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= 14 =

「おれ、そろそろ帰るよ」
 実波はあまり長居してくれなかった。
 昨日の夕食には何を作ったのか、とか、ミカンの白い筋は美味しくないだろう、とか、ほんとうにどうでもいいような、そんなことを話して帰っていった。まるで、あの、猫の葬列のことを、なかったことにしてしまおうというように。その途中、そういえばぼくは熱があって学校を休んだのだった、ということを思い出したのだろう。純太がそうしたように、額に手のひらを当てて、実波は軽く唸った。
 触れてきた手はいつもとは違い、ひんやりとして冷たく、心地よかった。
 それからは実波の口数が極端に減ってしまい、やがて、もう帰るよ、と、そう言われた。
 ……よく考えれば、まだ、学校にいなければならない時間じゃないか。昼休みに「今から行くぞ」と行って、ほんとうにそのまますぐに家に来てくれたけれど、つまりは、またサボったのか。休んだ間のノートを見せてもらおうと思ったのに。クラスでそんなことを頼めそうな相手は、ぼくには実波しかいないのに。そろそろ、来年の受験のことだって本格的に考えないといけないと思うのに、実波はあくまでも、何に対してでも自分のやりたいようにしかやらないらしい。
 見送ろうと思ったけれども、寝てろ、と叱られた。純太にも同じようなことを言われたけれども、実波に同じことを言われても、少しも苦しくならなかった。無視してベッドを降りようとすると、馬鹿、と少し強く怒られた。おそらく、心配してくれているんだろう。自分では何とも思わないけれど、それほど熱が高かったのだろうか。
 ぼくは平気なのに。そう不満に思ったけれども、大人しく部屋の中だけで実波を見送ることにした。
 じゃあな、と言って、ぼくの部屋を出ようとした、その時だ。実波は思いついたように、戸口で振り向いた。
「おまえってさ」
 それを聞く時まで、ぼくはとてもいい気分だった。浮かれていたのとは違う。実波に触れて、いつもとは少し違う実波の頬に触れて、そして欲しかった声をたくさん聞かせてもらえた。きっと、そのまま眠りにつけば、今度は良い夢が見られそうだと確信することが出来るほど、満ち足りていた。
 ……実波に、そう、言われるまでは。
「きれいな顔してるからさ。勝手にお袋さん似だと思ってたけど、そうでもないな。父親のほうに似たんだろ」
 お袋さんもきれいだけどさ、と付け加えて、実波は笑った。
 実波は何の含みもなく、ただ思ったままを口にしているだけだ。ぼくと、今日お見舞いに来てくれて顔を合わせた、ぼくの母さんとを見比べて、素直な感想を言っているだけだ。それは今までの延長にあるような、とりとめのない、ぼくが好む実波の話のひとつでしかないのに。
「……春日?」
 どうしても、それに笑い返すことが出来なかった。自分が何か、おかしなことを言ったのかと気にしているような実波に、なんでもないのだと首を振りたかった。そうかな、と、平気な顔をしてその話題を受け流したかった。
 だけど、駄目だった。
 そんなことを言われた後で、顔を見られたくなかった。
 実波は何かひとことふたこと、ぼくに言ってきたんだと思う。どうしたんだ、と心配してくれている類の言葉だったかもしれない。それに何度も頷いた。実波が、母さんに似ていない、と言った顔を覗きこんで来そうで、それが嫌だった。だから、そのまま早く、ぼくの前から居なくなって欲しかった。心配も何もしないで、ぼくをひとりにして欲しかった。……ほんの少し前までは、実波が帰ってしまうのが残念でたまらなかったのに。少しでも長くと、玄関まで、出来れば外に出て、その黒い上着の背中が見えなくなるまでずっと見ていたいと思っていたのに。
 その言葉さえなければ、ぼくはまた、とても幸せな気持ちで眠りにつけそうだったのに。
「また、『なんでもない』か」
 両手の拳を固めてうつむくぼくを見下ろして、実波が静かに、言ってきた。
 それに、頷く。そうだよ、実波。なんでもない。なんでもないことなんだ。
 布団の端を握りしめた自分の手が、力を込めすぎて白くなっているのが分かる。なんでもない、と、ぼくを見下ろしているらしい実波と、そして可笑しいほどに動揺してしまう自分自身に言い聞かせようとする。何度も心の中で繰り返す。なんでもない、ことだ。
 顔を上げることは出来ないから、実波がどんな目をしているのかは、分からなかった。けれども、彼の声で分かる。実波はきっと、いつものような真っ直ぐな目で、ただぼくを見ているのだろう。
「おまえは全部、なんでも自分が悪いと思ってるんだろ」
 ちがう。思っているんじゃない。ほんとうに、全部ぼくが悪いことなんだ。
 だから実波、きみが何を言おうとしているのか分からないけれど、それは違うよ。ほんとうに、悪いのは、ぼくなんだから。
 心の中で、うつむいたままそう反論する。囁きにもしていないし、文字にもしていないし、伝わるように祈りを込めた眼差しを向けたわけでもない。
 けれども実波は、ぼくの内心の言葉を跳ね除けるように、短く、吐き捨てた。
「――だから、他のことが見えてねぇんだ」
 呆れたような、どこか腹立たしそうな、言い方だった。

