ばかみたいですね。勝手に舞い上がって、勝手に裏切られた気になって大騒ぎして……挙げ句の果てに、人に迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃないですよ」
 伊織の言葉を、それを受け入れるわけにはいかない、と受け流すように佳介は首を振る。風呂に入ります、と、伊織から目線をそらすようにして、小さく呟く。
「大丈夫です、俺。……心配してくれて、ありがとうございます。ちゃんと、立ち直れますから」
 嘘は、あまり上手でないようだった。悲しいくらい、棒読みだった。
 立ち去ったほうがいい、と、その言葉と、無理につくったような笑顔に、そう感じる。きっと佳介は指輪を返しにきてから、雨の中をここまで濡れて帰ってきた。その後、ふらふらとどうにかここまでちゃんとたどりついて、……ちゃんと、誰にも見られないこの場所まで来ても、それでも、涙はこらえたのだろう。
 ひとりで、誰にも、迷惑のかけないところまで来ても。絨毯も敷いていない冷たいフローリングの上にうつぶせになって、顔を隠すようにして。きっと、歯をくいしばっただろう。泣くな、と自分に言い聞かせて、目をきつく閉じてじっと耐えていたかもしれない。ひとりで、泣かないよう、自分を押し殺したのだろう。
「……風邪、引かないでくださいね。今日の夜も、寒くなるみたいですから」
 伊織にはそれ以外、なにも言えなかった。他人である伊織がここにいてはいけないと思った。恋をなくしたら、誰だって悲しい。その悲しみを、押し潰して、隠して、ないものだと振る舞わせるようなことは、してはいけない。なくした痛みは、彼の恋が彼の大切なものだったことの証拠なのだから。
 それを、他人が邪魔してはいけない。
「ありがとうございます」
 佳介が頭を下げる。邪魔をしてはいけないと、そう思うのに。
「綾瀬さん」
 はい、と、呟くような声で返事があった。こんなことをしてはいけない、と、頭の中で冷静な自分が言ってくる。その声がはっきりと聞こえているのに、言葉を止められなかった。
 平気な顔を、出来るだけつくろうとしている目の前の人を、どうしても放っておけなかった。
「無理しなくていいんですよ」
「……どういうことですか?」
「僕は、綾瀬さんにとって、なんの関係もない他人です。だから、そんな僕の前でまで、ちゃんとしてなくても大丈夫です」
 言いながら、なんて言い分だろう、と、自分でもあきれてしまう。なんの関係もない他人の前だからこそ、みっともない、弱い姿なんて、さらけ出せるものではないのに。分かっていても、どうにか、気持ちを伝えたかった。
 無理して笑おうとしているその表情が、痛々しくてつらかった。迷惑なんかじゃないから、だから。
「ほんとうに、好きな人だったのに。あんなに一生懸命、悩んで、考えて、喜んでもらおうと思ってがんばったのに」
 言っている伊織も、だんだん、悲しい気持ちになってきてしまった。いきいきと明るい未来に、目を輝かせていた佳介のことを思い出す。指輪を贈って、結婚を申し込んで、それを承諾してもらえたら、今度はまた、新しい指輪を。うまくいくかどうか心配に思いながらも、幸せになれると信じて疑わなかった少し先の未来。
「僕だったらたぶん、すごく、悲しいです。立ってもいられないかもしれない」
 佳介は伊織の言葉を、ひとつひとつ飲み込もうとするようにじっとこちらを見ていた。その眉が、少しずつ、ハの字に寄っていく。意志の強そうなすっきりとした顔立ちが、それだけで、一気に幼く、弱々しいものに印象を変える。
「だから……」
 こんなことをしてしまって、佳介に、どんな風に思われるだろう。目立たないように、ひとに不快な思いをさせないように、と生きてきた自分が、こんな思い切ったことをしてしまうのが、伊織自身にも意外だった。
 佳介は上げていた顔をうつむかせてしまう。少しだけ距離をつめて、その背中を撫でるように、優しく叩いた。元気を出せ、と励ますのではなく、無理に元気にならなくてもいい、と慰めるつもりで。
