index > novel > キミノコエ(17)



= 17 =

 実波にひとり取り残されて、ひとりで家に帰った。
 ぼくの家は駅から反対の方向だ。学校帰りの制服姿の人の流れに逆らって、風の冷たい道を、いつものように少しうつむきながら歩く。いろいろなことを話す声を聞きながら、駅へ向かう彼らとすれ違う。何を話しているのかまでは分からないけれど、ただ、とても楽しそうだとは思った。どの人とすれ違っても、そんな思いだけが胸に残った。
 駅から離れれば離れるほど、人の姿が減っていく。やがて、空も少しずつ薄暗くなった中で、その道を歩いているのはぼくだけになった。そのことに気が付いて、思わず足が止まる。
 とても、静かだ。
 実波がぼくに言ったことを思い出す。仕方ないだろ、なんて、あんな顔をして言ってくれなくてもいいのに。ぼくは実波に何かして欲しいなんて望んでいないのに。そんなことを気にすることはないのに。
 吐く息が白い。日が沈んだ空はわずかに青みがかった灰色をしていて、その色をとても冷たく感じる。寒さのせいなのだろうけれど、耳に突き刺さるような痛みが時折はしる。
 それを、まるで静けさが耳を鳴らすようだと、そんなことを思った。
 ぼくが喋らないことが、ずっとこんな風に静かでいることが、同じように誰かに痛みを与えてしまっている。
 その沈黙こそが、きっと、ぼくの罪だ。

 美由紀が純太に電話を掛けたのかどうか、そして、ぼくから頼んだことを彼女が実際に伝えてくれたのかどうか、その夜はずっとそれが気になって、なかなか眠りにつけなかった。考えても仕方のないことだと、自分に言い聞かせて寝返りをうつ度に、今度は芝山実波のことを思い出した。それに伴って美由紀に言われた言葉が蘇り、一層眠れなくなってしまった。
 明け方近くになって、何度も寝返りを打つのに疲れて、ようやく少しだけ微睡みを覚えた。
(「とても怖い目に遭ったから」)
 うつらうつらとする中、遠くで、美由紀がそう言った声を思い出す。
(「……されたって」)
 実波が、何も出来ていなくても仕方がないと言っていた、もう随分と昔のこと。
(「誘拐、されたって」)
 あれを言葉に置き換えると、そんな風に言うのだろうか。その二文字の言葉の持つイメージと、ぼくの中に残る記憶とは、微妙に食い違うのだけれど。……けれども、そうだ。とてもよく聞いた言葉じゃないか。あの頃、ぼくの周囲の人たちは皆、困惑した顔を見合わせて、その言葉に戸惑っていた。
 そんな風に口に出されて言われたのは、久しぶりだった。
 実波はその言葉を聞いて、どう思っただろう。
 ぼくがどんな目に遭ったと思っただろう。
 もし仮に、実波がその頃ぼくを知っていて、そして今のように、何の意図を含んでいるのかは分からないけれど、今のように傍にいてくれたとして。……彼なら、どんなことを、してくれただろう。
 誘拐。
 もしぼくに声が出せたら、 実際に何が起こったのかを、彼に、聞いてもらえるだろうか。
(「……ひとりで帰れよ」)
 ……秋の日。その空気を、思い出そうとしてみる。
(「ついて来るなよ。おまえが来ると負けるから嫌なんだ」)
 あの日の記憶の、その先を。

 サッカーをしたいからひとりで帰れ、と純太に言われ、ぼくはその日、いつもならばふたりで並んで歩く道を、ひとりでランドセルを背負って家へと歩いていた。純太がいないから、ただ、だまってひとりで歩いていた。
 そのことが、少しだけ寂しかった。ずっとひとりでいることの方が多かったから、他の子たちのように、一緒に帰る相手がいないことを寂しいと思ったわけではない。純太がいないことが、いつものようにぼくに話しかけてくれる声のないことが、とても物足りない気分だった。家までの道を、とても長く感じた。
 やっぱり、学校で待っていればよかったかな。ぼくは下手だから、サッカーの仲間には入れないけれど、……校庭で、せめて彼らの遊ぶところを見せてもらえばよかった。そんな風に、ひとりで帰るのを選んだことを少し後悔し始めた頃だった。
