index > novel > キミノコエ(21)



= 21 =

 聞こえるのは風の音。
 やがて遅れて、コンクリートの床が脈打つような、鈍い振動音が身体に伝わる。足下がすくわれそうになって、前のめりに倒れかけた身体を起こす。ちがう、地面が揺れているんじゃない。ただ、ぼくの心臓が鳴っている音だ。
「……っ、ど」
 どうして、こんなところに、いるの。
 そう声に出して聞こうと思った。けれども、最初の一文字を口にするだけで精一杯だった。朝から心に巣くっていた黒いものが喉元まで溢れて、息を塞いだ。少し落ち着いたはずの呼吸が、さっき全速力で階段を駆け上った時よりもずっと、苦しい。
 深呼吸をしようと、少し胸を前に傾けた。そのまま、重力に負けてしまい、コンクリートに膝を付いてしまった。
 純太は柵にもたれて、ぼくを見ている。ぼくが座り込んでしまったから、自然と、見下ろされる角度になる。その余裕を感じさせる笑みに、まるでぼくが彼の前に跪いているような気にさせられた。どうしてそんなに、得意気な顔をしているのだろう。
 声に出して、聞くことが出来なかったけれど、そもそも、どうしてこんな所にいるのだろう。聞きたかったけれど、今は息をするだけで精一杯だった。せめて、尋ねる意思を込めて純太を見上げたけれど、彼の表情は全く揺るがなかった。
 ……なにを、言いたいのだろう。何がやりたいのだろう。分からなくて、不安だった。これまでも何度も、純太が何をやりたいのか、何を考えているのか分からずに不安になってきた。今から、きっと、その答えをぼくは知ることになる。たとえそれがどんなに残酷なものでも、あるいは優しいものだとしても、これから、ぼくは、ずっと知りたがっていたその正体に向き合わなければならない。
 それから逃げることは出来ない。  
 でも大丈夫、実波が来る。もうすぐ、あと少しで授業が終わるから、そうしたらきっと、ぼくの送ったメールを見てくれる。おくじょうにいます、と、休んだはずのぼくからそんなメールが届いていたらきっと、彼は驚くだろう。驚いて、しょうがない奴、なんて笑って、いつものようにぼくに笑ってくれるだろう。
 ここに純太がいることに、その前でぼくがこんな無様な姿を晒していることに、怪訝そうに眉を寄せるかもしれない。景色がゆらゆらと、蜃気楼のように揺れて見える。地に付けた膝も揺れて、うまく身体を支えることが出来ない。
 純太がさっき電話で、あんなに穏やかに話していた声を思い出す。
(「……気をつけて」)
 純太があんな風に、度を越して穏やかで静かな声を聞かせてくれるなんて、滅多にない。それこそ、作ったような、何ものぞかせない平らな声。普段と違うもの。それを、そういう状態にあるもののことを、異常だと感じてしまうのは間違いではない気がした。
 自分が青い顔をしているのが、鏡なんて無くてもよく分かる。こんなところを実波に見られるのは嫌だ。けれども、もうすぐ彼がここに来てくれる、と、その希望だけがぼくを支えていた。他には、何も考えられなかった。
「どうして、こうなっちゃったんだろうな」
 純太がそう呟くのが聞こえた。
「おれたち、ずっとこれまで、仲良くやってきたのにな。……なんで、こんな風になっちゃったんだろうな」
 その言葉には、確かに後悔が滲んでいた。
 ぼくたちは、ずっとこれまで、仲良くしていた。してもらっていた。純太はぼくのことをほんとうは重荷だと思っているかもしれないと、そう怯えながら、それでも仲良くしてもらっていた。
 どうして、こうなってしまったんだろう。それはぼくが何度も、自分の心の中で繰り返してきたことだ。
 だから、それが純太の口から出されるなんて、意外だった。
 ――だって、純太。
 純太はぼくのこと、ほんとうに好きで、いままで一緒にいてくれたの。純太がぼくのことを、他の人にどんな風に言っていたか、それをいつの日か、ぼくが知ることになるとは、考えたことはなかったの。どうして、何がやりたくて、そんなことを続けてきたの。
