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第二章 「月」 |
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5. 鞠あそび 夢は見なかった。眠ったというよりは、長い瞬きをしたあとに目を開いたような気分だった。 目を閉じる前には明るかった部屋の中は、今はすっかり暗い。何時頃なのだろうと辺りを見回すが、時間の分かりそうなものは近くにはなかった。 すぐ傍で、捧が眠っていた。何度も殺される夢を見ていた時のように、まだ手は繋いだままだった。起こさないように息を潜めて、柔らかい布団の中で、彼の寝顔を眺めた。立ち居振る舞いひとつにも品の良さが出るこの人は、寝ているときでも行儀が良いんだな、と、変なことに感心した。眠っているというよりは、瞑想するために目を閉じているようで、静かだった。眼鏡のないその顔は、やはりいつもより幼い。見ているうちに、自然と、繋ぐ指を強くしていた。 「……コウ?」 「ごめん。起こした」 そのせいで目を覚ましてしまった人に、小声で謝る。捧は気にしなくていいと首を振った。 「眠れないのか」 「ちょっと起きちゃっただけだよ。寝てばっかりだし」 コウがそう答えると、捧はひとつ頷いたものの、まだ何か不安があるような顔をした。余程、心配させてしまったのだろうと、その顔を見て申し訳ない気持ちになる。大丈夫だよ、と笑って、繋いだままの手をほどいた。 「ちょっと、外の空気吸ってくる」 庭を見てみたいと思った。昼間、ほんの少しだけ見えたそこに、黒い蝶がいくつか飛んでいた。これまでは、ひとつしか見たことがなかった。 コウが布団から出ようとすると、捧も身を起こす。 「捧さん、あんまり寝てないだろ」 ちょっと覗くだけだから、と、寝ていればいいと言おうとした。けれどもそれより先に、また首を振られる。 「おれはもともと、あまり、よく眠る方ではないから」 だから心配いらないと返されてしまう。そういえば、何度か夜をともに越したのに、捧の眠る顔はあまり見ていない。 捧は手を伸ばして、コウの浴衣の胸元を直してくれた。それほど寝相が悪いとは自分では思わないが、家ではこんなものを着て寝ないので、裾も胸元も乱れてみっともなかったのだろう。誰が着せてくれたのかは分からないが、コウが着るにしては丈が長くて、子どもが大人の着物を着ているように布が余る。 長い裾をそのまま引きずりながら、障子を少しだけ開けた。部屋と同じように、その先も暗い。縁廊下に出て、出来るだけ音を立てないように雨戸も開ける。 風が流れてきて、コウの前髪を揺らした。 「……いないな」 そこから見える庭に、黒い羽を探す。ここからでは見えないが、月が出ているのか、外は部屋の中よりも明るく感じた。しんと静まり返った庭には、なにも動くものは見つけられなかった。 「夜だから、どこかで休んでるのかな」 傍らで同じように庭に目を遣る捧に、そんな風に聞いてみる。蝶が、とは言わなくても、捧にはコウが何を言いたいのか分かっただろう。彼はしばらく、何か考えるように目を伏せて、ふいに静かに部屋に戻った。 「捧さん?」 どうかしたのかと思い、その後を追う。暗い部屋の中で、捧は何かを探しているようだった。やがて、目的のものを見つけたのだろう。側に寄り、彼が手に取ろうとしているものを見ようとした。 畳の上に、果物らしきものが入った籠が置かれている。病人のお見舞いに持ってくるような、持ち手にリボンの結ばれているものだ。それはどうしたのだと捧に聞くと、ヒカリが、雨夜の家の者からだと言って持ってきたのだと教えてくれた。彼はそこから、細長い何かを抜き取り、また庭に戻ろうとする。コウがじっとその動作を見守っていたのに気付いたのだろう。