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第二章 「月」 |
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3. 想ひそめし 立ち並ぶ木々の中を、逃げていた。 足下は暗くて、逃げる方向も定まらない。どこに行けばいいのか分からない。どこへ行けば、助かるのだろうかと、そんなことを考えている自分に気が付いていた。そんなことを思う日が来るとは、想像もしていなかった。これは、待ち望んでいたことであるはずなのに。 こんなに、怖いものだとは、思わなかった。 (いやだ、……いやだ、怖い、怖い、怖い……!) 闇の中、ところどころに灯る篝火だけが、庭を橙色の丸い光の中に浮き上がらせている。その火は逃げる彼のために灯るものではない。追う者のためにあるものだ。 幼い頃から、ずっと聞かされて育ってきた。これは、大切な役目。一族の者すべてが等しく負ったこの役目を全うしている。それを誇りに思いなさいと、あまり顔を合わせる機会はなかったが、父も母も、度々そう口にしていた。だから、それが当たり前なのだと、そう思っていたのに。 (怖い、いやだ、父様、母様……!) 父も母も、すでに役目を果たして久しい。今では会うことも声を聞くことも出来ないが、もし彼に「順番」が回ってきたならば、その時は同じところに行けると、主様はそう教えてくれた。だから、怖いことなど、何もないはずなのに。 頭ではそう考えることが出来る。それなのに、身体の震えが止まらなかった。 ひと月前に、それまで生活していた屋敷から、庭の奥にある小さな庵に移された。儀式のために身を清めるのだと言われ、それからは食べるものも、着るものも、何もかも変った。ずっと傍にいてくれた主様は、毎日会いに来てくれたけれど、それ以外の人とは、外に出ることを禁じられたので、誰とも会えなくなった。 これまで触れたこともないような、綺麗な白い装束を着せて貰って、務めを果たすときが来たことを告げられたのは、今朝のことだ。沐浴で身体の隅々まで清められる彼の髪を撫でて、主様は、どうせすぐに穢れるものを、と、何故だかおかしそうに笑った。何が起こるのかは分からなかった。ただ、これまでずっと聞かされてきた大切な儀式に臨むのだと、そのことに対する誇りと、うまく出来るのだろうかという不安が胸を占めていた。 恐怖など、抱くはずもなかったのに。 主様に手を引かれ、やがて庭の中ほどで静かに背中を押された。逃げてみろと耳元で囁かれて、その言葉の意味が分からなかった。こちらが捕まえるよりも先に、この庭から出られたら、命を助けてやると、そう笑われた。……なにを言われたのか、分からなかった。逃げもしない獲物を狩るのでは、面白くない、と。 主様の傍に仕えていた男のひとりが、弓を引き絞り、彼を的にするように矢先を向けた。言葉のすべてを呑み込んだわけではないが、それでも、身体はとっさに、それから逃れるべく、身を翻していた。放たれた矢が、足をかすめる。冷たい切っ先がかすめた部分が、焼けるように熱くて、痛んだ。前のめりに倒れそうになり、それを踏みとどまる。主様を見た。彼のことをいつも可愛がり、何よりも大切にしてくれるその人が、矢を射掛けた男を叱責するだろうと思った。これまで、彼が少しでも傷つくようなことがあれば、すぐにそうしてくれたように。 主様は笑っていた。彼の見上げる視線を受け止め、どうした、と口元を歪ませる。早く逃げてみろ、と、また繰り返される。矢を持つ男に、次は腕だと、そう指示する声を聞いた。暗い庭を駆けだした彼の背中に、満足気な主様の笑い声が響いた。 (痛い、……怖い) 足が痛んで、上手に走れなかった。それでも、立ち止まらなかった。逃げてみろという主様の言葉の通りに、庭を足を引きずりながら駆ける。ここから出られたら、命を助けてやるとそう言われた。……ならば、それより先に、彼らに捕えられたならば。 (……父様、母様……!) 役目を果たした両親や、一族のものたちは、どこへ行ってしまったのだろうか。 なにも考えられなくて、ひたすらに暗い庭を逃げ惑った。外に出るといっても、生まれてからずっと、この庭の中だけで暮らしてきた彼には、どこに行けばいいのかすら分からなかった。 懸命に走っていたつもりだった。それでも、射られて傷ついた足は、思うように動かせなかった。 いくつかの足音と、歓声のような声を背後に感じたのと、鋭い風に突き飛ばされるような衝撃に地に崩れ落ちたのはまったくの同時だった。何が起こったのか、よく分からなかった。強い力に抑えつけられているように、地面に這ったまま、身体を起こせない。少しでも身動きを取ろうとするが、背中の、燃えるような痛みのせいで、低くうめいて震えることしか出来なかった。 馬鹿者。うまく外せと言っただろう、これでは長くは楽しめないではないか。どこか遠くから聞こえるようにぼやけて、それでも鮮やかに、主様が笑うのが聞こえる。