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= 3 =

 芝山実波は今年のはじめに、他の高校から転入してきた。
 留年していて実際にはひとつ年上なのだとか、親に勘当されて、美人の女医さんのヒモのような生活をしているとか、そういったあまりよくない噂ばかり流れている生徒だった。髪は染めている様子だし、制服もゆるく着崩してはいるが、授業は黙って受けているし、成績もそれほど悪くはないようだった。クラスの他の生徒たちは、実波に少し距離を置いて接しているが、それを気にする様子もなく、昼休みなどは、いつもひとりで屋上で過ごしているらしい。
 そういうところは、ぼくに少し似ているかもしれないと思っていた。そしてぼくとは違い、孤立していても毅然としているところに、憧れに近い感情すら覚えていた。
 ……あの日までは。

「春日」
 ぼくのことを用事もなしに呼び止める人は珍しい。珍しいというよりも、そんな奴は実波以外にいない。ずいぶんと可愛らしい響きの名前だと思い、ぼくはずっと内心、芝山実波のことを心の中で実波と呼んでいた。……そんな風に、何度も心の中で名前を巡らせるのは、クラスでは実波だけだった。他の生徒は、ぼくに話しかけたりはしない。最初の頃こそおずおずと、腫れ物に触るように声をかけてくれたり、挨拶をしてくれた人もいたけれども、ぼくのほうが態度を軟化させないので、次第に、声をかけられることはなくなった。ぼくはそれで構わなかった。それなのに。
「なー、春日って。あの話ほんと? さっき安田が言ってたの。おまえ喋れないってほんと?」
 転校してきた初日、安田先生は実波にぼくのことを教えていた。それもSH中に、他の皆の前で。「春日は話すことが出来ないから、そのつもりで接すること」なんて、親切心なのか嫌みなのか判断のつかないその忠告に、ぼくは顔を上げることが出来なかった。
 けれども実波は、先生のその言葉にいたく興味を抱いてしまったようだった。面白い玩具を見つけた子どものような目で、SHが終わるとすぐに、ぼくの側にやって来た。
「な、マジで、喋れねぇの?」
 くすくすと、誰かが笑っている声が聞こえた。何も答えないぼくを見下ろして、実波も笑った。
 どうして笑われるのか、ぼくには分からなかった。けれども、ひとの笑う声は心地よいと、そう思った。たとえそれが、ぼくを嘲るものだとしても、それはぼくを物理的には傷つけないものだから。
 だから、ぶしつけな奴、と思った程度で、芝山実波の初対面の印象は、それほど悪いわけではなかった。どうせ彼も、そのうち飽きてぼくに興味を示さなくなる。そう思っていた。
 けれども何故か、数ヶ月がたっても、実波はぼくにしつこく付きまとい続けた。ぼくは黙っているだけで、せいぜい首を振るくらいしか彼に反応を返さない。それどころか、腹が立って睨んだこともある。
 それでも実波は、何が面白いのか、ことあるごとにぼくに絡んできた。
 まともに友達がいないという共通点を持つぼくと実波は、体育などで二人組になる時は、だいたい一緒だった。その度に、実波は答えの返らない質問を繰り返してきた。
 ……あの日も、確か、体育の授業の最中のことだった。組を作って、柔軟をするように言われたのだ。やる気のない実波の背中をぼくが押していると、彼がこう言ってきた。
「なぁ、おまえ、なんで喋んねぇの。……隣のクラスの、川里とは喋ってるよな」
 さすがに、純太の名前まで持ち出された時は、実波の顔が見ていられなくて、ついうつむいてしまった。純太は、いつ学校ですれ違っても、ぼくに笑いかけて、困ったことはないか、と聞いてきてくれる。高校に入って交遊関係も広がっただろうのに、いつでもぼくのことを心配してくれて、よく休み時間にも顔を見に来てくれる。それをとても心強く、嬉しいと思っていたけれど、同時に申し訳なさも感じていた。だから、実波の軽口に混じって、大事な名前を出されたことが、ぼくには不愉快だった。
「どうせ、おれなんかとは馬鹿馬鹿しくて口もきけないってことだろ」
 誰もそんなことは言っていない。ぼくは決して、誰のこともそんな風に思ったことはない。ぼくが純太とだけ話すことが出来るのは、そんな意志を表すためのフェイクではないのに。
「……おまえ、川里のこと、好きなの?」
 ぼくが実波を睨もうと顔を上げると、そんな言葉が、降ってきた。
 ぼくが、純太のことを、好き?
 何を言っているのだろう。そんなことは、当たり前のことじゃないか。ぼくは純太が大好きだ。強くて明るくて優しい純太が、大好きだ。今更、実波は何を言いたいのだろう。 ぼくは不思議に思い、苛立ちに固めていた肩の力を緩めた。
「なんだよ、その顔。あのな、おれが言いたいのは」
 何か言いかけて、実波は呆れたようにため息をひとつ吐いた。
「……もういいよ、馬鹿」
 実波はそれきり、黙ってしまった。彼が何を言いたかったのか、実際のところぼくに何を聞きたかったのかは分からずじまいだったけれども、話はそこで終わったようだったので、ぼくは安心した。実波の声は、真っ直ぐで怖い。実波がぼくを見てくる目も、真っ直ぐで怖い。
 実波のため息に、ぼくは明らかな落胆を感じ取った。
 ああ、これでもう、彼はぼくを見限っただろう。そう思った。実波がぼくに何をしたかったのか分からないけれども、これで彼がぼくに働きかけてくることはもうないだろうと、そう思った。
 ……そう、ぼくは安心してしまった。だから、その6限目の体育の授業のあと、実波に強く腕を引かれて、とっさに、抵抗することが出来なかった。