安心させるように、微笑まれた。 「なに?」 その問いかけに答えるように、庭が見えるところまで手を引かれる。外の明かりで、捧が何を手にしているのか見えた。刃の短い、果物用のナイフだ。そんなものをどうするつもりだろうと不思議に思い、捧を見上げる。捧はいつものように微笑んだまま、抜き身のその刃を自分の左の手の指に押し当てた。 「え……!」 驚いたコウが止めようとするよりも、捧が刃を滑らせる方が早かった。線を引くように、すぐに刃が触れた部分に赤い色が滲むのが、外からのわずかな明かりの中でも、よく見えた。 言葉も出ないコウとは対照的に、捧はまるでそれが何でもないことのように、ナイフを足元に置く。そうして、思う通りに傷が付いたか確かめるように、自分の左指を見てはひとつ頷いた。 「なにするんだよ、急に、そんな」 「見ていて」 捧は平然とした顔をしているから、それほど深くは切らなかったのかもしれない。それでも、翳すようにされる手のひらまで流れる血を見る限りでは、なんの痛みもないほどには浅くないはずだ。捧が何をしたいのか分からなくて、それでも、硬直したように、その赤い色から目が逸らせなかった。あの、赤い血だ。はじめてこの人を見つけたときに、雨で汚れた地面に零れていた。小さな水たまりを作って、そこに、白い蝶が止まって、その蜜を呑んでいた。あれが欲しくて、たまらなかった。それが今、目の前にあることが信じられなくて、身動きが取れなかった。何か言おうとして口を開いたけれど、声が出なかった。 「……ほら、来た」 捧の囁くような声に、操られるように彼が指す方に目を遣る。それまではどこにも見えなかったはずの、黒い蝶が庭にいた。ひとつではなく、ふたつ。ひらひらと風に舞うように、絡み合うように時折羽を触れあわせては、また離れる。来た、という捧の言葉の通り、黒い蝶はこちらの方に飛んできた。しばらく、コウの顔の近くをふわふわと何かを探すように飛んで、やがて、差し伸べられた捧の手のひらに止まる。そこには、赤い血溜まりが出来ていた。 まさか、と、思わず声を上げていた。捧が何をやろうとしていたのか、分かった気がした。 「コウは、黒い羽が好きだと言っていたから」 手のひらに止まったふたつの黒い蝶を見て、満足そうに捧が笑う。どこか得意気な、褒めてもらうのを待っている子どものようなその笑い顔に、コウは何も言えなかった。しばらくして、どうにか、口を開く。声が震えていた。 「おれの、ために?」 「……蝶は、蝶の血が好きだから」 微笑む捧のその言葉に、コウは黒い蝶を見下ろす。蝶は、蝶の血が好き。捧の手のひらに止まるふたつの蝶は、あの日見た白い蝶のように、その手のひらに流れた赤い蜜を呑んでいた。時折、閉じた羽を一度開き、またすぐに閉じる。それがまるで、喜びに身震いするようにも見えた。このうえもない御馳走。至上の、赤い甘露。 「……っ!」 その左手を、乱暴に掴む。羽を震わせて、黒い蝶はふたつともそこから離れた。しばらくはまだ名残惜しそうに近くをふわふわと飛んでいたが、やがて、互いに誘い合うようにともに庭へ消えていく。 血を流すその手を掴んだまま、捧を見上げる。彼は不思議そうな顔でコウを見ていた。どうしてコウが蝶を追い払うような真似をしたのか、それを訝しんでいるようだった。 震える唇で、赤く濡れる手のひらに触れる。 コウ、と、捧が名前を呼ぶのが聞こえたけれど、それが叱るような声ではなかったから、止めなかった。ほんの少しだけ、舌先で舐める。血は煮詰めた蜜のように舌に触れて、その瞬間、身体がぞくりと震えて、堪えられずに息を漏らした。溶けそうに、甘い。頭の芯が真っ白になるほど満たされて、涙が出そうだった。嬉しくてたまらなかった。 「コウ」 手のひらに零れたその赤い血をすべて舐め取ってしまったので、傷口から伝うその赤い線を舌でなぞるようにして、指の付け根の辺りを唇だけでくわえる。