倒れ伏した彼の周りを、幾人かが取り囲む気配がある。 背中に触れる手が、主様のものであることは分かった。その手が、痛みの根元にある矢を引き抜いて、傷口から血が溢れるのが、感覚で分かる。助けてくれようとしているのだと、その為に矢を抜いてくれたのだと、主様に感謝の言葉を言わなければならないと思った。傷が深いせいか、息をするだけで口の端から血が漏れて、うまく、言葉が出せない。身体を仰向けにされて、こちらを見下ろす主様の姿を見ることが出来た。ずっと、生まれた時から傍にいて、お仕えしてきた大切な存在だ。このひとの為に生まれたのだと、ずっと、そう思ってきた。 震える手を伸ばして、その人に助けを乞おうとした。痛くて、苦しかった。 しかし主様は、伸ばされた指を取ることなく、薄く笑うだけだった。抜いた弓を投げ捨て、傍らに控える従者から、なにかを受取る。仕方がない、先に死なれては、無駄になるからな。 篝火が、主様が手にするものに光を与える。目を眩ませるような銀色の一閃。まるで、身体の小さい彼のために特別にあつらえたような、小さな短刀。主様の名前を呼ぼうとした。けれどもそれよりも早く、その刃が振り下ろされる。何故だかその瞬間、ふと、理解した。これが、「狩り」。 胸に突き立てられた刃は冷たくて、小さな刀のはずなのに、どこまでも深く沈む気がした。 これで、役目は終わり。それだけは、分かった。あとのことは、何も分からなかった。痛くて、何も考えられなかった。 上から、いくつもの笑い声が降ってきた。なにがおかしいのか、誰が笑っているのか、もう何も分からなかった。 あとは、暗転。庭に灯っていた、橙色の篝火の残像のように、暗い闇にも赤い点々の残像が残った。こちらを見下ろして笑う、あの男たちの目のようだった。 けれどもそれが、誰の目なのかは分からなかった。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ いくつか予想していたのとは、少し違う事態になったようだった。天網を手繰ることで先見をするような力はヒカリにはない。かつては、その真似事に近いようなものは可能だったけれども、今となっては、手にしている情報から、どういうことになるか考える程度のことしか出来ない。それは、普通の人間と全く変わらない。少しばかり、手にすることの出来る情報の量が多いか少ないかだけの違いだ。 屋敷の門を警備していた男たちは、ヒカリの顔を見るなり、青い顔をして頭を下げた。不気味なものだと思われるのは、昔からのことだ。それでも、蜘蛛の存在は、呪術師や狩りの儀式と同様、ずっと伝えられてきたものだ。花羽の血は、気真面目で、規律と伝統を重んじる。これは開祖である人間の頃から、変わらなかった。だから彼らは、ヒカリに対しても、丁重な態度を崩さない。 門をくぐる。昨日訪れた時よりも、そこに流れる空気が格段と冷たく、張り詰めているのを肌で感じる。儀式が近づいてきている証拠だ。母屋の方に顔を出そうかと思い、しかしそれよりも先に、庭に足を向ける。黒い羽の蝶を連れたままだ。このまま、当主に会うわけにはいかない。あちらの家ならばともかく、花羽家は対立する黒い羽の家を、ひどく嫌っている。この蝶に罪はなくても、きっとおぞましいもののように扱われて、追い払われてしまうだろう。そんな可哀想なことはさせたくなかった。 庭に入った途端、蝶はどこに進むべきか分かっているように、それまで羽を休めていたヒカリの肩を離れ、先導するように飛び始める。同じ血を持つものの存在を感じて、それを目指すのか、あるいは。 「……成程。未月か」 日付が変わるまで、あと数刻。夜半の庭は暗くて、おまけに先程までの雨のせいで、まだ敷石も地面も濡れていた。その庭に残る、年若い次期当主の気配に、何が起こったのか、大方のところを理解する。未月は、ほんとうに、花羽家の血を正統に受け継いでいる。激しく真っ直ぐな気性も、無垢な潔癖さも。 ひらひらと舞うように飛ぶ蝶の後に続いて、庭を抜ける。離れには、もう夜更けだというのに、明かりが灯されていた。 砂利を踏む足音で、この離れに住む者はいつも、来訪者を迎えるために縁側に姿を現すのが常だった。しかし今日は、しばらく待っていても、誰も出てこない。黒い羽の蝶が、閉められた障子の前で、ヒカリを待つように羽を止めていた。上がり込み、それを開けてやると、すぐに部屋の中へふわりと羽を躍らせる。 「邪魔するよ、捧」 そう声をかけても、なんの返事もない。ひとつ息を吐いて、蝶に続くように、部屋に足を踏み入れる。 捧は部屋の中ほどに、こちらに背を向けていた。畳の上に直に座り、じっと、身動きひとつしない。ひらひらと黒い蝶が飛ぶのが視界に入らないはずはないが、もしかしたら、それにすら気づいていないのかもしれない。 近寄って、彼が胸に抱え込んでいるものを見下ろす。 「随分と酷い目に遭ったようだね。だから言ったのに」 それにしても、部屋の中に上げるのに、靴も脱がせていない。