 たくさんの言葉がぼくの胸の中を渦巻いていた。黒い霧が肺に流れ込んだように、胸が苦しくなって咳き込む。咳というよりも、うまく言葉にならない、音の破片のようなものが喉から漏れた。声になりたいと、そんな意思を持った気持ちたちが溢れるようだった。
 いつもならば、ぼくがこんな風に咳をしたりしたら、純太は駆け寄ってきて、ぼくの背中を撫でてくれる。そして、大丈夫か、とか、もう辛いことなんてないんだ、とか、そんな言葉でぼくを慰めてくれた。
 けれども今は、少しも動かずに、ただぼくを見下ろしているだけだった。
「やっぱり、おれが悪かったのかなぁ……」
 ぼくが咳込んでいるのなんて、何も目に入らないように、純太は先程の呟きを続ける。
 その声を否定も肯定もしない、無機質なチャイムの音が、空気を震わせた。
 チャイムを合図にしたように、ぼくの咳も治まる。やっと、昼休みだ。実波はぼくのメールを見てくれるだろう。そして、やがてここに来てくれるだろう。今日こそ、すべて、知ってもらえる。ぼくが純太に向けている眼差しと、実波に向けている眼差しが違うものだということを、あの鈍感な男にも分かりやすく伝えてやりたい。
「昼休みだな。おまえ、最近はいつも、ここに来てたんだって? おまえは身体弱いんだから、そんな、自分から風邪引くような真似止めとけよ」
 ぼくが落ち着いたのを見て取ったのだろうか。純太は、とっておきの悪戯が成功した子どものような、まったく邪気の感じられない笑みを浮かべた。とても、楽しそうだった。
「芝山が来るのを待つつもりか?」
 純太が実波の名前を口にする。その声はいつものように、彼のことを馬鹿にするように、嘲りを含んでいた。名前ひとつ呼ぶのでさえ、純太が実波のことをよく思っていないのがよく分かる。
 どうして純太が、そのことを知っているのだろう、と不思議に思った。
 ぼくが最近、昼休みを屋上で過ごしていること。ぼくから純太にそれを教えたことはない。誰かに、聞いたのだろうか。それに、どうして、ぼくが昼休みをここで過ごすことと、実波を繋げることが出来るのだろう。
 睨むようなつもりで、純太を見上げる。
「来ないよ」
 純太はぼくの視線をこともなげに受け止め、痛くも痒くもないとでも言いたげにひとつ肩をすくめた。
「……誰も来ない。あいつはおまえが学校に来てるなんて知らないから」
 何を言うのだろう。
 分からないことばかりだった。純太は何か、ぼくに見せたいものがあって、それを後ろ手に隠している。それをぼくに突きつけた時に、一体ぼくがどんな反応を見せるだろうかと考えて、ひとり楽しい気分になっている。そんな、ところだろうか。
 純太が何を隠しているのか分からなくて、ただ彼を見上げる。焦らすように、楽しみをもう少し後にとって置きたいとでもいうように、彼はぼくに向けて微笑んだ。
 そして、ゆっくりと、制服のポケットの中に右手を差し入れた。同じようにゆっくりとした動作で、そこから何かを取り出す。
 その手に握られているのは、銀色の小さな固まりだった。少し前に発売されたばかりの機種の、携帯電話だ。 
 ……ぼくはそれを、知っている。どこかで、見たことがある。
 ぼくの持つものよりずっと新しい。それに、純太の使っているものでもない。
 けれども確かに、見覚えのある、携帯電話。
 ぼくの表情を確認して、満足したようにひとつ頷いてから、純太はその画面を開いて、ぼくに見えるように差し向けてきた。
 そこには短く、こう、表示されていた。
 『おくじょうにいます』。
「誰も来ない」
 純太がその手にして、ぼくに今見せている携帯電話の画面に映っているもの。それは確かにぼくが送ったはずのメールだ。間違えて、純太に送ってしまった? そんな風に考えようとして、すぐに、それはただの希望に過ぎないと思い知る。
 あれは、実波の携帯だ。昨日、濡れた制服を着直すのに手間取っているぼくを、勝手にそのカメラで撮って遊んでいた。どんな写真を撮られたのか、見ようとして手を伸ばすぼくをかわして、得意そうに笑っていた。その彼が、確かに、持っていたはずのものなのに。
 どうして芝山実波の携帯が、純太の手のひらの中にあるのだろう。

 屋上まで、来ることすら、出来ない?