骨の上から軽く歯を立てて、そこにも少し流れていた血を呑んだ。耳元で名前を呼ばれた気がして、両手で捧の手を強く掴む。これを、奪われたくなかった。 捧はコウを止めはせずに、代わりに、外から吹き込む夜風から庇うように、回された腕でコウの背中を抱いてきた。許しを得たような気がして、目を閉じて血を舐め続けた。舌を滑らせ、刃が付けた傷口にたどりつく。そこからはまだ、緩やかではあるが新しく血が滲んでいる。それが嬉しくて、夢中で舌を使って、一滴も残さずに自分のものにしようとした。喉を伝わってコウの中に落ちて、それが身体中に染みて広がっていくのが心地よかった。皮膚の内側に薄い膜になって張りついたように、呑みこんだものが熱になって全身を火照らせた。 「……冷えてきた。戻ろう」 捧の声が、低く耳元でそう誘う。それだけのことで、身体が跳ねて、彼の指を噛む唇が震えた。捧が、コウを抱えるままに立ち上がり、また部屋へと戻る。雨戸も障子も閉めてしまうと、部屋の中は真っ暗だった。わずかな明るさのあった外に慣れ始めた目では、ものの輪郭もよく分からないほどだった。 「ささぐ、さ」 甘噛みしていた指を放し、暗い中でその人の名前を呼ぶ。表情は見えなかったけれど、彼がコウを見ているのを感じた。 足りないか、と、そんなことを、聞かれた気がした。なんのことだろうと、霞がかかったようにぼんやりとしはじめた頭でその意味を考える。やがて、それがさっきまでコウが夢中で舐めていたもののことだろうと思い当たる。黒い蝶を追い払ってまで、自分のものにした。他の何かに、与えてほしくなかった。ずっと、欲しかったものだったのだから。 コウがそれに頷けば、捧はきっとまた、あの刃物で自分に傷を付けるだろう。コウが黒い蝶を好きだと言っていた、そんな小さなことまで忘れずに覚えてくれていた。そのために、彼はなんの迷いもなくああして指を切ったのだ。蝶を、呼ぶために。コウが欲しがるのであれば、いつものように静かな目をしたまま、指を切り落すことさえ躊躇わないかもしれない。 答える代わりに、震える指先を捧に伸ばす。身体が熱かった。円と清川に、無理やり口に含まされたもののことを思い出す。それを呑むことでおかしくなった時と、少し、似ていると思った。けれども苦しくて、嫌でたまらなかったあれとは違う。いまはただ、泣きたいほどに幸福だった。やっと、欲しかったものが、手に入った。 捧の首筋をとらえて、腕を絡める。縋りつくようにその胸に顔を押し付ける。鼓動の音が耳に響いて、さっきまで貪ったあの赤い蜜が、腕の中にあるこの人の内にまだまだあることを教えてくれる。嬉しくて、その胸に何度も甘えるように頬擦りした。もっと、深く与えて欲しかった。 応えるように捧もコウを抱き返す。暗闇の中、相手の居場所を確かめあうように、強く抱き合ったまま何度も唇を重ねた。 「すっかり元気になったらしいね」 呆れたように笑う声が上から降ってきたので、また目を開けた。ヒカリが、こちらを見下ろしていた。 なにか答えようとして、それより先に、自分の寝姿に我に返る。寝間着は羽織るように着ているだけで、腰を結ぶ紐はどこかに放り捨てたままだったし、下着も付けていなかった。 淫らに絡み合った名残りがありありと残るその姿を、ヒカリに笑われる。 「まだ眠いようなら、出直すけれど」 「……おれは大丈夫、なんだけど」 それに答える声が、自分でも情けなく聞こえた。ひとの気配に敏感な捧は、珍しく目を覚ます様子がなかった。彼の両腕で人形のように抱えられたままのコウは身動きが取れない。コウがかろうじて肌を隠している程度の格好だったのに、捧は何事もなかったかのようにきちんとした寝姿のままだ。あまり後の方は覚えていないけれど、きっとまた、コウの方が先に寝入ってしまったのだろう。 