 いつもよりも少し学校を出るのが遅くなってしまったから、もう周りには誰もいなかった。午後の住宅街だから、人もあまり歩いていない。それはいつもの帰り道の風景だから、別段気に留めることもなかった。
 けれども、その日は、いつもの景色の中に見慣れないものが混じっていた。
「真幸くん。……春日真幸くん」
 ふいに、ぼくを呼ぶ声があった。聞いたことのない、大人の声だった。
 声に振り向くと、見知らぬ男の人が立って、ぼくを手招きしていた。道路の隅に停めた一台の黒い車に寄りかかるようにして、その人はもう一度、真幸くん、とぼくを呼んだ。
「おじさんはおとうさんの友達なんだ」
 その人の顔は思い出せない。どんなに記憶を辿っても、まるで太陽をすぐ真後ろに背負う人のように、黒い影法師のような姿でしか思い出すことができない。
「だから、いっしょにおいで」
 その声はとても優しかったと思う。
 けれども、そう言って差し伸べられた手は取らなかった。顔も声も、どこまでも穏やかなものだったと思う。その言葉を疑う理由も、実はあまりなかったと思う。実際、ぼくの父は知り合いの多い人で、その頃住んでいた家にも、見知らぬ人が出入りすることはよくあった。その中の誰かに、ぼくのことを迎えに行くように頼んだとしても、それはおかしいことではないはずだった。
 だけどぼくは、その人に着いていくのが嫌だった。顔は笑っていた。声もとても優しくぼくの名前を呼んだ。
 ……そうだ、顔は確かに覚えていない。いないけれども、ただ、その人の目はよく覚えている。
 記憶の中に今も鮮やかなその目だけが、ぼくをじっと見ていた。赤く血走った目に見下ろされて、おいでともう一度繰り返されて、どうにか首を横に振った。
 学校の先生がよく言っていた言葉を思い出していた。知らない人について行ってはいけないと、何度も言われたその言葉が、頭の中をぐるぐると回った。
 ぼくが首を振ったのを見て、おじさんは差し伸べていた手を下ろした。舌打ちのような音を小さく立てて、浮かべていた笑みがゆっくりと消えていった。
 逃げようと思った。走って逃げて、誰かに助けてもらいたかった。今になっても、言葉で上手く説明することのできない不安な気持ちに駆られて、ぼくはその人の前から走り去ろうとした。一緒に行くのは嫌だと、はっきりとそう意思を示して、背を向けて逃げてしまおうとした。
 だけど、身体は動かなかった。……今でも分かる。今でもこの身体が覚えている。足がすくんで、身動きが取れなかったこと。どうしたらいいか頭では分かっているのに、それを実行に移せないでいたこと。心臓が大きく音をたてて、背筋がとても寒くて、それなのに頭に全身の血がすべて集まったように、顔だけがひどく火照ったように熱かった。
 影法師のその人が、急にそれまでと表情を変えたのを見た。そこにはっきりと、苛立ちを認識した頃には遅かった。
 突然襲ってきた痛みに、それまですくんでいた足がもつれて地面に倒れた。何が起こったのか分からないままに、反射的に痛みをやわらげようと、そして痛むその箇所を守ろうと膝を抱えた。下腹部を蹴られたのだと気付いた頃、今度はしゃがみ込んだぼくを無理矢理立たせるように、乱暴に髪の毛を引っ張られた。まだ新しいランドセルが、ぼくの肩から地面に滑り落ちて、鈍い音を立てた。
 目に涙を滲ませて、やめてほしいと首を振った。けれどもその動作は、その人の手に更に力を込めさせるだけだった。
「あの男と同じ顔しやがって」
 それまでとは全く違う声で、その人は確かにそう言っていた。
 痛いのはきらいだ。嫌いだけれど、それはいずれは治まる。ただじっと身を固めて、それが過ぎ去るのを待って我慢すれば、やがて少しずつ痛くなくなっていく。ぼくはそう知っていたから、だから、普段からそうしているように、やめてと首を振ることも止め、思い切り強く目を閉じた。じっとがまんしていれば、そのうち、痛いことは終わるから。……ぼくは暴力に対する方法を、抵抗ではなくて、そんな風にしか知らなかった。
