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鬼さんこちら
(本編のネタバレになりますので、読了後にお読み下さい)


無罪


 笹村擁と、友達になるつもりなんてなかった。

 相手は何しろ、現役の市議会議員の孫。クラスの友達や部活の先輩たちがその名前を知らなくても、親や、教師たちはよく知っている。だから、笹村、という苗字だけで、いつも彼は特別な扱いをされていた。笹村擁が褒められるようなことをすれば、お祖父さんも立派なお孫さんを持って幸せですね。逆に、問題になるようなことをすれば、お祖父さんが悲しみますよ。
 まるで、笹村議員がもうすでに死んでいて、背後霊になって孫のすぐ後ろにとりついているのが見えているみたいに、彼はいつでも祖父の話をされていた。
 高校生になってすぐの頃、孫なんだってさ、と、クラスの他の連中からそんな風に教えられた時は、それをなんとも思わなかった。実際、他の友人らしき人物とじゃれあうように遊んでいた笹村擁は、とてもそんなことを気にするような人間には見えなかったからだ。屈託がなくて、クラスの誰とでも、すぐに打ち解けられる明るい奴だと思った。おそらく生粋の育ちの良さがそうさせるのだろう。ひとを疑うことを知らないように、まっすぐで、ぴかぴか内側から輝いているみたいに笑った。
 順は中学時代からの友人がたまたま高校でも同じクラスにいたので、自然とそちらのグループでつるんでいた。だから、擁とは、会話こそ交わすものの、それほど仲良くはなかった。向こうは向こうで、以前から付き合いのあったらしい連中とたいがいいつも一緒だったし。
 順の家は、特別裕福な家庭ではない。母親は専業主婦だし、父親は中小企業の中間管理職だ。だから、議員一族の孫とはそもそも、育ちが違う。いい奴そうだけど、きっと、住む世界が違う。
 そんな風に思っていた。

