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鬼さんこちら
5

「ごめん、手、洗ってくるから。ちょっと待ってて」
 終わったあとは、いつも、とても気まずい。申し訳なさそうにそう言う順の顔を見ないまま、黙って頷いた。
「暑いだろ。外で待ってればいいよ」
「……ここで、いいよ」
 擁のその言葉に、そうか、と順は廊下に出る。うつむいて、床を見下ろす。零れて汚してしまわなかったと思ったのだが、それらしきものはなかった。順が、すべて手のひらで受け止めたからだろう。
 手を洗ってくる、という言葉を思い出して、嫌悪感が湧いた。また、あんなことをさせてしまった。
 擁は自分に出来ないことを、ずっと、あんな風に順に手伝って貰っている。それこそ、もう、二年も前からだ。
 あの事件以来、擁は性的なものに、どうしても強い恐怖を覚えるようになってしまった。その原因になる、具体的な出来事についての記憶はない。ただ、行方不明になっていたのを発見され、運ばれた病院での検査を受けたことで、その大体の検討はついている。擁は全身のいたるところに、どうやってついたのか想像も出来ないような怪我をたくさんしていた。それだけではない。笹村の家、特に祖父が、擁が無事に戻ってきた後でも事件のことを絶対に表沙汰にしないように、と周囲に言い含めたのは、擁に、性的暴行を受けた痕があったからだ。
 あまり恋愛というものに縁がなくて、まだ友達とふざけている方が楽しいと感じていたそれまでの擁にも、もちろん、そういったことに関心が無かったわけではない。年相応に興味はあったし、その頃から大人びていて、既にいろいろなことを知っていた辰巳や巧介たちとそんな話をよくした。けれどもあの夏以来、そんな風に軽く友人との会話に出すことも、出来なくなった。考えただけで、気持ちが悪くなって、叫びだしたいような強い恐怖感に襲われるようになった。……今は、最初の頃よりは、大分ましになったけれど。それでも、嫌悪感は消えない。
 だから、自慰行為も、出来なくなった。以前からも、そう頻繁にしていたことではないし、なんとなく気分がもやもやとした時くらいにしか必要でなかったから、それぐらい、なにも問題はないだろうとそう思っていた。
 最初にそれに気付いたのは、順だった。熱もないのに顔がのぼせたような感じがして、身体の中がざわざわと落ち着かない掻痒感に、眠れない夜が続いた。どうにかうとうととしても、何か、嫌な夢を見てすぐに跳ね起き、苛々だけが募ったことがある。事件から、半年ぐらい後のことだっただろうか。
 心配した順にそれを打ち明けたところ、彼はしばらく真剣な顔をして何事か考えた後、それって、したくなった時みたいだな、とそんなことを言い出したのだ。いつも穏やかで、擁が辰巳たちとそういった話をしている時は一歩引いていた順には、どこか潔癖な印象があった。だから、そんなことを言い出された時はとても驚いた。
 そうして、結局、こんなことを人に教えなくてはならないなんて、と情けない思いで半ば泣きそうになりながら、あの事件以来、自分では出来なくなってしまったことを教えた。出来ないならそれで構わないのに、それなのに処理しなければならないような衝動だけが消え残っているそんな自分の身体すら、気持ち悪くて持っているのも嫌なくらいだった。
(「……なら、おれが、しようか?」)
 順がそう言ってきたのは、だからおそらく、優しさからだったのだろう。自己嫌悪に涙を滲ませる友人の姿を見ていられなくて、つい、そんなことを口走ってしまったのだろうと思う。
(「自分にするみたいに、擁のを、してあげればいいんだろ。そんなの、簡単だよ」)
 その頃はまだ、事件の影響が強く残っていたのか、今よりもずっと弱気で、ものを考えることが上手に出来なくなっていた。だから、その申し入れを、素直に受け入れてしまった。
 それが、今まで、ずっと続いている。
 順は優しいから、嫌な顔をすることはない。きっと、病人の介護をするような気持ちで手を貸してくれているのだろう。けれど、決して、楽しいことではないはずだ。出来ることなら、したくないと思っているに違いない。擁は、男なのだから。
 そう思う気持ちはあった。だけど、順に助けてもらえなくなったら、どうすればいいのか分からなかった。何度か、もうやめようと申し出たことはある。順にはいつものように、気を遣わなくていいのに、と笑われるだけだった。
