index > novel > キミノコエ(18)



= 18 =

 ――まさきくん。真幸くん、今日、お家に帰れるからね。よかったね。
 白い壁、白い天井、白い光。
 四方を閉ざされた暗闇の記憶を抜けると、そこは瞬時に目映い光に満ちた世界に転じる。どこにも暗さの存在しない、真っ白な場所。白い壁に、白い天井に、白い光の病室。そこは夜でも明るかった。暗闇に包まれるたびに泣き喚き、息が上手く出来なくなるぼくのために、特別に、照明を付けたままにしていてくれたのだと、今ならば、そう分かる。
 けれどもあの頃は、そんなことまで、考えることが出来なかった。
 ――それでね、真幸くん、おまわりさんにひとつ、教えてほしいことがあるんだけど、いいかな。
 大きな体を折り曲げるようにして、ぼくに目線を合わせてくれたその人の声。
 二度と家に帰れないかもしれないとそう思っていた。それなのに、この人は、ぼくが家に帰れるのだと、そう教えてくれた。家に帰れる。家に、帰ることが出来る。
 身体のあちこちが痛くて、頭がぼんやりとして、それだけの言葉を理解するのに、とても時間がかかった。
「おまわりさん」
 そして、理解したその後に、また時間をかけて、ひとつのことを思い出す。
「……ぼくのランドセルをしりませんか」
 ――真幸くん、お医者さんから聞いたんだけどね。真幸くんは身体のいろんなところに怪我した痕があるよね。火傷とか、どこかにぶつけたみたいな痕がたくさんあるよね。
 優しく、ゆっくりとそう話してくれる声。答えてくれない刑事さんに、もしかしたらぼくの声が聞こえなかったのかもしれないと思い、もう一度、繰り返す。ぼくのランドセルを知りませんか。
「おとうさんに、買ってもらったんです。だいじなランドセルなのに」
 ――真幸くんはあの悪いおじさんに、かわいそうに、ひどいことをたくさんされたよね。痛いこともされたよね。……でも、それだけじゃないよね。真幸くんの身体には、それよりも前から、たくさん怪我した痕があるよね。
 答えてくれない。この人は知らないんだろうか。……どうしよう、どこに置いてきてしまったのだろう。
「おまわりさん」
 ――かわいそうに。……あれは全部、お父さんに、されたんだよね。
「……ぼくの、」
 ――とても怖くて、悪いお父さんだよね。だから、おまわりさんたちが真幸くんを助けてあげるから。あの悪いおじさんや、真幸くんを虐めるお父さんから、真幸くんを守ってあげるから。
 ランドセルをなくしてしまった。せっかく、おとうさんがぼくに買ってくれたものなのに。大事にしろよって言って、笑ってくれたものなのに。それをなくしてしまうなんて。……ぼくは悪い子だ。悪い子だから、叱られるのは当たり前のことなのに。
 それなのに、どうしてこの人は、ぼくじゃなくておとうさんが悪いなんて、そんな風に言うのだろう。
「おまわりさん、ぼくの、ランドセルを、しりませんか」
 何度もそう尋ねたけれども、その人はただ困ったように笑うだけで、ぼくの質問には答えてくれなかった。
 ――真幸くん、真幸くんは、お父さんに虐められているんだよね。悪いお父さんだよね……。
 その通りだと頷くのを待っているように、何回もそう言われた。
 ぼくはと言うと、刑事さんのその問いかけには何も答えることが出来ず、ランドセルをどこに落としてしまったのだろう、と、ずっとそのことだけが気がかりで、たまらなかった。

 雨はまだ止まない。
 窓は閉まっているだろうのに、それでも外から雨音らしきものがかすかに聞こえてくる。どうしよう、傘を持ってこなかった。……ああでも、それならば、こんな風にずぶ濡れで帰っても不自然ではないだろうか。
「……っ」
 雨に濡れた布地は肌に張り付き、なかなか簡単には剥がれない。
 そのことに苛立つように、まるで何かに急かされているような手つきで、実波はひとつずつぼくのシャツのボタンを外していった。彼の前髪から滴る雫が、開いたシャツの隙間からぼくの肌の上に落ちる。全身濡れたせいだろう、それを特に冷たいとは思わなかった。
「あ……!」
