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= 泳げない子ども =

 少年の名は、彩名さいな
 父と母と、ふたつ年下の妹と一緒に、海のそばの小さな村に暮らしている。
 生まれた頃から、海を眺めて暮らしてきた。父は漁師。船に乗る父を、いつも見送り、出迎えるのが習慣。
 どちらかといえば活発な方。大人しく屋内で遊ぶよりも、外で体を動かして遊ぶのが好き。
 父親と母親と妹。家族をとても大切に思っている、優しい子。
 少年の名は彩名。水が怖くて、泳げない、子ども。

 いつものように、昼には海に出る。
 彩名は家を出て、いつもの遊び場に向けて駆けていた。
 地形の変わってしまった村は、道を塞ぐ瓦礫が転がり、目的地に辿り着くためにはその間を通り抜けなければならない。いつ崩れてくるか分からないから、あまり近寄ってはならない、と大人たちは注意してくるけれども、彩名は密かに、迷路のようだと思ってその道が気に入っていた。
 数年前に大きな地震があり、村の人間もたくさん死んだ。大きな大きな地震だったから、家を歪めて、村を歪めて、そして地面のかたちまで歪めてしまった。だから、その日以来、海がずっと、村に近くなった。
 以前は、遠いから、と海に行くことにいい顔をしなかった母も、今ではそれを言わなくなった。遠いから、と言って、彩名を止めたりはしなくなった。その代わりに、ひっそりと微笑んで、夕食の時間には必ず帰ってくるように、念を押すようになった。
 必ず、帰ってくるように。せめて、彩名だけは、自分の元を離れないように。
 ほんとうは、彩名が海に行くことを禁じてしまいたいのだろうな、と、母の心を想う。毎日、夕方になって帰宅する彩名を出迎えて、かたく抱きしめてくれる母を想う。
 細い腕に彩名を抱いて、母はいつでも、少し目に涙を浮かべた。
「だいじょうぶだよ、おかあさん。おれ、帰ってきたよ」
 だから、きっと、おとうさんも、待っていれば帰ってくるよ。
 何度も、そう口にしようと思った。そう言って、あの地震の日からずっと、いつも寂しそうな目をしている母を微笑ませたかった。そうね、と、優しく彩名の髪を撫でて欲しかった。
 けれどもその言葉は、今日までの間ずっと、口に出来ないままだった。
 おとうさんはきっと、帰ってくるよ。
 彩名の父は、地震があったその日、村の男たち数名と共に、漁に出ていた。それが父の仕事だったし、それがいつものことだった。あの日、地震さえなければ、それは今でも続いていたはずの、そんな当たり前のことをしていたに過ぎない。
 それでもその日、父たちを乗せた船は、村に帰ってはこなかった。
 地震が起これば、海も荒れる。高い波がきて、村の者たちの中にはその波に呑まれてしまったものもいた。
 父は今でも帰ってこない。きっと、帰ってくるよ、と、その言葉は、どうしても、口に出せない。

