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奈落まで



 男同士が手を繋いで歩くのは、目を引く。

 やましいことがあるもののことを、お天道様の元を歩けない、などと言ったりする。それならば、自分たちも、やましい二人なのだろうと、最近はそんなことを思ったりもする。ひとの前で堂々とその姿をさらけ出せない、そんな恋愛を、している。
 だから、会うのはいつも、夜だった。

 恋人は堂々としている。こちらとの付き合いも、両親兄弟にすべて話して、許可を貰ったというのはおかしいのかもしれないが、明らかにしている。けれど、その相手であるこちらは、誰にも言わずに、黙ったままでいた。
 黙ったままでいるから、昔からの友人などは、未だに彼女のいない奴扱いをしてくる。可哀想な奴のために女の子を紹介してやると、今でも時たま言われる。
 恋人が隣に居る時にも、そんな話をされることがあった。
 そんな時にはいつも、少しだけ、寂しそうな顔をさせた。

 恋人はスキンシップが好きな男だから、ほんとうならば、いつだって二人でいる時は手を繋いで歩きたいらしい。周りに人がいるときでも、いない時でも、いつでも。それで、おかしなものを見る目で見られたとしても、堂々としていればいいのだと、いつもそう言って笑う。
 間違ったことはしていないんだから、堂々と。
 そんな風に言い切れるだけの勇気が、こちらには、ない。

 そんな噛み合わないところのある二人だから、当然のように、よく喧嘩をした。たいがいは、この関係を秘密にしておきたいこちらと、その意気地の無さを男らしくないと馬鹿にするあちらとの、一度も解決策を導き出したことのない問題がきっかけだった。
 どうしてそんなに、恥じることなくいられるのかが、分からない。
 ……分からない。
 恥じるのはこんな間違った関係ではなく、その関係に溺れて、無くしては生きていけないとまで思っているのに、それでもそんな自分を受け入れられない弱さだ。子どもの頃から、そうだった。ひとが良いと言うものは良いのだと、深く考えもせずに、生きてきてしまった。
 自分がマイノリティであることを知るまで、それが傲慢な考えであることに、気付きもしなかった。そうして今でも、心の底では、それを認めきれていない。
 ……恥ずかしいのは、憎いのは、そんな自分自身だ。

「遅いぞ」
 待ち合わせをしていたというのに、考えごとをしていたら、足が重くてなかなか先へ進めなかった。約束した場所で待ちぼうけをさせた恋人は、そう言って笑うだけだった。
 恋人の借りているアパートは、駅から歩いてそれほど遠くない距離のところにある。真っ直ぐに、最短距離をいけば、十分も掛からない。
 近頃では、そこをわざと遠回りして帰る。駅を出てずっと線路沿いに歩いて、人も建物もまばらになった辺りで、手を繋ぐ。街灯の少ない、車も一台ぶんしか通れないような、狭い道だ。
 遠回りして帰るその夜道だけが、ふたりが外で手を繋げる場所だった。

 おれはきっと、地獄へ堕ちるんだ。
 この間、そんなことを言って、子どものような喧嘩をした。
 だって、こんなこと、ほんとうは間違っていることだから。社会的にも、生物的にも、あるべき形ではないから。だから、みんな不幸にする。自分だけじゃない。育ててくれた家族も、仲良くしてくれた友達も、会社のみんなも。全部、おれが悪いから。そう言って、みっともなく、少しだけ泣いてしまった。
 笑われても、怒られても、縁を切られてもおかしくないような、子どもじみた醜態を見せた。
 それでも恋人は、いつもとさほど変わらぬ呑気な顔をしたままで、おれだけは不幸にならないけどね、と言うだけだった。

 その時から、ずっと連絡を取っていなかった。
 向こうからは何度も、電話も掛かってきていたし、メールも届いていた。それを全部、何も返さずに無視し続けたのはこちらの方だ。合わせる顔がないのもあったし、それに何より、心にひっかかっている事が残り続けているから、何も無かったような振りをすることは出来なかったからだ。
 最初の頃は、こうではなかった。
 ただ、相手が好きだという気持ちだけがあって、他のことは何も気にならなかった。今も決して、それが無くなったわけではない。ただ、少しだけ、歳を経て色々なことが変わっただけだ。
 謝らなくてはいけない、と思い続けているのに、そのタイミングが計れないでいた。大人になると、そんな簡単なことも、出来なくなる。
 同じところをぐるぐると回って先に進めないでいると、向こうから、誘いがあった。週末は休みが重なれば、たいがい、どちらかの家に泊まりに行って一緒に過ごしている。
 今週末は休みになりそうだから、遊びに来ればいい、と、いつもと何も変わらない、きらきらしい絵文字がたくさん並んでいる、女子高生のようなメールだ。
 それに、わかった、と返事をすることぐらいなら、出来た。

 顔を見たら、この間はごめん、と謝るつもりでいた。
 それなのに、やっぱり、言いそびれてしまった。きっかけを逃すと、もう言えなくなってしまった。
 恋人は元々、喋るのが好きな男なので、こちらが何も言わなくても、ひとりでずっと喋り続けている。隣で手を繋いで歩きながら、今日も、仕事先の新しいアルバイトのことについて色々と話してきた。バイトに入りたての高校生のことを面白おかしく語って聞かせるいつものその明るさに、心は和んだ。
 それでも、まだ、それに相槌を返して笑い返してやることは出来なかった。
「……あのさ」
 