 目を閉じたから、視界は闇一色になった。
 けれどもその真っ暗な中で、あの赤く血走った目だけがふたつ、宙に浮かんでぼくを見ていた。
「……全部、壊してやる」
 引っ張られていた髪が放してもらえた。そのことに安堵する間もなく、次は乱暴に背中を叩かれた。何の加減もない強さで身体を押され、そのまま前に倒れ込む。地面にぶつかる衝撃を予想して、ひときわ強く目を閉じる。けれども、身体に感じたのはずっと柔らかいものだった。
 思わず目を開くと、すぐ近くで、その人の目がぼくを見下ろしていた。
 ぼくは狭い箱のような場所に押し込められていた。その箱の蓋を閉めようとしていた手を止めて、赤い目の人は静かに、淡々とした声で、ただ小さく呟いた。
「おまえも、あの男がおれにそうしたように、みんな壊してやる、から」
 ぱちんと音を立てて、箱の扉が閉まる。狭いその入れ物の中は真っ暗になった。
 身体を伸ばすことも出来ない。蹴られたところが痛み続けていて、何がどうなったのかが分からなくて、これからどうなるのかが分からなくて、何も考えることが出来なかった。背中に鈍い振動が伝わる。覚えのあるような、低い機械音が背骨を通じて全身に伝わってくる。
 車だ、と、混乱する頭で、そのことに気が付いた。
 ぼくはあの人の運転する車に詰め込まれたのだ、とそう気付いて初めて、息が詰まるほどの恐怖を感じた。

 ――そこで一旦、記憶は、途切れる。

 よく眠ったという感触はないから、目覚めもぼんやりとしていた。夢に見たわけではなく、自分から手を伸ばしてその記憶を手繰り寄せた。だから、いつものように声を上げて、それを殺そうとしながらの目覚めではなかった。それでも、暗鬱な気分は変わらない。そんなことまでは思い出そうとしていないのに、とても気持ちが悪くて吐き気がした。
 重たい身体を引きずって起きあがる。また、一日が始まった。
 いつにもまして食欲がなくて、何も口にすることが出来なかった。それでも学校に行く支度をしながら、堪えきれずに何度か吐いた。苦しくて、勝手に涙が零れた。こんなところを誰にも見せたくないと思いながら、床にうずくまってしばらく落ち着くのを待った。早く立ち上がらなければ、と気持ちだけは焦ったけれども、身体が言うことを聞かなかった。
 どれぐらい、そうしていただろうか。
「真幸」
 うずくまったぼくを、呼ぶ声。それは少し高い位置から降ってきた。
「呼んでも出てこないからさ。……大丈夫か?」
 顔を上げる。相手を確認しなくても、それが誰のものかなんてよく分かる。純太だ。いつものようにぼくを迎えに来てくれて、それでぼくが出てこないから、不思議に思って入って来てくれたのだろう。
 平気、と音にはせずに唇の動きだけで伝えると、純太はぼくのすぐ傍に、ぼくと目線を合わせるように身をかがめた。
「また、少し痩せたな」
 ぼくが何も言わなくても、純太はいつものようにそっと背中を撫でてくれる。その手は、ぼくが今さっきまで嘔吐に苦しんでいたことをよく知っている手だ。純太はそんなぼくの姿を、これまでに何度も見ていて、その度にそうやって優しくしてくれたから。
「ほんとは、病院とか行ったほうがいいのかもしれないな。注射とか、点滴とかで無理矢理にでも栄養送らないと、おまえ、そのうち死ぬぞ」
 今に始まったことじゃないけどな、と純太は笑う。冗談めかした声だったけれど、背中を撫でる手は優しいままだった。
「……休むか?」
 尋ねてくるその声に、首を振る。
 美由紀のことが気がかりだった。彼女は昨日、純太にぼくのことを説明してくれると、そう言っていた。
 それなのに、純太の様子は今までのものと何も変わらない。何も聞いていないのならばそれでもいいけれど、もし、美由紀からぼくのことを聞いた上で、そんな風に今も振る舞うのだとしたら。……美由紀のことが、心配だった。