身をかがめて、それを脱がしてやろうとすると、初めて捧はヒカリの方を見た。まるで、触るなとでも言いたげな目だった。 それに、靴、と、しようとしていることを仕草で教えてやって、泥で汚れた革靴を脱がせてやる。一度縁側まで靴を置いて戻ると、捧はまた、先ほどと同じように黙り込んで動かなかった。その様子が、まるで、言葉を知らない獣のようだった。傷付いた仲間の身体を抱いて、どうすることも出来ずにいる。怪我の様子を見ることもせず、汚れた顔を拭ってやることもしない。動くことを忘れたように、ただそれを胸に抱いているだけだった。 「捧、見せなさい」 そう声を掛けて、彼が抱いているものを離させようとした。捧は言われて顔を上げたものの、こちらを一度見ただけで、従おうとはしない。まるで幼い子どもに、それは玩具ではないのだからやめなさいとでも叱っているような、そんな心境になる。 「傷を見るだけだ。それに、汚れを落としてあげないといけない。……ほら、捧」 「弱っている」 言葉さなかに、そんな呟きが聞こえた。こちらに向けての言葉のようでもあり、また、ただの独り言のようでもあった。彼は日頃から、他者に話し掛けることが極端に少ない。 「凄く弱っている。あんなに……」 何かを続けようとして、それでも途中で止めてしまう。 「……おれのせいなのか」 捧は溜息のように言葉を呑んで、腕の中に抱くものに、心音を確かめるように耳を当てた。 「未月が言っていた。おれが、軽率に家を出たりした、その報いだと」 いかにも、短気に陥っているらしい未月の言いそうなことだ。この様子からすると、おそらく、こうなるに至った経緯に未月は関わってはいないだろう。それでも、捧にそんな風に言い放った未月の様子を想像するのは容易かった。思わず、笑みが漏れるほど。 「さあ、そのあたりのことは、ぼくには分からないけれど。済んだことをとやかく言っても仕方がないし」 答えながら、捧が胸に抱えるものに目をやる。殴打の跡が残る顔はひどく青ざめていて、手で触れてみなくても、その頬が冷えているのが分かる。元々の血色のいい、健やかな頬を思い出すと、余計にその様が痛ましかった。眠っているのか、それとも意識を失っているのか、どちらかは分からないが、目蓋は閉ざされていて、ヒカリや捧の話す声にも、少しも反応を見せなかった。 「それに、きみはちゃんとこの家に戻ってきた。狩りのためにね。今、この子がこんなことになってしまっているのは、他でもない。この子自身のせいでもある」 何度か言った通りだ。コウにしても、狩りの一族や蝶の血に関わらなければ、これ以上、自分から命を縮めるような目には遭わずに済んだはずだ。あのまま、もう全て忘れるのなら、花羽家としては彼を無視することが出来ただろう。それを、また近付いたのは、コウ自身の意思だ。……若干、ヒカリとしても、背中を押してしまわないでもなかったが。 「そのままにしておくのは可哀想だろう。せめて、綺麗にしてあげよう」 もう一度、見せなさい、と繰り返す。今度は、しばらく躊躇った様子はあったものの、静かに腕を離した。捧が休もうとしていたのだろう、就寝の支度が整えられていた寝具に、そっと動かない身体を横たわらせる。 「お湯と、着替えを。きみの着るものではこの子には大きいだろうけれど、貸してあげてくれないか」 ヒカリがそう頼むと、捧は素直に、わかった、と頷いた。この離れは小さくはあるが、外に出ずとも生活に事足りるように、必要な設備は整っている。食事ばかりは、外から毎日、本家のものが届けているようだが。 木桶に張った湯を手拭いに浸し、泥に汚れた頬を拭いてやろうとすると、捧が手を伸ばしてきた。 「おれがやる」 肩をすくめて、代わる。彼は恐る恐る、ゆっくりとした手つきでコウの顔を拭う。泥ではなく、まず真っ先に口の端に滲んだ血の痕を拭おうとするのが、捧らしかった。それはおそらく、コウ自身の流したものではないだろう。 隅々まで顔を綺麗に拭いてやり、今度は着替えさせるために、服を脱がそうとする。制服も、ヒカリが貸したマフラーも、泥で汚れて酷いものだった。せっかく、あんなに似合っていたのに。無粋なことをする奴もいたものだ。 シャツには何者かの靴の跡が、たくさん残っている。蹴られ、踏みにじられたのだろう。それを脱がすと、裸の胸にも、打撲傷がいくつも見られた。捧に止められる前に、手のひらで触れてみて、骨は折られていないことを確認する。どこまで力を加減すればいいのか分かっている、ひとを傷つけることに慣れたものの仕業だろうと、そう思った。心当たりがないでもないが、ひとまず、それはどうでもいいことだ。 あまり力を入れないようにはしたが、全身どこに触れられても、一向にコウは目を覚ます様子はない。単に意識を失っているというよりも、深く、昏倒していると言った方が正しいのだろう。 はっきりと表情に表わしているわけではないが、不安気な面持ちを崩さない捧に、そう教えてやる。