 考えを改めることになったのは、五月の連休も終わって、梅雨入り前のことだったと思う。
 帰り道のことだった。その日はたまたま、部活のあと、今年の一年はやる気がない、と顧問に叱られ、グラウンドをぐるぐると何周も走らされた。だから、いつもよりも帰りが遅くなってしまったのだ。
 日も沈んで、街灯がついている帰り道を、疲れた足で歩いていた。走らされすぎて、ほんの少しの距離でも近道したくなるほど、くたくただったのだ。
 だから、いつもは素通りする公園の中を突っ切って帰ることにした。そこで、たまたま、ブランコに乗る人影を見つけたのだ。子どもがまだこんな時間に遊んでいるのか、と思いかけて、すぐに、その人影が自分と同じ高校の制服を着ているのに気付く。
 それが同じクラスの笹村擁であることに気付くのには、もう少し時間がかかった。
「笹村」
 けれども、相手が誰だか分かった瞬間、無意識のうちに、声をかけてしまっていた。
「おれだよ。波崎。同じクラスの」
 最初しばらく、こちらが誰なのか分からなかったようだった。辺りが暗かったせいだろう。
 やがて、ああ、と、思いだしたように小さく声を上げるのが分かった。小さく揺らしていたブランコを止める。街灯からは少し距離があったせいで、相手の表情ははっきりとは見えなかった。けれども、どこか、ばつの悪そうな顔をしているような気がした。あまり、見られたくなかったのだろうか。
「なにやってるんだよ、こんなところで」
「や、別に。なにってわけじゃないけど。……寄り道?」
「なんだよ、それ」
 どう考えても、言い訳にしか聞こえないその返事がおかしかったので、思わず笑う。笹村擁も、つられたように笑った。いつもの、屈託のない笑顔だった。
「波崎こそ、どうしたんだよ。いつも、ここ通って帰るわけじゃないだろ」
「ああ、うん。部活で遅くなってさ。ちょっと近道しようと思って」
「部活、何やってたっけ」
「テニスだよ。一応、中学の時からやってたし」
 順がそう答えると、相手は、そっか、と小さく笑った。ブランコは止めたものの、そこから立ち上がろうとはしない。まるで、順がそこから早く立ち去るのを待っているようだった。
「……おれも、寄り道して行こうかな」
 そんな雰囲気を感じ取りながらも、笹村擁の隣の、空いているもうひとつのブランコに座る。え、と、驚いたような声が隣から聞こえたが、敢えてそれには聞こえない振りをした。
 戸惑ったような相手の沈黙に、しばらく順も、何も言わなかった。何がしたいと思ったわけではない。ただ、このまま放っておいてはいけないような気がした。昔から、捨てられている犬や猫の前を素通り出来なかった。親に、またか、と呆れられるのを分かっていて、それでも家に連れて帰らずにはいられなかった。動物が好きだから、というよりは、もしそこでそれを無視してしまうと、そのあとずっと、気になって頭から離れないから。だから、無視出来なかった。きっと、今ここで軽く別れたら、夜中まで気にしてしまい、眠れなくなる気がした。
「笹村って、なんで部活やらないの?」
「あ、……うん。うち、ほら、あれだろ。爺さんがうるさくてさ」
 笹村擁が、またブランコを揺らし出したので、それをきっかけに、ふと気になったことを尋ねてみる。普段の様子を見ている限り、笹村擁はどちらかというと活発で、休み時間も大人しく座っているタイプではない。それほど気にして見ていたつもりはなくても、昼休みなど、楽しそうにバスケやサッカーをしている姿に覚えがある。どの部活にも所属していない人間は少ないので、彼が帰宅部であることは知っていた。
 その理由を、笹村擁はどこか気まずそうに口にした。
「なんでも、ちゃんと結果を出せっていうのが口癖でさ。それが出来ないようなら、恥さらしになるだけだから、最初っからやるなって、そう言われてて。おれ、運動するのは好きだけど、でも別に、特別出来るってわけじゃないからなぁ」
 爺さん、というのは、祖父のことだろう。いつも、祖父の話をされている笹村擁自身の口から、その人のことが語られるのに、何故だか軽い驚きのようなものを感じた。その口調が、妙に素直なものだったから、余計に。
「厳しいんだ」
「厳しいって言うか、おれが落ちこぼれなんだよ。だから、つい口出ししちゃうんだろ」
「……大変なんだな」
 どう返したらいいのか分からず、思ったままをそう言う。すると相手は、しまった、とでも言いたそうな表情を見せた。慌てて、首を振られる。
「別に! だから嫌とか、そういうんじゃなくて。そう言うことを言われるのが目に見えてるから、面倒臭いだけなんだよ」
 だから大変なんかじゃないんだ、と繰り返して、笹村擁は自分の発言を誤魔化そうとするように、大きくブランコを揺らした。声も口調も明るい、順がこれまで抱いていた笹村擁の印象のままのものだったが、それでも、どこか取り繕うような不自然さがあった。それに、そっか、ともう一度小さく頷いて、順もブランコを漕ぐ。
「……じゃあさ、笹村」
 これまで、笹村擁のことを、よくは知らなかった。今でも、よく知っているわけではない。ただほんの少し、こうやって話をしただけだ。それでも、近寄って見てみなければ、分からなかったようなこと。それに気付くと、何かしてあげずにはいられないような、そんな気持ちになってしまった。
 明るい、なんの悩みもない人間は、こんな風にひとりでブランコに揺られない気がした。
「テニスやらない?」
 突然そんなことを言い出した順に、笹村擁はブランコを止める。何を言うのか、と表情全部で伝えようとしているような、驚いた顔をしていた。ついさっきした話の意味が分かってもらえなかったのか、と、そう思ってもいそうな表情だった。
「……でも、おれ」
 躊躇いながら、相手は、どう断ったらいいのかと考えている風だった。次の言葉を見つけられる前に、先に口を開く。
「ひとりだったら、個人の成績が問われるかもしれないけど。だったら、ダブルスやろうよ、おれと。それで、もし試合とかに負けちゃったら、おれが足引っ張ったってことにすればいいじゃないか」
 順の言葉を聞いて、笹村擁は呆れたように笑った。
「そんなひどいこと、しないよ」
 自分でも、おかしなことを言っているとは思った。それでも、言ったことが間違っているような気はしなかった。
 笹村擁はブランコから立ち上がる。もう気が済んだ、と言うよりは、そうしなければ、順に帰る気がないことに気づいたからだろう。帰るけど、とこちらに言う彼に、順もブランコを降りる。
「えっと、波崎」
「順、でいいよ。言いにくいだろ、波崎って」
「別に、そんなことないけど。……あのさ、部活だけど」
「うん」
 断られるのかな、と、その表情を見て、そう感じた。言いにくそうな、言葉を選んでいる様子だったからだ。
 そうなったらそれで、仕方がない。もともと、思いつきで口にしたことなのだから、嫌がる相手をしつこく誘うつもりは順にはなかった。
 けれども笹村擁の返事は、その予想に反するものだった。
「一回、見に行ってみても、いいかな」
「あ……、うん、いいよ。大丈夫。おれから、顧問に話しとくし」
 驚きながらも順がそう返すと、相手は、ありがと、と笑って、そのまま走って行ってしまった。
「……なんか、思ってたやつと、違うかも」
 思わず、そんな風に独り言を言ってしまう。どんな人物を想像していたのかは、自分でも、はっきりしないけれど。でも、それよりもずっと、小さい気がした。何がかはよく分からない。辺りが、暗いせいだろうか。
 すぐに夜に紛れて見えなくなったその背中を、何故だかそのまま、いつまでも見送ってしまった。

