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あの薔薇を砕け
第一話「殺された恋人の話」

 その薔薇は、決して枯れることがない。
 永遠に、咲かないからだ。

 ずいぶんと、坂道を上った。日頃足をあまり使っていないことを実感させられる、嫌な道のりだった。
 辺鄙なところに住んでいるのは、わざわざそうしているのだろうか、それとも、もともとこんな山の奥に住んでいたのだろうか。そのどちらでも自分には大して関係のないことだとは思ったが、することがないので、部屋を見回しながら、そんなことを考えていた。
 向かい合わせに置かれているソファには、まだ誰も座っていない。ここに案内してくれた少年は、ちょっと待ってて、と言ってどこかへ行ってしまった。それから、もう十分ほど、放っておかれている。
 そのせいで、考えなくてもいいようなことまで、思い出してはそれを振り払わなくてはならなくなっている。この部屋は静かすぎていけない。ほとんど森の中と言ってもいいような、周りに何もない場所だから、普段外の音として流れ込んでくるようなものが、何も耳に入らない。ただ、壁に掛かった古びた時計だけが、硬質な音でカチカチと針を鳴らしていた。
 静かすぎると、耳の奥に響く声が蘇ってしまう。もう聞くことは出来ない、永遠に聞くことの出来ないその声は、今ではそこにしか残っていない。名前を呼んでくる、甘ったれた声を空耳で聞いて、一度奥歯を噛み締める。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 この部屋まで案内してくれた少年が、扉を開けて、また現れた。手に、白い布に包まれた長方形の何かを持ったまま、こちらの向かい合いに座る。少年が手にした白いものを、ソファの間にある低い木のテーブルに、そっと置くのを目で追った。あれが、そうなのだろうか。
「それでは、話を、しましょうか。……あなたのお知りになりたいことは、」
 少年はそこで一旦言葉を止め、こちらを見て、にこりと無邪気に微笑んだ。
「『恋人を殺したのは誰か』、ですね?」

 恋人が死んだ。もう、三週間前のことだ。夜中にふらふらと道を歩いていて、そこで事故に遭って死んだ。車に、撥ねられたのだ。何しろ夜中で、住宅街の中の道だったから、他に人も車もなかった。だから、恋人はそのまま、道路の上で放っておかれて、そして死んでしまった。轢き逃げだった。
 それを知ったのは、翌日になってからだった。たまたま、仕事が忙しくて会社に泊まり込んでいた。一緒に暮らしていた部屋に、その夜は帰らなかった。次の日の朝に、警察から電話が掛かってきて、それで、そのことを知ったのだ。
 その時の自分の反応がどんなものだったか、覚えていない。とりあえず心配して声をかけてきた上司に、同居していた友人が死んだことを告げると、今日はいいからもう帰りなさい、と言われ、そして帰ったら、恋人の姉だと名乗る人間から、葬儀についての連絡の電話が掛かってきて、そうだ、葬式はこちらの地元で行いますから何もしてくださらなくて結構です、と冷たく電話を切られたのだ。相手の家族に、この関係がよく思われていないことは知っていたが、そこまで嫌われていたとは思わなかった。遺品は勝手に処分してくれと言われた。なんでも欲しいものがあるなら貰ってくれて構わないから、だから葬式には顔を出さないで欲しいと言われてしまったのだ。
 だから、死んでしまった恋人の葬儀には、出ていない。薄情な、話だ。
 三年間、付き合っていた。大学の頃から一緒に暮らし始めて、卒業しても、そのまま関係を続けた。相手の、雰囲気が好きだった。柔らかいけれど、華やかさに欠けた空気。いつでも、ぼくはいいんだ、が口癖の、欲のない男だった。何を話しても、ゆっくり頷きながら、話を聞いてくれた。力強さや荒々しさとは遠く離れた、草食動物のような男だった。
 いなくなってから、改めて、気が付く。
 とても大切な、恋人だった。