 彩名のお気に入りの遊び場は、少し奥まった浜にある。
 漁に出るものたちが集まる船着き場には、今日も人影が目立った。けれども、そこならば、めったに人の姿は見られない。彩名のお気に入りの場所だった。ここで遊んで、魚を取るのだ。
 村には歳の近い子どもは少なかった。彩名にはふたつ年下の妹がいたけれども、あの地震があってからは、家の外に出ることを嫌がって、それまでのように彩名と一緒に遊ぶことはなくなった。
 あの地震の日から、すべては変わってしまった。そう思う。
 もし、あの日、何も起きていなければ。
 地震なんて、起こらなければ。
 たとえ地震が起こってしまっても、それを、前もって知っていれば。
 今、彩名がこんな風に、ひとりで遊ぶようなことはなかったのかもしれない。
 父がいれば。それまでは彩名がどんなに頼み込んでも、船に乗せてくれなかった父も、今の彩名を見れば、きっと笑顔で、喜んで漁に伴ってくれただろう。月日は流れた。あの日から、父は帰ってこないまま、それでも確実に、時は流れた。
 そんなことを考えていると、目頭がじんわりと熱くなる。泣くものか、と、彩名は数度まばたきをして、空を見上げた。
 凍ったような薄青い空には、掃いたように白い雲が細長く漂っていた。
 これから、だんだんと寒くなる日々の訪れを告げるように、空は冷たそうに見えた。冬になれば雪が降る。そうなれば、海に遊びに来ることも少なくなるだろう。そう思うと、気が塞いだ。本を読んだり、人形で遊んだり、家に閉じこもって遊んでいる妹のように日々を過ごさなくてはならなくなるのかと思うと、考えただけでもため息が出そうだった。
 それはまだ先のことだ、と思い直して、彩名は顔を上げた。いつかはそんな日が訪れるかもしれないが、それでも、今は、まだ自由に遊び回ることが出来るのだ。
 船着き場を通り抜け、顔見知りの人々と声を掛け合う。すれ違う人は皆、気をつけて、と口にした。海は楽しいけれども、危険な場所でもある。父が帰ってこないような、そんな危険な場所でもある。そう、ぼんやりと遊んではいけない。気をつけなくてはいけない場所だ。
 ぼんやりとしてはいけない場所だ。たとえ、そこがいつも遊んでいる、お気に入りの場所でも。
(……なんだ、あいつ)
 いつも誰もいないその場所に、今日は見知らぬ人影があった。石を積んだ防波堤に座り、海を見ているらしい。時折空を見上げて、またその視線を海に戻す。彩名のいる場所からは後ろ姿しか見えないが、その動作は緩慢で、そこが危険な場所だという意識は感じられなかった。
 面白くない。そこは彩名だけの、秘密の遊び場だった。村の者は訪れないし、これまでに誰かが居たことはなかった。それなのに、今日は、彩名よりも先に来ていた誰かがいる。
「何やってるんだよ」
 面白くない。彩名は叫ぶように、少し猫背になって海に向かっているその背中に、そう言葉を投げつけた。座っているので背丈は正確には分からないが、子どもではない。彩名よりもおそらくずっと年上の、それでも母よりは若いだろう男は、背後からかけられた声に、ゆっくりと振り向いた。
「……きみか。大きくなったな」
 その反応の意味が分からず、彩名は戸惑う。知らない男だ。
 赤い髪と、瞳。夕焼けの色だと、そう思った。青い空は次第に暮れていき、彩名に母親の元に帰る刻を教えてくれる。その胸が締め付けられるような橙色の色彩を纏った男は、彩名の顔を見て満足そうに笑った。
「きみは、彩名だ。そうだろう」
「あんた、誰だ」
 村の者ではない。こんな髪の色の男、こんなに目立つ容姿をした者を、彩名は知らない。
 髪だけではない。男の格好もまた、彩名が目にしたことのないようなものだった。小綺麗で、柔らかそうな布地。海風を防ぐためのものだろうか、手にしている淡い卵色の肩掛けにも、細かい刺繍が施されている。少なくとも、この村にいる限りは、手にすることも目にすることも叶わないようなものだ。
 誰だ、というその問いかけには答えず、男は彩名に向けていた目を、また空へと向ける。何を見ているのか、何か面白いものでもあるのかと、その視線の先を辿ってみる。何もない。細長い、白い雲がぽつりと浮かぶ空があるだけだ。
「おれのこと、知ってるの」
「知っている。いや、知っていた、かな。きみは彩名。両親と妹と、この近くで暮らしている。……だろう?」
 茜色の目は、空から海へと落とされる。彩名の方を見ずにそう言い切った男の声は、どこかつまらなさそうな響きを帯びていた。言われたその言葉に、彩名は体のどこかを軽く叩かれたような気がした。両親。彩名が両親と妹と共に暮らしていると、この男は言った。
(……こいつ、地震が起こるその前に、この村にでも来たことがあるのかな……)
 確かに彩名は、男の言うとおり、両親と妹とこの近くに暮らしていた。けれども、それは数年前のことだ。今は父親の帰ってこない家で、母と妹と暮らしている。