 雫が落ちた。ただそれだけのことなのに、実波の指に触れられているわけでもないのに、身体が震える。寒さのせいのような気もするし、そうではないような気もした。濡れた髪も服も、何もかもそのままに、手を引かれるままに招き入れられた彼の部屋。床を濡らしてしまうよ、と首を振ってそう伝えようとしたけれど、実波はまるで、何も目に入らないかのようにただぼくの手を引くだけだった。明かりも付けない、昼間だというのにカーテンを閉めきったままの薄暗さの中、初めて目にする彼の部屋を見回す余裕もなかった。
「っ、や、――み」
 ボタンがすべて外された。水気を吸って重たくなったシャツを脱がされると、余分に纏っていた皮膚を剥がされたような感触がした。肋骨をなぞるようにして胸を探ってくる性急な指に、このままでは嫌だと伝えたくて、その名前を呼んだ。
「みなみ」
 今、それを妨げるものは、ぼくの中には無かった。息を吸って、喉を開いて、自分の中から音を引き出す。それはもう随分と長くぼくの中に仕舞い込まれていたはずなのに、不思議なほどに、どこにも軋みのない滑らかなものだった。もしかしたら、彼の名前の響きの柔らかさのためかもしれない。それ以外の、その後に続けようとした言葉は、喉に引っかかるようなかすれた声になってしまった。
「みなみ、も」
 同じでなければ嫌だと、手を伸ばして、彼の服の裾を引っ張る。しばらく、その動作が何を示すものなのか考えを巡らせたのだろうか。やがて実波は黙ってぼくを見たまま、セーターを脱いで、それを床に放り投げた。分かってもらえた。同じでなければ嫌だと、伝わった。
 そのことが嬉しくて、もう一度、小さく彼の名を呟く。
「……みなみ」
 ほんとうは、もっと言いたいことがたくさんあったはずだった。特別重要なことではないけれど、彼に聞いて欲しいことがあったはずだった。それなのに、口を開いても彼の名前しか出てこなかった。不思議な音を持つその名前を繰り返していると、他に何を言いたかったのか、すべて忘れてしまった。
 床に直接置かれたマットレスはとても柔らかくて、ぼくの身体を受け止めるままに沈む。何か特別な運動をしているような話は聞いたことがないけれど、実波の上半身は均整が取れていて、とても綺麗な身体だと思った。触れてみたくて手を伸ばしかけると、それよりも先に実波の両手で頬を包まれる。筋張っていて、大きな手。それは純太の手よりも少し小さいことを思い出す。ぼくを冷たい壁に叩きつけた、蜜柑の白い筋を神経質に取っていた、屋上から痕が赤く残るほどの強い力で、ぼくの手首を引いて放さなかった手。
 その手の主が、ぼくを見下ろす。どこか不機嫌そうに見えていた強ばった表情が、空気が抜けたように少し緩んだ。
「おまえの声って、猫みてぇ」
 穏やかにそう言って、実波は笑みを見せた。もうずっと、そんな風に彼が笑った顔を見ていなかったような気がして、ただ微笑んでくれただけのことなのに、何故だか泣きたいような気持ちになった。
「ねこ」
 言葉を覚えようとする子どものように、その単語を反復する。耳に入る自分の声は、確かにすぐ傍で聞く実波の声よりもずっと幼く、頼りないもののように思えた。
 また、一拍ほど間を置いてから、そう、と実波は頷く。
「ちっちぇやつ。生まれたばっかって感じの」
 猫。……以前、彼の口から同じようにその言葉が出されたのを思い起こす。道の真ん中で死んでいた猫。そのことに、ひどく心を乱された様子だった実波。猫のようだ、と口にしたその声から伝わるのは、喜び、のように思えた。
 音をひとつ発するごとに詰まり、つっかえながらも、どうにか声を紡ぐ。
「ねこ、すき、なの」
「や、おれ犬派だし」
 ……相変わらず話の繋がりが分からない。ぼくがただ黙って話を聞いていた時は、ひとりで喋ってもらっているのだから、それも仕方がないかなと思わされたけれども。別に、ぼくがその話にどんな受け答えをしても、それは変わらないようだった。そのことに、思わず笑ってしまう。
 けれども、笑ったぼくを見下ろす実波は、何故だかまた、少し表情を固くした。
「……おまえ、何だって?」
 そして、そうやって聞いてくる。何か、ずっと気にしていたことを尋ねてきたような、そんな言い方だった。
 何のことを言っているのか分からなくて、ぼくは彼を見上げる。すると実波は、もう一度、今度は少し違う聞き方をしてきた。
「だから、おれのこと、何だって?」
 そんな風に付け加えてもらっても、しばらく、思いつけずにいた。
 実波はそれで、黙ってしまう。ぼくの返事を待っている。その目がどこか、不安そうにも見えた。