「ちょっと、来いよ」
 着替えを終えて、更衣室を出たのはぼくが最後だった。人がいるとどうしても視線が気になってしまい、落ち着かない。だから、ぼくはいつもそうやって、他の皆が行ってしまうのを待ってから着替えていた。実波もいなくなっていた。……それなのに、更衣室を出ようと扉を開けると、彼はぼくの行く手を阻むように立っていた。
 そのまま、制服の上から右の手首の辺りを捕まれる。ふりほどこうとしたけれど、実波はぼくを逃がすつもりはないようだった。痛みさえ感じるほど強い力で引っ張っていかれたのは、体育館倉庫だった。
 掴んだままの手を思いっきり強く引かれ、ぼくはバランスを崩した。実波はぼくを倉庫の中へ放り投げるように、突然手を離す。冷たく固い、コンクリートの床にぼくが転がるのを確認するように睨め付けて、実波は後ろ手で倉庫の扉を閉めてしまった。鉄の扉が重たい音を立てる。その音に、ぼくの身体が小さく跳ねたのを気付いたのだろうか。実波はいつものように、小さく鼻で笑った。
 逃げようと思った。逃げなくてはいけないと思った。ゆっくりと近づいてくる、ひとを小馬鹿にした目でぼくを見下ろしてくる実波を突き飛ばして、いますぐにこの場所から逃げ出さなくてはいけない。でないと。そうしないと、きっとぼくは。
 ――きっとぼくは、ひどい目に遭わされる。
 呼吸がうまく出来ずに、身体が小刻みに震えて止まらなかった。立ち上がらなくてはいけないと思っているのに、頭では分かっているのに身体が動かない。とても近い距離まで来た実波が、右手をぼくに向けて伸ばす。妙にゆっくりと、コマ送りされたように見えるその動作に、ぼくは固く目を閉じた。
 殴られる。そう感じて、無意識のうちに両腕で顔を庇う。
 けれども実波の手は、そのぼくの腕に、そっと触れただけだった。倉庫に投げ込んだのと同じ手だとは信じられないほどの柔らかさで、そっと、顔を守ろうと重ねていたぼくの腕を下ろす。
「なんて顔してんだよ」
 ぼくの顔を見て、実波は笑った。それはいつものような嘲笑ではなく、触れてくる手と似て、どこか、優しささえ感じさせた。実波が何をしようとしているのか分からず、警戒は解けないまま、ひざまずいてぼくに目線を合わせた彼を見る。
「おれが、怖い?」
 怖いに決まっている。答えの意を込めて頷く代わりに、ぼくは立ち上がろうとした。どうしてそこまでぼくをからかいたいのか知らないけれど、もう、十分だろうと思った。
「逃げるな」
 立ち上がりかけた肩を捕らえられる。実波はそのまま、ぼくを床に押さえつけた。制服の布地越しに、冷たい床の感触が背中に伝わる。
「嫌なら、声出してみろよ。ちょっと大きい声出せば、すぐに誰か来てくれるんじゃねぇの?」
 見下ろされる。重苦しいほどの威圧感から少しでも遠ざかりたくて、ぼくは半身を起こして、そのまま後じさる。背中が、すぐに壁にぶつかる。それは床よりも、ずっと冷えているような気がした。息が、詰まるほどに。
 やめろ、と、口に出して言おうとした。声を出そうと、実波がそう挑発してくる通りに、嫌だと言おうと、ぼくは口を開いた。けれども。
「……意気地なし」