 この男はきっと、地震の起こる前に、この村を訪れたことがあるのだろう。彩名は覚えていないけれども、その時に会ったのかもしれない。「大きくなったな」と、彼は言った。と言うことは、今よりも小さかった自分を知っているということだ。
 彩名はひとりで納得する。赤い髪の男を知らないか、と、帰ったら、母親にそう聞いてみようと思った。
「ねぇ、何見てんの」
 男は惚けたように、空を見上げ続けている。空と、海と。何がそんなに面白いと言うのだろう。不思議に思って、彩名は尋ねてみる。
 男はどこか緩慢な動作で、それに応えた。
「空」
「……おもしろい?」
「うん」
「何が?」
「面白いじゃないか。ほら、雲の流れていく様子とか。凄いな。いつだって、全く同じ空なんて、無いんだもんな。凄いよ」
 こいつは馬鹿なのかもしれない、と彩名はそう思った。空には雲が流れて、いつも同じ模様をしていないのなんて、当然のことじゃないか。だから、それを面白いという男の気持ちが、まったく理解できなかった。変な奴だ。
「ねぇ、あんた、この村の人間じゃないよね」
「ぼくは、どこの人間でもないよ」
「何しに来たの」
「何も。ただ、用事があってね、時計の街に行くんだ」
 その途中に、今日はここで宿を取るんだってさ、と、自分のことであるだろうのに、男は他人事のようにそう付け加えた。
 彩名は男が何気なく出したその言葉を、聞き逃さずに捕らえる。時計の街。そこに行く、と、男は言った。思わず、声をあげる。
「いいな、お城のある街だ!」
「そんなにいいものでもないと思うけれど、そうだな。きみにとっては珍しいかもしれないな」
「ねぇ、お城を見たことはある?」
 そう尋ねると、男は彩名を見た。夕焼け色の瞳が、なにかを面白がっているように、得意そうに笑う。
「……あるよ。ぼくはそこに住んでいたからな」
「ほんとう!? すごい!」
 時計の街は、この国の中央にある、大陸で一番大きな街だ。そこには王様がいて、お城があって、そして、世界の時間を動かす時計がある。大陸はおろか、この村からさえ出たことのない彩名にとってその場所は、時折その話を聞くことぐらいしか出来ない、遠い、夢の中にある楽園のように思える所だった。人がたくさんいて、物がたくさんあって、大きくて綺麗な建物がある街。豊かで、すべての人々が幸せに暮らす街。
 そして、そこには、人知を越える、不可思議の力を持つ者がいる。
 ずっと聞いてみたいことがあった。母親や、村の大人たちに聞いてみたところで首を捻られるだけの質問だろうと思ったので、これまで誰かに実際に尋ねてみたことはなかった。けれども、あの地震以来、その夢のような街に居るという、夢のような力を持った者について、ずっと、聞いてみたいことがあった。
 この素性の分からない男は、かつて城に住んでいたのだという。それならば、彩名の知りたいことにも、もしかしたら答えてくれるかもしれない。はっきりとした正しい答えでなくても、この男は少なくとも、村の者たちよりは正解に近い位置にいる。
 だから、思い切って聞いてみることにした。
「ねぇ、予言者のことを知っている?」
 彩名が口にしたその言葉に、男はかすかに、その夕焼け色の瞳を揺らしたように見えた。
 どうしたのだろう、とは思ったが、耳にするだけで表情を変えるほど、予言者というのはそれほど凄い人物なのだということなのかもしれない。そう思う。滑り落ちた肩掛けを直しながら、知っているよ、と男は頷いた。
「会ったことはある? どんな人なのか、知っている?」
「知っている。それが、どうかしたの」
 何でもないことのようにそう答える男。彩名にとっては想像しようにもない人物のことを、ぞんざいな物言いで口にするそのことが、この男は相手のことをほんとうに知っているのだ、ということを証明しているように感じられた。
「予言者はこの世界に起こることを、何でも知ってるんでしょ」
「うん、そうだね」
「それでお城にいて、街の人たちに未来を教えてあげるんだよね」
「そうかもしれないね」
「ねぇ、真面目に答えてよ、知ってるんでしょ、予言者のこと」
 彩名が頬を膨らませて不満を訴えると、真面目だよ、と男も不本意そうに答えてくる。
 男に近づこうと、彩名は防波堤によじ登る。海から吹く風が、男の肩掛けの裾を静かに揺らしていた。それを、風が海面に作り出すさざ波のようだと思いながら、彩名は彼の隣に並んで座った。
 次の言葉を紡ごうと開いた唇を、冷たい風が撫でる。誰にも聞くことのなかったその問いかけに、この男は答えをくれるのだろうか。
「じゃあどうして、地震が起こることを教えてくれなかったの」
「……地震?」
「そう、地震。それでこの村はめちゃくちゃになってしまったんだよ。たくさん人が死んでしまったし、おれのおとうさんだって……」
 やはり、この男は地震のことを知らないのだろう。彩名の後に続けて繰り返したその声に、驚きと、それでこんな風に景色が荒れているのか、と納得したような響きがあった。
 この男は知らなかった。けれども、その人ならば、きっと、知っていたことであるはずだ。