(「……おまえ、……、なんだって?」)
 何故か、ずっと忘れていたはずの人のことを思い出す。
(「おまえ、暗くて狭い所が怖いんだって?」)
 ちがう。どうして今、そんなことを思い出すんだ。あれは違う、別の人だ。昔の話だ。
(「なぁ、おまえ、なんで喋んねぇの。……隣のクラスの、川里とは喋ってるよな」)
 それなのに、どうして、名前すらも思い出せないあのクラスメイトと、こんなに芝山実波が重なるのだろう。
 あの同級生は、ぼくをロッカーに押し込んだ。次にぼくが彼を見た時、事故に遭ったと聞いて、何も不自然に思わないくらい、ひどい怪我をたくさんしていたようだった。事故だ。あの人は事故に遭った。だって、そう言っていた。ぼくに、誰かがそう教えてくれた。
 ……誰に?
 目の前で笑っている、純太を見上げる。
 ぼくが中学生の頃のことを思い出して、そのことを考えているなんて、純太に分かるはずもない。
 それなのに、純太はぼくの見上げる眼差しを受け止めて、静かに一度頷いただけだった。
 そうだよ、と、ぼくの考えていることを認めるように、何でもないことを認めるように、純太は頷いた。
(「ほんっと、おまえって蠍座……」)

「実波に、なにをしたの」
 自分でも驚くほど、強い声だった。誰か別の人がぼくの身体を乗っ取って、それで、声を出したのかと錯覚しそうなほど、ぼくの声は真っ直ぐに、純太に届いたはずだった。
 胸を満たす、不安な黒いものが、少しずつ追いやられて消えていく。かわりに、冷たくて、それでも柔らかい水のようなものが、ぼくの中で流れる音が聞こえた気がした。一瞬目の前がくらりと黒くなって、すぐに景色が蘇る。背筋に流れた冷たさが、ぼくの身体を支える。
 許せない。
 この気分は、美由紀のメールを受け取った時に似ている。純太に、ぼくのことを伝えてくれた美由紀から、ごめんね、と謝ってもらった時。ぼくのことを分かってもらえなかった、ごめんね、と、そう美由紀に謝られた時に感じたものと同じだ。純太が美由紀に何をしたのかは分からない。けれども、心か身体か、確実に傷つけられた人の言葉だと、なんの根拠もないけれど、ぼくはそれに気付いていた。
 純太はぼくを、他のすべてから守ろうとしてくれていた。ぼくはとても弱いから。こんな弱いものが、この世界で傷つかないように守ろうとするのは、きっとひどく困難なことだろう。だから純太は、一番確実な方法を選んだのだろう。
 世界と接触することが無ければ、その世界に傷つけられることもない。
 だからぼくは頭がおかしくて、近づいてくるものは皆傷つけようとしていると、そんな風に言い続けることを選んだのだろう。
 そして、その言葉を無視してぼくに近づいてくるものがあったら。それでも、純太が何よりも、弱いぼくを守ろうとすることを優先させるのだとしたら。
 たかがぼくひとりを守ろうとして、それで誰かをあんな目に遭わせるのだとしたら、……そんなものは、ぼくはいらない。
 そんな風には守ってもらいたくない。
「こたえて。実波になにをしたの」
 許せない。誰も傷つけることなく、生きていくことなんて出来ないのかもしれない。ぼくが、そうすれば上手くいくと思って、声を封じ込めたのだって、そうだ。そうすれば誰も傷つかずにすむと思った。だけど、実際にはどうだ。母さんはいつだって、そのことで自分を責め続けている。周囲の人に気を遣わせてばかりいる。純太のことだってそうだ。ぼくがこんな風になったから、彼をおかしな方向に導いてしまった。どんなやり方を選んだって、完璧な方法ではない。
 だけど、純太のしていることは、どうしても認められない。人を傷つけるなと、そんな風に偉そうにぼくが言えた立場ではない。
 ただ、こんなぼくのためを思って、そんなことをしてくれているのなら、それはひどい間違いだ。純太は何を勘違いしているのだろう。どうしてそんなに、懸命になって守ろうとしているのだろう。
 純太が自分の手を汚して守ろうとしているものに、そんな価値はない。どうして、ぼくのために、純太がそんなことをしてこなければならないのだろう。
 許せなかった。純太でも、世界でも、他の何でもない。ぼくはこの自分が、許せなかった。何もしてこなかった、固く身を縮めて口を塞いでいた自分のことが、どうしても許せなかった。