すると彼は、それでも納得がいかないようだった。 「どうして、そんなことになるんだ。……傷が、痛むからか?」 「傷自体は、それほどでもないだろう。骨も折れてはいないようだし、内臓の損傷もないと思う。たぶん、おかしなものを呑まされたんだろう」 「呑まされた?」 ヒカリの言葉を繰り返す捧のその声が、かすかに驚きを含んで揺れていた。身じろぎひとつ見せないコウの色失せた頬に、案じるように手のひらで触れる。最後の「蝶」として大切に育てられてきた彼が、この様子を見て、どこまで事態を把握出来るだろうかと、内心でそんなことを意地悪く思う。 それきり、捧はまた、黙り込んでしまった。何かを考えているのか、それとも、ただコウの様子を見守っているだけなのか、そのいつもと大して変わらないように見える静かな目からは窺い知れない。 コウは胸だけでなく、全身至るところに傷をつけていた。擦り傷のようなものから、胸と同じように殴られたのだろう痕まで、捧はそれをひとつひとつ、指先で撫でている。そうすれば治せるとでも思い込んでいるような、まるで幼い子どものような仕草だった。 汚れた制服を脱がせて、寝間着を着せてやるように言うと、捧は大人しくそれに従った。手助けしようかと思ったが、首を振って拒まれたので、黙って様子を見ていた。捧の身の丈に合わせて作られた寝間着は、コウには裾も袖も大きく、まるで産着を着せられた赤子のようだった。 捧が眠ったままのコウに丁寧に布団を掛けてやると、それまで部屋のあちこちを舞っていた黒い羽の蝶が、その胸の辺りに止まった。しばらくの間、羽を閉じては開いていたが、落ち着く場所を見つけたように、今度はそこから動かなくなる。 「一体、なにを」 ふいに、捧が口を開く。独り言のような呟きめいた声ではあったが、おそらく、ヒカリに向けての問いかけだったのだろう。コウが、呑まされたものの話だ。 ヒカリがその正体を知っていることなど当たり前だと思っているように、捧は答を待っている。幼い子どもの頃から、この蝶はこうだった。言葉の少なさは当時から変わらないが、何か、どうしても気になることがあったのだろう時だけ、時折自分から問いかけをしてくることがあった。普通の子どもならば成長する過程で自然と覚えていくような他愛もないことばかりではあったが、それでも聞かれたことは、ひとつひとつ誠実に答えてきたつもりでいる。まるですべてに悟りを得ているように落ち着き払った顔をしている癖に、分からないことは何でもヒカリに聞けばいいと思っているその幼さが可笑しくて、哀れだった。 「呪詛だ」 ヒカリが答えると、それまではコウと黒い蝶の方に目を向けていた捧が、こちらを見る。何を考えているのか分からない、深い色をしたその目に、射抜くように鈍い輝きが見えた気がした。 「……呪詛?」 「そう。この子が呑まされたものは、おそらく、きみたち蝶の一族の血だろう」 「どうして、そんなものを」 「きみには想像も付かないだろうけれどね。昔は、よく使われていた。蝶は一途で、一度相手を決めたら、決してそれを違えることはない。……その相手しか、欲しがらない。それでは、都合の悪い連中がいたという話だ」 分かりやすく説明したつもりだったが、捧にはそれがどういう意味なのか、いまひとつ思い至らなかったようだった。清廉潔白を良しとする、花羽の蝶らしい反応だった。 「媚薬のようなものだよ。蝶の血は、同じ血を持つものを惹き付けるからね。つがう相手しか求めない蝶に、それを使って酔わせる。発情させると言った方が分かりやすいかな」 「それが、どうして呪詛になるんだ」 「採取する経緯を考えてみればいい。血を絞り取るのは、狩ったあとだ」 もしも今、コウに意識があれば、こんな話を聞いてきっと血相を変えてヒカリを睨むだろう。教えられた言葉から、その行為を具体的に思い浮かべて、酷い、と悔しげに呟くかもしれない。けれどコウと、捧は違う。 「怨念が残っても、なにもおかしいことはないだろう?」 捧はわずかに眉をひそめるだけだった。生まれた時からずっと、この花羽の屋敷の中だけで育ってきたのだ。接触のある「狩り」の一族と言えば、未月やその両親たちがほとんど。一族のものたちは、当主を恐れて余り近くに寄ろうともしない。だから、かつては同胞がどんな風に扱われてきたか、考えたこともなかったのだろう。自分と同じように、丁重に管理され、大切にされていたのだと、そうとしか思わなかったのではないだろうか。それも、無理もない話ではあるが。 「……誰が、どうして、コウにそんなものを」 「きみにも覚えがあるだろう。試そうとしたが失敗した、と、関係のないぼくにも愚痴を言った姫君がいたよ」 「円?」 「この子に同じことをしたかどうか、確証はないけれどね。でも、花羽にこんなものがふたつもあるとは考えにくい。おそらく、そうだろう。理由は本人に聞いてみないと分からないけれど、まぁ、たぶん、何か勘違いでもしたんだろう。きみと長い時間一緒にいて、移り香が残ったのかもしれない」 未月の姉の、円。