「……順、遅いな」
 こんなに奥まで来たことがないから、彼がどこまで手を洗いに行ったのかは分からない。遠くまで行かせてしまったのだろうかと思うと、また、申し訳なくなる。空気の悪い、暑い部屋を出た。空調のよく効いた廊下は涼しい。しばらくぼんやりと立ち尽くしていると、滲んでいた汗が引いた。辺りを見回す。誰もいないし、足音のようなものも聞こえない。窓の外を見ると、どこか、買い出しにでも行ってきたのだろうか。お菓子やジュースのたくさん詰まったビニール袋をぶら下げて歩く、楽しげな集団が駐車場を歩いていた。眩しい。
 大学生にもなって、いったい、何をやっているのだろうとふとそう思った。この恥さらしが、と吐き捨てる祖父の声が、耳に響いた。確かに、自分の存在は、それ以外のなにものでもない。家族にとっても、そしてもしかしたら、傍にいてくれている、友人たちにとっても。
「あ、擁」
 廊下の先に、ふらりと順の姿が現れる。手に、携帯電話を持っていた。
「ちょっと、電話かかってきちゃってさ。なかなか戻れなかった。ごめん」
 ううん、と首を振りながら、その電話の相手のことを考えた。そういえば順は、なにか用事があって、それで大学に来たのではなかったか。それなのに自分のことばかりで、そのことをすっかり忘れていた。
「……彼女?」
 恐る恐るそう尋ねると、順は少しだけ困ったような顔をして、そして何も言わずに頷いた。
 順には、大学に入ってから出来た彼女がいる。名前は忘れてしまったけれど、確か、クミちゃんとか、クミコちゃんとか、そんな感じだったと思う。何度か顔を合わせたことがある。いつも、ひらひらしたスカートや淡い色の洋服を着ている、女の子らしくて可愛い子だ。順とは、同じ教育学部で、サークルも同じテニス。あまり、順が自分から彼女の話をすることはない。もしかしたら、擁に気を使って、敢えて話さないでいるのかもしれない。いまの擁には、彼女だとか恋愛だとか、そんなことを考えることが出来ないから。
「待ち合わせかなんか?」
「違うよ。ちょっと、サークルのことで。ほら、おれ、マネだからさ。合宿の手続きとか、色々することあって。その話だよ」
 だからそんなこと擁が気にしなくてもいい、とでも言いたげに、順は笑う。それがほんとうなのかどうかは分からないが、順が忙しいのは事実だろう。擁も高校時代は部活でテニスをしていたから、分かる。マネージャーの仕事というのは大変だ。
「で、ちょっとだけサークルに顔出しに行くんだけどさ。もしよかったら、擁も一緒にどうかなと思って」
「……おれ?」
「そう。もちろん、気分が乗らないならいいよ。でも、今は休みだから、人だってそんなにたくさんは来てないしさ。見学って感じで。どうかな」
 最初から、それを言うつもりだったのだろうか。
 順は大学に入ってすぐに、以前から決めていたのだというテニスサークルに入った。擁と同じく、順も高校からテニス部だったし、その頃の先輩が何人かいて、誘われたのだという。けれど、擁も順も、ふたりとも今はテニスをしない。擁はとてもそんなことをする気になれないし、そして順は、肘を痛めてしまったからだ。だから、彼は今のサークルでは、マネージャーとして活躍している。もともと人の面倒を見るのが好きだし、誰にでも平等に優しい順には、うってつけの役割だと思う。
 順は擁の返事を、利口な犬が主人の命令を待っているときみたいに、じっと待っている。別に、行ってもいいのだ。人も少ないと順も言っているし、テニスに関係するものを見れば、懐かしいと感じないわけでもない。
 ……でも、行ったらきっと。
「やめとく」
「そっか」
「だって、いるんだろ。彼女」
 順は若干、肩を落とす。きっと断られることも考えていただろうけれど、それでも、ちょっとは期待していたのかもしれない。だから、行きたくないと感じる理由も、言うことにした。
「おれ、邪魔になりたくないし。……それに、あんなことしてもらったあとで、順の彼女に合わせる顔、ないよ」
 顔をそらして、順を見ないようにしながら、呟くようにそう伝える。それを聞いて、順が小さく息を漏らすのが分かった。言われるまで、そのことに気づかなかったのだろうか。
 彼女がそのことを知ったら、一体、どう思うだろうか。