 立ち上がって、純太の真っ正面に立つ。彼を見上げる。
「純太」
 彼の名前を呼ぶ。
「……なぁ、真幸。やりなおそう」
 ぼくの声は確かに彼にも聞こえているはずだ。
 だけど、いつまでたっても、そこから純太の心に届かない。ただ音として受け止められているだけで、ぼくがどんなことを伝えようとしているのか、それが一向に受け止めてもらえない。
 純太は笑顔を消して、ぼくを見る。それはとても真剣な面持ちだった。
「どこからやりなおせばいいのかなって、ずっと考えてたんだ」
 バスケ部の大会に、何度か応援に行ったことがある。純太を応援する人たちの集まりから少し離れて、試合中のコートを眺めていた。試合の結果や、どこの学校が相手だったのか、季節はいつだったのか、そういった他の物事がなにひとつ記憶に残らないほど、ぼくはその時の純太のことを覚えている。真剣に、ひとつのことだけに集中する、ひたむきな表情。ゴールが決まった時の、一瞬だけ見せる安堵の緩み、すぐに試合の次の流れに気持ちを切り替えて、またきつく結ばれる唇。
 今ぼくを見ている純太の表情は、その試合の時に見たものに、似ていた。
「おまえ、入院してた時のことを覚えてるか? ……あの時、一度家に帰ったその後のことだよ」
 だから、純太が真面目に話をしていることはよく分かった。けれども、どうして急に、そんなことを言い出すのかは相変わらず分からなかった。入院した時のこと。
 あの時、一度家に帰った、その後のこと。あの時というのは間違いなく、ぼくが誘拐された、そのことを指すのだろう。だったら、その後、再び入院した時のことを純太は聞いているのだ。
 そんな風に、純太が当時のことをぼくに尋ねてくるなんて、思いもしなかった。純太はいつだって、ぼくから怖いものを遠ざけておこうとし続けてきた。だから、そんなぼくにとって、一番話題にしてはならないものごとだとして、決して、あの誘拐と、それに続く一連の出来事について何か言ってきたことなんてなかったのに。
 純太はぼくの顔を見ていた。ただ単に見ているというよりも、どちらかと言うと観察されているような気分になった。ぼくが、純太の言ったことに拒絶反応を見せなかったことで、安心したのだろうか。ひとつ、息を吐いて続ける。安心したのではなく、もしかしたら、少し落胆したのかもしれない。そんなニュアンスの含まれたため息だった。 
「ずっと目覚まさなかったよな。覚えてないかもしれないけど、すごく高い熱が出て、ずっと引かなかったんだ。いろんな管やら点滴やら一杯つけててさ。おれはおまえが死ぬんじゃないかと思ってた。少しでも目を離したら、その瞬間にでも死ぬんじゃないかって」
 それは、人から聞いた話でしか知らない、ぼく自身についてのことだった。
「一週間経って、おまえはやっと目を覚ましたんだ。おれのこと分かるかって聞いたら、点滴の針が刺さったままの手を伸ばして、おれの指をぎゅって握ったんだ」
 その時のことを思い出しているように、純太はぼくの顔から視線をそらして、どこか遠くを見るような目をする。あの目の先には、その日のぼくがいる。何も出来ずに、そしてこれからもずっと何もしないままでいようと、そう、ぼんやりと決めていた。何が起こったのかよく分からなかったし、これから何が起こるのかも分からなかった。何でもいいから、もう何もかもが早く終わればいいと、そんなことばかり考えていたような気がする。自分がそんな気持ちでいたことは覚えているのに、そんなぼくに毎日会いに来てくれたという純太についての記憶は、ひどく曖昧だった。けれど、手のひらは。
 少し大きくて、温かい手のひらの感触ならば、思い出せるような気がした。
 風が吹いた。純太の声だけが響いていた屋上に、しばらく静寂のみが流れた。
 純太が何を話したいのか分からない。ぼくの怪訝そうな顔を見て、純太は優しく笑った。
「……おれはその時に決めたんだ。おまえをこんな目に二度と遭わせないって。そんなことをする奴は、絶対に許さないって。そんな風に思ったのは、その時がはじめてだよ。だから、そこからやりなおそう、真幸」
 断定的なもの言いは、純太のいつもの喋り方だ。今になって、気付く。それはぼくの意見を尋ねている声ではなかった。
 純太が言うことは、純太の意思そのもの。
