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= 16 =

 沈黙を破ったのは、小さな電子音だった。
「悪い、おれの」
 そう言って、それまで黙っていた実波が席を立つ。制服のポケットから携帯を取り出しながら、彼はひとつため息をついた。……電話かな。誰から、だろう。あまり気乗りしない様子で立ち上がった実波を見て、そんなことを考える。ぼくは実波のことを、何も知らない。
 実波は電話を手に、ひとりで二階のフロアを出て行く。ぼくたちに気を遣ったのか、あるいは会話の内容を聞かれたくないからか、どちらかは分からない。
 ぼくと、美由紀だけが残った。
「春日くんて、綺麗ね」
 ふいに、それまでうつむいていた美由紀が、そんなことを言ってくる。
「いつも、下向いてることが多いからあんまり分かんないけど。……だからかな。嫉妬してたのはあたしの方」
 何に嫉妬をするのかは分からなかった。けれども、それを尋ねることはしないで、代わりに正直な気持ちを文字にして伝える。
 『七坂さんはすごくきれいだよ』
 ぼくのその文字を見て、美由紀はありがとう、とかすかに微笑んだ。謙遜してぼくの言葉を打ち消すわけでもない。きっと他人から、こういう事を言われ慣れているのだろう。
 ぼくの書いたメモに目を落として、美由紀はその一部分を指差す。納得がいかない、というように、きれいな形をした爪で、数回そこを叩いた。ぼくが『七坂さん』と書いた箇所だった。
「美由紀」
 一瞬、彼女が何を言いたいのか分からなかった。ぼくの顔を見てそのことを察してくれたのだろうか、美由紀はメモを指していた指を、自分のほうに向ける。
「美由紀、でいいから」
 その他は許さない、と言うように、強い口調。
 七坂さん、ではなくて、美由紀、と、そう呼べといいたいのだろう。
 前から知ってはいたけれども、こうしてまともに顔を合わすのは初めてに近い相手だ。突然、名前で呼ぶように言われても戸惑ってしまう。相手がそれを望んでいたとしても、いきなり名字にさん付けから、名前を呼び捨てにすることは出来なかった。
 『みゆきちゃん?』
 これで許してもらえないだろうか、と、そう書いて見せる。口に出せたわけでもないのに、なんだか恥ずかしくなってしまった。女の子にそうやって親しく呼びかけたのなんて、もうずいぶんと昔のことだ。
 美由紀は納得したように頷いてくれた。
「そう、それでいいから。……あたしね、ずっと、春日くんは純太のことが好きなんだと思ってたの」
 以前、そんなことを他の誰かにも言われたような気がした。
 『すきだよ』
 だからぼくの答えも、その時と全く同じだった。答えは変わらない。純太がぼくのことを好きでないにしても、ぼくが純太のことを好きであることは、今も変わりはないのだから。
 すると美由紀は、ぼくの答えと、ぼくの顔とを交互に見比べて、少し困ったように笑った。
「違う。違うの。あたしが純太のことを好きなのと同じ意味で、春日くんも純太のことを好きなんだって思ってた。でも、違うのね」
 美由紀が純太のことを好き、というのは、恋愛感情、ということになるのだろう。
 ぼくは確かに純太のことが好きだけれど、それはたぶん、恋愛とは違うと思う。どう言い表したらいいのか、的確な言葉は思い当たらないけれど。……たぶん、彼女の言うことは間違ってはいない。純太について、美由紀の『好き』と、ぼくの『好き』は、異なる。
 そうだよ、と、美由紀に頷こうとした、その時。
「春日くんには、別に好きな人がいるんだ。――でしょ?」
 思いもかけないことを、言われた。
 好きな人。誰が? ……ぼくに?