「こんなに他人が近づいても目を覚まさないなんて、珍しいな」 コウが思ったのと同じことをヒカリも口にする。そんな風に笑われても、捧は一向に起きなかった。静かに寝息を立てる彼の顔を、腕に抱えられたまま見上げる。 「捧さん」 コウが小さく名前を呼ぶと、彼は重たげな目蓋を、ゆっくりと開いた。そのまま、ぼんやりした目でじっと見られたかと思うと、少し離れていた身体をまた引き寄せられ、その胸に抱かれた。捧は安堵するように深い息をついて、また目を閉じてしまう。 ヒカリがその様を見て、可笑しそうに声を立てて笑っていた。 「そのままでいたらどうだい」 「起きるってば」 捕まえられている手をはがして、コウだけ身を起こす。捧はそのまま眠らせておこうと思ったが、コウが起き上がったのと同時に、彼もまた目を覚ましたようだった。 「やあ、おはよう。顔を洗っておいで、朝御飯の支度が出来ているから」 まだ笑いながら、ヒカリが捧にそう声を掛ける。ぼんやりと視線をさまよわせる彼に、コウは枕元に置いた眼鏡を手渡した。落ちていた腰紐も拾って、とりあえず結んでおく。下着も一緒に転がっていた。 この部屋のある建物は、花羽の家で捧が暮らしているのと同じような、庭に建てられた離れらしい。あくまで「蝶」を住まわせるためのものとは違い、ここは客人のために用意されているものだと、ヒカリがそう教えてくれた。どこかまだぼんやりとしている捧の手を引いて、教えられた洗面所まで縁廊下を歩いた。夜の間閉められていた雨戸もすべて開けられていて、庭がよく見える。見せることを目的に作られている庭だと、そんな風に感じた。背の低い植え込みも、落ち葉が水面に浮かぶ池も、そこに掛る小さな石橋も、どれをとっても、ひとの手によって作り上げられ、管理されたものだと、そんな風に思えた。植物も水も石も本物には違いないだろうのに、何故だか、作りもののように見えてしまった。綺麗な庭ではあるのだが。 どこか、不気味だった。 顔を洗って、もといた部屋に戻る途中、庭の方からひらひらと黒い蝶が寄ってきた。花羽と違い、雨夜は放し飼いなのだとヒカリが言っていたのを思い出す。ひとつふたつと最初は数えていたが、次第に分からなくなる。ふいに、捧が笑った。どうしたのかと思って振り返ると、コウの頭を指さされる。 「コウが好きらしい」 どうやら頭の上に蝶が止まっているらしい。重さもなにもないので、感覚としては分からない。かつて生きていた「誰か」のその軽さが、ひどく残酷なものに思えた。頭を振って、蝶を逃がす。 飛んでいく黒い蝶を、捧はしばらく目で追って、庭の奥に消えていくまで、見ていた。 朝食はお粥だった。ヒカリが母屋から運んでくれたそれは、雨夜が用意させたものだということだ。ヒカリがどういう説明をしているのかは分からないが、捧にも、同じものが出された。捧は最初、コウに匙で食べさせようとしたが、自分で食べられるからと断った。ヒカリがその様子を見て、また可笑しそうに笑っていた。 「……これから、どうすればいい?」 食べ終えて、服を着替えながら、そんな風に聞いてみる。清川に汚されて泥まみれになった制服は、綺麗に洗われていて染みひとつなかった。ヒカリから借りた黄色いマフラーも、あんなに汚れたことが嘘のように、元通りの色に戻っていた。相変わらず、シャツの一番上のボタンは無いままだったので、それを首に巻いておく。 「コウは、どうしたい?」 意地悪く、逆に聞き返される。そんなの、自分でも分からないから、こうして聞いているのに。 「おれは、……」 返事の仕様がなくて、庭に目をやった。自由に、黒い蝶があちらこちらを舞っている。一体どれだけの数がいるのだろう、と、ヒカリから聞いた蝶比べの話を思い出す。最後の蝶が、白でなければならない、そのことも。 