 一度彼がそう決めたことを、ぼくがどう言おうと、変えることは出来ない。
 それは命令だった。
「おれたちの一番最初から、やりなおそう」
 そう決めたから、そう従えと、純太はいつだって、そんな風に全てを導いてきた。

 一番最初から、やりなおす。すべて、その後に起こったことは、無かったことにする。
 そうして、また、上手く関係の取れた、いつでも一緒にいられた、ぼくと純太になる。
 ……純太が言いたいのは、つまり、そういうことなんだろう。それは、なんとなく分かる。
 けれども、それでは、一番最初というのは、一体、どこになるのだろう。
 純太がぼくの方に一歩足を進めて、手を差し伸べてきた。立ち上がれ、というわけではなさそうだった。ただ、ぼくが伸ばしたその手を取るのを、待っているようだった。
「……真幸。あの時から、やりなおそう」
 純太の言葉で、気付いたことがある。二度目の入院をしていたぼくの傍にいてくれた純太。ずっと目を覚まさなかったぼくが、目を開いて、その呼びかけに応えて、その指を握りかえした。その時から、彼の中にいるぼくは、今でもその時と同じ姿のぼくなんだ。
 純太にとってのぼくは、小さな身体を横たえる、少しでも目を離せばその隙にこの世界から居なくなってしまいそうな、そんな危うい存在であり続けている。純太の気持ちが、少しだけ分かったような気がした。同時に、純太が何を言い出したのか理解しようと努めて、それで少し落ち着いていた怒りが、また迫り上がってくる。
 だから、それが間違っているのだ。
 純太はどうして、これほどまでにぼくに縛られなくてはならないのか。ぼくが弱かった、だからあんな目に遭った。そのせいで、純太は決めてしまったのだと言う。ぼくを二度とそんな目に遭わせないと、そんな風に、ぼくを守ってくれることを決めたのだと言う。
 ……何か、閃きそうな気がした。何かの理由が分かったような気がした。
 けれども、一瞬記憶の中で弾けた気がしたその光が、何を示すのかまでは分からなかった。
「真幸」
 純太が、座り込んだまま動かないぼくに、手を差し伸べ続けている。
 この手を取れば、すべてが元通りに上手くいく。ぼくがこの手を取れば、純太は多分、美由紀のことだとか、その他のいろいろなことを無かったことにすると、そう言いたいのだろう。そして、ぼくは純太の望む通りに、彼を疑い、彼から離れようとしたことを忘れる。記憶を書き換えることは出来ない。お互い、何もかもを忘れて最初からやりなおそうという、純太が持ちかけてきたのは、一種の協定だ。
 だけど、そんなことをして、何になるというのだろう。
 分かっていない。純太はほんとうに、まだぼくのことを分かってくれていない。ぼくがあんな弱い姿を晒したせいで、彼はずっとそれに囚われ続けてしまっている。ひとりに出来ないと、目を離せば死んでしまうと、今、この瞬間でも、純太はぼくのことをそんな風に見ている。だからこそ、傍にいなくてはならないと。
「何も、なかったことにしよう」
 繰り返す純太に、ぼくはようやく、反応を返すことが出来た。しっかりとその顔を見上げて、首を振って、その手を断る。
 純太は意外そうに、ぼくが拒んだその手を強く握りしめた。唇が引き結ばれて、目の色が、少しだけ暗さを増した気がした。
 ……駄目だ。忘れることなんて出来ない。全部なかったことにすることなんて出来ない。
 純太が大好きで、純太さえいてくれれば、それでいいと思ってきた。ひとを好きになる気持ちを、純太に抱くもの以外に知らなかった。そんなぼくには、もう、戻れない。
「……じゅんた、きいて」
 ぼくは芝山実波を知ってしまったから。
「純太、ぼくの声、きいて」
 だから、今のぼくがある。ぼくはぼくのことが嫌いだ。弱いし、卑怯だし、勇気のない意気地なしだ。それは昔からそうだったし、今も変わらない。けれども、今のぼくは、そんな風に自分を嫌っているぼくのことも、嫌いだと思うようになった。変われるのに、そんな弱虫のままでいるぼくが嫌だと、そう思えるようになったんだ。
 それはみんな、実波のおかげだから。
 もう一度、首を振る。
「ぼくはもう、いやだ」
 こんな風に、ちゃんと、口に出せるようになった。頷くか首を振るか、他の誰にも聞こえないような囁きだけではない。