 声を出そうと、息を吸った。もうずっと空気を通していなかったように感じられる喉に酸素を与えて、やめろと短くでいいのだから、はっきりと伝えようと思った。そうするつもりで、ぼくは息を吐いた、のに。
 どうしても、それは音にはならなかった。
「なぁ、春日。おまえ、……こんなことされても、声、出ないわけ?」
 壁に背を付けたぼくと、床に膝を付けた実波。立っている時なら、見上げなくてはぶつからない視線が、今は同じ位置にある。軽々しい響きを伴わない、真面目な声にその顔を見る。実波はいつものように、真っ直ぐにぼくを見ていた。
 実波が言う『こんなこと』の意味が分からないまま、ぼくはただ、実波を睨んだ。
 それ以上は何も言わずに、実波はぼくに手を伸ばす。嫌なら、声を出せと言われた。それはつまり、ぼくが嫌がるようなことをするぞという、宣告だったのだろうか。制服の上から、腰の辺りに触れてくる実波の手に、そんなことを考える。……実波は、何をするつもりなんだ?
 ぼくの疑問に答えるように、実波はぼくの制服の裾から、手を差し入れてくる。そのままベルトに手をかけられて、それを外される。何が起こっているのか分からないままに、ぼくは実波のその手を、ズボンを下ろそうとしてくるその手を払いのけようとした。
「嫌なら、大声出せって言ってんだろ!」
 実波はそう怒鳴り、ぼくの頭を掴み、そのままそれを壁に打ち付けた。瞬間、視界が真っ白になり、少し遅れて鈍い衝撃と、鋭い痛みがぼくを襲う。痛みと嫌悪感に、目に涙が満ちた。抵抗しようとしたぼくの手からは力が抜けて、実波に行為の先を許してしまう。
 ズボンだけでなく下着まで下ろされ、人前にさらけ出すべきではない箇所まで、暴かれる。そこを撫でるように指で触れられたかと思うと、生ぬるい、これまでに感じたことのない、なにかに包み込まれる。痛みにかすむ目で見下ろすと、実波は。
 実波が、ぼくのそこを、口で。
 屈辱感が全身いっぱいに広がる。実波のその行為をやめさせたいと思うのに、身体が言うことを聞かなかった。無力感と反比例して、身体の中心にすべての感覚と熱が集中していく。こんなことをひとにされたことはないけれど、実波がぼくにしてはいけないことだということぐらいは分かった。間違っている。正しくない。やめさせなくては、ならないのに。
 舐められ、きつく吸われ、舌で先端を転がすようにされる。その度に刺激がぼくの背骨を伝い、上半身を反らすと、息が漏れた。
「……っ、あ……」
 息を吐いただけのつもりだった。けれどもそれには、違うものが混じっていた。――声。
 こんなのは駄目だ。絶対に、駄目だ。ぼくは自分の手で、口元を覆う。これ以上、何も漏らさないために、親指の根本を強く噛みしめる。
 頭と、噛んだ指の痛みと、そして実波に与えられる刺激とで、ぼくの頭は朦朧とする。どこが痛んで、どこがそうでないのか、判然と把握できなくなる。
 ぼくを包むものはやわらかく、あたたかく、絡みつく。それは実波の口なのに。ぼくをあんなに、馬鹿にする言葉ばかり投げつけてきた、口なのに。
 なんで。どうして。こんなことをされているのに。
 こんな、馬鹿にするような行為。ひとを貶めるようなことを、されているのに。
 どうして、その、実波にされていることが、

