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星をさずける
2

 宝石店「フォーマルハウト」は、伊織が生まれる前から、この商店街の一角で店を営んでいる。近頃は郊外にいくつも大きなショッピングモールが出来て、その中にも宝石店がいくつか入っている。商店街の他の店と同様、この店もその影響は少なくなかった。昔は、このあたりでアクセサリーを買おうと思うとここに来るしかなかった、と、お得意様が教えてくれたことがある。それでも、新しいものが必ず良いものと決まったわけではない。この町で育ち、ここで婚約指輪を買い結婚指輪を買い、そうして生まれた女の子が大人になって、今度は母娘ふたりで店を訪れてくれるお客様もいる。
 都会的な華やかさはない、昔ながらの宝石店だ。だからこそ、伊織はこの店で働きたいと思った。ただ物を売るだけではなく、ひとりひとりと向き合って、その人に一番ふさわしいものを手にとって欲しかった。ここでなら、それが出来ると、そう考えていた。
「ありがとうございました。また、遊びにいらしてくださいね」
 若い頃に購入した指輪を修理したい、と頼まれていたものをお渡しする。大粒のサファイアがぐるりと小粒のダイヤに囲まれた、たいへんに豪華なもので、最初に見せてもらった時は、思わずため息が出てしまった。この国がイケイケドンドンで浮かれていた頃に買ってもらったものなのだと、そう言っていた。
お預かりした指輪は、ダイヤがいくつか取れてなくなって、月日を経たことでリングの銀色もいくぶんくすんでしまっていた。欠けてしまった石を入れ直して、新品のようにぴかぴかに磨かれて返ってきた指輪に、お客様は満足気に何度も頷いていた。若い頃、旦那様に買ってもらったものだと言っていた。まるでその頃に時間が戻ったみたい、と、綻んだその表情は、少女のように愛らしかった。
「……雨ですね」
 送り出したばかりのお客様が濡れてしまわないといいけれど、と、聞こえてきた雨音に耳を澄ます。店内には、音を小さめに絞ったクラッシック音楽を流している。さあさあと聞こえる雨の音と、心地よい音楽が混じり合う。
 商売をやっているどの店もそうなのかもしれないけれど、雨の日は、そうでない日に比べて客足が落ちる。ましてや日頃からそうたくさんの人が訪れる店でない宝石店などは、なおさら。確か、朝見た天気予報では、夕方から夜にかけて、ずっと雨となっていたはずだ。
 もう今日はこのまま、開店休業状態かもしれない。もうひとりの女性店員も、そう感じているのか、カウンター内でダイレクトメールを作成する作業をはじめていた。伊織も手伝わせてもらおう、と、彼女に声をかけようとした時だった。
 からん、と、ドアベルが鳴る。自動ドアではない、昔ながらの木でつくられた扉が開かれる。お客様だ、と思い、入り口に顔を向けて、いつものように、笑顔でご挨拶する。しようとした。
「いらっしゃいま、せ……」
 ドアを押し開けて、店内にのそりと入ってきた人影に、言葉が途切れる。背の高い、男性がひとり。降り出した雨に濡れてしまったのか、髪からも洋服からも、雫がぽたぽたと零れていた。こんなに濡れてしまうなんて、思っていたより、激しい雨なのかもしれない。伊織は慌てて、置いてあったタオルを手に、その人に駆け寄る。
「綾瀬さん」
 タオルを差し出して、拭いて貰おうとする。濡れねずみになって店に入ってきたのは、数日前、結婚を申し込むのだ、と指輪を買っていった、綾瀬佳介だった。
 佳介は何も言わずに立ちつくしていて、伊織が差し出したタオルも受け取ろうとしない。どうしたのだろう、とその表情を見上げる。呆然としたような顔だった。その頬に、いくつも雫が伝って落ちる。雨で全身ずぶ濡れになったせいだと分かってるのに、何故だか、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
 まるで魂が半分くらい抜けてしまったような、色をなくした表情。あんなに、やわらかく幸せそうな顔をしていた人だったのに。
 よくない予感に、なにも言えなかった。とりあえず身体を拭いて、なにかあたたかい飲み物でも飲んでもらおうと思い、もうひとりの女性店員に、コーヒーを入れて持ってきてくれるように頼む。
「大丈夫ですか、綾瀬さん。急に、降り出しましたもんね」
 必要以上に、慰める言い方にならないようにする。何も感づいていないのだと伝えるように、明るい声で、スツールに掛けてもらうように勧める。
 佳介はその場に固まったまま、動こうとしなかった。あふれそうになる感情をこらえるように、きつく結ばれていた口元が、その時少しだけ緩む。
「……だめでした」
