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鬼さんこちら
12

 目蓋を閉じれば、そこに一面の枯れ野原が広がっている。

 足を一歩進めるたびに、白茶けた草が乾いた音を立てて鳴った。長く伸びた枯れ草を踏みつけて、沈む夕陽の方角を目指して歩いている。

 黒く焼け焦げた木が、燃え残った建物の柱のように、何本も等間隔に並んでいる。
 その間を、どこに行くのか分からず、ただ溶けそうに赤い陽を目指して、歩いている。
 これは森の残骸だ。
 かつてあった緑すべてが燃え尽きて、長い時が経ったあとの姿だ。
 あとに残っているのは焼け残った木の幹と、枯れ果てた乾いた草だけ。この森を知っている気がした。いつか、もう思い出せない記憶の中で、この木々の間を駆けたことがある。

 木々の間を、足を引きずりながら歩く。身体が重く、怠く、唾を飲み込むと血の味がした。
 ゆるやかな丘をのぼり、枯れ野の果てに辿り着く。
 丘から先の景色は立ちこめる霧のせいで濁っていて、何も見えない。
 ひときわ目立つ、大きな木の根元で足を止める。他の木々と同じように、この木も葉はほとんど燃え落ちている。けれども、いくつかの大きな実だけが、いまだに重たげに煤けた枝から下がっていた。

 足下には影法師がいくつも転がっている。持ち主に捨てられて、もういらないと切り離されてしまった影たちが、また誰かの足下に帰りたいと、焼けた森の中をさまよう。
 ここにはもう、誰もいないのに。
 どこにも行けなくなってしまったのに、それにも気付かず、まだ誰かを求めているその姿が、哀れでおかしかった。
 見下ろすと、すでに自分にも影がない。どこかに捨ててきたのか、それとも生まれたときからもうすでに、そんなもの最初から持っていなかったのか。もしかしたら、切り捨てた影が、あのたくさんの影法師たちの中にいるかもしれない。いい気味だと、そう思うと笑いが漏れて、止まらなかった。
 影なんて、もういらない。

 黒く焼け焦げた木を見上げる。太い幹に腕を伸ばして身体いっぱいに抱き締めると、上から煤けた葉の残骸が落ちてくる。黒く、頬が汚れた。影なんて、もういらないのに。
 こんなものはいらない。欲しいのは、あの実だ。はやく、おちてくればいいのに。
 その実がまるでひとの血のように赤くて、蜜のように甘くて、どろりと喉を伝うのがたまらなく気持ちがいいことを、知っていた。
 だからはやくおちてくればいいのに。願いながらも、それがそう遠い日のことではないのは分かっていた。
 遠くない。だって、枝は重そうにしなだれて、いつでも手を離す準備は出来ている。
 もう、すぐだ。