「予言者はこの世界に起こることを、なんでも知っているんでしょう。それならどうして、この村に地震が起きることを教えてくれなかったの」
 未来を知ることのできる男が城にいることを、どこで聞いたのかは覚えていない。けれども、この国の子どもが幼い頃から「時人」のことを聞いて育つように、気が付けば、そう呼ばれる者がいることを彩名は知っていた。知っていながらも、遠い場所の話だから、自分にはあまり関係のないことだと思っていた。あの地震が起こるまでは。 
「教えてくれてたら、みんな逃げられたし、おとうさんだって海へは出なかった。……ねえ、どうして? どうして教えてくれなかったの?」
 教えようとしたけれど、国王がそれを許さなかったのか。
 あるいは、知っていたけれど、どうすることもせずに、自分は安全である城にとどまっていたのか。
 それを、この男は知っているのだろうか。
 彩名は男の赤い瞳を見上げて、身じろぎせずに返る言葉を待った。
「――予言者は」
 海風が吹く。言葉を切り裂くように吹くそれが、一旦、会話を遮った。
「予言者はもう、この世界にはいない」
 ひときわ鋭い風を目蓋を閉じてやり過ごしてから、男は静かに答える。
「きっと、その地震の頃にはもう、いなくなっていた……ごめん」
 どうしてこの男が謝るのだろう。そう思ったけれど、きっと、思わず謝りたくなってしまうほど、彩名は情けない顔をしているのだろう。そう考え、うつむいて服の袖で顔をこする。それはやめなさいといつも母親に言われているけれども、父のことや地震のことを思い出して涙が出そうになってしまった時、彩名はいつもそうやって泣きそうな自分を振り払っていた。
 その仕草を見て、何か思うところがあったのだろうか。顔をあげると、男はどこか優しい目で、彩名を見ていた。
 その目を知っている。大人が、泣き出してしまった子どもを見る目だ。優しいけれども、どこか、困ったようなその目のまま、男は笑顔を作った。
「予言者の話をしようか」
「……話?」
「そう、今はいなくなってしまった予言者の話だ。聞きたいかな」
 声にしては答えず、ただ、一度首を頷かせることで、返事に代える。
 それを確認して、男も同じように、一度小さく頷いたようだった。彩名に向けていた視線をずらして、また、最初と同じように海を見ながら、男は呟くように、話し始める。
 予言者の話。 
「彼は国のはずれの、小さな村で生まれた。この村と同じくらいの大きさだったかな。生まれた頃から不思議な力を持っていて、明日の天気や、数日後に訪れる城からの遣いのこと、村の大人たちも知ることのできないようなことばかり口にしていた。彼を産んだ母親はそれを気味悪く思い、村の長が望むままに、その子を自分の元から手放した。……村の長は、いずれ彼を国王に売り飛ばそうと思っていた」
「どうして?」
「国王はそういった人間を集めるのが好きだった。予言者のことを知っているのなら、もうひとり、死なない男の話も聞いたことはないかな」
 語る男の声は淀みなく、言葉を選ぶ間もあけられずに、流れるように続く。そこに自分が割り込むことが躊躇われて、彩名はただ黙って頷いた。死なない男の話も、そういった者がいる、という程度のことは知っている。
「その男と対になる存在として、その子を『予言者』だと言い、自分たちはそれを生み出した者だとして王の庇護に預かろうとした……『時人』の郷のようにね。あの郷も、山奥の、作物に乏しい集落だ。それでも世界を続ける『時人』が生まれる大切な場所だからと、ただそれだけで国から絶え間ない援助を受けている。予言者の生まれた村も、わずかな綿と穀物だけが穫れる、貧しい村だった。だから、そう考えた。何を考えているのか分からない、笑顔ひとつ見せない子どもを売り渡すことには、何の躊躇いもなかった。けれども、そうやって王の遣いを待っていたある日、予言者は長に向けて言った」
 海を見下ろすのに少し下向けていた首を起こして、男はまっすぐに前を見た。けれどもその赤い目はどこを見ている風でもない。覗き込めば、きっとここではない別のどこかが映っているのだろう。そんな目をしたまま、男は続ける。
「この村が焼ける、と」
 不穏な言葉に、彩名は思わず男の顔をじっと見た。それを気にする様子もなく、男は一度彩名に軽く目をやっただけで、話を途切らせはしなかった。
「村が焼き尽くされてしまう、ひとが多く死んでしまう。村は滅んでしまうと、彼はそう言った。それまで感情らしいものを見せることがなかった子どもは、自分の知っていることをどうすればうまく伝えられるのかが分からずに、それでも懸命にそう訴えた。 
 大人たちは取り合わなかった。城に連れて行かれるのが嫌でそんなことを言っているのだろうと判断し、罰を与えて、逃げ出さないように閉じこめた。おかしな話だ。未来を見通す力があるといってその子どもを売ろうとしていたのに、誰も、彼の言葉に耳を傾ける者はいなかった。……おかしな話だな」
 そこで男は、ほんとうにおかしい、と、声をたてて笑った。