こちらの顔を見るのも嫌だと態度に出してはばからない未月とは対照的に、円はヒカリの姿を見ると嬉しそうに様々なことを語って聞かせてくれる。今日はどんなことをして遊んだか。どこの家の誰が訪れて、どんな話を聞いたか。何を持ってくるように頼んで、何を受取ったか。ここ数日は顔を合わせてはいないので、円がコウに接触したかどうかまでは分からない。それでも、この花羽の家の中でそんなものを手に出来て、実際に使ってみようなどと考えるのは、彼女くらいのものだろう。円が母親と未月を嫌う余りに、黒い羽の家の人間とも通じていることは、聞かされずとも前々から知っていた。 狩りの一族の女はしたたかで、気性が激しい。先に生まれたのに、女であるというだけで弟にすべてを譲らなければならないことに、円はずっと不平をとなえている。「狩り手」を務められるのが未月であることにも、ずっと。 だから彼女は、偽物の蝶を紙でいくつも作りだしては、何かを呪うように、それを釘で庭の木に磔にしている。 困ったものです、と、当主がそう笑うのを聞いたことがある。近頃では紙の蝶を相手にするだけでは気が治まらなくなったのか、寄りにもよって、儀式までは何よりも優先して保護しなければならない最後の「蝶」にまで手を出す始末だと聞く。当の本人である捧は、傷つけられたところで、周りの狼狽など全く気にならない様子ではあったが。 それほど深い傷ではなかったとは言え、血を流したし、痛みも少しはあっただろう。それでも、彼は円のことを、どうとも思っていないようだった。傷付けられることなど、捧にとってはなんの意味もない。 コウの傷にひとつひとつ触れていた時の方が、余程痛そうな顔をしていた。 「蝶でないものにとっては、いくらもともとは同じ人間の血液といえど、もはや毒でしかない。何代にも渡り搾取されて固まった呪詛をそのまま呑み込んでしまったんだ。そもそも、香として焚くのが本来の使い方のはずだしね。それに対する、急性のショック症状だと思ってもらえば近いだろう」 「どうすればいいんだ」 コウからは目は離さないで、そう尋ねられる。こんな突拍子もないことをした人間は過去にはいないから、どうすればいいのか知らないとでも答えようかと思ったが、止める。捧には罪はない。勿論、コウにも。 「この種の呪詛は、外部から干渉の仕様がない。この子が自分の中で、うまく処理することを祈るしかないな」 「処理する?」 「すべて受け止めて、耐え切ってもらう他にはない。とは言っても、何代にも渡って溜め込まれたものだ。普通の人間なら、例外なく精神が崩壊するだろうけれどね」 「……ひとは、精神が壊れると、どうなるんだ」 捧の言葉に、感情による乱れはない。それでも、尋ねられたことはないが、きっと、幽霊はいるのかと聞いてくる子どもの声は、こんな風にどこか怯えを滲ませているのではないだろうかと感じた。 「喋らないし、笑わない。きみが何を言っても、きみのことを見ない。肉体が生きていても、死んでいるのと同じだな」 だから子どもに言い聞かせるように、言葉を選んで答えてやる。捧はそれを聞いて、首をうつむけた。その顔に影が落ちたように見えるのは、光の差す角度が変わったからだけではない気がした。しばらくして、呟かれた声は、明らかに弱々しかった。 「なにも出来ないのか」 「……傍についていて、手でも握っていてやればいい。きみは『蝶』だ。呪詛の絡む血と完全に同一なものを持つきみが繋がっていれば、少しはこの子の護りになるだろう」 コウが捧をこの屋敷から連れ出した時、花羽の当主が送っていた呪は、決して生温いものではなかった。急場ごしらえの形代程度では、決してあれだけ持たせることは出来なかった。それでも二日近くコウが正気でいられたのは、捧の傍に居て離れなかったからだ。蝶の血は供物であるだけでなく、狩りの一族の存続と繁栄を約束する、加護の力を持つものでもある。本来ならば花羽の一族のためにあるその力が、想いの主へと向いても、なんの不自然もない。 ヒカリのその言葉に意を得たように頷き、捧は意識のないコウの手を取り、傷が痛まないか恐れているように、そっと自らの手を重ねた。反応を待つかのように一時してから、ヒカリが教えた通り、力なくされるがままになるその手を、両手のひらで包む。 彼はそのまま、じっとコウと、その胸に止まったままの黒い羽の蝶を見ていた。身動きひとつしないし、何も言わない。ヒカリも何も言わなかった。 「コウは、どうして、またここに来たんだろう」 眼差しも姿勢も動かさないまま、ふと、そんな言葉が聞こえる。独り言のようではあったが、おそらく、ヒカリに対しての質問だったのだろう。それきり口を噤んでしまったその沈黙が、答えを待っている気がした。 「随分と可哀想なことを言うんだな。きみに会いたかったに決まっているだろう」 そんなことにも、自分で思い至れない。コウが聞いたら、どんな顔をするだろうかと想像して、小さく笑う。悲しそうに唇を噛むか、それとも、驚いたように笑うだろうか。 