捧の望みは、もう聞いた。どんな最後であれ、と、彼は終わりを迎えることを、もう受け入れている。それはそうだろう。生まれたときからずっと、自分はそんな存在なのだと言い聞かされて育てられたのだから。コウが、殺人に嫌悪を覚えるのと何ら変わりない。それは彼にとって当たり前の、自然な感情だ。だからといって、それを認める気にはなれなかった。 考え始めると、どこまでも思考が転がっていくようで、結局、同じところに戻ってきてしまう。 「……捧さん?」 それまで、コウが考え込む隣で静かに座っていた捧が、ふいに動く。何か気になることでもあるのか、顔を上げて、縁の先の庭を見ていた。 「誰かいる」 囁くように、そう告げられる。コウも庭に目をやるが、蝶がいくつか自由に舞っているだけで、その他にはなにも変わったところはなさそうだった。それでも、捧がそう言うのだから、と立ち上がり、縁から顔を出してみる。 「え、」 そこに見つけたものに、思わず、言葉を呑んでしまった。全く予想もしないようなものだったからだ。 「ごめんなさい!」 小さくて、赤いもの。コウが顔を覗かせたことで驚いたのか、跳ねるように飛び上り、それは甲高い声で謝ってきた。 「ごめんなさい、来てはいけないといわれていたのに。だって、だって、どうしても、見てみたくて」 そう口早にコウに向けて言ってくるのは、赤い振袖の、幼い少女だった。人形のように切りそろえられた艶やかな黒髪が、少女がごめんなさいと謝るたびにさらさらと揺れた。 「……この家の子?」 どう反応すればいいのか分からなくて、そんなことを聞く。少女はそのコウの声の調子に、どうやら、叱られそうな雰囲気では無さそうなことを悟ったのだろうか。大きな目を瞬かせて、首を頷かせた。 「マリカのお父さまは、この家のひとよ。だからマリカも、この家の子」 マリカというのは少女の名前だろうか。赤い振袖の長い袂を揺らして、この家、と両手で手振りを付けながら説明するその様を見ていて、まるで金魚のようだとそんなことを思った。 どうすればいいのか分からなくて、部屋の中にいるヒカリを見る。するとマリカも、コウと同じように、部屋の中を覗きこんだ。そして、きゃあ、と、歓声のようなものを上げる。 「おはよう、お姫様」 「ヒカリさま!」 「お父様に、ここには来てはいけないと言われていただろう。叱られてしまうよ」 「だって。だって、マリカはまだ、蝶を見たことがなかったんだもの」 困ったお姫様だ、と、軽く諌めるようにヒカリは笑って、縁に跪き、腕を差し伸べてマリカを抱き上げた。 「知り合い?」 抱き上げられて上機嫌なマリカとヒカリの親しげな様子に、コウはそう尋ねた。まあね、と、ぞんざいに頷かれる。 「ご挨拶をしてあげなさい、お姫様。いつもお父様がしているように、上手にね」 ヒカリのその言葉を受けて、少女は、雨夜マリカともうします、と改めて名前を教えてくれた。 マリカは本当は漢字で書くのだけれど、難しい字なのでまだ六歳のマリカには書けないらしい。そこまで教えてくれてから、丁寧にお辞儀をされた。つい、コウも同じように頭を下げてしまう。よく出来ました、と、ヒカリがマリカの頭を撫でているのを、なんとなく眺めていた。 こんな小さな子どもと、日頃接することはない。だから、どうすればいいのか分からなかった。マリカは内緒話をするように、ヒカリの耳元で何か話をしては、きゃらきゃらと笑う。笑い声を上げる口も、口元に当てた手も指も、何もかも見慣れない小ささをしていて、珍しくて観察するようにじっと見てしまった。隣に座ったまま、何も言わずに事の成り行きを見つめていた捧に目を遣る。彼も、コウと同じようにマリカを見ていた。コウの視線に気づいて、捧が呟く。 「小さいな」 同じことを考えていたのが可笑しかった。それに、そうだね、と笑った。 