「予言の通り、村はその数日後、大火によって燃え尽きた。小さな村がすべて無くなってしまうまで、それほどの長い時間は必要なかった。風の強い日だったんだ」
 男はまた、笑う。彩名には、どうしてそれがおかしいのか分からないし、どうしてそんな風に笑うのかが分からなかった。
「その子どもは知っていた。村がすべて焼けてしまうのを、その火で自分の母親が焼け死んでしまうことも、自分が火からは逃げ出せるものの、裸足で逃げる足に火傷を負ってしまうことも、生まれたその時から知っていた。
 ……そして自分が何を言ったところで、誰も逃げてはくれないし、誰も信じてくれないことも、知っていた。逃げようと言ったところで、自分には罰が与えられるだけだということも知っていた。……それでも予言者は泣きながら、大人たちにそう言ったんだ。馬鹿だな」
 そんなことを言うな、と怒りたかった。馬鹿だとこの男は言うが、彩名にとってその言葉は相応しいものには思えなかった。けれども自分は何も知らない。何か、この男がそう口にするのにもそれなりの意味があるのだろう。馬鹿だと言った彼の声が、少しだけ寂しそうなものにも聞こえた。
「予言者が知っていた未来とは、そういうものだった。もう、いない奴の話だけれどね」
 話はそれで終わったようだった。男は、また、ぼんやりと視線を海へと彷徨わせる。
 男が聞かせてくれた話がほんとうなのだとしたら、酷すぎる話のように思えた。助けたかったし、逃げてほしかった。それなのに、誰も信じてはくれなかった。そう受け止められることを知っていながらも、逃げてほしいと思い続けた。
 予言者はもうこの世界にはいない、と言われたそのことが、とても悲しかった。そんな人ならば、きっと、この村を助けてくれただろう。彼がいれば、父は今でも彩名の傍にいてくれただろう。
 予言者はきっと、そうしたいと、思ってくれただろう。
(「教えてくれてたら、みんな逃げられたし、おとうさんだって海へは出なかった」)
 自分の言葉が、とても予言者を悲しませるものであるように感じた。
 隣にいる男の、ごめん、と謝った顔を思い出す。もし、予言者に直接その言葉を投げつければ、きっとあんな風に、軽く突いただけでも泣き出しそうな、そんな顔をして謝ってきただろうと、そんな風に思った。
「予言者が実際に、人を助けられたことがあるのかどうかは分からない。自分の予言によって難を逃れる人がいることも、彼の知っている未来でしかなかったから。それは予言者の意志ではなく、世界の正しい流れでしかなかったから」
「でも」
 男の言っていることは難しくて、彩名には彼が何を言いたいのか分からなかった。けれども、予言者が決して、彩名の村を見捨てていたわけではないことは確かだった。予言者がもういない、と言われたそのことが悲しいような、悔しいような、やりきれない気分だった。
「でもそれじゃあ、予言者がかわいそうだ」
「……そうでもないよ。彼にはともだちが出来たから」
 男はそう言って、うつむいた彩名の頭をそっと撫でてくれた。
「だから、ひとりぼっちじゃなかったんだ。可哀想なんかじゃないよ」
 この男はなんなんだろう、と、優しく撫でてくれる手に、今更ながらそんなことを思う。彩名のことを知っているらしいけれども、彩名はこの男の名前すら知らない。城に住んでいたことがあって、予言者のことにも詳しい。もしかしたら、凄い人なのではないかと、そう考える。彩名にとって、凄い人の知り合いは凄い人だった。その凄い、というのがどういう意味なのかを説明することは出来ないけれど、身分とか、地位とか、本来ならばこんな所で座り込んでぼんやりとしているような人物ではないような気がした。
 そんな立派な人物に、こうして頭を撫でられているということがなんだか気恥ずかしくなって、彩名は顔を上げた。見下ろしてくる男と視線がぶつかり、慌てて逸らす。知らない人間相手に、いろいろと情けない顔を見せてしまった。急に恥ずかしくなって、彩名は立ち上がった。そうだ、自分はここに、遊びに来たのだった。
 上衣と靴を脱ぎ捨てて、そのまま石垣の上から海に飛び込む。この辺りは浅底で、彩名の背の高さでも十分に足が届く。
 水は空気よりもずっと冷たい。体が震えたけれども、一度水中に潜ってしまうと、すぐにその冷たさにも慣れた。そのまま少しだけ泳いで、顔を出す。石垣の方を見上げる。
 驚いた顔をして、男が彩名を見ていた。 
「彩名」
 名前を呼ばれる。その声もまた、男の顔と同じように、どこか驚きを含んでいた。
「きみは泳げるようになったんだな」
 その言葉の意味が、分からなかった。
 どうしてこの男が、彩名にそう言ってくるのだろうか。
 海の子が、漁師の息子が、水が怖くて泳げないということを、父は密かに恥じていた。だから、そのことは誰にも言わずに、内緒にしておくように言われていた。父も、決して他人にそのことを教えたことはなかったはずだ。
 彩名は泳げなかった。水に触るのも大嫌いだった。それは、誰にも言えない秘密だったはずだ。
 それなのに、どうして、この男は、そのことを知っているのだろう。