「純太に、そんな顔、させるのが、いやだ」
 自分の気持ちを、こんな風に伝えることだって出来るようになった。 
「だから、だめ」
 やり直すことは出来ない。
 純太は何も言わず、何の感情も読み取れない表情のままで、ぼくを見下ろしていた。その目は、ぼくが本音を告げる前と同じ、暗い色のままのように見えた。
 ……駄目だ。このままでは、きっと何を言っても駄目だ。そう思って、立ち上がる。足に力が入らず、ただ座った状態から立つだけの動作にも時間がかかった。立ち上がってからも、足が竦んで、少しでも気を抜けば、またしゃがみ込んでしまいそうだった。
 そうならないように、深く息を吐く。純太に少しでも近く、少しでも、ぼくの声が届きますように。
「実波になにをしたの」
 震えそうな身体を押さえるために、拳を固める。
「こたえて、実波になにをしたの」
 何度目かになるその声に、純太はやはり何も答えてくれなかった。ただ、まるでそれがうるさいとでも言いたげに、一度首を振るような仕草を見せるだけだった。
「真幸。……冷えてきただろ、戻るぞ」
 そのまま、まるで呆れたような息をひとつ吐いて、ぼくに背を向けてしまう。付いてこい、と言うように一度ぼくの方を見てから、校舎の中に戻ろうとする。
 もがくようにその後を追って、階段を下りる直前の純太に追いつく。制服の裾を掴んで、足を止めて振り向かせた。
「じゅんた、……純太!」
 彼は少し、驚いたような顔をしているように見えた。何に驚いたのかは分からない。ぼくの声が、これまでにない強い調子だったからかもしれない。叫ぶように激しく名前を呼んで、喉が灼けたように痛んだ。それでも、あくまでも、ぼくの声が聞こえないと言い続けるのなら、それはぼくを無視しているのだということになる。……ずっと、そうだったのだろうけれど。
 純太、ぼくはもう逃げないと決めたから。どんなに辛いことがあっても、もう、純太の後ろに隠れて、守ってもらわないと決めた。それは純太を見捨てることでも、純太から逃げたいわけでもない。ただ、前を向いていたいから。堂々と胸を張ってとまではいかないけれど、影に隠れるのではなく、隣に立って並びたいから。だから逃げない。
 だから、純太も、そう決めたぼくから、目をそらさないで欲しかった。ぼくを見て欲しかった。
「きいて、まって、純太。実波の」
 けれどもぼくが芝山実波の名前を口にすると、純太はまた、面白くなさそうな顔をして首を振った。もう話は終わっただろう、とそう言いたげな様子だった。何も終わっていないのに。何も話していないし、何も聞いていないし、何も聞いてもらえていないのに。
 足はもう震えていなかった。ただ、自分の気持ちをどうやったら伝えられるのか、そのことで頭が一杯だった。こんなにも、何かに対して必死になる自分がいることに、自分でもなんだか驚くような思いだった。
「実波のでんわを、どうしたの」
 どこで、彼から奪ったの。どうしてそれを純太が持っているの。
 実波になにをしたの。
 何度目になるだろう。同じ言葉を繰り返したぼくを見下ろして、純太が小さくひとつ舌打ちをするのが聞こえた。ぼくは背が低いから、たとえ立ち上がって、こうして近づいたとしても、やっぱり純太からは見下ろされるかたちになってしまう。それは最初からずっとそうだった。小さな頃から、初めて会った時からずっと、純太はぼくよりも背が高かったのだから。初めて会ったその時から今日までずっと、純太はぼくを見下ろして、ぼくはずっとうつむき続けていた。
「かえして」
 黙ったままでいる純太の腕を掴む。さっき、得意げにぼくに見せた実波の携帯電話を、制服のポケットにしまったのを見ていた。
 無視されるのなら、それでももう構わない。今はなにを言っても通じないなら、せめてぼくはぼくに出来ることをしたかった。
 違う。出来ること、ではない。ぼくがやりたいと望むこと、だ。
 純太が実波から、どうやってその電話を手に入れたのか分からない。想像したくないけれど、嫌なことがあったのかもしれない。それとも、それはぼくの考えすぎで、なにかもっと別の方法で、なのかもしれない。その経緯は分からない。
 だけど、純太はそれをぼくに見せるだけ見せて、そのままぼくの声も聞かずに、また行ってしまおうとしている。