「蔵野って知ってる?」
 その名前を擁の口から最初に聞いたのが、いつ頃のことだったかは覚えていない。
「顔は知ってるけど。あの、でかい病院の息子だろ」
「そう、そいつ。順、話したことある?」
「ないけど」
 突然、なにを言い出すのだろうとそう思って、それでもほんとうのことを返事しておく。蔵野辰巳とはクラスも出身の中学も違う。試験や模試の成績が貼り出される度に、必ず上位に入っているから名前は知っている。それに同じ年とは思えないほど、背も高くて大人びた雰囲気で、順の友達の女の子などがきゃあきゃあと彼の話をしているのもよく聞く。だからよく知りもしないのに、年上の彼女がいるのだとか、医者の息子なのだとか、そういう情報だけは持っていた。
「こないだ、うちの爺さん関連で、ちょっと集まりみたいなのがあってさ。なんていうんだろ、地域のために頑張ってる人がどうとかみたいな」
 それで手伝いみたいな感じで連れて行かれたんだけど、と、擁は順の方は見ないでそう話す。擁がそんな風に、なんでもない話をする時に相手を見ないのは癖のひとつだと、今は知っていた。無意識のうちにそうしてしまうのは、話している内容に、自分にだけ引っかかる何かがある時、だと順は思っている。きっとその「集まり」とやらが、あまり楽しいものではなかったのだろう。
「ほら、あそこの家って、病院やってるだろ。それで、おれが来てたみたいに、あいつも来てて」
 そこで擁は順から逸らしていた目を戻して、笑う。蔵野辰巳とのことは、嫌なことでは無かったらしい。
「変な奴なんだよ、あいつ。ちょっと天然って言うか、面白いんだ」
「……とても、そんな風には見えないけどなぁ」
「だろ! おれも、そう思ってて近寄りがたかったんだけどさ。向こうから話しかけてきて、それで喋ってみたら、全然そんなんじゃなかったよ」
 余程、そのことが強く印象に残ったのだろう。擁は楽しそうに、いくつかその時の話をしてくれた。それがどんな話だったのかは覚えていない。笑いながら相槌を打ちながら、話の内容は、ほとんど聞き流していた。
 自分でも、何が面白くないのか、よく分からなかった。

 辰巳は確かに擁の話していた通り、見た目や周囲から聞いている話から抱いていたイメージとは少し違う人間だった。順ひとりならば、仲良くなることもなかったかもしれない。けれど、辰巳の方でも擁を気に入ったのか、気が付けば、昼休みや部活のない放課後など、一緒にいることが多くなった。辰巳のことは嫌いではない。時折、なにを考えているのか分からないと感じることはあるけれど、頭がよくて、話していて楽しい。
 擁の傍に順がいたように、辰巳には森津巧介という友人がいた。一応、進学校で名前が通っている学校にしては珍しい、染めた髪や着崩した制服などを見て、最初はあまりいい印象を持たなかった。それでも、実際に話してみるとその緩い雰囲気とは違い、根が真面目で、地に足のついた考え方をするところに好感を持つようになった。
 高校に入って最初の夏休みが始まる前には、もう、昔から仲が良かったように、自然と四人でつるむようになっていたような気がする。