「お父様は、もう朝のお仕事を終えられたかな」 ヒカリがマリカに、そんなことを聞いたのが耳に入った。はい、とマリカは頷く。 「だけど、今日は、たいせつなご用があるから、マリカとは遊んでくださらないの」 「ああ、そうだったね。それでは、お出掛けになる前にご挨拶に行こうか、コウ」 「……おれ?」 「そう。雨夜の、当主様に」 突然、自分に向けて呼びかけられて、戸惑う。どうして、コウにそんなことを言ってくるのか分からなかった。確かに、怪我の手当をしてくれて、泊まる場所や食事を与えてくれたことには、お礼を言うべきだとは思う。それにしても、そんな大切な用があって出かける前の、それも当主に、というのは唐突な気がした。 「多分、お帰りは夜遅くになるだろうからね。最も、きみが会いたくないのなら、話は別だけれど」 「……会うよ。大丈夫」 会ってどうしようというつもりは無かったが、ヒカリのその、どこか意地悪な言い方が引っ掛かった。まるで、弱虫と遠まわしに言われているように聞こえて、それが面白くなかった。そう思ったことを隠しきれなかったのだろう。ヒカリがコウのその答えを聞いて、満足気に目を細める。どうやら、最初からそのつもりだったらしい。 「おれも行く」 捧が、静かではあるが、それでもはっきりとした強い声で、コウに告げる。しばらくだけ考えて、コウは首を振った。 「捧さんは、待ってて」 雨夜の当主なら、それは「狩り」を行える人間だということだ。例え、花羽との間に長い年月をかけた約束事があっても、そんな人間のところに、捧を連れて行きたくなかった。 捧はそれでも、不安そうな、一緒に行くと言いたそうな顔をしていた。大丈夫だよ、と、子どもに言い聞かせるようにその手を取る。 その様を見て、ヒカリが会話に入ってくる。 「この子の安全はぼくが保障しよう。きみはここで、このお姫様のお相手をしてあげてくれるかな」 「おれが?」 「そう。どうも、きみに聞きたいことがいろいろとあるそうだ。最後の『蝶』として、黒のお姫様にお話ししてさしあげるといい」 「……わかった」 まだどこか納得のいかない様子ではあったものの、捧はそれに頷く。マリカが嬉しそうに、ヒカリに抱き上げられていた腕から飛び降りた。興味津々な瞳で捧の傍に駆けより、背の高い彼を、爪先立ちして見上げる。それに目線を合わせるように、捧は膝をついた。 「はじめまして、雨夜の姫」 「あなたが『蝶』?」 頷く捧に、マリカは振袖を揺らして、手をぱちぱちと叩く。 「マリカは、千年目にまにあわなかったから、自分の『蝶』がいないのよ。だから、もう、見られないと思っていたの」 「……お目に掛かれて、光栄です」 少女の言動ひとつひとつに、戸惑いながらも、それでも丁寧に言葉を返す捧をもっと見ていたかった。それでも、行くよ、とヒカリが立ちあがって、コウを促してきた。気が進まなかったが、行くと自分で言ってしまった以上、それに続く。 「コウ」 マリカの相手をしながら、それでも捧が、部屋を出ようとしたコウを呼びとめてきた。彼はまだ、心配そうな顔をしていた。それに、また、大丈夫、と笑う。 「……気を付けて」 それでも捧は、どこか緊張した面持ちを崩さなかった。 ヒカリの後をついて、長い廊下を歩く。 捧が暮らしていたあの離れとは違い、先程まで居た部屋は廊下で母屋と繋がっているようだった。どこから見える庭にも、必ず、ひとつは蝶が飛んでいる。あまりひとの気配はなくて、蝶だけがゆらりと風にそよぐように羽を舞わせていた。 「雨夜の当主って、どんな人なんだ」 歩きながら、先を行くヒカリにそう尋ねる。花羽の当主は、一応知っている。未月の母親だ。コウも、一度だけではあるが、すぐ近くで言葉を交わした。微笑んでいるのに、底知れない沼のような目をしていた。あんな、感じなのだろうか。 