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星をさずける
1

「結婚してください」
 混じりけのない、きれいな瞳にまっすぐ見つめられる。その目と対照的に、指輪をもつ手が震えている。大丈夫、と、そう伝えたくて、伊織は指輪ごとそっと手のひらで彼の手を包んだ。大きな手だ。大きくて、あたたかい手。
「はい」
 微笑んで頷くと、彼も、何度も大きく頷いた。ほんとうに、嬉しそうに、笑って。
「……綾瀬さん、指輪。ここで指輪を」
 してあげましょう、と小声で囁くと、はっと気を取り直したように、彼は顔を上げる。そうですね、と囁くように早口で言って、ぎこちない手つきで、指輪を持ち直す。予算を少し超えてしまう価格だったけれど、どうしてもこのデザインがいい、と選んだ、ピンクゴールドの繊細なデザインのものだ。小粒のダイヤも品が良く、若い女性のしなやかな優しい指にとても映えるだろう。
 彼は小刻みに震える手で、伊織の左の薬指に指輪を通そうとする。けれど、この指輪は女性用のものなので、男の伊織の薬指にはサイズが小さすぎて、当然、指の途中でつっかえて止まってしまう。彼は焦ったように、ぎゅうぎゅうと力を込めて指輪をなんとかしてはめようとしている。相手のことよりも、指輪をすることで頭がいっぱいになってしまっているようだった。痛い、と口に出して言わなければと思うのに、本来ならば、こんな風に途中で止まることもなく、スムーズに行われるはずの儀式なのだと考えてしまい、なぜか言えなかった。
「あっ」
 あまり無理に指輪をしようとすると、簡単には抜けなくなってしまう。もし切断しなくてはいけないことになったら、伊織の責任で自腹だろうな、とそんなことを考えていると、突然、彼が手を止めた。
「す、すみません。小指にするんでしたね」
 思い出してくれたらしい。慌てて指輪を引き抜く。強引に引っ張られたので、関節が外れてしまいそうだった。頑張って小さな指輪をはめようとしていたので、伊織の指の皮膚は軽く鬱血して、色が変わってしまっている。彼はそんなことにも気付かず、焦った手つきで、指輪を伊織の小指にはめた。今度は、するりと自然に、指輪のあるべき位置におさまる。
「……どうですか?」
「もうすこし、ゆっくりしてあげるといいかもしれませんね。ムードも大事に」
「はい」
 伊織のアドバイスに、彼は神妙に頷く。大事な指輪なのだから、あまり長い時間、他人がしているわけにはいかない。失礼します、と触れることに断りを入れてから、小指の指輪を外そうとする。
「あ、ちょっと待ってください」
 それを、彼に止められた。なにか問題があっただろうか。
「もう少し、見せてもらってもいいですか。手」
 何気なく、なのだろう。指輪をしている左手を、そっと取られる。もう、その手は震えてはいなかった。
「きれいですね」
しみじみと感じ入っているらしい様子で、じっくりと手を見つめられて、伊織は気恥ずかしくなった。伊織の手は、一般的な男性の手と比べると、確かに指も細くて、節も目立たない。肌の色も白い方だろう。それでも、やはり女性のやわらかな肌やほっそりとした優美な手には、ほど遠い。
 そんなことを考えて、すぐに、自分の思い違いに気付く。彼は、この手のことをきれいだと言っているのではない。じっくりと時間をかけて選んだ、大切なひとに贈るための指輪を見ているのだ。
 いま伊織の小指にあるこの指輪は、いずれ、美しい手の持ち主に授けられるものだ。その彼女のことを思い浮かべているのだろう。
 幸せなことだ。幸せなひとたちを見ていると、心が満たされる。
「……お戻ししますね。リングケースは、どちらになさいますか?」
 慎重に、そっと小指から指輪を外す。柔らかいクロスで丁寧に拭ってから、それを布張りのトレイの上に置いた。指輪のデザインを決める時には一時間近く時間をかけた彼は、ケースについては、この白い方で、と、決断が早かった。承知しました、と微笑んで受け取る。包装を同僚の女性社員に任せて、待っている間に、顧客情報の用紙に記入をしてもらう。色とりどりの宝石がおさめられたガラスケースを書き物の台として使うことに、贅沢だなぁと彼は笑った。
 いまから一時間ほど前、店に入ろうかどうしようか悩んで、思い詰めたような表情をしていた時とは、まったく印象が違う。普段通りにしていても、まるで微笑んでいるようなやさしい目元。平均身長ちょうどの伊織と比べると、背もずいぶん高い。大きな体でやさしい目をした、草を好んで食べる動物のような人だと思った。
 その人が背中を丸めて、ゆったりとした穏やかな手つきで名前や住所を書いていくのを、見るともなしに眺める。宝飾品のメンテナンスや、セールなどの情報をお伝えするための用紙なのに、つい、個人的な興味で、そこに書かれていることを知りたくなってしまう。
 綾瀬佳介、と名前が書かれていた。年は、伊織のふたつ下だ。年下なのか、と、少しだけ驚く。見た目の雰囲気だけでは、そんな印象はなかった。落ち着いているのだ。
「……あの」
 ふいに呼びかけられて、はっと我にかえる。彼が、用紙から顔を上げて、伊織を見ていた。慌てて返事をする。
「はい」
「その、もし、これで、いい返事がもらえたら」
 そこまで口にしてから、続きは、迷ったように一旦途切れる。うっすらと、頬が染まる。照れくさそうな、しあわせな人しか浮かべることのできない表情。
「次の指輪も、この店で、茅橋さんに見立ててもらってもいいですか」
 胸元の名札を見たのだろう。勿体ない申し出に、伊織は笑みを浮かべて頷く。
「きっと、うまくいきますよ。今度はぜひ、お相手の方とおふたりでいらしてください」
 次の指輪、ということは、婚約指輪だろうか。それとも、結婚指輪のことかもしれない。さいきんの若いひとは、あまりそういった順序や儀礼にこだわらないこともある。
「そうですね。……そうなるといいけど」
「大丈夫です。自信を持ってください」
 彼、綾瀬佳介は、現在つきあっている女性に結婚を申し込むために、指輪を買いに来ているのだ。三日後が、その彼女の誕生日なのだという。驚かせるために、相手が寝ている間に、こっそりと左手の薬指のサイズを計ったのだと、ポケットからちいさな輪になったワイヤーを出してきた。受け取ったそれは、彼の手のぬくもりであたたかくなっていた。きっとここに来るまでずっと、ポケットの中で、握り締めていたのだ。かたときも離さないという、強い気持ちで。
 こんなに大事に思われている相手は、幸せだと、そう思った。
「ありがとうございます。俺、こんなお店、ほんと全然縁がなくて……茅橋さんに声かけてもらえなかったら、ちゃんと用意出来てた気がしないや」
 何度も頭を下げられる。それに微笑んで首を振る。宝石店の店員、というと女性のイメージが強い職業かもしれない。確かに同僚も、オーナー以外はすべて女性だ。顧客のほとんどもそうだけれど、こうやって、男性がひとりで訪れることもある。そういった場合、特に相手が場慣れしていなくて緊張している時などは、同性の伊織の顔を見てほっとしてもらえることも多い。佳介も、そうだったらしい。
「一緒に選んでもらっただけじゃなくて、渡す練習までしてもらって、ほんとうにありがとうございます。俺、がんばります」
 包装が終わった指輪を受け取り、ショーケースの内側から、外に出る。佳介の目は、もう伊織ではなく、伊織の持っている小さな箱をおさめた紙袋にまっすぐ注がれている。
「お役に立てれば、光栄です。もし、サイズが合わないなどの問題がありましたら、お直ししますので、遠慮なくおっしゃってくださいね」
 丁寧に頭を下げて、紙袋を手渡す。触れただけで壊してしまう、と恐れているように、慎重な手つきでそれを受け取られる。こうやって正面に立つと、大きな身体がひときわ印象的だ。そばに立っているだけで、あたたかいものが伝わってくるような、そんな優しい雰囲気がある。きっと、幸せになれる。この人も、この人に愛される人も。
「どうぞ、お幸せに」
 心から、気持ちを込めて、そう伝える。
 はい、と、ゆっくりと頷いて、佳介は笑った。笑って、背を向けて、真っ直ぐに店を出て行った。