 轢き逃げ犯は捕まらなかった。最も、そんなに早く結果を出せるものでもないのだろうが、どうも、あの家族の反応を見ていると、きっとそれも、どうでもいいです、と警察に伝えられているような気もした。一度、部屋の方に話を聞きに現れたことがあるが、その時も、特定するのは困難な状況です、と苦い顔をされてしまった。
 仕事は、二日間だけ休んだ。恋人が死んだことを知らされたその日は、まるでそのことが信じられなくて何もかも現実感がなくて、一日何もせず、部屋の真ん中に座って馬鹿みたいに口を開けてぽかんとしていた。次の日の朝、起きると部屋の中に自分しかいなくて、相手の姿がどこにも見えなくて、狭い部屋の中をぐるぐると探し回った。湯船の中や、クローゼットの中や、ベッドの下まで探した。どこにも、いなかった。いろんなものをひっくり返して、泥棒が入ったあとのような状態になった部屋の真ん中で、ひとりで酒を飲んだ。買いだめしてあったものを、全部、ひとりで飲んだ。アルコールとともに摂取した水分が、そのまま目の縁からだらだらと頬を伝って流れて、絨毯にいくつも染みを作っては、消えていった。
 差出人に見覚えのない、悪戯じみた文面のメールが届いたのは、ちょうどその時のことだった。

「チェーンメール、でしょう。最近増えたみたいで、ちょっと困ってるところだったんです」
 これの存在をどこで知りましたか、と聞かれ、誰だか知らない奴からのメール、と答えると、薔薇の持ち主だと名乗った少年は、見るからに嫌そうな顔をした。
「そんなことして、何が楽しいのかな。まあそのおかげで、いろんな話が来るようになって、有難いと言えば有難いけど。あなたも、それで、ここに来てくれることになったんだし」
 『何でも知りたいことに答えてくれるものがある』のだと、そう、書かれていたのだ。ただし、機会が与えられるのは一生に一度だけ。たったひとつの問いかけしか、使えない。それに、望めば誰でも、それを手に出来るわけではない。選ばれなければならないのだ。……そんなことが書かれていた。メールの一番最後に、どこかのサイトへ飛べるらしき、アドレスが貼り付けられていた。でたらめにアルファベットと数字を並べたとしか思えない、やたらと長いアドレスだった。
「あの話は、ほんとうなのか?」
「どの話?」
「薔薇のことだ」
 興味を持ったわけではない。ただ、その時の気分を少しでも変えられる何かがあるのなら、と思い、その長いアドレスを持つサイトを開いてみた。一生に一度だけ、たったひとつだけ、何でも、知りたいことに答えてくれるもの。……それは、一輪の薔薇だと、そこには書かれていた。それも、ただの薔薇ではない。透明な薔薇らしい。
 馬鹿馬鹿しい、と思いながら、それでもサイトに載せられていた文章を全部読んだ。注意点はふたつ。ほんとうに、心から知りたいと思っていなければ、その答えは得られないこと。もうひとつ。決して、自分自身についてのことだけを、知りたいと思ってはいけないこと。
「ほんとうだと思ったから、メールを送ってきてくれたんじゃないんですか、あなたは」
「分からない。……でも、知りたいと思うのは、ほんとうだ。あいつを殺した奴のことを教えてくれるなら、それが誰でも、どんなものでもいいと思う」
「なら、問題はないよ。一応これは、そういうものだし」
 言いながら少年は、机の上に載せた、四角い白い布包みをほどく。中身は、硝子の箱だった。中には、何も入っていない。ように見えた。
「これの仕組みは、ぼくにも詳しくは分からないから、説明することは出来ないんですけど。ええと、世界を、ひとつの海だとします。ぼくや、あなたや、すべての人たちも、他のすべての物事も、そこに溶けている。何もかもがどろどろに混じり合った海です。だけど、実際には、ひとつひとつの物に、境界線が引かれています。引かれていることになっている。それが、世界の決まりだとします」
 パチンと金具を外す音を立てて、少年がそのケースを開く。中に手を差し入れ、何かを手に取る仕草を見せる。
そのまま、手を入れ物の外へ出す。これが薔薇、と、少年は何かを掴むかたちにした指をひらひらとさせた。何も、持っているように見えない。けれどもそこには薔薇があるのだと言う。なんだか、王様は裸だと言われている気分だった。
「で、この薔薇は、何をどう間違ったのか、その境界線を持たない、ものなんです。ぼくにもうまく説明出来ないんですけれど、こればかりは、もう、そういうものなんだと思ってもらうしかない。そしてこれは、自分がそうであるだけでなく、触れたものすべてに、一瞬だけ、その『海』を思い出させることが出来る」
 すべての世界に知覚が開ける、ということだろうか。だから、その中から、自分の知りたいことを見つけ出せと、つまりはそんなことを言いたいのだろうと思った。
「ただしあくまで一瞬だけ。それも、最初のひと触れだけです。二度目からは、効かない。たぶん、世界の規則ってのが守られるように、厳しく見張られてるからかな。だから、答えを探せるのは、一生に一度だけ。……こんな感じ」
 これはあくまで、ただの例え話ですけれど、と、念を押すように少年は繰り返した。
 頭がおかしいと思われても、仕方のないような話だった。世界だとか境界だとか、やたらとスケールが大きい。
「もうひとつだけ、聞いてもいいか」
「なあに?」
「どうして、おれの質問を、選んだんだ?」
 話によると、どうも、あのサイトを通じてかなりの人間がメールを送っているらしい。中身はそれぞれだろうが、皆、それなりに知りたいと思うようなことがあるのだ。……その中から、どうしてこの自分の問いが選ばれ、返事が来たのかが謎だった。抽選でもしたのだろうか。
 少年は右手をこちらの方へ差し向けた。
「あなたが、ほんとうに、それを知りたいんだなっていうのが、分かるから。だからだよ」
 先程まで何も見えなかったそこに、確かに、何かが光を受けて、光を反射した。透明な、硝子細工の、薔薇の花だ。
「さあ思い浮かべて。大好きだった人のことを。そうしてその人が、最後に消えてしまった時間を、見てきてください」
 額に、何かが触れた。