「……おれに?」 捧はかすかに驚いたような声を上げて、ヒカリを見た。それに一度頷いてやると、彼はまた、コウに目を遣る。ヒカリの言葉が真実であるのか問いかけているような、そんな眼差しだった。可哀想に、と、それを見てまた内心でそう思う。捧にとってコウが大きな存在であるのは確かだ。けれどもそれは、コウにとっての捧と同じ意味合いで、ではない。ほんの一時だけの触れ合いで、すぐに離れなければならないことは、捧にとってはすべて、最初から分かっていたことだ。だから、それに「続き」があったことに驚いているのだろう。 ヒカリが言ったことで、捧がなにを感じてなにを考えたのかは分からなかった。それでも、目蓋を閉じて昏々と眠り続けるコウの手に触れている彼の指先は、先程よりも強く握られているようにも見えた。 そうしてまた、ふいに問いかけられる。 「ひとは、大切なものを傷つけられた時、どうすればいい?」 今日は、珍しく、質問ばかりだ。いつもならば、ひとつ答えてやれば、そのあとは延々、それについて考えを巡らせるらしく、何も言わずに黙りこむばかりだったのに。 「……さあ。その人間の、性格によるだろうね。怒るものもいるだろうし、哀しむものもいる。なんにせよ、心は乱れるだろう」 「それは、当たり前のことなのか」 「たぶんね」 面白いことを尋ねられている。これまで、聞かれたことのないような類のものだ。 「コウは、……」 コウを見下ろしたままでいる捧の表情は、こちらからは見えない。けれども、言葉を続ける彼の声は、どこか、適切な言い回しを思いつけないでいるような、躊躇うような響きを帯びていた。 「コウは、おれが狩りの話をすると、凄く怒った」 ヒカリに向けて言っている様子ではない。おそらく、独り言に近い呟きなのだろう。 「怒って、それからすぐに泣きそうな顔をして、哀しそうだった」 それきり、また、黙り込む。身動きひとつせず、コウに寄り添うだけの影のようになってしまう。しばらく待っていても、もう何も尋ねられることはなかった。 コウが捧という正統な「蝶」の護りを得ることで、呪詛に耐えきれるかどうかは分からない。本人の精神力に賭けるより他にないこの状況では、今のヒカリに出来ることは何もなかった。呼吸をしているのかどうかも疑わしいほど静かな捧と、羽を休めたきりそこから動こうとしない黒い蝶を見て、ひとつ息を吐いて立ち上がる。 このままにしておいても構わないが、それでは誰にとっても、面白い展開にはならない。 「夜が明けるまでにはここを出なければならない。当主様にそんな様子を見られたら、きみはともかく、この子にとってはますます不味いことになるだけだからね」 返事は期待していなかった。けれども、捧は顔を上げて、離れを出ようとしているヒカリを呼び止めようとするように口を開いた。 「コウを、家に連れて帰るのか」 意外なその反応に、肩をすくめて答える。 「いや。こんな状態ではとても帰せないよ。それに、傷の手当てもちゃんとしてあげたいしね。だから、少なくとも、今は一番安全だろうところへ行く」 「安全?」 「そう。どうも、この子にご執心な人間が、きみ以外にもこの家の中にいるようだ。外は無法地帯のようなものだから、この機に乗じてまた何か企まれても可哀想だし。だから、ここの人間が絶対に手を出して来ないところに行こうと思う」 捧は聡い。こちらがわざと遠回しにした言い方にも、すぐに、それが何処のことであるか思い至ったようだった。 「……黒の家か」 「正解」 どこに連れて行ったとしても、もう、コウにとって完全に安全な場所などはない。ここまで深く関わってしまっているのだから。それでも、捧にはそうは言わないでおく。一番安全、というよりは、一番待遇の良さそうなところを選んでやるのだと教えたところで、彼にとっては同じなのかもしれないが。 「それならきみも安心だろう。そこにこの子の身柄を預ければ、花羽の人間はすべて、未月も円も、喜美香様ですら手出し出来ない。そういう約束だからね」 白い羽を狩る一族である花羽家と対になる、黒い蝶の一族。両家が「狩り」に関するいくつかの約束事を取り交わしてから、もうずいぶんの時が流れている。その間、白も黒も、今に至るまで交わした約束を違えるようなことはしていない。……表立っては。特に花羽は、厳格で規律を重んじる家だ。儀式についての余程重要な問題でもない限り、互いの家に干渉をしないというその約束を反故にしてまで、今のコウを追ってくることはないはずだ。 「迎えを呼ぶ。もうしばらくの間、そうやって傍にいてあげてくれるかな」 だからせめて、ほんの短い間ではあるけれど、別れを惜しむ時間を与えてやろうと思った。未月の就任の儀式まで、もうあとわずかだ。そしてこれからコウを連れて行こうと考えているのは、その花羽家と対立する黒い羽の家。だからきっと、捧がコウに会えることはもうないだろう。せいぜい、気が済むまで触れるなり撫でるなりすればいい、と、ほとんど、そんな親切心のつもりだった。 