 明日は来いよ、と言い残して、実波は帰っていった。
 ぼくと母さんはあまり似ていない。
 空気が似ていると、そんな風に言われることはあるけれど。それでも、顔立ちは違う。ぼくが似ているのは、たぶん、あの人だ。鏡の中に、そこに映る自分に、あの人の面影を探そうとしたことはないけれど。そういう風に言ってくる人もいないけれども、きっとぼくは、あの人に似ている。
 ……だからいつも母さんは、ぼくに、ごめんなさい、と謝るのかもしれない。
 ぼくではないあの人に向けて、ごめんなさいと謝っているのかもしれない。
 母さんは父さんのことを、とても、大切に思っていたようだから。
 悪いのは、ぼくだ。
 他のことが見えていない、と、実波はそう言った。
 それは、どういう意味、なんだろう。ぼくがあまりにも、自分のことばかり考えすぎていると、そういうことなのだろうか。
 そうかもしれない。それは確かに、そうだ。純太のことだってその通りじゃないか。これまで、ずっと長い時間ぼくが付きまとっていて、そのことで純太がどんな気持ちになっているのか、今になってようやく想像し始めているなんて。それで、その答えが見つからなくて、どう接したらいいのか分からなくなっているなんて。それはとても駄目なことだと思う。大好きな、一番の友達だと思っていた純太のほんとうの気持ちを掴み損ねていたことに気がついて顔を青くしているぼくには、今更、という言葉がとても似合う。

「芝山が来たんだろ」
 純太はぼくの顔を見るとすぐに、そう言ってきた。
 不思議に思われるといけないと思って、実波が帰ってすぐに、またパジャマに着替えたのに。きっと母さんが、純太に教えたのだろう。実波を部屋に案内してくれたときの、あの嬉しそうな顔を思い出す。あの様子では、純太にも報告したに違いない。真幸にあんな友達がいるなんて意外だった、とか。
 頷くことも首を振ることもせず、純太の表情をうかがう。
 実波の名前を口にする時の純太の声は、いつだって冷たくて固い。以前、実波からぼくのことを聞かれたことがあると純太は言っていた。きっとその頃から、良い印象を持ってはいないのだろう。
「何を言われた? どんな話をされた? おかしなことはされなかったか」
 そこまで続けて聞いてから、ふと、思い直したようにひとつ息をついた。
「……おまえに聞くのが、間違ってるか」
 そう言って純太は、笑った。それはとても優しい言い方だった。
 ぼくは純太が何を言いたいのか分からず、戸惑う。純太は学校の帰りに、そのままここに来たのだろう。手にしていた鞄を放り投げるように床に置いて、立ち上がりかけたぼくを制するように、ベッドに座る。
「熱は」
 大丈夫、と答えるために頷く。まだ少し身体が怠かったけれど、朝のような寒気はなかった。
 純太はぼくの言葉に少し眉をひそめる。そして、朝と同じように、ぼくの額に手のひらを触れさせた。その手に、実波が触れてくれた時の、不思議に安らぐ気持ちを思い出そうとする。ひんやりとして心地よかった、実波の手。けれども純太の手は、ぼくが記憶の中で重ねようとしたその手よりも少し大きく、固く、熱かった。
「まだ少し熱いかな。明日も休んだ方がいいかもしれない」
 そんなことを言う。大丈夫だよ、ともう一度純太に伝えようと、囁きでもいいから分かってもらおうと思い、口を開く。
 けれどもぼくが何か口にする前に、純太が先に言葉を重ねてきた。
「どうしてそんな無理するんだよ。……おれの気持ちも分かれよ」
 額に乗せられていた純太の手が、ぼくの肩に滑る。その動作だけで、あの時の痛みが小さく蘇って、思わず身じろぎしてしまった。ぼくの反応が、肩に置いた手から伝わったのだろう。純太が喉の奥で、小さく笑ったような気がした。
「おれはおまえの辛そうにしてる顔とか、絶対に嫌なんだ。おまえのあんな顔はもう二度と見たくないんだ。……真幸は、芝山のことを、何も知らないから」
 確かに、その通りだ。実波についてはたくさんの噂があるようだし、それがあまり良い種類のものではないことも知っている。人と接することのないぼくですら、聞いたことがあるのだから。実際には、もっとたくさん、いろいろなことを言われているのだろう。それがどんな噂なのかも知らないし、ぼくはそれが真実なのかどうかも知らない。
 けれども、何も知らない、わけではない。
 実波がぼくの名前を呼ぶ時の声を知っている。ぼくを冷たい床に押しつけて、声を出せと怒鳴った時の苛立った表情を知っている。苦いキスと甘いキス。まるで大切なものを扱うように、そっと触れてくる繊細な指も、ぼくは知っている。
 猫が一匹、道路に死んでいた。その光景に心が囚われてしまい、ただ立ちつくしていたことも、知っている。
 それは、ぼくが実波のことについて、何か知っているうちには入らないのだろうか。 
「あいつは危ないよ。芝山はきっと、おまえをまた、あんな目に遭わせる。だってあいつは、おまえのことを」
 そこまで言って、純太は考え直したように口を噤んだ。言葉の続きを待ったけれど、それを打ち消すように、純太は首を横に振った。
「……おまえが喋れなくなったのは、自分を守るためなんだから。そうなることでしか、おまえは、自分を保てなかったんだ。それは少しも悪いことじゃない」
 だから無理をしないでくれ、と、まるで懇願するように、純太は祈るような面持ちを見せていた。
 純太、大丈夫だよ。そんな心配はきっと、不必要なものだよ。
 芝山実波は、ぼくを傷つけたりはしないよ。だから。
 そのことを分かってもらいたかった。
「真幸」
 見上げるぼくの眼差しを受けて、純太はぼくの名を呼ぶ。それはとても優しい声だった。
 それは違うよ、と、どこまでも柔らかく、ぼくの考えを徹底的に否定する声だった。