 からっぽな声だった。その短い言葉だけで、なんのことを言おうとしているのか、十分に分かった。だから頷いて、もうそれ以上は言わなくてもいい、と伝えたかった。佳介の目は伊織の方を向いてはいたけれど、そこには、なにも映っていない気がした。
「だめでした。せっかく、練習してもらったのに。指輪、してあげることもできませんでした。そんなつもりじゃなかったのにって言われちゃって」
 一旦口を開くと、次から次へと言葉があふれて出てくるのだろう。
「勘違いしないでって。俺なんかと、そんなふうになるなんて考えられないって……」
「綾瀬さん」
 もういい、と言ってあげたかった。そんなに悲しい言葉を、伊織に教えるために口にしなくてもいい。そんなことをしても、もう一度、佳介が傷ついて痛い思いをするだけだ。止めてあげたいのに、佳介は首を振って続ける。
「俺、ひとりで、勘違い、してたみたいで。ごめんなさい。ごめんなさい、茅橋さん。あんなに一生懸命、時間かけて、一緒に選んでもらったのに。お幸せにって言ってくれたのに……」
 謝る必要なんてない。それどころか、伊織のほうこそ、きっとうまくいく、なんて言って送り出してしまった。無責任に、この人なら大丈夫、なんて、相手のこともよく知らないまま。
「すいません。ごめんなさい、これ」
 握り締めた拳を突き出される。それを受けた伊織の手のひらに、小さな軽いものが載せられる。
 なんて軽いのだろう、と、この仕事をするようになってからはじめて、そんなことを思った。こんな小さな指輪ひとつが、ひとをあんなに幸せそうに微笑ませたり、こんな風に苦しそうな悲しい顔をさせる。
「これ、貰ってください。もう俺には、必要ないから」
「そんな、こと」
「いらないんです。俺もいらないし、そんな指輪もいらなかった。みんなが言ってた通りだった。あんな女やめとけって。絶対、ただの踏み台として使われてるだけだって、ずっとそう言われてたのに。茅橋さんだけだった。茅橋さんだけが、お幸せにって言ってくれたから」
 だから貰ってください、と、伊織の手のひらにぎゅうと押しつけるように小さな指輪を置いて、佳介はぎこちなくお辞儀をして、そのまま店を走って出て行ってしまった。ドアベルが、壊れそうにがらんがらんと激しく鳴る。あんな風に鳴るのを、これまでに聞いたことがなかった。
「伊織さん、お客様は」
 頼んでいたコーヒーを持ってきてくれた同僚が、誰もいなくなった店内を見回す。すごい勢いで、去っていってしまった。彼のいた名残のように、絨毯に水滴が落ちてそこだけ色が濃くなっている。
「……お帰りになりました」
「その指輪は?」
 返品ですか、と、聞かれる。せっかく入れてもらったので、コーヒーを貰う。入れたてのコーヒーの熱が、カップを通じて手のひらに伝わる。反対の手の上に、佳介から渡された指輪を乗せて、コーヒーを飲みながら眺める。ほんの数日前、彼女に内緒でこっそりサイズを計ってきたんです、と、照れながら差し出されたワイヤーの小さな輪を思い出す。あれは、あんなにあたたかかったのに。
 いま、もういらない、と突き返された指輪は、まるでひとの肌のぬくもりを拒んでいるように、固くて冷たかった。
「……いいえ、お預かりしただけです。忘れものですよ」
 伊織の返答に、そうですか、と、同僚は頷く。若干、怪訝そうな様子ではあったけれど、先程の佳介の様子を、彼女もきっと見ていたはずだ。それ以上、なにも言ってはこなかった。
 コーヒーを飲み終えて、お礼を言う。片づけしてきます、と売り場を彼女に任せて、一旦事務所に入る。時計を見る、閉店まで、あと、一時間もない。
 オーナーに電話をしよう、と、そう思った。事情を説明して、顧客名簿の住所を元に、彼の家を訪れることを許してもらうつもりだった。
 雨に濡れて、呆然としていた表情を思い出す。あの人をひとりにしてはいけない、と、そんな気がした。伊織がそんなことまで考えてしまうのは、差し出がましいことなのかもしれない。友人でもなんでもない、ただ一度、指輪を買いに来た客と店員というだけの間柄だ。それでも、どうしても、放っておけなかった。思い詰めたような、もういらない、という言葉が悲しかった。
(……ちがうな)
 ひとりにしてはいけない、のではない。純粋に、気落ちして早まってしまうようなことがないか、心配する気持ちもある。それに、この指輪を受け取ってしまった。これは代金もすでに支払われている、佳介が購入した、佳介のものだ。だから、返しにいかなければならない。そういった、大人としての、理由はもちろん、正しく心にある。
 けれど、それだけではない。
 伊織が、あの人をひとりにしたくない、と、そう思ってしまったからだ。


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