 その弱い目を見て、思い出す。おそらく、実波がもう一度、確認を取ろうとしていること。きっとそれは、声に出して告げることが出来たぼくの最初の言葉だ。どうしてそんなことを聞いてくるのか分からなかった。もしかしたら、よく聞こえなかったのかもしれない。上手く音に出来ていた自信はないから。
 ぼくは、きみが、好きだ。
 彼の耳に唇を寄せて、今度は声にせず、そう囁く。すると実波は、何が面白くないのか、少しむくれたような顔をした。
「おまえ、誰にでも言ってんだろ」
「……ち、が」
「分かったよ、そんな顔すんなよ。……あのな、分かったから。だからそんなこと、あんま何回も言うなよ」
「ど、して」
「分かんねぇなら、いい」
 両頬を包むその手に顔を押さえられたまま、唇を貪られる。最初は軽く、伺いをたてるように触れてきた実波の唇は、徐々に深くなる。
「――、っ、ア」
 舌先で歯列を撫でられ、その慣れない感覚に悲鳴にも似た息を上げてしまう。それがまるで、許しを与えようとしているかのように聞こえた。喜びと、もっとその先を、と乞うものの声だ。もっと。もっとその先を。
 比べる対象を持たないから分からないけれども、それでも、実波はきっと、キスがとても上手い。舌を擦り合わせ、絡められ、決して痛みまでは感じさせないよう、加減してやさしく歯を立てるそのキスがこれほどまでにぼくを溶かすのは、ひとえに、彼が上手だからなのだろう。
 ぼくの反応を引き出そうとするように、試されるように弱くなったり強くなったりする口づけに、漏れる息を押さえることができなかった。実波はぼくの声のひとつひとつを、吐息ごと呑み込んでしまおうとしているように、何度も何度もその唇を重ねてきた。
「な」
 彼が離れる。すぐ近くから、まだ簡単に唇が触れ合いそうな近さから、そっと、内緒話をされるように、実波はぼくに囁いてきた。
「……最後まで、してもいいか」
 口にした後、まるでそのことに照れたかのように、真っ直ぐに合わされていた目が少し逸れる。
 最後まで。以前もそう言われた。今度、最後までしてみるかって、いつもの調子で軽く言っていた。あれはきっと、冗談だったと思うけれど。今は、違う。耳元で乞われたその声には、押し殺したような彼の心が滲んでいた。何かを欲して、強く求めている声だった。
 最後。具体的には口にされないその行為を想像してみる。……そんなことに詳しいわけではないから、よく分からないけれど。そんなに、簡単に踏み切れるようなものではないことぐらいは、ぼくにだって分かる。
「……い、たい?」
 そう尋ねると、実波は面食らったような顔をした。その顔を見て、自分の言ったことの情けなさを思い知る。……なんてことを聞いてしまったのだろう。
 しばらく何か考えたらしい後に、実波はぼくの額にかかった前髪をそっと指先で払いながら、口を開いた。
「そりゃ、痛いだろ。そういうことに使うもんじゃねぇんだし」
 思った以上に身も蓋もない答えが返ってきて、今度はぼくの方が面食らった。いつものような、彼が普段から口にしてばかりいる意地悪や皮肉なのかと思ったほどだった。そんな言い方をして、ぼくの意気地のなさを笑っているのだろうかと、そんな風に思わされてしまったほどだった。ぼくを見る実波が、ひどく真剣な面持ちをしていたから。
「……おまえが嫌だって言うなら、やめるから」
 その声もまた、真剣なものだった。それが、彼の心からの言葉だからなのだろう。ぼくのことを思い遣ってくれているからこそ、聞いてくれている。芝山実波が、そんな風に気遣ってくれる優しさを持っていることを、今のぼくは知っている。
「みなみ」
 痛いのは平気だ。我慢することが出来るし、じっと耐えていれば、きっといつかはその痛みも薄れてくれる。ぼくはそのことをよく知っている。
 実波はただぼくを見ていた。何も言わずに黙って、ぼくの答えを待っている。もう、眼差しや唇の動きを読んではくれない。ぼくが声に出して、彼に差し出す答えだけを、待っている。
 ……痛いのは平気だ。誰に何をされても、大丈夫だったのだから。これまでもずっと、我慢することが出来たのだから。だから、ぼくのことなど気にせずに、実波の望むようにすればいい。
 痛いのは平気だ。だから大丈夫だよ、と、実波にそう伝えようと思った。
 ぼくを真っ直ぐに見るその目から逃げずに、大丈夫だよと答えようと思って、口を開いた、のに。