 もうすぐ、また、あの実が食べられる。
 


 赤い実の夢を見ていた。
「……擁! おい、擁!」
 赤い実と、乾いた草原と、焼け落ちた森と、捨てられた影法師の夢だ。
 あの実は、なんの実だろう。見たことのある果物の、どれとも違うような気がした。とは言っても、果物なんて、あまりよく知っているわけではない。バナナとか、梨とか、キウィとか、……その中でも、近いものと言えそうなのは、
「……りんご……?」
 赤い色ならば、それが近いだろうか。けれども、艶々で、赤ん坊の頬にも例えられるような、そんな健康的な果物ではない。もっと禍々しくて、掴んだらどろりと崩れそうなほど、ぐずぐずに熟しているのだ。
「はぁ? なに寝惚けてんだよ。いいからしっかりしろって!」
「ざくろ?」
 それが近いかもしれない。柘榴は、人間の肉の味がすると、誰かに聞いた気がする。きっと、辰巳だろう。
「……擁、お腹空いてる?」
「……じゅん?」
「うん。大丈夫? どっか、痛いとこない?」
「みぎあし、……ちょっと、捻った、かも」
 まだ、目蓋の裏に、あの焼けた森が残っている。小さくかぶりを振って、それを追い払った。
 肩に、誰かの手が触れているのに気付いて、思わずびくりと跳ねる。それに気付いて、手の主はすぐにそれを外してくれた。順だ。
 ゆっくりと、辺りを見回す。さっき転んだ廊下。三階の、あの場所だ。何がどうなったのか、しばらく、事態が把握出来なかった。さっきまで順の手に支えられて上半身を持ちあげていた。気を失って、床に転がっていたところを、そうやって起こしてくれたのだろう。辰巳と巧介も、どこか心配そうな顔をして、こちらを見ていた。
「おれ……」
「びっくりしたよ。ふたりと合流出来たのはいいけど、擁が見つからなくてさ。一度、二階のさっきの部屋まで戻ったけど、それでもいなかったし。すごい慌てた。呼んでも、返事ないし」
「そうしたら、こんなところでひっくり返ってるんだもんなぁ。そりゃ、呼んでも返事しねぇはずだぜ」
「ごめん」
 そうやって謝ってから、自分がそんな風に、床にひっくり返るようになった原因を思い出す。
 あの手。今は、すぐ傍に友人三人が揃っている。見慣れた、傍にいるだけで安心する、いつもの彼らしかいない。
「何があったんだ?」
 辰巳にそう聞かれた。聞かれた、とは言っても、辰巳のことだから、あまり熱心に知りたがっている様子もない。
「……よく、覚えてない。転んじゃって」
「頭でも打った?」
「少し」
 静かに聞かれて、それに頷く。嘘は言っていない。
 辰巳は手を伸ばして、指先で擁の髪の毛をかき分け、頭に傷がないかどうか、見ているようだった。そのくらいの接触ならば、彼らなら、我慢出来る。それに、擁のことを心配して、してくれているのだろうし。
「目立った傷はない。腫れてる感じもないし。……でも、意識を失うほど強く打ったのなら、心配だな。部屋に戻って、冷やしたほうがいい」
「そんな大袈裟なことじゃないよ。おれ、ほら、気が小さいだろ……だから、びっくりしちゃっただけだよ」
 そんな風に、嘘を付いて言いつくろう自分が、不思議だった。どうして、彼らにあのことを話さないのだろうと、適当に誤魔化そうとしている自分を、離れたところから見ているように、冷静なもうひとりの自分が考える。改めて言葉にして誰かに伝えることで、もう一度、その記憶と感覚を呼び起こすのを防ぐためか。確かに、もう、あんなこと、考えたくなかった。それは、自分でも、納得のいく思考ではあった。しかし、ほんとうに、それだけだろうか?
 友人たちの心配そうな視線から逃れたくて、ひとりで立ち上がろうとする。やはり転んだ時に、右足を変な方向に捻ってしまったのだろう。体重を支えようとすると痛みが走って、ふらりとよろけてしまった。それを、順がとっさに、手を伸ばして支えてくれようとする。それに助けてもらうのではなくて、彼とは反対の方にいた、巧介にもたれかかるようにして、身体を支えた。順の伸ばした手が宙を切るのに、巧介は何か言いたそうな顔をしていたが、黙って、擁の手を取って、真っ直ぐに立たせてくれた。
「大丈夫なのかよ」
「うん、平気。ゆっくり、歩けば」
 擁がそう言いきると、巧介も、ふぅん、と、納得したのかしていないのか、よく分からない反応を見せた。誰の手も借りることなく、出来るだけ右足に力がかからないようにして歩く。ゆっくりしか進めないが、順の手を借りることだけは、どうしても、したくなかった。さっきのあの話は、結局、擁が必要以上に取り乱してしまって、必要のないところまで言ってしまったけれど。だけど、言いたいことは言った。あれは、ほんとうの気持ちだ。だから、分かって欲しかった。もう止めよう、という気持ちが、擁がほんとうに望んでいることだということ。それを証明するために、順が擁を見捨てたとしても、こうやってひとりで立って歩けるのだということを見せたかった。……ひょこひょことして、非常に、危なっかしくはあるかもしれないが。
 階段を下りるときは、壁を伝って慎重に、一歩ずつ足を進めた。置いていってくれても構わないのに、友人たちは三人とも、擁の歩くのを見守るように付き添い、部屋に戻るまで、ずっと一緒に歩いてくれた。
 ふと、部屋に入る寸前、誰にともなく、聞いてみる。
「三階、どうだった? 全部、見てきた?」
「ああ、ほとんど見た。もともと、あんま、使われてなさそうな部屋ばっかりだったな。でも、あの階のもうひとつ上に屋根裏みたいな倉庫があった。まぁ、埃が酷くて、何があるのかもよく見られなかったけどな」
「そうなんだ」
 つまり少なくとも巧介は、もう、この館のほとんどを見て回ったということになる。
「……いま、ここにいるのって、おれたち四人だけで、間違いない?」
 擁がそう尋ねると、巧介は、どうしてそんなことを言い出すのか、と、少し不審に思っているような表情を見せたが、やがて、頷く。
「だと思う。人がいたとして、おれたちから隠れてるんだとしても、ちょっとくらい気配はあるだろうし。……なんか、気になってんのか?」
「ううん。なんでもない」
 きっと、そんな言葉が返ってくるだろうと思っていた。それがほんとうなら、と、そこから色々なことを考えようとして、止める。そんなこと、考えたくなかった。それに、今は、ここにこうして四人が揃っているのだから。
 だから、安心な、はずだから。

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