「自分では分かってないかもしれないけど、春日くんって、喋らない代わりに、なんて言うのかな。目かな。目とか表情に、ものすごく気持ちが出てる感じ。あたし、こういう勘って結構いい方なの。ね、そうなんでしょ?」
 楽しそうに、少しだけ声をひそめて、美由紀はもう一度ぼくに確認を取ってくる。ほんのさっきまでは、ぼくのことを鋭く睨んできたその瞳が、今は柔らかく細められてぼくを見ている。そのことにとても不思議な気分になりながら、遅れて、美由紀が何を言いたいのかを考えようとする。
 『わからない』
 美由紀が何を言おうとしているのか分からない、と、そう伝えるつもりだった。ぼくが誰かに恋をしているなんて、どうして急にそんなことを言い出すのか、それが分からないとそう伝えたかった。
 けれども美由紀は、ぼくが書いたその文字を見て、意外そうに瞬きをした。
 どうしてこんなに簡単なことが分からないの、と、そう言いたげな口調で、なんの躊躇いもなく、彼女はその名前を告げてきた。
「だって春日くんは、芝山のことが好きなんでしょ」
 それがあまりに予想もしなかった言葉なので、ぼくは咄嗟に反応することも出来なかった。
 芝山。……芝山、実波? 美由紀は何を言っているんだろうか。ぼくが、実波のことを、何だって? 
 好きな人。芝山実波のことを、ぼくが。ぼくが、好きだと、そう言っているのだろうか?
 ぼくが、実波を。――そんな、こと。
 美由紀のその言葉は危険だと思った。ぼくがいままで、正体を知らずにいたもの。ぼくの心の中にあるそのものに、名前が与えられてしまう。
 どうしてあの声がとても心に残るのか。ぼくがどうして、その残滓にとても安心することができるのか。良い名前だと褒められて、声が好きだと言われたそのことに、顔を見せたくないほどに心が騒いでしまうその理由。夢の中でさえ、彼の手を掴み損ねたことにひどく哀しくなってしまう、その名前のない感情の正体。
 美由紀のその言葉はとても危険だ。ぼくの中に残る実波の声に、それは恋だと、そう名付けられてしまう。恋。……ぼくが、実波に?
「やだ、かわいい。そんな赤くならないでよ。大丈夫、言わないから」
 美由紀は軽やかな声を立てて笑った。さっき、あんなに泣きそうな弱々しい顔をしていたのに。もう二度と、笑顔なんて見せてもらえないとすら、そんな風に思わされたのに。……女の子って、こわい。
 目や表情に感情が表れている、と美由紀にそう言われてしまった。もしぼくにそんなつもりがなかったとしても、美由紀にはぼくの顔がそんな風に見えたということになるのだろうか。実波に恋をしているような、そんな顔をしていたというのだろうか。なんだか泣きそうな気分になりながら、どうにか彼女の興味を別の方に向けようとする。
 『みゆきちゃん』
 そして、思い出す。そうだ、こんなことを話している場合ではない。今日美由紀にここに来てもらったのには、ちゃんとした目的があったのだから。
 『ぼくは純太にわかってほしいことがある』
 そのことを、ぼくからではなく美由紀から伝えてもらおうと思っていたのだから。
 純太の名前を見て、美由紀も少し表情を固くした。さっきの実波の話を、思い出したのだろう。それでも、なあに、と、ぼくの言葉の続きを促してくれた。
 『ぼくはひとりでも平気だっていうこと』
 傍にいて、守ってもらわなくても大丈夫だから、ぼくから自由になって欲しいということ。
 そして、もうひとつ。
 『芝山実波はわるいやつじゃないこと』 
 実波の名前を書くとき、美由紀に言われたことを頭がよぎって、少しだけ字が震えた。
 それを見せると、また美由紀は意味深に頷きながら、そうよねそうよね、と妙に嬉しそうに繰り返した。文字の震えから、ぼくの揺れた心までを読み取られてしまったようで、恥ずかしくなってまたうつむいてしまう。
 そんなぼくを見て笑ったあとで、美由紀は、いいけど、と不思議そうに聞いてきた。
「でも、どうして自分で言わないの。春日くんは、純太にだけは、ちゃんと話せるのに」
 ちゃんと話せているわけではない。ぼくは純太にすら、囁くことしかできていない。