しかし捧は、射抜くような強い目で、ヒカリを見上げてきた。 「おれも行く」 短くそう言い切った声もまた、眼差しと同じように強い。見たことのない目と、聞いたことのない声だった。 何を馬鹿なことを、と、笑って首を振ろうとした。これまでの捧なら、考えられないような言葉だった。狩り手である未月でさえ、未だに迷いを捨てきれず、それ故に何度も自分にそれが役割なのだと言い聞かせ続けている。けれどもこの蝶は、己に与えられたその役目を、淡々と受け入れ、それを何よりの存在意義だと感じていたはずだ。 そんな彼の口から出たとはとても思えない、愚かな言葉だった。 「自分の言ったことの意味を理解しているのか、蝶の子よ」 「分かっている。おれは花羽のための、白い羽を得るための存在だ。そのために生まれて、そのために育てられた」 「そう、それもただの蝶ではない。千年目の、狩りを終わらせる最後のひとりだ。己に与えられるのが白でなければならないことも、十分に分かっているだろう。それなのに、そんなことを言うなんてね」 「分かっている。間違っていると、許されないことだと、……それでも」 捧はそこで言葉を切り、手のひらで繋がっているコウを見た。表情はいつもと変わらない静かなものに見えたが、眼差しは強い。言葉にはならない、多くのものが心にある。そのことが分かるような深い静寂を挟んで、捧はまたヒカリに視線を戻した。 「おれも、一緒に行く」 こんなことを自ら言い出す蝶の話など、聞いたことがない。真剣そのものの捧の眼差しを真っ向から受け止めながら、次第に、そのことが可笑しくてたまらなくなる。分かっている、と、捧は言うが、実際には、どこまで何を分かっているというのだろう。自分自身が傷付けられ、命を取られることにさえ、恐怖ひとつ感じることも出来ないこの子どもが。 「そんなに来たいのなら、いいよ、おいで。でも、未月がどうするかは知らないよ。あれのことだ、きっと血相を変えてきみを引っ張り戻しに来る」 真面目に話そうと思っても、つい、くすくすと笑ってしまう。捧はヒカリのその言葉には何も言わなかった。けれども、未月の名前を聞いた時にだけ、ほんのわずかに、細波にも似た感情の揺れが伺えた。 「分かった、きみも一緒だ。それなら、もう少しだけ遅い時間にここを出た方が良さそうだな。準備をするといい」 「……必要ない、ほかになにも」 そう低く答えて、捧はもう一度、改めてコウの手を取った。それとは逆のもう片方の手で、殴られた跡の残る頬に触れて、そっと撫でている。 「明け方近くに、また迎えに来る。……その子を頼んだよ」 捧はまたヒカリに背を向ける。ヒカリのその言葉にも、もう何も返して来なかった。その静かな背中を見て、やれやれ、と、また少し笑う。 蝶は、哀れだ。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 目を覚ましたのは、父親の慌ただしい足音のせいだった。寝ていたところを、部屋に駆け込んできたのだ。「どうしたんです、こんなに早くに」 こちらが何を尋ねても、父親は顔を青くしたまま、大変なんだと何度も繰り返すだけだった。なにが大変なのですと聞こうとしても、震える指で肩を掴まれ、それしか言葉に出来ない人形のようにたいへんなんだとしか言わない。 「落ち着いてください、父さん。……母さんは?」 今にも泣き出しそうな震える声で、庭に、とだけ言って父は未月の肩を抱いた。指や声だけでなく、その全身が震えているのが伝わる。一体、何が起こったというのだろう。この人はもともと、母と一緒になったのが不思議なくらい、穏やかで気の優しい人だ。母が当主という立場にあるせいか、どうしても厳しいことを言いがちなのに対して、それを補おうとするように、未月にも円にも、昔からずっと優しい。本来ならばそんな風に扱うべきではない「蝶」、捧のことも自分の息子のひとりのように接している。 そんな人が、この屋敷の中で、なにを怯えて震えているのだろうと、そのことが純粋に不思議だった。 母は、庭にいるのだと言う。そこに行けば、何が起きたのか分かるだろう。 「分かりました。ぼくが行きますから、父さんはここに居てください」 そう言って立ち上がると、父は何事かまた震える声で言いながら、それでも未月の後を付いてきた。行ってはいけない、見ては駄目だと、そう言っている気もした。 空は白んでいるが、まだ陽は昇らない。冷たい空気の中、庭に降りると、確かに何か、おかしな雰囲気を感じた。 付いてきた父親に、どこに行けばいいんです、と尋ねると、震えて定まらない指で、奥の方を指差される。 そこは、出来るならあまり近寄りたくはない方向だった。姉の、円が遊び場にしている辺りだ。 「……姉さんが、また何か?」 足を進めながら父に聞いてみても、返事はない。父の方を振り返ろうとして、その時、鼻につくおかしな匂いに気付く。普段ならば、決して、感じないような。