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第一章 「蝶」
7. 夜明けの晩

 天は暗い。
 その闇の中から、ひらひらと、舞い落ちてくるものを頬に浴びて立ちつくしていた。
 地に膝をつけば、そこにも、もう充分に降り落ちるものが積もっている。やわらかく、軽く、いくつもいくつも重なり、手のひらを乗せると、手首のあたりまで深く沈んだ。白い、小さな花びらだ。
 暗い空から降り続いているのも、また同じものだ。
 手を開いて、それを受け止める。白い、雪のひとひらにも似た花びらを一枚、そこにとらえた。
 儚い、まるで重さのないそれは、手のひらに触れた途端、溶けるように形を崩し、流れ落ちた。
 それが面白くて、次から次へと、空から降り続く花びらを掴もうとする。それでも、手のひらに受け止めたものは全てその熱に溶けて、形を変えてすぐにそこから抜け落ちる。
 手のひらから、どろりと粘着いた液体が肘のほうに伝って流れる。どこにも怪我をしたような痛みはないのに、気が付けば指の先まで、手全体が赤く濡れていた。愉快に思い、少しだけ舌の先でその液体を舐めてみる。砂糖水のような、澄んだ甘さに、思わず頬が綻んだ。
 もっと欲しいと思い、足下にたくさん積もっている白いものを指で掬い上げる。手のひらに触れれば、すぐにそれは赤い蜜に姿を変える。嬉しくて、声を上げて笑いながら、自分の手のひらに顔を埋めるようにして、無心にそれを舐め取り、貪り続けた。
 やがて降るものは花びらではなく、白くて小さな蝶の死骸であることに気付いたが、それでも心は何も変わらなかった。
 頬も額も赤く濡らしながら、地に積もり、天から降る羽を、両手を広げて身体すべてで受け、抱きとめる。
 美しく、愛しく、この世のなにものよりも身を満たす、至上の甘露。
 何故だか一筋、涙が頬を伝って、地に重なる白い羽の上に落ちる。
 溢れるなにかを逃がすように声を漏らすと、それはどこかで聞き覚えのある、誰かの名前のように耳に響いた。

 再び目を開けると、先程はすぐ傍にあったはずの人の姿が無かった。
 身体が重いのは変わらなかったが、それでも、まだ少し睡眠を取ったからだろう、多少は楽になった気がする。それよりも、頭がぼんやりとして、ものがよく考えられなかった。……おかしな夢を、見たせいだろうか。瞬きをすると、鈍い頭痛がした。目眩がして、起こしかけた身体が傾ぐ。
「コウ」
 名前を呼ばれ、差し伸べられた手が、傾いた身体を支えた。
「顔色が悪い。……辛いか」
 撫でるように額に触れられ、そう尋ねられる。大丈夫だと呟いて答える。
 コウがまた眠っている間に、捧は布団を出て、既に着替えを済ませていた。座布団もない床にきれいに正座をして、なにかを読んでいたようだった。
 大丈夫だとは言ったものの、身体を起こしてもしばらく、目眩がして頭を上げられなかった。関節が軋むように鈍く痛む。熱があるのかもしれないが、また眠りたいとは思わなかった。布団を除けて、その時にはじめて、コウは自分が寝間着を着ていることに気が付いた。昨日の朝、脱いだままに床に放り出していったものだ。意識を無くすように眠りについた昨夜の記憶をたどっても、自分でこれを着た覚えがない。着心地に違和感があるような気がしていたら、よく見れば前後ろを逆に着ていた。
「寒そうだったから」
 コウが寝間着の裾を掴んで不思議そうな顔をしていたからだろう。捧がどこか、申し訳なさそうにそう言ってきた。
「けれど、上手に着せられなかった。……ひとに物を着せるのは、難しいんだな」
 気にすることはないのだと言いたくて、笑って首を振る。寝ていたコウがまったく覚えがないのだから、きっと、起こさないように気をつけてくれたのだろう。慎重な手つきで、それでも勝手がよく分からずに困ったような顔をして服を着せてくれる捧を思い浮かべてみて、口元が綻んだ。
「ありがとう」
「昨日は、おれがコウを泣かせてしまったから」
「……え」
 昨夜のことは、後になればなるほど、記憶が曖昧だった。捧の声や、捕まえられた腕の力の強さならまだ残っているが、自分がどんな振る舞いを見せたのかは、よく覚えていない。泣いた、とまで言われて、いったいどんな狂態を晒してしまったのかと、少し恥ずかしくなる。
「泣いてなんか、ない」
「……可愛かった」
 まるでその様を思い出しているように微笑んで、捧はコウの頬を撫でる。鈍く痛む頭をその手に預けるように身体を傾けて目を閉じる。捧はまるで、痛みがあることに気付いているように、こめかみの辺りに指先で触れる。伝わる熱があたたかくて、心地よかった。
 ふと目を開けて、捧のかたわらにあるものに気付く。コウが目を覚ました時に、読んでいたものだ。それを覗き込む。コウの、学校で使っている数学の教科書だった。机の上に置いてあったものだろう。
「面白い?」
「うん」
 冗談かと思うような返事だったが、捧の表情は真面目だった。コウにとっては教科書なんて、見なくてはならない時以外は開く気にもならないものだ。変なの、と言いかけて、口にする前に気が付く。
「捧さん、学校には」
 問われて、捧は静かに首を振った。
「一度も」
「小学校も、中学校も?」
「そう。ただ、育ての父に当たる人が、幼い頃からなんでも教えてくれた。学校でするようなことは、大概、習ってはいる」
「……外には、出してもらえないから?」
 捧は何も言わずに微笑むだけで、コウの言葉を肯定しない。けれども、否定されないことが、どんな言葉で頷かれるよりも強かった。
 中学までは義務教育だから、すべての人が、学校に通わなくてはならないはずだ。法律で決まっていることなのだから、守らなくてはならないことだ。コウには知識がないから、はっきりとは分からないけれど、それに反するものには、きっと何らかの罰が与えられる。そんなことは、してはならないはずだ。
「おかしいよ、そんなの」
 思わずそんな風に漏らすコウにも、捧はまた微笑んで、そうだな、と小さく呟くだけだった。