 ぼくを支えようとしてくれたのだろう、肩に手が添えられる。少し身体をずらして、それから逃れた。
 純太は少しだけ、そんなぼくに何か言いたげな目を向けた。
 けれどもやがて、何も言わずに、行こうか、といつものように笑うだけだった。

 教室に入ってすぐに探したその姿は、どこにも見つからなかった。
 まだ来ていないのかな、と思ったけれど、始業のベルが鳴っても、一限目が始まっても、芝山実波の席は空のままだった。昼休みに屋上に行ってみたけれど、当然のように、そこにも彼は来ていなかった。
 体育の時間、いつもならば実波と組んでいるぼくには相棒になるような人がいなかった。だから、担任の先生でもある安田先生が、ぼくのペアになった。
「……春日」
 柔軟体操の途中で、ふいに、先生がぼくを呼んだ。
 なにか注意されるのかな、と思って、身構えて顔を上げる。すると先生は、ぼくの手首を掴んで、しみじみと、意外なことを言ってきた。
「おまえは細いなぁ。ちゃんと食べてるのか」
 その声は、ぼくが覚えている先生の声とは全く別のものだった。感慨深く、どこか呆れたような、まるで心配してくれているような、優しささえ感じられた。
 驚きながらも、はい、と唇を動かしながら、頷くことでそれに答える。
「おまえは顔色もいつもあまり良くないから……健康診断の血液検査でも、数値がよくなかっただろう。具合が悪い時は、無理をしないで言うように」
 もう一度、はい、と頷く。柔軟体操もそこで終わり、安田先生はぼくから離れていった。
(「気にするなよ、あんな奴の言うことなんて」)
 安田先生は、ぼくのことが嫌いなはずなのに。こんな、厄介な生徒を受け持つことになってしまって、面倒以外の何物でもないはずなのに。ぼくに、あんな風に優しく声をかけてくれるはずがないのに。
(「あいつら、おまえのことなんて、何にも分かってないんだから」)
 純太だって、いつもそう言って、ぼくのことを慰めてくれたのに。
 先生の声は、ぼくの体調を心から気遣ってくれる人のものだったような気がした。血液検査の結果なんて、ぼく自身でもどんなものだったのか覚えていないのに。
(「おまえは全部、なんでも自分が悪いと思ってるんだろ」)
 先生は、ぼくのことなんて、嫌いなはずなのに。
(「――だから、他のことが見えてねぇんだ」)
 実波に言われた、その言葉を思い出す。
 ……ほんとうに、その通り、なのかもしれない。

 メモ通りに辿り着いたその建物を見上げて、ああそうか、と、妙に納得するものがあった。
 首をかなり上向けなければ、天辺が見えないような、とても高いマンションだった。辺りには似たような建物がそびえている。ぼくの家が普通の住宅街にある普通の家だからだろうか、こんな所に何百人もの人が生活しているのだと考えても、いまひとつ実感が湧かなかった。
 ぼくが目指すそのマンションには、入口自体に鍵などは必要ないようだった。開かれたエントランスにそのまま足を踏み入れて、エレベーターを探す。途中で、これから出かけるらしい、マンションの住人らしき女の人と擦れ違った。不審な人物に見えたらどうしようと思いながら、頭を下げる。その女の人は、制服姿のぼくを見て、お帰りなさい、と、にこりと微笑んでくれた。ぼくもこのマンションに住んでいるのだと、そう思ってくれたのだろう。確かに、これだけ大きな建物なのだから、どこにどんな人が住んでいるのか把握するのは難しいのかもしれない。
 安堵して、上階へ向かうエレベーターに乗る。もう一度メモを見て、12階のボタンを押した。
 放課後、職員室を訪ねてきたぼくを見て、安田先生は不思議そうな顔をした。
 『芝山実波の家の住所を教えてください』
 ぼくが見せたノートの切れ端を目にして、先生は更に不思議そうな顔になった。
「……なんでだ?」
 『おみまいにいきます』
 紙の端に急いでそう書くと、先生は、驚いたように小さく唸った。
「春日、おまえ芝山と仲良かったのか?」
