鬼さんこちら |
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6 天気予報で言っていた通り、その日は朝からからりと晴れていた。 何を用意していけばいいのかと友人たちに聞いてみたところ、擁は自分の荷物だけ持ってくればいいと言われてしまった。必要なものは、全部彼らが準備してくれるらしい。車は順が運転する。教習所には四人で一緒に通って、同じ時期に運転免許を取ってはいたけれど、擁は今のところ実生活で車を運転することはなかった。大学までは、電車でふた駅しかないし、遊びにも行かないし、バイトもしていない。 「おはよう」 あの日以来、なんとなく気まずくて、順とはあまり連絡を取っていなかった。キャンプの段取りは、巧介が中心になっていろいろと話を進めたようだった。擁や、時間にも約束にもルーズなところがある辰巳はもちろん、順も、四人でなにかを決める時は、巧介に任せている。順は、全員の意見を平等に取り扱おうとするから、それで話がまとまらないことがあるからだ。 「……おはよ」 「擁、荷物、それだけ? 少ないな」 順はいつもと変わらない優しい笑顔で、そう言って擁に手を差し出す。その手に荷物を受け取ってもらい、後部座席に乗せてもらう。道を知っている辰巳が助手席で、擁と巧介は後ろの席だ。男ばかり四人なので、軽自動車では少し窮屈に感じるかと思ったが、案外そうでもない。辰巳や巧介などは背も高いから、少し狭そうではあるけれど。 「巧介、おれ、ほんとに何も持ってこなかったんだけど」 隣に座って、足が狭い、とぶつぶつ言っていた巧介に、そう声をかける。向こうに着いたら肉を焼くのだとそう言っていた。だからせめて、その買出し分くらいは負担させてもらおうと、そう持ちかけようとして、あっさり断られる。 「ばぁか。いいんだよ、おまえはゲストなんだから。余計な気使うんじゃねぇよ、順じゃあるまいし」 そう言われてしまい、なにも言えなくなる。巧介は一度、自分がこうと決めたことに対して他人からとやかく言われるのが嫌いだ。それにしても、ゲストとは。擁に気を使わせないための表現だとしても、なんだか大袈裟で、居心地が悪くなってしまう。 早くも、こんな風に外に出掛けることを少しだけ後悔しはじめていた。 助手席の辰巳は、いつもはこんな時間に起きることはないのだろう。集合した時からひどく眠そうな顔をしていたが、車に乗り込むなり、眠りに付く姿勢になっていた。道を知っているから助手席にいるのだろうに、あまり役に立つ気はなさそうだった。最も、普段あれだけ時間を守らない辰巳が、今日は珍しく約束通りに来たのだから、それくらいは見逃してやるべきなのだろうか。順は何も言わずに、カーナビで目的地を設定している。 「どのくらいかかるんだ?」 「二時間ほどかな。今日は平日だから、もうちょっとしたら通勤時間に重なるかも。でもまぁ、長く見ても二時間半ほどだと思うよ」 「なんだったら途中で運転代わるぜ、おれ」 「巧介の運転は荒っぽいから嫌だよ。擁が酔っちゃうだろ」 そんな遣り取りを交わしながら、順は車を発進させる。待ち合わせしていたのは、擁の家の近くのコンビニだ。朝早いせいか、他には客も車もいなかった。空はもう完全に明るくなっていて、塗り潰したような一面の水色が頭上に広がっている。今日も、暑くなりそうだ。 「川があって、魚も釣れるみたい。管理小屋の人が、いろいろ道具も貸してくれるんだってさ。釣りしよう、釣り」 「……おれ、釣りって、したことない」 「そうだよな、この辺、そういうの出来るところってないし。きっと楽しいと思うよ」 「釣れればな」 擁と順の会話の中に、巧介がそんな現実的な意見を割り込ませる。それは確かに、その通りだ。 「うるさいな、そういうのも含めて楽しめばいいんだってば。……それにしても、辰巳、熟睡しちゃってるみたいなんですけど」 「放っといてやれよ。こいつ、昨日の夜は寝てないらしいぜ」 「はぁ? 遠出する日の前日に、徹夜したのか?」 「いや、それがさ。待ち合わせに遅れるとまずいから、って、それで、寝ないで起きてたらしい」 「え……珍しく、ちゃんと来たと思ったら」 「そうだよな。普通、間に合うように早起きするとか、そうするもんだよな。そこでそういうやり方を取るっていうのが、こいつらしいって言うか、なんつうか」 そこまでするほどなのだから、辰巳も、この遠出をそれなりに楽しみにしていたのだろうか。何でもそつなく、人並み以上にこなす辰巳だから、勉強が出来るのと同じくらい、運動神経もいい。それでも、あまり外で身体を動かすのは好きではなさそうな印象があった。何かというと、面倒そうに溜息をつくせいだろうか。擁がキャンプに行く、と言ったときには、夏の星座を教えてあげる、と、辰巳は少しだけ嬉しそうな顔をした。巧介は肉を焼いて、カレーを作る気でいるし、順はまだ釣りの話をしていた。