「……びっくりしました」
 伊織とともにその背中を見送っていた同僚が、店内にひとの姿がないのを確認した上で、そんな風に口にする。
「突然、『結婚してください』なんて言ってるんですもん。伊織さんの彼氏が、店まで押し掛けてきてプロポーズしはじめたのかと」
「すみません」
 驚かせてしまったらしい。苦笑して、首を振る。あれは、そんなものではない。
「僕の小指のサイズが、ちょうど、あの方が指輪を贈りたい相手の薬指と同じだったんです。それをお話したら、練習させてくださいっておっしゃられて」
 それに僕にいま彼氏はいません、と、念のため付け加えておく。オーナーをはじめとして、職場の人間はみんな伊織の性癖を知っている。長く働きたいという意志があったから、採用の面接時に、あらかじめ打ち明けていた。それは、伊織がこの仕事を選んだ動機にも関わる大事なことだったから、隠そうとは思わなかった。それを打ち明けたうえで、雇ってもらえたことはとても有難いことだと思う。
「さっきのお客様、素敵な方でしたね。私があんな風にしてもらったら、ドキドキしちゃうかも」
「そうですね。僕も、ちょっとドキドキしました」
 緊張に震えていた手と、真剣な、真っ直ぐな瞳を思い出す。あれが、ほんとうに自分に向けられたものであったなら、と、考えただけでも胸が騒ぐ。
「あの人にちょっと似てましたね、俳優の」
 若いその同僚が口にする名前は、伊織の知らないものだった。なので、そうなんですか、と受け流す。
 時計を見る。今日はおそらく、佳介が最後の客だろう。もう、閉店作業に入ってもいい時間だった。
「閉めましょうか」
 同僚に声をかけて、閉店作業に入る。硝子窓から店の外を見ると、外はもうすっかり暗くなっていた。


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