 仲が良いのとは少し違うと思う。けれども、そんなことを言っても仕方がないので、肯定する意味を込めてひとつ頷く。
 『このまえ、ぼくが休んだとき、おみまいにきてくれました』
 ぼくがそう書き足すと、先生は、へぇ、と、感心したように息をついた。それ以上は何も聞かずに、机の上を漁って、生徒名簿のようなものを引っ張り出し、そこからぼくが望んだものをメモに書き写してくれた。ありがとうございます、と声は出せないままに口の動きでそう伝えて頭を下げると、気をつけて帰れよ、と先生はぼくの肩を叩いてくれた。
 階数を表示するパネルの点滅を、ぼんやりと目で追う。並ぶ数字が12で終わっているのを見ると、おそらく、そこが最上階なのだろう。
 ポケットから携帯電話を取り出し、画面を確認して、また戻す。美由紀にメールを送ったけれども、返事が来ない。送ったのは一言、『大丈夫だった?』と聞いたものだ。朝に学校に着いてすぐに送信したそのメールに、放課後の今になっても何の返答もないそのことが気になっていた。教室まで会いに行こうかとも思ったけれども、もしかしたら、そこで純太に会ってしまうかもしれない。それに、何かあったのだとしたら、それでぼくに返事をくれないのだったら、きっと会いにいかない方がいいのだろうと、そう思った。
 軽やかな機械音が鳴って、エレベーターが止まる。12階だ。外装と同じような、無機質な空間。新しい建物のようだし、とても綺麗で洗練されているとは思うけれども、それでも、生活感のない静かな空気が立ちこめていた。立ちくらみのような、少しふらふらする感覚の中、安田先生に教えてもらった部屋番号を探す。……あった。芝山、の名前を見つけて、足を止める。
 長く考えていると、迷いが発展して、そのまま背を向けて引き返してしまいそうだった。だから、控えめに取り付けられた呼び鈴を、勢いを付けて一度押した。鋼鉄で出来ているのかと思うほど、分厚く強固に見える茶色のドアの向こうで、チャイムが鳴ったのが聞こえる。
 ……勢いでここまで来てしまったけれど、ほんとうに良かったのかな。今更のように、そう不安になる。噂に聞いたりした、美人の女医さんとかが出て来たらどうしよう。それに、何も実波が病気で休んだと決まったわけではない。何も考えずに、ただ、来てしまった。どうしても、顔を見たいとそう思ったから。
 ドアの前で立ちつくして身を固めていたけれど、一向にそれが開く様子は無かった。
 いないのかな。それとも、ほんとうに具合が悪くて、動けないとかかな。インターホンをもう一度押してみようとして、そこに、小さなレンズが付けられているのを見つける。きっと、中から来訪者の姿がモニターで見えるようになっているのだろう。それに向けて、手を振ってみる。すぐに、空しくなって止めた。
 いないのかな、と、そう思うと気が沈んだ。昨日のことを、聞いてもらおうと思ったのに。仕方がないなんて思う必要はないことを伝えたかったのに。
 留守では駄目だ。そう思って、またエレベーターの方に引き返そうとした、その時。
「……あのなぁ」
 がちゃりと重い音がして、あの分厚いドアが少しだけ動いた。その隙間から、聞き慣れた声が聞こえた。実波の、声だ。
 ドアを開けてくれるのだと思った。そうしたら、実波がぼくにそうしてくれたように、お見舞いに来たよと言って、買ってきた蜜柑を渡そうと思った。何も深く考えずに、当然、それが許されると思っていた。
「おまえ、何考えてんの。何しに来たわけ?」
 だから、そんな冷たい声で、そう聞かれるなんて、思いもしなかった。
 開けてもらえると思ったドアは、最初、少しだけ開いたわずかな隙間を見せただけで、それ以上動く気配はなかった。中の様子はおろか、実波の姿も欠片すら見えない。
 お見舞いに来たよ、とそう伝えたかったけれど、いつものように、文字を書いても、唇の動きやかすかな囁きにしても、目の前のドアに隔てられて、それを実波に届けることは出来ない。