「マリカにとっては、優しいお父上、だろうね」 なんとなく、そうではないかという気がしていた。マリカの言っていた「お父さま」が、雨夜の当主。 「当主様も、娘のマリカのことは、それこそ目に入れても痛くないほどに可愛がられている。毎年、あの子の誕生祝いには宴を開いてね、いつも花羽の者も招待されているよ。喜美香様は雨夜がお好きではないから、毎回、未月とそのお父上が来ているけれど」 それを聞くだけで、花羽未月の不本意そうな、不機嫌さを露わにした顔が目に浮かんだ。雨夜の庭に流れる空気は、どこか、甘く淀んでいる。静かに張りつめた花羽の庭とは違う気がした。 「お人柄のことを言うなら、非常に雨夜らしいお方だとしか言いようがないな」 「雨夜らしい?」 それでは答えになっていない。コウは、この家のことなど、何も知らないに等しいのだから。 「そう。花羽の家もそうだけれどね。家風というのかな。花羽は真面目だ。規律やしきたりを重視して、それを相手にも求める。雨夜は……正反対というのではないけれど、花羽のように四角四面ではないことは確かだね」 そう説明してはくれたけれど、どこか、言葉を選ばれているようにも感じた。 離れとは違い、母屋には使用人らしき者の姿が見られた。揃いの灰色の着物を着て、掃除をしていたり、庭の手入れをしている。ヒカリの姿を認めると、皆、手を止めて頭を下げる。中にはコウの顔をじっと見てくる者もいた。見慣れない顔を不審に思っているのだろうか。 いくつも廊下の角を曲って、やがて、長い真っ直ぐな廊下にたどりつく。 「どうかしたのかい」 不意に寒気に襲われて、足を止める。振り向いたヒカリにそう聞かれて、なんでもないと首を振る。これ以上先に進みたくなくて、足が重かった。それでもヒカリに背中に手を添えられ、促されるように廊下の奥の部屋を目指してまた進む。その手を払いのけたかったけれど、今はそんな単純な動作も、何故だか出来なかった。 指先が冷えて強張り、動かなかった。ここの空気が冷たくて、寒さのあまりに身体が震えそうだった。 「……いやだ」 無意識のうちに、そんなことを口にしていた。ヒカリの手に押されて、奥の部屋の前で足を止める。閉められた障子に、コウの影が淡く映った。 ここに、入りたくなかった。 「嫌だ……!」 声が震えていた。ヒカリがこちらを覗きこんでいるのを見上げて、首を振る。怖かった。理由の分からない強い恐怖感に震える身体を、どうすることも出来ない。清川に見据えられているときに似ていると思った。来い、と、理不尽な要求を何度もされて、その度に、何故だか逆らうことが出来なくて、それに従っていた。支配されることへの安心と、相手への恐れ。けれども、その強さが、比べ物にならない。 足も震えて、少しでも気を抜くとその場に崩れ落ちてしまいそうだった。ヒカリに、ここに入りたくないと、言葉が出せなかったので目で訴える。 「嫌なら、無理強いはしない。……けれどきみは、捧の望みを、叶えてあげたいんだろう」 ヒカリはコウの目を見たまま、囁くようにそう言ってくるだけだった。 「だったら、向き合いなさい。何も知らないまますべて終わるのでは、公平ではない」 その言葉に、崩れそうな膝に力を入れて、身体を支える。捧の望みを、叶える。ヒカリの言いたいことはよく分からなかったけれど、その言葉だけは、しっかり耳に届いた。コウを見下ろすヒカリを見返して、頷く。 冷たくてうまく力の入らない指で、障子に手を掛けた。そっと、開く。 「お邪魔します、甚様」 隣に立つヒカリが、コウの両肩に手を置いて、部屋の中にそう呼びかける。ジン、という耳慣れない響きは、中に居る誰かの名前だろうか。この男が、様を付けて呼ぶのなら、それはただひとつの立場にある者に違いないと、そう思った。雨夜の、当主だ。 部屋は縦長に広くて、開けた障子から、まっすぐに奥まで畳敷きの床が広がっている。