 どこか湿った、寒い夜独特の空気に、思わず肩をすくめた。
(……なんだ?)
 気がつくと、そこはあの、古ぼけた山奥の家ではなかった。目の前に座っていたはずの少年もいないし、何より足下にはアスファルトが広がっている。さっきまで、ソファに座っていたはずなのに、いつの間にか、スリッパを履いたまま、見覚えのある暗い夜道に立ちつくしていた。これが、薔薇の見せる「世界」というやつなのだろうか。
 身体の感覚が鈍い。まるで、夢の中にいるようだった。重たい足を動かして、立ちこめる霧の中を、水の中を進むように歩く。この場所を知っている。住んでいるあの部屋から、駅へと向かう道だ。
 辺りはしんと静まりかえっている。誰も通るものもない道を、街灯が白くぼんやりと照らしていた。足を進める。もう、このすぐ、近くだ。
 ふいに、何か、物音が聞こえた気がした。車のドアを、開けた音だ。そちらの方へ歩く。もっと早く進みたいのに、足が動かない。声も、出ない。ただ見るものと聞こえるものだけが、現実と同じように鮮やかだった。
 白いライトが、道路を照らしたままになっていた。どこにでもあるような、銀色のセダンが道のど真ん中に斜めに停まっている。……もしかしたらと思い、近づく。車のナンバーを見て、それを覚え込む。
 ライトの照らす先を見つめる、ふたつの人影があった。まだ若い、二人の男女だ。彼らの視線をたどり、そこに、倒れ込んだ恋人の姿を見つけた。あの日、着ていた服装だ。寒がりで、この季節は必ず外に出る時は面白いくらい厚着をしていた。あのマフラーは、もうずっと前に、何かのプレゼントとして渡したものだ。
 ああ、と、思わず心の中で息をついた。もう、遅かった。
 駆け寄って、傍に行きたかった。恋人を殺した奴よりも、そうすることのほうがもっと、ずっと大事なことだと思えてならなかった。
 寄り添い合って立ちつくしている二人の人間は、そんな間にも、ただ倒れた恋人を見下ろしているだけだった。
(「うわっ、やべ、人だ」)
(「ちょっと、どうするの! 生きてる? 死んじゃった?」)
(「分かんね、でも、駄目かも。あー、どうしよ、これ親父の車なのに」)
(「どうしようはこっちの台詞よ! 警察に行ったら、あんたとのこと、旦那にバレちゃうじゃない」)
(「こいつが、こんなところ、歩いてるから悪いんだよ。……行こうぜ」)
(「……うん、誰も、見てないし、ね。大丈夫よね、わからないわよね」)
 低い声で囁き合ったあと、二人はそのまま、何事もなかったかのように再び車に乗り込み、そして何事もなかったかのように、その場を走り去って行ってしまった。
 顔も覚えた。ナンバープレートも、覚えた。これで、あいつを殺した奴らを、問いつめられる。
 それなのに、心は晴れなかった。アスファルトの上に倒れて、そのまま動かない恋人の傍に、膝を付く。当たり前だが、相手はこちらを見たりはしない。これは過去のことなのだから。それを、ただ見せて貰っているのに過ぎないのだから。
 だからたとえ、あの男と女が捕まって、罪を認めたって、恋人が帰ってくるわけでは、ないのだから。
 アスファルトの上に、黒い染みが広がっていて、それが少しずつ大きくなる。警察から聞いた死因は、出血多量だった。もし、この時、あの二人が、助けを呼んでくれていたら。それで、病院に運ばれて、手当を受けることが出来れば。死ぬことはなかったかもしれないのに。助かって、今でも、あの狭い部屋で、夜遅くまで仕事をしながら、こちらの帰りを待っていてくれたかもしれないのに。
 手を伸ばそうとした。触れられるかどうかは分からないが、せめて、そうしたいと思ったからだ。すると、それまで動かなかったその指先が、わずかに動いた。少しずつ、まるでコマ送りの動画を見ているように、ぎこちない動きで道路を引っ掻きながら、上着のポケットから、何かを取り出す。すぐに、それが何か分かった。携帯電話だ。
(「……、っ、」)
 恋人が、顔をわずかに上げる。撥ねられた時に擦り剥いて、ぶつけたのだろう。いくつも傷が出来ていて、唇の端からも血が出ていた。痛みに、だろう。穏やかな、いつでも柔らかい表情ばかり浮かべていたその顔を歪めて、苦しそうに息を吐く。あんなに辛そうな顔は見たことがない。それでも目を逸らすことは出来なかった。
 恋人は、震える指で、何度も何度も失敗しながら、それでも、どこかに、電話をかけようとしていた。
「やめろ」
 聞こえるはずがないのは分かっていた。言っても、何も変わらないことは承知している。
 それでも言わずにはいられなかった。あの夜のことを、思い出したからだ。
 何度目かで、ようやく、目的の相手の番号を呼び出すことが出来たのだろう。地面に置いた電話の上に、耳を近づけるように頭を傾ける。それが、誰にかけた電話なのか、知っていた。
「やめろ、馬鹿、そうじゃないだろ!」
 呼び出し音が鳴り続ける。深夜の、他に音をたてるものがない静かな空気に、嫌というほど、はっきりとその音が聞こえた。恋人は目を閉じて、じっと、それを聞いている。
(「……なんだよ、こんな時間に」)
 相手が、出た。不機嫌そうな、苛立ちを隠そうともしない、低い声。
(「仕事が忙しいから帰れないって、そう言ってあるだろ。おれが忙しいのなんて、分かってるだろ。やめろよな、こういうこと」)
 電話の向こうで、一方的に、喋る相手。恋人はかすかに口元を綻ばせて、ただ耳を傾けていた。何かを言おうとしたのだろう、口を開きかける。けれども、結局、声がうまく出なかった。息が漏れるばかりで、それがひどくかすかだったので、電話の相手には、何も聞こえなかった。
(「切るからな」)
 短くそう言い残して、やがて、電話は、向こうから切られた。
「なんでだよ、なんでだよ、馬鹿」
 恋人は、ひとつ息を吐いて、やがて、まるで眠くてたまらないとでもいうように、ゆっくりと目蓋を閉じた。傷や血で汚れている以外は、まったくいつも通りの、見慣れた、寝顔だった。
「なんで、おれなんかに、電話したんだよ」
 もう動かなくなった手のひらに触れてみる。確かにその位置に指を伸ばしているはずなのに、なんの感触も伝わってこなかった。きっと、今ならまだ、この手は温かいはずなのに。今なら、まだ間に合うはずなのに。
「そんなことするぐらいなら、救急車呼べよ。そうしたら、きっとおまえ、今ごろ、助かってたんだぞ」
 涙が溢れて、零れた。どうしてこれは、現実ではないのだろう。どうして間に合わなかったのだろう。こんなこと、今更言っても、どうにもならないのに。悔しくて、自分のことが許せなかった。
「おれになんて、電話、かけてるんじゃ、ねぇよ……!」
 あの時、どうしてあんなに腹を立ててしまったのだろう。
 ほんとうは仕事だって、そんなに無理して残ってやらなくても良かった。あの時間にはもう、することは余り残ってはいなかったのだ。それでも、部屋に帰るのが気が重くて、わざと、そうやって残っていた。
 このところ、実家から何度も、田舎に戻ってくるように催促されていた。長男なのだから家を継いで当たり前だという考えの両親に、自分の性癖と、一緒に暮らしている男のことを説明したことはない。そんなことを言えば、きっと大変な騒ぎになると思って、避けていた。だから、言っていないからこそ、何度もそう催促されたのだ。いい加減、こちらに戻ってきて、いいお嫁さんを貰って。いつまでも遊んでいないで、しっかり現実を見なさいとそう繰り返されるたびに、自分が選んできた生活すべてを、根本から否定された気分になっていた。そして同時に、自分がしていることが間違いであるという気持ちもあった。人に認めてもらえない、誰にも祝福されないこの生活を、いったいいつまで続けるつもりかと、そんなことを考えるようになっていた。だから、恋人といても、気が沈んだ。相手は何も悪いことをしていない。どうして最近、機嫌の悪い時が多いのだろうと、きっと不思議に思っていただろう。それでも、優しい男だった。なにか悩みがあるなら、と、それまで以上に、優しく接してくれた。自分は、両親のことや、世間体のことを考えて、恋人の存在すら、恥ずかしく思う時すらあったというのに。勘のいい男だったから、きっと、こちらがそんな風に思っていたことも、少しならずと伝わっていただろう。それでも、あの男は、最後の最後まで、優しかった。
 あの夜だって、そうだ。どうして、そんな夜中に出かけたりしたのかと不思議に思っていた。しかし部屋に戻ってみると、小さく、メモが残されていたのだ。留守にしている間に帰ってきたのだったらごめん、と、几帳面な少し角張った字で、そう書かれていた。ちょっと出かけます。明日の朝のコーヒーがないので、駅前のコンビニまで買いに行ってきます。最後に、小さく、インスタントだけど、たまにはいいよね。と書き加えられていた。コーヒーなんて、自分では飲まないのに。そんなの、気にせずに、そのまま寝てしまえば良かったのに。
 そして、買い物に行く途中で、スピードを出し過ぎた上に信号を無視した車に、殺されてしまった。
 人を跳ね飛ばして、歪んだナンバープレート。自分の保身を考えて、そのまま逃げてしまった轢き逃げ犯。あれが、恋人を殺した。……けれども、それだけか?
 そのままにしておかずに、すぐに病院に運んでくれたのなら、きっと恋人は助かったはずだと、今でもそう思っている。例え、それが少し遅れていたとしても。……あの後、恋人自身が、最後の力で救急車を呼んでいれば、冷たいアスファルトの上で、一晩放っておかれることは、なかっただろう。それでもあいつはそうしなかった。寄りにも寄って、この自分に電話をしてきた。冷たい言葉しか返さない声に、じっと耳をあてて、目を閉じて、聞いていた。
 気付いてやればよかったんだ。それまで、あんな夜中に、電話をしてきたことなんて、一度も無かったのだから。自分から電話をかけてきながら、何も言わずに黙っているような、そんな意味のないことをするような奴じゃないって、誰よりも、自分が一番よく知っているはずだったのに。苛立ちに支配されるのではなく、もっと、不安に思って耳を澄ませば、痛みに苛まれているかすかな息が、聞き取れたかもしれない。でも、そうしなかった。
 認めたくなかった。ずっと、心の奥底でそんなふうに思いながらも、それを認めたくなかった。他の誰かを憎んで、その憎しみに爪を立てなければ、前を向けない。あいつを殺したのは誰だと、すべての責任を、他の誰かに背負わせ、なにもかもを消し去ってしまいたかった。こんな時にも、自分は、ひどく浅ましい。なにが、「恋人を殺したのは誰か」、だ。
 ほんとうに、あいつを殺したのは、他の誰でもない。このおれじゃないか。