「おまえの顔見るのも嫌だったから休んだんだよ。それなのに、なんでこんな所までわざわざ来るんだよ」
 温度の低い、声だった。平坦ではない、確かな怒りすらはっきりと浮かぶその声に、思わず顔をうつむけて、ごめんなさい、と呟く。声にならないその言葉も、彼には届かない。自分の考えの浅はかさを思い知った気分だった。……こうやってお見舞いに行けば、きっと喜んでくれるだろうなんて、そんな風に考えてしまった自分を、ひどく愚かだと思った。
「帰れよ。どうせまた、川里に黙って来たんだろ。おまえが何したって、おれがそそのかしたみたいに言われんだからな。……あいつが心配してんだろ、さっさと帰れよ」
 乱暴に音を立てて、ドアが閉まる。
 涙が出そうだった。どうしたらいいか分からなかったけれども、帰れ、と言われてしまったので、それ以上その場にはいられなかった。せめて、手に提げていたコンビニの袋を、ドアのノブに引っかけておいた。中には蜜柑が入っている。何しに来たんだ、と聞かれた、それがぼくの答えだ。実波があの時、ぼくをお見舞いに来てくれたそのことが嬉しかったのだと、少しでもそれが伝わればいいと思った。……もう、無理なのかもしれないけれど。
 涙の滲んだ目を拭って、固く閉ざされたドアに背を向ける。エレベーターのボタンを押そうとして、滲む視界に、緑色に光るものを見つけた。非常口を示すサインだ。その下の、廊下の端に、白いドアが見える。
 思いつきのようなものを得て、そちらの方に足を向ける。鍵は掛かっていたけれど、内側から自由に外せるものだったから、すぐに開けることが出来た。その先には、予想通り、非常階段へと続いていた。ここは最上階だ。上のほうに続くその階段を上ると、案の定、すぐにマンションの屋上に辿り着いた。
 コンクリートを囲む柵、いつもより近い空、風の音だけが聞こえる、静かな風景。それは学校の屋上にとてもよく似ている。ただ、高さが違うから、ずっと風が強い。冷たく吹く風に肩を縮めて、下の景色を見下ろしたいと思って、柵の方に近づいた。このまま、とても家に帰る気分ではなかった。……少し、ここで落ち着いていこうと、そう思った。
 見下ろす街は、とてもちっぽけだった。一階分上になるけれど、実波の部屋からも似たような景色が見られるのだろうか。高いところが好きなのかな、とそう考えて、少しだけ笑った。笑って、そしてすぐに、哀しくなった。
 ぽつりと、頬が濡れた。堪えていたはずなのに、と思って、慌てて眼を拭う。けれども、次から次へと冷たい雫が降ってきた。涙ではなくて、雨のようだった。見上げると、真っ黒な雲が分厚く空に掛かっている。傘を持って来なかった。どうせ濡れて帰るのなら、しばらくここでこうしていても変わらないだろう。
 雨粒が、地面に水玉模様を作る。次々と降る雨で、次第に水玉が潰れてコンクリートを濡らしていくのを、ぼんやりと見ていた。
 ぼくは馬鹿だ。いつになっても、ひとを傷つけてばかりだ。
 雨音だけが耳に響いた。髪もコートも制服も、すべてを濡らしていく雨の中で、拳を固めた。
 ぼくは馬鹿だ。変わろうと思ったのに。きっと変われると、そう思えたのに。……実波が、そう思わせてくれたのに。頬も目蓋も濡れて、自分が泣いているのか、そうでないのかもよく分からなくなった。
 その、降りしきる雨の中で。
「何やってんだよ」
 ひとつの声を、確かに聞いた。
「帰れって言っただろ。なんでこんな所にいんだよ、ほんとにおまえ何考えてんだよ!」
 振り向くと、そう怒鳴る彼がいた。
 ぼくがそうしたように、非常階段を上がって来たのだろう。学校を休んだ実波は、ぼくがこれまで見たことのない私服姿だった。制服を着ていないと、あまり学生には見えないな、と、どこかぼんやりと、そんな風に思った。ああそうか、違う。あまり制服が似合わないんだ。こっちのほうが、ずっと彼らしい。
「聞こえてんのか、この馬鹿! エレベーター止まったまんまだし、非常口開いてるし、まさかと思ったらほんとにこんなとこにいるし! 何なんだよおまえ、いい加減にしてくれよ……」