 順から、彼女が出来たんだけど、とどこか申し訳なさそうに打ち明けられたとき、擁は一度、あの「手伝い」を、もう止めて貰って構わない、と言ったことがある。すると順は珍しく不機嫌な顔を見せた。そんなの、関係ないだろ、と、そんな風に返されて終わりだった。順は優しいけれど、誰にでも優しい。それにその時、じゃあ自分で出来ないのにどうするんだよ、と、あまり聞いたことのない、怒った声でそう聞かれて、咄嗟に、病院に行く、とそう返したのも、彼には面白くなかったようだった。順にだけやっと話すことが出来た、そんな恥ずかしいことだから、内心では他の誰にも説明出来るとは思えなかった。それでも、そう言えば、分かってくれるかもしれないと思った。本来ならばきっと、専門家に診てもらって、治療という手助けが必要な問題なのだという自覚はあった。それでも他人に知られるのが嫌だから、ずっと順に、どうしようもない熱を処理して貰い続けてきた。だけど、恋人が出来たというのなら。
 順がよくても、それは彼女にとって、許せないことではないかと、そう思った。
「……ごめん。おれ、無神経だった」
「順が謝ることじゃないだろ。彼女、待ってるんだから、はやく行ってやれよ」
 少しだけ躊躇ってから、順の背中をそっと押す。あの夏から、ひとに触れることも、触れられることにも抵抗を感じるようになった。順だけが例外で、あんなことまでして貰えるとはいえ、それでもやはり、少しは身構えてしまう。
 まだ何か言いたそうではあったものの、擁に促されて、順も頷く。外に出るため、廊下を並んで歩いた。
「すぐ終わるから、どこか、涼しいところで待っててよ」
「ううん。おれ、先に帰る」
 だから、この後は彼女と過ごせばいい、とそう言いたかった。順になにか言い返される気配を感じたので、彼よりも少し先を歩いて、足を速めた。
 自分が何も出来ない、駄目な人間であることは分かっている。昔は、そうではなかった。だけど今は、色々なことが怖くて、出来ないことばかりになってしまった。それを、情けないと思う。この、恥さらし。
 ふと立ち止まる。無意識のうちに、順を呼んでいた。
「なあ、順」
 これで、なにかが変わるだろうか。変えなくてはならないことはたぶん、擁が自分で考えていることよりも、ずっと多いのだろう。簡単に出来ることではないだろうとも分かっている。今だって、心の中では、それを嫌だと思っている。
 けれども、だからこそ、口にすることで、なにか出来るようになるだろうかと、そんな気がした。
「……擁?」
 足を止めた擁に追いつき、並んで順も立ち止まる。擁がなにを言おうとしているのか、考えようとしているように、どこか不安そうな目をしていた。ひとの、目玉。
 それをじっと真っ直ぐに見上げて、こう伝える。
「おれ、行くよ。あの話」
 突然言い出した擁に、順はなんの話なのか、しばらく分からなかったようだった。きょとんとしたその顔が妙に可愛くて、少し笑ってしまう。擁が笑うことが、あまりないからだろう。順は戸惑った顔のまま、眉を寄せる。
「キャンプ。みんなで、行こうって言ってた。……行くよ」
「擁、」
「辰巳と巧介にも、言っといて」
 早口でそう言い捨て、順がなにか言おうとしていた言葉をさえぎる。それじゃ、と、そこで背を向けて、逃げ出すように、走って文学部棟を出た。順が追いかけてくるかと思ったが、そんな様子はなさそうだった。短い距離だったが、駆けたせいで上がった息を抑えて、日陰に入る。言ってしまった。
 心臓の鼓動が早い。急に走り出したせいかもしれないし、もっと、違うことのせいかもしれない。行くと言ってしまった。キャンプ。……どういうことをするんだったっけ、と改めて思い出そうとする。そうだ、空気がよくて、星がきれいで、自然に囲まれるのだ。悪い話ではない。
 そこでなら、普段言えないようなことも、言えるだろうか。例えば、以前は断られてしまったようなことでも、もう一度。もう、こんなことは止めようと言えば、彼も、聞いてくれるかもしれない。
 そんなことを考えて、顔を上げる。日陰を作ってくれているのは、一本の大きな木だ。緑色の茂る葉の隙間から差し込む日差しが、影に細かい模様を作っている。

 何故だか、無意識のうちに、その木に実が生っていないか、探していた。

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