「すみません」
 口の中で呟くように、佳介がそう言った気がした。それに、気にするなと伝えるつもりで、いいえ、と短く答える。
「……俺は、本気だったんです」
 下をむいたまま、ぽつりと言葉を漏らす。
「確かに、俺にはもったいないくらいきれいな子だったし、これまでにも何人も、つきあう相手がいたって話も聞いてた。それでも、俺のところに来てくれて、いつも優しくて、俺がどんな話しても、うんうんって笑って頷いて聞いてくれて……」
 そんな子と出会ったのは初めてだった。これまでに知り合ってきた女の子は、少し仲良くなったかと思うと、こんな人だとは思わなかった、とか、一緒にいてもつまらないとか、そんな風に言って去っていってしまったのだという。彼女は、違う。ほんとうに自分のことを見てくれる人と出会えたのだと、柄にもなく、そんなことを感じてしまうほど、のぼせあがってしまった。
「でも、俺だけだった。向こうは、全然、そんなつもりなかったって……」
「おつきあいはしていたんでしょう?」
 聞いていいのかどうか、分からなかった。けれど、彼を慰めるために、どんなことがあったのかは知りたかった。そっと言葉を挟むと、佳介は、迷ったようにしばらく黙り込んで、それから、分かりません、と呟いた。
「俺は、そのつもりだったけど。……好きだって何回も……」
 何回も言った、なのか、言われた、なのかは分からない。それでも、そんな言葉のやりとりがあったのなら、気持ちが通じ合っていると思って当然だろう。けれど、ふたりは同じ気持ちではなかった。
「……綾瀬さんは、彼女のことが、ほんとうに好きだったんですね」
 佳介のことも、よく知っているわけではない。ましてや顔も、名前も知らない相手の女の子のことは、まったく知らないに等しい。だから、相手のことについては、伊織からは何も言えなかった。
「僕は、何も知らない立場ですけれど。でも、あなたが指輪を買いに店にいらした時、とても一生懸命だったのは、よく覚えています」
 相手のことを懸命に考え、ただひたすら、喜んでもらおう、という純粋な気持ちで瞳も表情もきらきらと輝いていた。あの輝きは、打算や、欲望からでは決して生まれない。
「ほんとうに、好きだったんですね……」
 それを突き返されたことは、佳介にとって、どんなに悲しいことだろう。大事に抱えてきた大切なものが、勘違いの産物の、まがいものだったと言い放たれてしまったのだ。
 伊織自身、いくつも、実を結ばないまま見送ってきた恋の記憶がある。誰にも自分の性癖を言えないまま、それでも奇跡を願うように、人を想ってしまうことを止められない気持ち。きれいな石だと思って大事に抱えていたものが、実は泥のかたまりで、気が付けば、かたちなく崩れて指の隙間から零れ落ちていくような、そんな、途方に暮れるような恋の終わり。
「……、う」
 佳介は両手で顔を覆う。奥歯を噛みしめているのだろう、首筋に力がこもっているのが、触れている肩から伝わる。それを少しでも緩めてはやれないものかと、そっと手のひらで撫でる。やがて、堪えきれなくなったのか、子どものように肩を震わせて泣き出した。
 最初は抑えられていた呻くような声も、やがて、少しずつ大きくなっていく。まるで、少しずつ心が解放されていくようだった。
 佳介は顔を覆っていた手を外して、両目からぽろぽろと大粒の涙を零し、長い時間、ただひたすらに泣き続けた。
 伊織はなにも言わず、黙ってその背中を撫で続けた。
 フローリングの床の上に、いくつも零れ落ちる彼の涙は、透き通った石の粒のようだった。ランプの光を当てた輝石のように、きらきらと輝いている。きれいだ、と、そんな場違いなことを考えて、少しだけ、それに見とれてしまった。


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