「……そんな風に、言ったら、駄目だよ」
 耳に聞こえてくるの声の、質量がそれまでと違う。まばたきをすると、エレベーターを降りたあとのような感覚に見舞われ、目眩をやり過ごすために一度目を閉じた。また、開く。
 少年が、こちらを見ていた。
「きっと、あの人は、あなたにそんな風に思って欲しくないはずだ。優しい人だったんでしょう」
「うるさい」
 何を言われても、自分のしたことは変わらない。少年の言葉を聞きたくなくて、首を振った。
「黙れよ、適当なこと言うな!」
「適当なんかじゃない。いい、あなたがどんな答えを受け取って、それをどう解釈して生きていくのかなんて、それは完全にあなたの自由なんだけど、でも、あなたは、そんなところで満足しちゃいけなかったんだ。もっと、先まで見なくちゃいけなかった」
「……、先、だって?」
「さっき聞いたよね。どうして、自分を選んだのか、って。ほんとうは、理由は、もうひとつあるんだ」
 いつの間にか、あの透明な薔薇は、また再びケースの中に仕舞われていた。白い布でくるんだその箱の角を指でなぞりながら、少年は何故だか、どこか泣き出しそうな顔をして、続けた。
「ぼくが、あなたの恋人に、会ったことがあるからだよ」