それぞれ、楽しみにしているものがあるらしい。 外に出るのは、やはり家の中にいるよりも落ち着かないし、他人の視線を感じると、目を閉じて耳を塞いで、その場にしゃがみ込みたくなる。けれども、今から行く場所では、そんな気持ちにならないかもしれない。 心を許した友人たちと一緒に、楽しく、夏休みを過ごすのだ。普通の大学生のように、なにも考えずに。 ……夏休みを、やり直すんだ。自分がおかしくなってしまった、あの時から。 そうすれば、きっとすべてがうまくいく。誰の手をわずらわせることもなく、以前のような、明るくて活発な、みんなと対等に何でも出来る擁に、また戻れる。 笑顔でこれからの話をしている友人たちを見ていると、根拠もなく、そんな気がしてきた。自分に言い聞かせるように、もう一度、心の中で呟く。 夏休みを、やり直すんだ。 雲行きが怪しくなってきたのは、山に近づいた頃からだった。 市街地を通過し、通勤時間で混み合いだした道路を抜けると、車の数が極端に減った。窓から外を眺めていた擁が、いちばん最初に、空が曇りだしたことに気が付いたので、それを隣の巧介に教える。 「……なんか、雨、降りそうじゃない?」 「あ? あー、ほんとだな」 天気予報では、これからしばらく、晴れの日が続くとそんな風に言っていたのに。それとも、夏に特有の、ほんの短い間激しく降って、すぐに止む雨だろうか。それならば、いいのだけれど。 「大丈夫かな」 そう呟くと、ハンドルを握ったまま、順が安心させるようにこんなことを教えてくれる。 「少しくらいの雨なら、どうってことないよ。山の天気は変わりやすいって言うしさ」 「テント、流されちゃうかも」 「あ、言ってなかったっけ。今から行くところは、テントじゃなくて、コテージ。木で出来た小屋に泊まるんだ。だから、最悪、どんな土砂降りになっても、大丈夫だよ」 「え……」 てっきり、テントに寝泊まりするのだと思っていた。キャンプといっても、いろいろあるらしい。夜には薪を燃やしたりするのだと思っていたが、もしかしたら、それもないのかもしれない。馬鹿にされるかもしれないと思い、それは口にはしないことにした。 「あの山だよ」 順のその声に、フロントガラス越しに、正面に見えてきた山に目をやる。緑の鮮やかな、きれいな形の山だ。けれど、灰色に広がっている雲が、何故だか不吉な感じがした。冷房が効きすぎているのか、ぞわりと、ふいに寒気に襲われる。鳥肌が立った腕を、長袖のシャツの上から、そっと撫でた。 がたがたと、身体に振動が伝わると思ったら、いつの間にか地面が、コンクリートに舗装されていた道から、山道へと切り替わっていた。まだ山に入っていないのに、もう、砂利道だ。見回してみると、辺りには人の住んでいるらしき建物が、何もなかった。何に使われている土地なのだろうか。原っぱのように、何もない平坦な土地に、好き放題に雑草が伸びている。ところどころにちらほらと見えるのは、錆びた工事用の車両だろうか。何か、新しく作る予定の建物が、建設途中で計画が取りやめになったのかもしれない。そんな、中途半端な空間だった。 ポーン、と、明るい機械音声が車内に響く。目的地に到着しました、と、カーナビがそんな風に喋った。 「え、もう着いたって、そんな。これから山に入るんですけど」 「いい加減なナビだな。ちゃんと設定したんだろ?」 「したよ。でも、まぁ、もう半径数キロ以内には入ってるはずだから、うーん、誤差かなぁ……」 とりあえず、それでも山の方に向かって車を進める。山に続く細い道が、何本か続いていた。 順が車を止めた。ここは、山のふもとになるのだろうか。車の入れそうな幅の、行けそうな道はいくつかあるが、それでも、どこから入ればいいのか、よく分からなかった。 順がそうしたので、擁も、ドアを開けて外に出てみる。しばらく膝を曲げて座っていたので、足が伸ばせることが嬉しかった。大きく伸びをして、深呼吸をする。辺りは静かで、山の木々に留まって鳴いているのだろう、蝉の声が聞こえる。風がさわさわと草や木の葉を揺らす音がするだけで、他にはなんの音もしない。静かだった。確かに、自然に囲まれている。 同じように車から出て来た巧介も、思い切り背を伸ばしていた。彼は、擁よりも身体が大きい分、後部座席では窮屈な思いをしていただろう。 「看板か、なんかないのかよ」 そう言う巧介に、擁は辺りを見回す。ヘルメットを被った人が頭を下げている、『工事中』の、錆びて薄汚れた看板しか見つからなかった。どこにも、キャンプ場の案内らしきものはない。そもそも、人を歓迎しているような雰囲気の山ではなかった。さっきまではまだ、水色の部分が残っていた空も、いまは、もう、ほぼすべてが灰色一色で埋め尽くされている。 「どうしよ」 隣で山を見上げていた順に、そんな風に呟く。うーん、と、彼も困ったように唸っていた。 