それに気付いた途端、無意識のうちに、駈け出していた。慌てて後に続こうとする父の足音を背中で聞きながら、奥を目指す。 薄暗い庭に、浮かび上がるように淡い色合いを見つける。こんな早くだというのに化粧までを済ませている、母親の姿だった。淡い色は、母の着物の色だ。 「母さん、これは一体」 「未月。ご覧なさい」 いつもと何も変わらない、冷やかな眼差しと言葉。そこにいるのは母ではなく「当主」だった。 言われるままに、見るように示されたものに目を遣る。ここは姉の円の庭だ。あたりの木々には、そこら中に紙で作られた蝶が磔にされている。子どものような趣味の悪い遊びだと、未月はずっとそれを内心で馬鹿にしていた。そんなに蝶を傷付けたいのならば、いっそのことこの役目を代わって欲しいものだと思ったこともある。姉の、円。 「……、そ、んな」 追ってきた父が、未月の傍に立つ。同じものを見ようとして、そしてすぐに、見ていられなくなったのだろう。背を向けて、声を押さえて漏らす嗚咽が聞こえてきた。かわいそうに、と、そんな言葉が聞こえた。 庭に漂っていたのは、血の匂いだ。 「誰が。……誰が、こんなことを」 呟いて、それでも、見ているものからは目を逸らせなかった。姉はいつも、未月の姿を認めると、必ず睨み付けてきた。おまえのことが嫌いだと眼差しで伝えようと、強く。けれど今は、未月の方を見ようともしなかった。見開かれたまま瞬きをしないその目は、どこか異なる世界を見ている。もう、なにも映さない。着ている着物は、昨日と同じ、桃色に赤い花がたくさん飛んでいる、派手なものだ。昨日は綺麗に結い上げられていた黒髪はすっかりほどけて、金色の花を象った髪飾りが、流れた髪の途中に引っ掛かって揺れていた。 胸の中心には、ひときわ鮮やかな、赤い花が一輪咲いていた。 「……これは」 赤い花かと錯覚しそうなそれは、血の色だ。そうしてそれの、さらに真中にあるものは、よく知るものだった。姉の円の身体を、木に縫いとめているものがある。彼女がいつもそうして遊んでいた、紙の蝶と同じように。 それは一本の、矢だった。 「そのままにしておきなさい、未月。今は、まだ」 そう指示してくる当主の声が、どこか遠くから聞こえた。未月自身も、幼い頃から弓を習っている。それは花羽家に生まれたもの、特に「狩り」に関わる役目のあるものならば皆そうだ。だから、母にも、これが何なのか分かってはいるのだろう。 そんな、と、父が嘆くような声を上げる。かわいそうじゃないか、このままにしておくなんて。それは母への反論らしかった。けれど、当主の意見には、誰も逆らえない。 専門家に見てもらわなくても、姉にもう、命がないのは見れば明らかだ。矢は胸を貫いて、木に刺さって抜けない。そのままにして、どうするつもりなのかは当主に任せるより他ないのだろう。 肉親の、こんな惨たらしい姿を前にして、驚くほど気分は冷静だった。まだ、起こったことを全て把握できていないだけかもしれないが。 「花羽の狩りは、弓の狩り。……その矢が、本家のものに向けられるなど」 当主のその言葉からは、どんな感情も読み取れなかった。ただ真っ直ぐに立ち、変わり果てた娘の姿を見つめている。円の死体そのものよりも、何故だか母のその様子が見ていられなくて、目を逸らした。 弓の狩り。 ふいに、顔を上げる。突然、閃くようにあの男のことを思い出した。 「未月? どこへ行くのです」 それに、答える間も無かった。両親と、姉だったものに背を向け、また庭を駆け出す。嫌な予感がした。 考えなくても、足は自然とそこへ繋がる道に向いた。 「捧!」 言葉ではうまく言い表せない。不安にも似た、強い焦燥感。乱暴に砂利を踏み、叫ぶように名前を呼ぶ。例え眠っていても、あの男は、誰か近づくものがあればすぐに、それに気付く。それなのに、何の反応もない。離れは静まり返っていて、走ったせいで、未月の吐く息だけが荒かった。 派手な音を立てて雨戸を開け、靴も脱がずに、縁に上がる。締め切られた障子を開ける。 そこには、誰の姿もなかった。 「……、っ」 もともと、置かれているものがほとんどない部屋はがらんとしている。探そうとしなくても、この建物には部屋らしいものはここしかない。どこにも行けるはずがないのだから、どこにも行きはしないと、いまこの瞬間まで、相手のことをそうとしか思ってこなかった。それなのに、いない。 昨夜、牧丘コウを胸に抱えていた、あの影のような姿を思い出す。あれだけ傷付いた人間を連れて、捧がひとりで、どこにも行けるはずはない。もともと、この屋敷以外の存在など、捧にとっては無いのと同じなのだから。ひとりでは、どこにも行けない。それはつまり、籠の蓋を開けて、逃がしたものがいるということだ。拳を握り締めて、壁に叩き付ける。 「蜘蛛め……!」 誰もいない、空っぽの部屋に響くその鈍い音が、やけに耳に痛かった。
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