 父が戻らなくなってから、彩名は誰にも言わずに、ひとりでこの場所に来るようになった。
 水は怖い。触れていると、自分の体の境界線が溶け出してしまうような、得体の知れない何かが入り込んでくるような、そんな気持ち悪さに体が震えた。怖くて、嫌で、何度もこんなこと止めようと思った。
 それでも止めなかった。
 大きくなったら、父と同じ船に乗りたかった。彩名がそう口にする度に、まずは泳げるようにならないとな、と言って父は笑った。
 だから、止めなかった。自分に出来ることは何もなくて、出来ないことばかりがたくさんあった。悲しそうな顔をする母を慰めることも出来ず、父を捜しに行くことも出来ない、そのことがとても嫌で、悲しかった。
 だから、父がくれた、大丈夫、練習すれば必ず、おまえだって水が怖くなくなる、という言葉だけは、嘘にしたくはなかった。
 怖がることはないのだと何度も自分に言い聞かせ、少しずつ、少しずつ、彩名は自分を水に馴染ませた。
 父から教えられたことを思い出しながら水の中で暴れるように手足を動かし、どうにか、それらしいことが出来るようになった。
 水はそれほど怖いものではなくなった。息を止めて浅い海底に潜ると、そこには地上とは別の大地があった。
 銀色の鱗をもつ小さな魚が目の前をかすめた。身を沈めたまま、海中から水面を見上げると、天上から注ぐ陽の光が、とても美しかった。息が苦しいのも忘れて、彩名はただ、それに見入った。
 その日、父が帰らなくなってから、はじめて、彩名は泣いた。 