 それに、ほんとうに伝えたいことを言えているわけでもない。分かって貰えるのでなければ、それは伝えていることにはならないから。今のぼくには、それは無理なように思えた。
 だから、美由紀に相談することを決めたのだ。
 『ぼくがいってもきっとだめ』
 純太は優しいから。ぼくがどう言っても、そんな風に気を遣うな、といつものように笑い飛ばされてしまうだろうから。
 けれども別の人間から、それは真実だと純太に教える人がいてくれれば。
 『でも、みゆきちゃんがいってくれるならちがうはず』
 そうすれば、純太だって、それを受けいれてくれるかもしれない。ましてや美由紀は、純太の恋人なのだから。彼女の言葉でそう言われたならば、ぼくはほんとうに純太がいなくても大丈夫なのだと、そのことを分かってもらえるかもしれない。
 それがぼくの考えだった。けれども美由紀は、ぼくのそのお願いに、小さく首を傾ける。
「違うかな。純太は自分で決めると、譲らないところがあるし。……そうじゃない?」
 ……全くその通りだった。ぼくも、その意思の強さに丁度悩まされている。
「一応、言ってみるけど。でもあんまり期待はしないでね。純太が春日くんよりあたしのことを尊重しそうには思えないし」
 申し訳なさそうに言ってくれるけれど、そんな風に言われてしまうと、ぼくの方が辛かった。謝らなくてはいけないのは、ぼくの方なのに。
 『ごめん』
「どうして謝るの」
 『ぼくがしゃべれないから、だから純太はぼくを放っておけない』
 ずっと傍にいて、ずっとぼくのことを守ってくれた。そのことが嬉しくて、認める勇気がなかった。
 『でもそれは、すごくだめなことだとおもう』
 それはただの甘えだと、認められないでいた。
「別に、駄目ってことはないでしょ。確かに純太は、あたしとか、クラスの他の連中には春日くんのこと、違うように言ってたけど」
 『どんなふうに?』
 ほんとうは聞きたくなかった。あの日、教室で盗み聞いてしまったことや、美由紀がぼくに言ってきたことから考えても、それは聞いて気分の良いものではないだろう。
 『どんなふうに言ってた?』
 けれども、知らなくてはならないと思った。
「……仕方ないんだ、って。ほんとは嫌だけど、親同士が友達だから、仕方ないって」
 ぼくはずっと、純太が許してくれるまま、その好意に依存していただけだ。そんなことにも気付けずにいたから、だから純太はぼく以外の誰かに、ぼくへの不満を打ち明けられないではいられなかったのだろう。そのことに目を向けられないでいたのは、きっと、ぼくの怠慢だ。
「でも、それが嘘なんでしょ。だって分かるもん。純太が春日くんと一緒にいるときの顔見れば、どっちが嘘なのかなんて、すぐに分かることだもん。……あたしだって、ほんとは分かってた」
 その言葉を聞いて、納得するものがあった。最初にぼくが純太のことについて言っても、美由紀は受け入れてくれる様子がなかった。けれどもその後、実波の当を得ているのかそうでないのかはっきりしない例え話には、美由紀は驚くほど素直だった。きっとそれも、ぼくが考えたことと同じだ。当事者が言うのではなくて、まったく別の人間から、それはこうだろう、と、別の視点から見えたものを教えられたから。そして教えられたそのことに、美由紀自身も予感していたものがあったから。つまりは、そういうことなのだろう。
 美由紀はしゅんとなってうつむいてしまった。短い時間で表情がくるくるといくつも入れ替わる子だ。
 この話について、きっとぼくと美由紀だけで言葉を交わすことは難しい。だから、別のことを聞いてみることにした。
 『純太、たまに、すこし怖いときがない?』
 美由紀はなにも言わずに、黙ってぼくの字を見下ろすだけだった。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
 しばらくして、逆にそう尋ね返される。その声が、どこか警戒したような物言いを含んでいた。
 どうして、と聞かれると、それは。あの声の、理由を知りたいからだ。