自分でも何が怖いのかよく分からないまま、恐る恐る顔を上げた。奥にあるのは、祭壇だろうか。黒い布敷きの壇が壁際に設けられ、その中央に何かが飾られている。……祀られている、というのだろうか。祭壇の奥の壁には、ここからではよく見えないが、何か細かい絵が描き込まれた布のようなものが貼られていた。 その壇の前に、男がひとり、こちらに背を向けて、立っていた。 「……、あ」 その背中を見ただけで、身体が硬直して、動けなくなった。先程からの寒気が、すべて、この男から感じていたものだと嫌でも分かるほど、強い磁力のように、そこに目が引きつけられてそこから逸らせなかった。ヒカリの手に押されるように、部屋の中へ足を進める。ほどなく祭壇の前まで近付いた頃、男はようやく、こちらを見た。 黒い着物の、背の高い男。コウよりは、二倍以上も年上になるのだろうか。均整の取れた身体つきをしていて、鍛えられた筋肉の持ち主であることが、和服を着ているせいか余計に目立った。着物と同じような、黒一色の羽織には、白く紋が入っている。男が振り向いたのでよく見えなかったけれど、蝶のかたちをしていたような気がした。 雨夜の当主はコウの顔をしばらく観察するように眺めた後、呆れたように笑った。 「……ひどい顔をしている。余程、おまえが怯えさせるようなことを言ったのだろう、ヒカリ」 低いその声に、背筋が震えた。言われていることは何でもないことなのに、叱責されているような気分で、肩を縮めて顔をうつむけさせてしまった。 ご冗談を、とヒカリもそれに笑って返す。 「名は」 男の声が、コウに向けられる。それにどうにか、牧丘コウ、と、呟くように答える。雨夜の当主はそれを聞いて、ああ、と、何故だか笑った。 「そんな名だったか。昔聞いたが、すっかり忘れていた。……育ったものだな」 「……え?」 意外なその言葉に、うつむいていた顔を上げる。コウをじっと見ていた当主と目が合う。 「一度だけ、おまえに会ったことがある。まだほんの、赤ん坊の頃だから覚えてはいまいが」 雨夜の当主は、コウのその怯える様を見て楽しむように、悠々と口元を緩めた。 「わたしには妹がいた。繭花という名で、わたしのことを憎んでいた。……あれは放蕩な女でな、家が決めた許婚が居るにも関わらず、それとは違う男の子どもを宿して、ある日突然、姿を消した」 何を言われているのか、理解出来なかった。嫌な予感がして、見据えられているその恐怖と相まって、背中を冷たい汗が伝う。目を閉じたかったけれど、閉じたところで、この目からは逃げられないことに、もう気付いていた。この男を、知っている。ずっと昔から、恐れていた。 「それがお前の母親だ、コウ」 そんなことを、言われた。 その瞬間、自分の顔はきっと、ぽかんと口を開けて、このうえもなく間の抜けたものだっただろう。何を、と言おうとして、次の瞬間、それを止める。……そんな風に、逆らってはいけない。コウの中に、自分を止める何かがあった。この男には、決して逆らってはならない。そうすることは、コウには、許されていない。 ヒカリの顔を見たかった。何でも知っていて、何でも答えてくれる「蜘蛛」に、これが質の悪い冗談であることを教えて欲しかった。けれどもこんな時に限って、何も言わない。コウが逃げないようにするためか、それとも、支えるためか、なんのためにかは分からない、肩に置かれた手からは、何も伝わらなかった。向き合いなさいと、そう言われた。 それがなんのことだったのか、この瞬間、悟る。 「おかえり、我が血族。正当な、雨夜の狩りを継ぐ者よ」 まるでおかしくてたまらないとでもいいたげに、雨夜の当主は、声をたてて笑った。
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