 その夜は、薬を飲んでもなかなか眠れなかった。
 熱は下がった。母さんは安堵の息をついて、これなら母さんは明日いなくてもだいじょうぶね、と朗らかに笑った。仕事は明日も休みだから、どこか、出かけるらしい。そうだね、と頷いた。ぼくも明日は、学校に行く。
 眠れないまま、部屋の天井を見上げる。
 他のことが見えていない、と、言われた。
 それは確かに、その通りかもしれない。ほんのひとつふたつの言葉で、ぼくは純太のことを見失った。ほんとうに見ていたのならば、きっと、こんなに簡単に信じる気持ちが揺らいだりしないのだろう。
 ぼくは実波のことを何も知らない、と、言われた。
 それも間違ってはいないかもしれない。純太が口にしかけた、あいつはおまえのことを、という言葉。その先に繋がる言葉を、ぼくも知らない。ぼくにとって実波が、どういう意味を持つ存在なのか。実波にとってぼくは、何なのか。それを確かに、ぼくはまだ知らない。
 ぼくは確かに、何も知らない、けれども。
 けれども、ちがう。
 ちがうんだ、実波。ぼくがこのままでいればいいと、そんな風に感じているとは思わないで欲しい。
 他の誰にそう誤解されても構わない。けれども、実波だけには、分かって欲しかった。ぼくが声を出せることを、ぼくの中に、温かい風を吹き込んで、立ち上がることを思い出させてくれた実波にだけは、誤解されたくなかった。
 伝えたい相手は目の前にいない。たとえすぐ傍にいてくれたとしても、ぼくはその相手に、思いの限りを声に託して差し出すことは出来ない。このままの自分でいるのならば、それは、いつまでたっても出来ない。
 ぼくは変わりたい。それならばきっと、出来ることから、初めなければいけない。
 見えていなくて、気付いてこなかったことが多くあると、そう言うならば。ぼくは、ぼくが為したすべての罪に、罰を受けなければいけない。
 
 純太はぼくの話を聞いてくれないだろう。その意志の強さで、ぼくのことも実波のことも、きっと純太の中ではもう、決まった形に固められている。ぼくは過ぎたことにいつまでも囚われ続け、声を出せないものだと。不本意ながらも傍にいなくてはならない、弱いものだと。そして芝山実波は、そのぼくを脅かす、関わってはならないものだと。そう、定まってしまっている。
 けれども、じゃあ、どうすれば、耳を傾けてもらえるだろうか。誰からの言葉なら、聞き入れて貰えるだろう。それを、どうすれば、少しでも溶かすことが出来るのだろう。完璧に理解してもらいたいわけではない。ただ、少しでも溶かして、その位置を移動させられればいい。ぼくはひとりでも平気で、実波はそれほど悪い奴ではないのだと、そう思ってもらえるような、そんな場所にまで動かせるように。それが出来るのは誰だろうか。
 純太のお母さん? ……駄目だ、ぼくは小さいころから散々おばさんのお世話になっている。こんな問題を持ちかけるのは、間違ってる。
 じゃあ、誰に打ち明ければいい? 誰の言葉で、純太に、ぼくのこの気持ちや、実波のことを分かってもらえるだろうか。
 純太に関わる人々を思い出していく。その中で、力になってもらえそうな人。純太が受け入れて、誰の目に見ても平等な、ほんとうのことを共に分かち合えるような人。
 思い当たるのは、ひとりしかいなかった。あの子、だ。

 七坂美由紀しか、いない。
 
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