 ――逆らっちゃ、だめだよ。
 どうして純太がぼくに何か、少し強い調子で言ったとき、その声が聞こえるのだろう。それも、他の誰でもないぼく自身の声で。
 その理由が分からない。純太は、いつだってぼくに優しくしてくれてきたのに。それなのに、逆らったらいけない、なんて。
 ぼくはどうして、そんな風に思ってしまうのだろう。
 最近の純太のことを思い出して、美由紀にそう聞いてみようと思ったのだけれど、もしかしたらそれは、間違っていたのかもしれない。美由紀はそれまでと違い、なにかを探ろうとしているように、じっとぼくを見てきた。大きな目に見つめられて、落ち着かなくなる。
 『へんなこときいてごめん』
 そう走り書きして、美由紀に見せる。
 すると彼女は、ゆっくりと首を横に振った。
「ねぇ、春日くん」
 少し、ひそめられた声。まるで、純太がすぐ近くにいて、その彼に聞こえてしまうのを恐れているかのように、美由紀はそっと、ぼくにこう言った。
「あたし、純太が何考えてるのか、分かんない」
 言葉の端から崩れていくような、かすかなその呟きから、彼女の気持ちを理解出来たような気がした。戸惑って、悲しんで、捨ててしまえたらどんなにか楽だろうと思う、それでも好きだと強く感じてしまう気持ち。
 その言葉に答えてあげられるような声を、ぼくは持っていなかった。声だけじゃなく、その答えも持っていないのだけれど。純太が、何を考えているのか。それは、ぼくにもわからない。
「ね」
 こんな話はやめよう、と言いたげに、美由紀は明るい声で、こう聞いてきた。
「芝山の、どこが好きなの?」
 はっきりとその名前を出されて、そんな風に言わないで欲しかった。聞かれて、自分の中からその質問に対する答えを引き出そうとしかけて、止める。ちがう。
 ちがう、ぼくは、そんなんじゃない。そう美由紀に分かってもらいたくて、必死に首を振った。
「大丈夫、誰にも言わないから。誰にも……純太にも」
 美由紀は自然な流れでその名前を出して、自分で、しまった、という顔をする。
「言わない方が、よさそう、よね。純太はあいつのこと、嫌いみたいだから」
 それはぼくも、そう思う。純太は実波のことが嫌いなのは間違いない。そこにぼくが絡まなくても、きっともともと、何らかの反発し合うものがあるのだろう。なんとなく、そんな感じがした。
「たまに、話してるの見たことがあるけど、その後の純太ってもの凄く機嫌が悪そうだったし。でも、ほんとに意外。春日くんみたいな子が、あんな奴のこと」
 美由紀はやっぱり話をそこに戻す。女の子はいつもこうなんだろうか。ドラマの内容にどうして恋愛ものが多いのか理解できた気がした。
 もうその話はやめようよ、と首と手のひらを振ると、呆れたような声が、ぼくのその動作を止めた。
「……何話してたんだよ。七坂、おまえあんまりこいつ虐めんなよな」
 電話は終わったのだろう。実波がどこか気疲れしたような顔をして、ぼくと美由紀を見ていた。
 おまえが言えるような台詞ではないだろう、とそう思いはしたものの、確かにもう、勘弁して欲しかった。純太もそう言って苦笑していたけれど、美由紀はお喋りな子のようだった。ぼくが喋れないことなんて何も気にしていないように、ぼくに向けても自然に話してくれる。それなのに、所々でぼくに気を遣うように、表情をうかがったり意見を求めてくれる。とても、いい子だ。ぼくはこんな子を遠ざけてきたんだな、と、そう思った。
「変な話はしてないけど。ね、春日くん?」
 そう言って、美由紀はぼくに微笑みを向ける。その笑顔が妙に共犯者めいた、いかにも意味ありげなものだったから、余計に実波は面白く無さそうな顔をした。今度は美由紀ではなく、ぼくに聞いてくる。
「何の話してたんだよ」
 彼の顔をまともに見られなくて、視線を落とし続ける。テーブルの上には、ぼくが意思を伝えるために使ってきたメモ用紙がたくさん散らばっている。汚く書き散らかされたその中から、どうにか話を繋げられそうなものを見つけて、うつむいたままそれを実波に差し出した。