 擁は順の誘いに乗って、テニス部に入った。まだ入部したての一年生という身分だから、どうしても球拾いとか、そういうことをしていることの方が多かったけれど、それでも擁は、楽しそうだった。
 中間試験が終わって、期間中は休みになっていた部活が再開された日のことだったと思う。
「……遅いな、擁」
 授業が終わって、もう三十分は経っている。用事があるから先に行ってて、と言われ、順は先に更衣室で擁を待っていた。あまり時間に遅れると、また先輩たちや、顧問にうるさく言われる。……最も、先輩はともかく、顧問の教師も、擁のことは、あまり表だって直接なにか言うことは少ないけれど。
 もしかして、何か問題になるようなことでもあったのだろうかと思い、一度、教室に戻ってみることにした。試験が終わったということもあって、もう校舎に残っている生徒は少なかった。音楽室の方から、遠くブラスバンドの練習している音の断片が聞こえていた。
 教室のドアは、ふたつあるどちらも閉められていた。曇っていて薄暗い廊下に、教室の中の明かりが漏れている。中に、誰かいるのだ。擁だろうか。
「……だから、できません」
 ドアを開けて中に入ろうとして、中から聞こえる声に足を止める。擁の声だった。
 誰と話しているのだろうと思い、開けかけた隙間から覗き見る。教壇の近くに、擁と、担任の教師が立っていた。担任は腕を組んで擁を見下ろしていて、その擁は、まるで叱られているように後姿がうなだれて見えた。
 また何か言いがかりをつけられているのか、と、半分呆れて、あとの半分は怒りが湧いた。
 担任は何かと擁を目の敵にしている。友人のひいき目を抜きにしても、擁には何の落ち度もない些細なことで小言を言われ、わざわざクラス全員の前で授業中に立たせて叱ることもあった。入学した最初の頃から、もうそうだったと思う。理由は考えなくても、誰にでも分かった。擁の祖父が、知らない人のいないような、有名人だからだ。十も二十も年下の順にすら、それが単なるコンプレックスに過ぎないことは想像出来た。七光りが、と擁の聞いていないところでそんな風に言い放っていたのを知っている。この学校に入れたのも祖父のおかげ。どうせ大学も、その先の就職も、なにも努力しなくても祖父の力添えがあるから、すべてなにもかもうまくいく。完全にそう思い込んでいるに違いない。たぶん、そんなことはないと順は知っている。擁は、あまり祖父によく思われていないからだ。一度、家に遊びに行って、たまたま居合わせたその人に冷たく成績のことを言われているのを聞いてしまった。だから、何も知らない担任が、ひとりよがりな思い込みだけで擁にそんな風に当たるのが、腹立たしくてならなかった。
 それでも当の擁が何も言わないから、何もするわけにはいかなかった。
 いいんだ、と、擁はそんな風に言っていた。どうしても堪え切れないときがあって、擁に、担任のことを悪く言ってしまった時があった。けれども、擁は順が怒っていることに対して、申し訳なさそうに、こんなことを言ってきた。
 おれ、あんまり、あんな風に、怒られたこともないから。だから、いいよ。
 前向きというのとは少し違う。極端に言ってしまうと、新鮮だったのだろうか。他の教師たちや大人たちの反応から考えて、擁がこれまで、祖父の存在のせいで腫れものに触るように恐る恐ると扱われてきたことはなんとなく想像出来た。だから、どんなくだらないことで叱られるのであれ、擁を通して祖父に怯えることのない存在を目の当たりにして、それが嬉しかったのだろう。
 けれども、それは違う。
「なんでだよ。孫のお前から頼めば、そんなの、簡単だろ」
「簡単じゃないです。あの人が、おれの話なんて聞いてくれるはずない」
「ふざけるなよ! それなら、なんで、どいつもこいつもおまえのこと、大事に扱うんだよ。おまえから爺さんに告げ口されるのが怖いからだろ! 見え透いた嘘つくなよ」
「嘘じゃない、ほんとに」
「もういい! これだから、甘やかされて育った坊ちゃんは。おれたち普通の人間がどんな気持ちで毎日精一杯生きてるかなんて、考えもしないんだろ」
「……先生、おれ」
「やることが陰険だよな。気に入らない人間がいるからって、そいつを自分の前から消そうなんて」
「そんなの、おれが頼んだことじゃない!」
 叫んだ擁に、それ以上言葉が返されることはなかった。その代わりに、何かが倒れたような、重たい派手な音がした。慌てて、中に入ろうとした順が扉を開けるよりも、担任が出てくる方が早かった。丁度、鉢合わせになってしまった。