 ……あなたの恋人は優しくて、とても心のきれいな人だったよ。ぼくにはとうてい理解出来ないくらいの深さで、人を、それもあなたを信じていました。でも、その日は、たまたま、何か、とても嫌なことがあったみたいで。……それで、他にもいろいろなことが重なって、少しだけ、弱っちゃったんじゃないかな。ぼくも、あの人は、ほんとうならばこんな薔薇なんて必要としない人だと思う。だけど、その日は、ちょっとだけ、何かに救いを求めてみたくなったみたいで。
 それで、ぼくのところに、メールを送ってきたんだ。それがどんな問いかけだったのかは、さすがに教えることは出来ないけれど。でも、あの人は、ほんとうに、あなたのことを大切に思っていたんだね。そんな、ことだった。
 けれど、あの人が、実際に薔薇に見せられたのは、一体なんだったと思う? 今の、あなたの、逆だったんだ。あなたは、恋人を無くすその瞬間を見てきたと思うけれど。……あの人は、恋人を無くした、あなたの姿を、見たんだ。あなたが、どんなに苦しんで、自分がしたことはなんて酷いことだったんだろうって悔やんで、すごくすごく悲しんで泣いているのを、見たんです。だから、こんなこと、ぼくが言うのは、ほんとうは間違っているのだろうけれど。
 だからきっと、あの人は、最後にあなたの声を聞けて、幸せだったと、思うんです。