 『純太のこと』。最初に美由紀に見せたものだった。
「……あっそ」
 つまらなさそうにそう言い捨てて、実波はまた、ぼくの隣に座る。その動作が乱暴で、実波が苛立っていることが分かった。
「七坂、おまえ今日部活どうしたんだよ」
「今日は帰らせてもらったの。心配しなくても純太に春日くんと会うなんて言ってないから」
「誰もそんなこと聞いてねぇだろ。もうあんな奴の名前出すなよ」
「芝山はなんで、そんなに純太のことが気にくわないわけ?」
「嫌いなもんは嫌いなんだ。あんな――」
 何か言いかけて、実波がぼくの顔を見る。
「……なんでお前がそんな顔すんだよ。ああもう、そういうところが腹立つんだよ」
 そう言う実波と、そう言われているぼくを、美由紀だけがひとり、妙に楽しそうに見ていた。

 今夜、純太に電話をしてみる、と、美由紀はそう約束してくれた。どんなふうに、ぼくが頼んだことを純太に伝えてくれるのかは分からない。けれども、笑顔で手を振って美由紀が帰ってしまうと、胸には不安が残った。大丈夫だろうか。駅に向かう人混みに紛れて、見えなくなった美由紀の後ろ姿を探して、そんな風に思う。純太が、彼女相手になにかするわけはないと思うけれど。……それでも、不安が拭えなかった。自分から頼んだことだからこそ、その、得体の知れない嫌な気持ちを、考えすぎだと振り払えずにいた。
「なに考えてんだよ」
 そんなぼくに、つまらなさそうに言ってくる声。
 実波はぼくと一緒に美由紀を駅まで送ってくれた。実波本人にそんなつもりはなくて、ただなんとなくぼくたちに着いてきただけといった様子だけれども。このあと、どうするつもりなのだろうか。聞いてみたいけれど、今は実波の顔を見ることが出来なかった。この間の保健室の時なんて比じゃないほどに、絶対に、実波の顔を見たくない。
 だってあの子が。美由紀が、おかしなことを言うから。ぼくが実波のことを、なんて。
「おい、春日。無視すんなよ。どこ行くんだよ、また買い物か?」
 うるさい。うるさい、ついてくるな。
 放っておけばいいのに、実波はぼくの後を着いてくる。今はひとりになりたかった。美由紀のことが心配なのもあるけれど、こんなふうに混乱した状態で、実波と一緒にいたくなかった。顔を見られたら、きっと、また笑われて、馬鹿にされる。何を考えているんだ、と、楽しそうに笑われてしまう。そのことを考えただけで、彼の夢をみた時のように、胸の奥が縮まるように痛んだ。
「なんだよ、おれ何かおまえにしたか? 何怒ってんだよ」
 ぼくが彼と目を合わさず足を速めているのを、実波は怒りの表れだと受け取ったらしい。
「……あれか? 川里のことを、あんな風に言ったからか」
 こっち向けよ、と、実波がぼくの腕を掴んで引っ張る。そのまま、建物の間の狭い隙間に引きずられた。人通りの多い往来から少し踏み込んだだけなのに、そこは薄暗く、妙に静かだった。ぼくの態度が気に入らないのだろう。実波はいつもよりも乱暴にぼくの手を引き、薄汚れた壁にぼくの背中を押しつけた。……その動作は、あの体育館倉庫で彼が見せたものと同じだ。
「おれは自分の目で見たことをそのまま言っただけだ。それがおまえにとって都合が悪い言い方だったから、だからおまえは怒ってんのかよ」
 ぼくの両肩を壁に押しつけて、実波は押し殺したような声で低く、そんなことを言ってきた。ぼくが今、実波から逃げようとしているのは、何も怒っているわけではない。実波に腹を立てているわけではないのに、そんな風に解釈されてしまった。純太のことを悪く言われたから、だからぼくが怒っているのだとそう思われてしまった。確かに、純太を悪くいわないで、とそうは伝えたけれど。
 実波を見上げる。怒ってなんていないよ、と、そう分かってもらおうとした。声や動作から予測して、ぼくを見ている実波の表情もまた、苛立ちを浮かべているだろうと、そう覚悟して見上げた。
 実波がぼくを見ている目には、ぼくがそこにあるだろうと思っていたものは、何もなかった。怒っている目ではない。それはむしろ、何かを堪えているような、……あの、猫の葬列の話をしてくれたときの顔だった。あの時、見るなよ、と逸らされた目が、今は真っ直ぐにぼくを見ていた。