「……い、やだ」
 そこから溢れたのは、違う言葉だった。
「いやだ」
 どうしてそんなことを口にしてしまったのか分からなかった。
 実波を見上げる。ぼくを見つめてくる彼の顔が何故だか急にぼやけた。ひとつ瞬きをすると、目の縁から冷たいものが頬を伝うのが分かった。また泣いている。こんなに泣いた顔ばかり見せて、実波に呆れられてしまう。そんな自分をみっともないとは思ったけれど、どうして涙が流れるのかが分からなかった。口をついて出た、その拒絶の言葉も、一体ぼくのどこから出てきたものなのか、分からなかった。
 それなのに、声だけが勝手に溢れた。
「いやだ、きらいだ、痛いのはいやだ……!!」
 そう叫んだ喉の奥が熱かった。口に出せたのは叫びと呼ぶにはあまりにもかすかな声でしかなかったけれど、そう実波に告げた言葉が、ぼく自身に遅れて届く。
 いやだ。嫌いだ。痛いのはいやだ。
(「真幸くんは、お父さんに虐められているんだよね。悪いお父さんだよね……」)
 ――そうだよ。そうだよ、平気だなんて。痛いのが平気だから大丈夫だなんて。
 そんなのみんな嘘だ。そうだ、嘘だ、ほんとうは少しも平気なんかじゃなかった。
(「おれが何をしたって言うんだ。畜生、おまえのせいで」)
 我慢なんてしたくなかった。痛いのなんて大嫌いだった。
(「全部おまえのせいだ。どうしてくれるんだよ……!!」)
 いやだ。いやだ、いやだ、嫌だ、痛いのはもう嫌だ。
 大丈夫なんかじゃなかった。じっと耐えていれば痛くなくなるから平気だなんて嘘だ。だって。だってずっと我慢しているのに。今までずっと我慢し続けてきたのに、それなのにいつまでたっても、今になっても全然痛みは消えてくれないのだから。ぼくはちっとも強くないから、とても弱いから。だから、ほんとうは痛いのなんて大嫌いなままなんだ。
「あー、ほら、分かった、分かったから。しねぇよ」
 ぼくは実波に情けないところを見せてばかりだ。それは嫌なのに、涙を止めようと懸命に努力しているのに、実波は決してぼくに、泣くなよ、とは言わなかった。
「……ちゃんと言えたな。そうだよ、そうやって泣きゃいいんだよ」
 それどころか、偉いな、と褒めるような調子で、泣き止めないぼくの髪を撫で続けてくれた。
 ごめん、と謝らなくてはいけないと思った。実波が求めたものを許してあげられなくて、きっと辛い思いをさせてしまっている。それなのに、ぼくがこんな風に泣くから、嫌だなんて子どもみたいに言って拒むから、実波は笑って、分かった、と言ってくれた。ごめんなさいと言いたかったのに、それすら言葉にならなかった。
 嗚咽が治まらずにいるぼくを横抱きにするようにして、実波はぼくに優しく触れるだけだった。肌の熱を直に感じて、その温もりに、凍えた身体の奥で心臓が一瞬縮む。子どものように声を上げて泣きながら、実波もぼくと同じように雨に濡れたはずなのに、どうしてこんなに温かいのだろうと不思議な気分になっていた。南風の温い熱に涙で濡れた頬を寄せると、実波はぼくを両手で受け止めてくれた。
「ほんと、猫みてぇ」
 ぼくはぼくの声を、喉の奥に封じ込めた。そこにはいつでも冷たく固く、ぼくの声を塞ぐ氷があった。それはぼく自身が作り出した、こんな風に弱くて駄目な自分を閉じこめるために作った栓だった。けれどももう、それは無くなった。ここに、それを溶かした熱がある。
 ぼくが見るあの暗い場所の夢と、今のぼくがここにいるという現実。ぼくはその境目に何度も惑って、結局いつまでもあの日と今とを隔てられずにいた。背が伸びて、高校生になって、それでもまだ、そんな自分のことを信じられずに、どこか夢を見ているような、そんな気でいた。
「おい、大丈夫か、息出来てんのか、おまえ」
 夜はまだ明けていないのかもしれない。
 ぼくはこれからも、夢を見続けなくてはいけないのかもしれない。
 それならば、せめてぼくは。
 過ぎた悪夢を繰り返しなぞり続けるのではなく、
「ほら、ちょっと落ち着いて、一回息吸えよ、な、……真幸」
 ……せめてぼくは、この男の夢を見よう。
(「まことのさいわい、って、いい名前だよな」)
 実波。
 夢でもいい。この熱さと、きみの声だけを、ぼくは永遠に繰り返し続けよう。

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