 実波も傘を差していない。エレベーターがどうとか言っているけれど。それはもしかして、ぼくが行ったその後、またあのドアを開けてくれたということなのだろうか。
「おれ、おまえのこと分かんねぇよ。おまえは、川里、なんだろ」
 ぼくを、追いかけて来てくれたと言うことなのだろうか。
「あいつのことだけなんだろ」
 ぼくはただ、そう繰り返す実波を見ていた。
 どうしてそんな顔をするのだろう。そんな苦しそうな顔で、純太のことを口にするのだろう。
 何の反応も返さないぼくを見て、実波はひとつ舌打ちした。少し距離を開けた位置に立って、そこからぼくに近づこうとはしない。いつも、ぼくの意思も何もかも無視して、あんなに近くに来て、触れてきたのに。
「……帰れよ」
 雨は一向に止む様子はない。それどころか、徐々に激しさを増しているように思えた。実波の白いセーターもずぶ濡れになって、色がすっかり変わってしまった。髪の毛も濡れて、その表情が妙に幼く見えた。見上げるぼくの視線を振り払うように、彼は顔を背けて、もう一度、帰れ、と呟く。
 それでもぼくは動けなかった。
 聞こえるのは、雨音。
 それに混じって、記憶の中、再生される声があった。
(「声を出したら、どうなるか分かるかな」)
 わかってる。ぼくは静かにしていなくてはいけない。声を出してはいけない。頭の中に響くそれに、ずっと、従い続けてきた。
(「そうだね。いい子だね。……黙っていようね?」)
 わかってる。分かっている。ずっとずっと、ずっとそうしてきた。誰の耳にも、ぼくの声が聞こえてはならない。ぼくの声は誰にも聞かれてはいけない。口を閉ざして、喉を締めて、もう二度と、声を出すことがないように。そうすればきっと、……きっとすべてが、守れると、そう思った。
 動こうとしないぼくを見て、実波はもう一度舌打ちする。苛立ちをぶつけるように、一度地面を蹴り、そのまま、ぼくに背を向ける。行ってしまう、と、そう思った。
 すべての音を覆い隠し、押し流す雨の中、身体だけは固まったように動かなかった。実波に、このまま行って欲しくないのに。もっと、話してほしいことや聞いてほしいことがたくさんあるのに。ぼくの傍に来て欲しいのに。このまま、行ってしまう。ぼくのことにひどく腹を立てたまま、もう二度とあんな風に触れて貰えなくなる。嫌だ、それは嫌だ、こんな風に行ってしまうのは絶対に嫌だ。
 それなら、――それなら、どうすればいいかなんて、ぼくはよく、知っているじゃないか。
(「嫌なら、声出せって言ってんだろ!」)
 何度も何度も、彼がぼくに、その方法を教えてくれたじゃないか。
(「聞かせろ」)
(「もっとおまえの声、聞かせろ」)
 一度目を閉じる。目を開く。
 固く閉ざし続けていた、口を開く。
「……み」
 それはひどく簡単だった。
 去りかけていた背中が止まる。ぎこちない動きで振り向いた彼は、これまで見たことのない顔をしていた。彼が瞬きをする。耳を疑うように、自分の見ているものを疑うように、じっと、ぼくを見ている。
 やっと、ぼくを見てくれた。
 ああ、なんだ。……そうか。ずっと、こうすればよかったんだ。
 ぼくにはそれが出来たんだ。それを、ぼくも、純太も、知らなかっただけなんだ。
 ただ実波、きみだけが、ぼくにそのことを教えてくれたんだ。
「……、な、み」
 誰にも聞こえない。きっと雨音が、こんな弱いものを掻き消してしまう。誰にも、聞こえない。
 ただ今は、きみだけに、届けばいい。
「みなみ」
 実波がぼくを見ている。その顔に、苛立ちはどこにも見えない。いつでも人を小馬鹿にしていて、余裕に満ちたあの顔でもない。
 どこか間の抜けた、何かにひどく驚いた子どものような顔。
「ぼくは、きみが、すきだ」
 その彼を見上げて、微笑むことさえ、出来た。

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