 おとうさん。
 おとうさん、おれは、泳げるようになったんだよ。

 だから、帰ってきてよ。
 偉いな、って、おれのこと、褒めてよ。

「偉いな。水が怖かったんだろう。どんなに頑張っても、潜ることが出来なかったんだろう。
 それでも、もう、泳げるようになったんだ……偉いな」
 男は微笑む。
 その言葉が、彩名にとってどんな意味を持つのかを、分かって口にしているのだろうか。
 どれほど欲しかった言葉なのかを、この男は、知っているのだろうか。
 偉い偉い、と何度も繰り返す男の姿が、ぼやけて滲んだ。泣くところを見られるのは恥ずかしかったので、彩名はまた、海に潜る。涙と海の水は、よく似ている。この中でならいくら泣いても誤魔化すことが出来るな、と、確かあの時もそう思った。はじめて泳げるようになった、あの日だ。
 息が苦しくなったので顔を出すと、男はまだ、彩名を見ていた。
「ねぇ」
 腕を組んで、何がそんなに嬉しいのか、にこにこと笑みを浮かべている。その様子からすると、ずっと彩名の泳いでいるのを見ていたらしい。そんな男を、彩名は見上げた。
「ねぇ、あんた、一体、誰なの?」
 最初に尋ね、答えられないままになっていたその問いを、もう一度繰り返す。
 男はしばらく、何も言わずに彩名を黙って見ていた。
 彼が、何かを言おうとしたのだろう、口を軽く開いた、その時。

「――あ、こんなところに居たのですね!」

 突然、別の方向から割り込んでくる声があった。彩名の耳にしたことのない、若い男の声だ。もしかしたら、彩名と同じくらいの年の子どもなのかもしれない。幼さの残るその声は、どうやら、彩名にではなく、あの赤い髪の男に向けられているようだった。
「どこに行ってしまったのかと思いました。あの人も心配していましたよ!」
「なんだ、きみか。心配って、子どもじゃあるまいし。きみだって1人で居るじゃないか」
「あの人は手紙を出しに行きました。わたしは、あなたを探し出して、一緒に宿に戻っていてほしいと頼まれたのです。ずいぶん探しましたから、もしかしたら、もう、わたしたちのことを待っているかもしれません。風も出て来ましたし、暗くならないうちに帰りましょう」
「きみ、だんだんあいつに似てきたな」
 子どもを叱るような調子の声に、男はため息をついて答えた。
 やれやれ、と、緩慢な動作でゆっくりと立ち上がり、彼は彩名に手を振る。 
「それじゃあ、彩名。怖いのが迎えに来てしまったから、ぼくはもう行くよ。……元気で」
 男がそう言うと、怖いのとはなんですか、と、迎えに来たらしい相手の声が重なった。そして、男が誰と会話をしているのかが気になったのだろう、もうひとりが石垣の上から、彩名の方を覗き込んできた。
(……!)
 その姿かたちに、一瞬、目を疑う。
 銀色の髪。覗き込む瞳も、同じ銀。その色を持つ人間は、ただひとりだと、幼い頃から聞いてきた。
 その銀色の目で、ひとりの少年が、彩名を見ていた。
 銀色を持つ人間。何度も聞いてきた、「時人」の、物語。
「ほら、帰るんだろう」
「あ……はい」
 石垣から降りた男が、彩名を不思議そうに見ている少年にそう呼びかける。銀色の子どもは、さようなら、と丁寧に挨拶をして、行ってしまった。ふたりの人間の話す声が、だんだんと遠くなる。
 あれは、きっと、「時人」だ。思っていたよりも小さかったけれども、間違いない、銀の髪と目をしていた。
 
 あの男は、一体、何だったのだろうか。
 ずっと聞きたかったことを教えてくれた人。
 予言者について話をしてくれた人。
 誰だ、という質問には、結局答えてもらえなかったけれども。
 凄い人の知り合いなのだから、やっぱり、凄い人、だったのだろう。

 ずっと欲しかった言葉をくれた人。
(「……偉いな」)
 その言葉を思い出して、そっと、胸に手を当てる。
 誰であろうと構わない。貰った言葉は、きっとずっと、忘れない。

 帰ったら、母親と妹に話してあげよう。彩名はそう思った。


「子どもの成長というのは凄いな。あの神父が、どうして孤児院なんてものをやっているのか分かったような気がするよ」
 少しだけ遅れて歩く銀色の子どもが、不思議そうにその言葉を聞いている。
「……時は流れる。子どもは成長する。目に見えてはっきりと、時間は流れている。きみも、背が伸びたな」
「はい、昨年よりも、ずいぶん伸びました。きっとこれからも、もっと伸びます」
「ぼくより高くなったら、許さないぞ。ああでも、分からないな、あれだけ水を嫌がっていた子どもが、泳げるようになるんだからな……予言者は、もうこの世界に存在していない。同じように、泳げない子どもは、もう、どこにもいない」
 未来は分からないな、と、独り言めいて呟くと共に、赤い髪の男は立ち止まり、空を見上げた。
 茜色の瞳が映すものは、ただ、黄昏に染まりゆく空だけだった。
 


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