 それは嫌だと、そう思った。ここでこのまま、何もしないままでいるのでは、今までのぼくと何も変わらない。
「かえして、返して」
 今度こそ、ほんとうに純太は驚いたようだった。ぼくがポケットに手を伸ばして、そこにある実波の電話を取ろうとしていることに気付いたのだろう。それを阻もうと、純太の手がぼくを引き剥がそうとする。突き放されて、数歩後じさる。思ったよりも強い力で押されたことに、少し動揺する。肩を掴まれたり、その手に力が込められたことはあったけれども、純太がこんなにぼくに対して乱暴に振る舞うのは初めてだった。その強い力に、彼の中にぼくの知らないものが多く隠れていたのだと、改めて思い知らされた。暴力や、激しい怒りのような、決して純太がぼくにはこれまで見せてこなかった、けれども確実に純太の中に存在しているもの。
 それが、実波や美由紀に向けられていたのだとしたら。それはぼくにも責任のあることだ。
 だから、ぼくはぼくに出来ることをしなければならない。
「かえして、かえして、純太、実波の電話を返して!」
 ひるまずに、もう一度立ち向かう。ぼくを離そうとする純太の手を右手で押さえて、左手を彼の制服のポケットに差し込み、指先で中を探る。純太がどんな表情をしているのかなんて、気にする余裕もなかった。ただ、そんな取っ組み合いのような状況になってさえも、あくまでも腹を立てていることを主張するように、何も言ってはこなかった。
 力の差は歴然としている。だから、純太がぼくの手を払って、またぼくを自分から引き剥がすのなんて、簡単なことだった。それでも、無理矢理に制服の端を掴んで、左のポケットの中に手を伸ばした。
「……やめろよ!」
 純太が一声、そう叫んで、ぼくを突き飛ばした。その、わずか一瞬手前、懸命に探っていたその手の先に、固いものが触れた。必死にもがいて、それをつかみ取る。純太がぼくを思い切り突き放したのは、それとまったく同時だった。
 ぼくたちがそんなことをしていたのは、屋上へと続く階段を上りきった、あとは屋上へ出る扉だけがある、狭い場所だった。数歩分もない先は、階段になっている。そんなところで、ふたりの人間が揉み合えば、そんなことが起こっても不思議ではなかった。
 けれどもぼくは、いろんなことで頭も心も支配されていたから、とてもそんなことまで考える余裕はなかった。
 純太も、もしかしたらそれは同じだったのかもしれない。普段の彼だったら、そんな危険な場所で、ぼくを突き放したり、そんなことはしなかったかもしれない。
 ……だから、やっぱり。少しは、純太も、ぼくの変化に動揺して、いたのだろう。
 突き飛ばされてバランスを崩しながら、ぼくは、妙に悠長に、そんなことを考えていた。

「真幸!」
 左の手のひらに、しっかりと握りしめる、少しつめたい銀色の携帯電話。実波のものだ。何故だか知らないけれど、実波ではなく、純太の手の中にあったもの。それを、ぼくは取り返すことが出来た。
 ぼくは取り返すことができた。
 そのことに満足して、自分のことなんて、全く考えもしなかった。
「……真幸!」
 純太がぼくの名前を叫ぶ。その声に、焦りのようなものが含まれていることに気付き、何があったのだろう、と彼を見上げようとした。
 がくんと身体が揺れて、そのまま、後ろに倒れそうになった。
 こんな狭いところだから、すぐに壁に背が付く、とそう思って、そしてすぐに自分の思い違いに気付く。足下に、なにもない。
 ぼくの後ろに、壁はなかった。
 純太がぼくに向けて、手を差し出していた。咄嗟に、それに掴まる。足の爪先だけが、床に触れている。
 揉み合っている内に、いつの間にか、階段の淵にまで来ていたのだ。それで、ぼくが純太に掴みかかって、それを純太が突き放して、……それで、ぼくは今、階段に後ろから落ちそうになっていた。
 それを、純太が手を伸ばしてくれたから、その手に助けられた。
 純太の顔を見る。ぼくの体重だって、彼に比べたら重くはないかもしれないけれど、それでも片手で支えきれるものではないはずだ。それでも、ぼくが掴んだ右手で、ぼくが辛うじて落ちないように、助けてくれている。
 ……ああ、さっき純太の言っていたのと、同じだな。そんなことを思った。
 ぼくはあんまりよく覚えてはいないのだけれど、純太の中では、色濃く鮮やかに残っているその記憶。