「おまえは笑うのも泣くのも悩むのも、みんな川里のためだけなんだな」
 肩を押さえていた実波の手が、ぼくの頬に触れる。――その瞬間、美由紀の言葉を思い出す。
(「だって春日くんは、芝山のことが好きなんでしょ」)
 反射的に、実波のその手を払いのける。嫌だった。一瞬だけ頬に感じた彼の手に、これまでとは全く別の熱が宿りそうだった。だって美由紀が変なことを言うから。ぼくが実波のことを好きだなんておかしなことを言うから、だから。
 彼の手を払って、顔を見られないように、いつものようにうつむく。
「……仕方ねぇだろ」
 けれどもすぐに、両耳の付け根に手を差し入れられ、強い力で無理矢理上を向かされる。仕方ないだろ、ともう一度繰り返して、実波はそのまま、噛み付くようなキスをしてきた。乱暴に、痛みすら伴うほどに強く吸われ、貪られる。ぼくが苦しさに喘ぐと、それすらも許さないと言うかのように、こちらに割って入ってきて、舌で舌を絡め取られた。まるでこの間の反応を覚えられているように、同じように、舌の先に軽く歯を立てられる。身体が大きく跳ねて、逃れようとする手から力が抜ける。唇を塞がれているのでなければ、きっと、声を上げてしまった。身体も心も芯から痺れて、何も考えられなくなる感覚は、この間と同じだった。
(「芝山の、どこが好きなの?」)
 意地悪な美由紀の言葉が、また蘇る。ちがう、ちがう、みゆきちゃん。ぼくは実波のことなんて。実波の、ことなんて。
 身体が熱くて、おかしくなりそうだった。顔を掴んでくる手も、時折ぶつかる額も、深く重なる唇も、それは実波なのだとそう思うだけで、何もかもがそれだけで気が触れそうに意識が白くなった。だめだ、だめだ、だめだ、これでは気付かれてしまう。これでは実波に気付かれてしまう。
 すべて身を委ねたくなるその衝動を必死に押さえて、ぼくは身を捩った。力の入らない手で、実波の胸を押し返す。それはひどく弱々しい抵抗だったけれども、実波には十分に伝わったようだった。
「済んじまったことだから、もう、どうにもならねぇのか」
 あんなに執拗に絡んできたのに、離れるときはひどく唐突に、余韻ひとつも残すまいとするように、実波はぼくから身体を離した。
「仕方ねぇだろ、その頃おれはおまえのことなんて知らなかったんだから」
 息が苦しくて、酸素を得ようと呼吸するぼくを見下ろして、実波は吐き捨てるように、そんなことをひとりで呟き続けていた。ぼくに向けて言っているというよりも、自分に向けて言っているというよりも、それはむしろ、ここにいない別の誰かに反論しているような、そんな、遣り場のない感情の表れた声だった。
「その頃に何も出来てなくても、仕方ねぇだろ……」
 そう言って実波は、ぼくを置いて、そのまま路地裏から大通りに出て行ってしまった。
 追いかける気力はなかったし、きっと、実波はそれを望んでいないだろう。力が抜けた身体で、背中を壁に付けたまま、ずるずると地面の上にへたりこむ。火照った頬を、冷たい冬の風が撫でる。それでも一向に引きそうにない熱に、このまま家に帰ったら、また風邪を引いたと思われてしまうかな、などと、妙に悠長なことを考えてしまう。
(「仕方ねぇだろ、その頃おれは、おまえのことなんて知らなかったんだから」)
 実波が残した言葉が、思い出そうとしなくても、耳に残って響いていた。
(「その頃に何も出来てなくても、仕方ねぇだろ……」)
 きっと美由紀の、あの言葉だ。彼女が、誘拐のことを、実波の耳にも入れてしまったから。だから、そんなことを言ってきたのだろう。仕方がないだろう、と。
 その頃自分に何も出来ていなくても、それはどうにもならないだろう、と、後悔すら滲むような、自分に腹が立って仕方ないとでも言うような、彼の声。
 ……それはたぶん、ぼくと、純太のこと、だったのだろう。

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