 順の顔を見て、担任は一瞬だけ、しまった、とでも言いたげな顔をした。そしてすぐに、逃げるようにそそくさと足を早めて、どこかへ行ってしまった。
「擁」
 叱られる姿勢のままの擁に、そう声を掛けて、教室へ入る。
 擁は順の声に、弾かれたように顔を上げた。
「……順」
 どんな顔をすればいいのか分からなかった。擁の方は、最初こそ驚いた顔をしていたものの、すぐに、いつものように照れたように笑う。
「変なとこ、見られちゃった」
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ、別に。机だって、倒れただけだし」
 そう言いながら、床に倒れていた、一番前の列の机を起こす。さっきの音は、これが倒れた音だったのだろう。きっと担任が、蹴り飛ばすか何かしたのだ。
 擁が散らばったものを拾い集めるのを手伝う。どう声を掛けたらいいのか、分からなかった。
「担任、変わるんだってさ」
「え?」
 順の方は見ないで、擁がそんなことを教えてくれる。
「あの先生、どっか、他の学校に行くらしいよ」
「なんで?」
 言われたのが思いもかけないことだったので、感じたままを素直に口にしてしまう。
 擁は顔を上げて、困ったように笑顔を作った。
「知らない。そんなの、おれが関係あることじゃないし」
 学期の変わり目ならばともかく、いまはまだ、半ばだ。そんな時期に、教師が変わったことなど、あまり無かった。体調が悪そうなわけでもないし、あの口ぶりからすると、自分から望んだことではなさそうだったし。何か事情があったのだろう。
 それを、担任は、擁のせいだと思ったのだ。自分が、そうなってもおかしくないことをしているという自覚があったから。
「……おれじゃない」
 まるで順がそんなことを考えてしまったことを見抜いたようなタイミングで、擁がぽつりと呟く。
「おれ、爺さんに、学校での話なんてしない。だから、違うのに」
「……うん」
 どう言ったらいいのか分からなかった。頷いて、それ以上は言わないでおく。
 順にも、担任の言うのが言いがかりに過ぎないことは分かっている。だって擁は、あんな風に扱われることを、嫌がっていたわけではないのだから。もちろん、悪いことをしてもいないのに叱られたり、やることなすことに小言を言われたりするのは、決していい気持ちのするものではない。けれどそれ以上に、擁にとっては、意味のあることだったはずなのだから。
「あの人、おれが嫌いなんじゃなくてさ」
 擁のその声が、無理に笑おうとするようにかすかに震えていた。
「爺さんの孫だったおれが嫌いなだけだったんだな」
 どうして気付かなかったんだろう、と、自分の愚かさを罵るような声に聞こえた。
 顔を見られたくないのか、擁はこちらに背を向けてしまう。
 考えるよりも先に、その肩に手を伸ばしていた。何を言っても、傷つけてしまう気がした。
 触れた肩は、少しだけ震えていた。
「馬鹿だよな、おれ」
 それに、首を振る。背中を向けられているので、仕草だけでは相手には伝わらないかもしれない。それでも、自然とそうしていた。全然関係はないはずなのに、何故だか、あの、ひとりで暗くなった公園でブランコを漕いでいた擁を思い出した。それまでに抱いていたイメージより、ずっと、小さく見えた。
 それが、間違っていなかった気がした。
 擁が女の子だったら、抱き締めてもっと優しくしてあげられたのに、なんて、その日の夜になってから、そんなことを思ったりした。

 巧介から後になって聞いたところによると、担任の異動は、やはり擁絡みのことではあったらしい。擁自身ではない、他の教師たちが、そのあからさまな扱いに眉をひそめて懸念していたのだと、つまり、そういうことらしかった。学校そのものを、悪く思われるのを避けたかったのだろう。
 どうして彼がそんな情報を持っていたのかはしらない。巧介は、先輩や、他校の人間にも知り合いが多いから、その辺りの誰かから聞いたのかもしれない。
 新しくなった担任は、人畜無害と形容するのがぴったりな、大人しい人だった。擁は、またいつもみたいな感じになっちゃった、と、一度だけ、そんな風に笑ったきりだった。

 擁が突然、どこかに行ってしまったのは、その次の年の夏休みのことだった。

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