「こないだ、地獄がどうこうって話、してただろ。それで、思い出したんだけど」
 繋いだ手はそのままで、突然、恋人はそんなことを言ってきた。
 それまでしていた他愛のない話をするのと何も変わらない、いつもの調子の声だった。
「『蜘蛛の糸』ってさ。あるじゃん」
 何を言うのか、と面食らって、とりあえず頷いておく。
「夏目漱石のさ」
 確か、違う。それでも、この男がそんな話をしてくるのが珍しくて、黙って聞き流すことにした。本を読むのなんて、学校の国語の教科書で卒業しちまったぜと悪びれずに言っていたのも聞いたことがある。「蜘蛛の糸」はそういえば、国語の教科書に載っていた。
「あれはさ、すごい悪いことばっかりしてた奴がいて、それでも、蜘蛛を一匹、踏まないで助けてやったからって、それだけで仏さまが助けてくれたって話だろ」
 ……そんな話だっただろうか。
 だいぶん端折られているような気はするが、大方はそんなところだっただろう。そうなんだって、と、念を押すように、相手も頷いてきた。
「けどさ、おれ、いつも思ってたんだけど」
 暗い道は、足下がおぼつかない。石か何かにつまずいたらしく、前のめりにバランスを崩しそうになった相手を、手を引っ張って助けてやる。
 ありがと、と、笑って言われた。
「蜘蛛ひとつ助けるようなことぐらいなら、人間、誰だって何かはやってるだろ」
 それは言われてみれば、最もなことのようにも思えた。
 あの話の主人公は、救いようのない大悪人だったはずだ。それでも、ただ一匹の蜘蛛を、気まぐれか何かで、踏みつぶすことをやめた。それに目を掛けた仏様が、天の上から、地獄に堕ちたその男を助けるために、一本の細い糸を垂らすのだ。
 結局、それは無駄になってしまうのだが。
「……だからさ」
 繋いでいた手が、少しだけ強くされる。道がいつもより暗く感じていたのは、丁度、月が雲に隠れてしまっていたからのようだった。雲が晴れて、また少しだけ辺りが明るくなって、はじめてそのことに気が付いた。
「おまえが、もし地獄に堕ちたって、きっと助けてくれるよ」
 誰が、とは聞かなかった。仏様、だろうか。
 言われたことの唐突さに、驚いているしかなかった。
「いろんな人を不幸にするって、おまえは怖がってるけど。それはさ、周りの人のこと、大事にしてるからだろ。だから、それも、いい事だし」
 違う。そんな風に言ってもらえるような、綺麗な感情ではないのだ。
 ほんとうに怖がっているのは、自分が傷つくことだ。これまでに築いてきたものをすべて失うこと、それだけだ。守ろうとしているのは、卑怯な自分。
 それは少しも、いい事ではない。
 月は丸くて、辺りを必要以上に、明るく照らす。顔を見られたくないのに、これでは、せっかくの夜道も、意味がなくなってしまう。
「で、もし、誰にとっても、おまえがいい事してなくたって、おれがいるし」
 恋人はお喋りだが、自分の気持ちや、考えたことを言葉にして伝えるのは、あまり得意ではない。だから、彼なりに懸命に言葉を選んでいるのだろう。
「おまえは、おれのこと、救ってくれてるから」
 迷うように、ところどころ間を開けて喋る。軽い調子は変わらないが、そのわずかな間が、彼の言葉をひどく重くしている気がした。 
「……おれはさ。おまえがいなかったら、生きていけないよ」
 照れくさそうな、それでも誠実な、声だった。 
「だから、すごい、救ってるだろ」
 なにしろひとの命だぜ、と、何故か、得意げに胸を張られる。
「な。心配いらないんだ、地獄に堕ちることなんて。それに、その時は、おれだって同じところに行くはずだし。だっておまえが、男同士で愛し合うのが罪だって思うのなら、おれだって同罪だろ。……たとえ仏さまが糸を垂らしてくれなくても、おれがおまえのために、糸を垂らすよ」
 それを伝って、あとを追うから。
 何も心配することはないんだ、と、もう一度、彼は繰り返した。

「白くて苦いやつでいい?」
 それが言いたかっただけなのかもしれない。恋人は、可愛い顔に似合わず、そんな話が好きな男だった。
 最後のその下ネタのせいで、何を悩んでいたのか、忘れてしまった。せっかく、色々、良い事を言っていた気がしたのに。
 月に照らされて歩く道が、今日は何故だか、長く感じる。はやく、家に帰り着きたかった。
 誰も見ていないところに行って、ふたりだけになりたい、と思った。

 足早になったこちらに、恋人は顔を上げて、笑った。
「甘くて、美味しそう」
 何を言い出すのかと思っていたら、その目線の先には、丸い月があった。
「バニラアイスの色だ。……コンビニで買ったやつ、まだ冷蔵庫にあったかな」
 食い意地の張ったその発言に、同じように月を見上げる。雲がすべて風で取り払われて、柔らかい光が、太陽に嫌われるものたちにも、優しく降り注ぐ。
「……『月が綺麗ですね』」
 ふと、気が付いたら、そんなことを口にしていた。
「……うん?」
 それまでほとんど口を開かなかったのに、急に何を言い出したのだろう、と、恋人は不思議そうな顔をした。
 分からなくてもいい。意味など分からなくても、この男は、もっと、多くのことを十分に知ってくれているのだから。
「こっちが、夏目漱石だよ」
 それにそう言って笑い返しながら、恋人の手を握り返した。
 もう大丈夫だと、ふと、そう思った。
 最後に墜ちる場所にも、ひとりではないのだと、この男はそれを教えてくれたから。
 ひとりではない。ふたりの歩く道は、太陽ではなく、月が照らしてくれる。

 たぶんこのさきもずっと、奈落まで。 


 



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