 ――気持ちいい、なんて。

 逃げられないし、声を出して助けを呼ぶことも、止めてもらうことも出来なかった。
 ぼくはそのまま、実波の口の中で、達してしまった。 
 そうするしか、なかった。

「……やっぱり、出るんだな、声」
 妙に楽しそうにも聞こえるその呟きに続けて、実波はぼくの顎を指先で持ちあげた。混乱して、恥ずかしくて、何も考えられなかった。やめろと、制止の言葉を発することは出来なかったのに、それなのに。あんなことをされて、無意識のうちに、かすかではあるけれど、声を上げてしまった。
 なにより自分でも気付かないうちに、声を聞かれてしまったらしいことがとても、怖かった。
 ぼくは声を出してはいけないのに。黙っていなくてはいけないのに。だってそうしないと、そうしないと。
 鼻先がぶつかるほどの至近距離から、ぼくを見ているのだ。実波にも、ぼくが震えていることは分かっただろう。それなのに、そんな反応すら可笑しいと言いたげに彼は笑い、そのまま歯を食いしばったぼくの手を退け、唇を指でなぞる。
「川里じゃなくても、ちゃんと、俺にでも出せるじゃん?」
 実波はそのまま、震えるぼくの唇に、自分の唇を重ねてきた。――苦い。
 驚きよりも、恐怖よりも、重ねられた唇の感触よりも、何よりも先に、その苦さを感じた。混乱していたはずの頭が、妙に冷静にその味をとらえる。これは、そうだ、実波がさっき、呑み込んだ。
 これは、ぼくの。
「……っ!」
 その苦みの正体を知り、背中に寒気が走った。一瞬だけだったが、さっきよりももっと強く、気持ちの悪い苦い味が口内を侵す。
 差し入れられたそれは、きっと、実波の、舌だったのだろう。さらに深く、唇を割り込んできたものに、ぼくはとっさに歯を立てる。
「何すんだよ、いきなり噛むな、この馬鹿!」
 実波はすぐに唇を離し、ぼくに向けて怒鳴る。何するんだ、も、馬鹿、も、こちらの台詞だ。そう返す代わりに、ぼくは思い切り実波を突き飛ばした。今度は、肩を掴まれることも、逃げるなと捕まえられることもなかった。乱れた呼吸を整えようと、ひとつ、唾を飲み込む。気のせいかもしれないけれど、いまだにそれは苦く感じられた。
 実波はそんなぼくを、いつものような、ひとを馬鹿にした目で見ている。
 目の前のこの男が憎かった。そしてまた、いいように弄ばれて、それでもなお、こんな風に相手に余裕の表情をさせておく自分に腹が立った。許せないと、そう思った。その強い感情の矛先が、実波なのか、それともぼく自身に向けられているのか、どちらかは分からないまま、ぼくはありったけの力を込めて、実波の頬を殴り付けた。
 思ったよりも衝撃を与えられたらしく、実波は軽くよろめいて、頬を押さえた。それでもやはりその表情は変わらなかったけれど、全く痛くないということはないだろう。殴ったぼくの拳も、痺れて痛かった。
「結構可愛かったぜ、おまえの声」
 反撃に出られたら、負けずにもう一度殴ろうと思った。けれども実波は、静かに、そう言うだけだった。ぼくが背を向けても、それ以上何も言わず、追ってこようともしなかった。
  
 ぼくはその晩、何度も何度も胃の中にあるものを吐いた。それでも唇に残った苦さと、それが心にまで浸みてしまったような吐き気と、強く打ち付けられた後頭部の痛みは、治まらなかった。

 
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