(「一週間経って、おまえはやっと目を覚ましたんだ」)
 純太の手を強く握る、ぼくの指。
(「おれのこと分かるかって聞いたら、点滴の針が刺さったままの手を伸ばして、おれの指をぎゅって握ったんだ」)
 ……その時と、まったく、同じだ。
 その時から止まってしまった、純太の時間。
 純太の中のぼくは、純太の指を握りしめて放せないでいる。それに純太は戸惑い、時には重荷に感じることだってあっただろう。自分の指ごと切り捨ててしまいたいと思ったことだって、何度か知れず、あっただろう。
 それでも、ずっとぼくに優しくしてくれた。他の人に、どう言っていたとしても。心の底では、ぼくのことを邪魔だと感じていたのだとしても。
 純太がぼくを見捨てないでいてくれたから、ぼくはここまで、来ることが出来た。実波が、ずっとぼくの声を諦めないで待っていてくれたことのように。そのおかげで、もう一度、声を出すことが出来るようになったことのように。
 ぼくはやっぱり小さくて、弱い。
 だけど、ぼくの中には、ふたりから貰ったものが、たくさん積もっているから。声も、優しさも、何もかも、みんな大事にぼくの中に残っているから。だから、生きてゆける。
(「……おれの指をぎゅって握ったんだ」)
 純太。……純太、これでもう、自由になれるよ。
 だから、あの時から止まってしまったままのぼくの時間を、先に進めてほしい。
 純太がそばにいてくれたおかげで、傷が十分に癒えた姿を見てほしい。
 何もかもを無かったことにして、やり直すのではなくて。
 一緒に、先に、進もう。
 
 ぼくが何を考えているのか、それが顔に出ていたのだろうか。純太が、ぼくの名前を強く叫んだ。
「真幸!」
 そう言えば、美由紀にも言われた。ぼくは喋らないけれど、その分、感情がとても顔に出るって、そんな風に。だったら、今、純太にぼくの感じていることの全てが伝わるだろうか。そうであればいいと思った。思って、名前を呼んでくれたその声に、微笑んで純太の顔を見上げる。
 毎日顔を見ていたはずのその顔を、とても、なつかしく感じた。もう随分と会っていなくて、久しぶりに顔を見られたような気がした。
 とても険しくて、少し怒っているのだろう、眉間に不機嫌そうな皺が寄っている。奥歯を噛んでいるのか、頬が緊張しているように固い。ぼくを見る、昔と少しもかわらない瞳。
 その目の中に、さっき、心の中に感じたのと同じ光を見つける。ぼくが瞬間、何か掴みかけた気になって、それ以上追いかけられなかったもの。それを、純太の目を通じて、彼の心の中に見つけた。それはずっと、ぼくが探していたものだ。
 ――ああ、そうか。
 その顔を見て、やっと分かった。
 ずっと探していた言葉。ぼくが、純太にほんとうに言わなければいけなかった言葉が何なのか、やっとそれを見つけた。
「純太」
 凍り付いたように、表情だけでなく身体全体を強ばらせたまま、純太は黙ってぼくを見ていた。いつもの純太ならば、ぼくをこんな状態のままにして硬直しているなんて、考えられない。それが何だか嬉しくもあった。嬉しくて、だけど、その分だけ純太の抱えてきたものの重さを思い知らされた。笑って、言おうとした。そんなことを気にしていたなんて、ばかだなって、実波がいつでもぼくの小さな悩みを笑い飛ばしてくれるように。そんな風に軽く笑って、言おうとした。
「……じゅんちゃん」
 だけど、うまく笑えなかった。ごめんね、と言いたかったけれど、それは声にならなかった。声は出せるのに、それ以外のものが胸を占めて、苦しくも痛くもないのに、何故だか泣きそうになってしまって、喉に詰まってしまった。
 だからせめて、せいいっぱいの笑顔を作った。
 純太。
 ずっと言ってあげられなくて、ごめん。
「じゅんちゃんが、悪いんじゃ、ないよ」
 固く動かなかった純太の指が、瞬間震えた。微笑んで見上げるその顔の、なつかしい目を探る。
 ……やっと、届いた。
 それだけを確認した。それで十分だった。 
 
 もう一度純太に向けて笑って頷いてから、ぼくは強く握りしめていた、その手をそっと、放した。


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