巧介が、また車の方へ引き返していった。何をするのかと思ってそれを見ていると、助手席のドアを開けて、エンジンが停まっても眠り続けていたままだった辰巳を起こそうとしているようだった。 「おい、起きろよ。おまえ、案内役なんだろ」 「……もう、ついた?」 「着いてねっての。だから起きろってんだよ。ナビが言うには、もう、ここが目的地らしいけど。道、分かるか?」 「さぁ」 欠伸をしながら、辰巳も車の外に出てくる。眠そうな目をして、曇った空を見上げた彼は、残念で仕方がない、とでも言いたげな声で、擁にこう言ってきた。 「これじゃ、星は見えないな。……夜までに、晴れればいいけど」 どう答えたらいいのか分からず、うん、と、それに頷き返す。隣で聞いていた巧介が、星どころじゃねぇだろ、と、ぶつぶつ言っていた。 「辰巳、その管理の人の、電話番号とか分かる? 道を教えて貰いたいんだけど」 「電話は一応聞いてはある。だけど、誰もいないはずだから、掛けても無駄だ」 「……は?」 「ひとがいない方がいいんだろう?」 最後の言葉は、擁に向けて、のもののようだった。よく分からなかった。 「うん、それは、……そうだけど」 しかし言われたことはその通りなので、素直に頷く。ひとの多いところは、苦手だ。今日のこのキャンプだって、せいぜい他に、着ていても二、三組だろうと言われたから、それぐらいなら我慢出来るだろうと、覚悟を決めるようなつもりできたのだ。 それなのに、誰もいないはず、というのが、よく分からなかった。 「だから、貸し切った。管理小屋も、今日は無人だよ」 「はぁ?」 だから心配しなくていい、と、淡々と辰巳は言う。巧介が呆れたように息を吐いた。 「また、やりやがったな。このボンボンめ」 「辰巳、……ほんとに?」 「いけなかった?」 「いや、いけなくは、ないけど……」 そこまでされると、どう反応していいのか、分からない。もともと、あまり人が来ないところだとは言っていたが、貸し切るとなると、一体いくらお金が必要なのだろう。病院の跡取り息子で、巧介からもボンボンだとよくからかわれている辰巳の金銭感覚は、庶民には理解出来ないことがあった。擁の家も、地元では割と有名な、金持ちだと思われても仕方のない家ではあるが、しかし、両親がごく庶民的な人間だからだろうか。祖父ならばともかく、擁自身には、あまりそんな風に家の恩恵を感じたことはない。 「でも、困ったな。どの道から入ったらいいのか、よく分かんなくてさ。辰巳、分かる?」 「分からない」 順に尋ねられて、辰巳は堂々と首を振る。 「こんな所、どうやって見つけたんだよ、おまえ」 「人から聞いた。この辺りには、人家がなくて、街灯もまったくないから。……だから、夜は、すごく星がよく見えるんだ」 「あっそ」 静かに答える辰巳に、巧介は短く吐き捨てる。こんな風に、いつまでたっても行動に移れない状況が、巧介は嫌いだ。 「とにかく、どっか、適当に登ってみりゃいいだろ。違ったら、いっぺん降りりゃいいんだから」 「まあ、確かに、それもそうか」 順が頷いて、まずはどの道を入ってみようか、と、巧介と相談を始める。道幅の広いところから、とか、一番ひとが多く通っていそうなものから、とか。擁はそれから少し離れたところに立つ、まだ眠り足りないのか、空を見てぼんやりとしている辰巳に近づいた。 「辰巳ってさ」 「……うん?」 「星が、好きなんだ」 こんな話になるまで、彼が星のことを口にするのを、聞いたことがなかった。私生活がいまひとつ謎めいている彼には、何が好きでもおかしくない雰囲気がある。 「夜に関係するものは、だいたい、何でも好きだよ」 「夜? 月とか?」 「そんなところ。昼間のあれこれよりも、ずっと艶っぽくて、静かだから」 「……? よく、わかんない」 素直に思ったままそう言っても、辰巳は気分を害した様子もなく、にこりと微笑んで、擁の髪の毛をくしゃくしゃと撫でてくるだけだった。いつものように、やめろよ、とそれから逃れながらも、彼の言葉の意味を、なんとなく考える。夜のもの。辰巳自身も、どちらかというと、昼間のあれこれというよりは、夜の存在、と言えそうだった。艶っぽくて、静かな。 そんなことを考えて、辰巳を見上げる。すると彼も、ちょうど、擁を見ていた。視線がぶつかる。 辰巳はこれまでに擁が見たことのないような、不思議な表情をしていた。笑顔でも、眠そうな顔でも、なにかを面倒そうに嫌がる顔でもない。擁と目が合って、すぐに、いつものように曖昧な笑みを浮かべてしまったので、ほんの一瞬しか、見えなかったけれど。……それはまるで、新しい玩具を見つけた、子どものような。何かを期待して、それが起こるのを待っているような、そんな、表情のような気がした。
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