 ひとりで居る部屋は、妙に静かだった。
 恋人は、それほどお喋りな男ではなかったはずなのに。人間は、声以外にもさまざまなもので、存在する音を鳴らすのだと、そう思い知る。ぐるりと、部屋を見回す。もう、どこにもいない。
 ひとりだった。いくら探しても、もう、どこにもいない。もう、ずっと、帰ってこないのだ。
 それならば、もう、ずっと、ひとりでいるしか、ないのだろう。
 あいつはずるい、と、そう思った。ひとりで、先にいってしまって、それでも幸せだなんて。残されたものは、一体、どうしたらいいのだろうか。分からない。分からないけれども、もう、あの薔薇は二度とこの世界を開いてはくれない。途方に暮れるような気持ちだった。
 ふいに、いくつかの数字と文字の羅列を思い出す。……あの二人の男女の乗っていた車の、ナンバープレートの数字だ。電話を手に取る。何かあったらここに連絡をください、と、渡された番号を押す。
 そして、途中でやめた。代わりに、何も見なくても覚えている番号に、電話を、かけた。
 数度目のコールの後で、がちゃりと派手な音を立てて、向こうが電話に出る。
「母さん、久しぶり。……うん、元気でやってるよ。辛いことも、あったけれど。でもやっぱり、おれ」
 胸は痛む。悔やんではならないと、あの少年はそう言ったけれども。けれども、それはきっと、違う。
 だって一緒にいてほしい相手は、もうどこにもいないのだから。その隙間を埋めるために、どれだけ多くのものを掻き集めなければならないだろうか。もういない者の残したものだからこそ、何もかもを、大切にしなければならない。後悔も、痛みも、そして自分を許せない気持ちも。すべて、抱えていかなくては、ならないものだ。
 だから、家には帰れない。
「……聞いてほしいことが、あってさ」

 今日こそは、そう、告げる。 


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