 さすがに休日にまで制服を着る気にはなれなくて、箪笥の中から適当な服を取り出す。着替えていると、捧が興味深そうにそれをじっと見ていた。そういえば、捧と一緒の時は、ほとんど制服を着ていた。
「それが、学校に行く時以外の、コウの格好」
「そう。……おれ、あんまり、洋服とか興味ないから、すごく適当だけど」
「洋服を主に取り上げている雑誌もあるんだろう。コウや未月ぐらいの年頃なら、みんなそういうものに興味があるのかと思っていた。そうでもないのか」
「未月はどうかは知らないけど、おれは、そうでもないよ。買ってまで、そういうの読まないし」
 捧は昨夜、風呂上がりに貸した着物をまた身につけている。まるであらかじめ誂えたもののように、濃い藍色が、凛としてよく似合っていた。
「……昨日の、捧さんの着物は、すごくいい物なんだろうな」
「おれが用意したものではないけれど、おそらくはそうだろう。育ての母は、そういうことに凝る質のようだから」
 育ての母、という言葉は、捧の口からはじめて聞いた。……花羽未月の母親であり、そして、ヒカリが言っていたように、あの花羽家の「当主」だ。その面影を思い出しかけて、寸前で振り払う。
「昨日、雨の中を走らせたりしたから、きっとすごく汚れちゃったと思う。……ごめん」
「コウが気にすることはない。あれだって、おれのものではないんだ」
「そういうわけにはいかないよ。どうしよう、やっぱり、クリーニングに出した方がいいかな」
 コウが独り言のようにそう呟くと、クリーニング、と、捧がその単語を繰り返す。
「そう、クリーニング。お金を払って、洗濯してもらうんだ。普通の洋服なら、家の洗濯機で洗えるけど、着物とか、そういう特別なものは、ちょっと難しいから」
 説明すると、捧は納得したように一度頷いた。そして、尋ねてくる。
「……外に、出る?」
 どこか不安そうな響きを帯びたその声に、コウは迷う。
 捧があの屋敷から姿を消していることが、どれだけの騒ぎになっているのか分からない。もしかしたら、自分があまりにその存在を大きく思うあまり、ずいぶんと大袈裟に考えているだけのことで、花羽の家の方では、誰ひとりそのことを気に掛けていないかもしれない。そうかもしれないし、もしかしたら、コウが考えているよりも、ずっと事は大きいのかもしれない。あの屋敷にどれだけの人の出入りがあるのかは分からないが、怪しい人物を探ろうとするなら、数日前、未月の友人だと嘘を付いて入り込んだコウは、十分に疑わしい。調べようと思えば、すぐに、この家にたどり着くことも出来るはずだ。
 いまこの瞬間にも、捧を連れ戻しに、あの屋敷の誰かが現れるかもしれない。……それならば、例えどこにいても、あまり話は変わらないような気もした。
「捧さんは、行きたい? ずっと、あの場所にいて、外に出なかったんだろ。見てみたかったり、行ってみたい場所があるなら、行こうよ」
 コウがそう言うと、捧はしばらく、考え込むように目を伏せた。その、少し沈んだようにも見える眼差しに、コウは何か自分が言ってはいけなかったことを口に出してしまったような気になりはじめたころ、捧はいつものように微笑んだ。
「……クリーニング」
「クリーニング?」
「そう。行ってみたい」
 まさかそんな答えが返ってくるとは想像もしていなかったので、思わず捧の言ったことを鸚鵡返しにしてしまった。
「あまり、行きたいようなところではないのか」
「ちがう、そうじゃない。確かに、用事がなかったら行かないかもしれないけど、でも、いいよ、行こう。捧さんの着物も、きれいにしてもらわないといけないし」
 コウの反応を見て、おかしなことを言ったのだと感じられたのだろう。かすかに眉を寄せた捧が、行きたいと言った言葉を取り消そうとする前に、コウは何度も頷いてみせた。あまり意志をうかがわせない、この人が自ら望んだことを、尊重したかった。
 それじゃあ、と立ち上がりかけて、捧の姿に一度改めて目をとめる。背の高い、凛とした出で立ちのこの人が、どれほどの人目を惹くだろうとふと考える。ただでさえ、着物姿の人というのは目立つ。ある程度開き直ってはいるとはいえ、あまり人目に付くようなことは避けなければならない。それならば、少し、考えなければならない。
「捧さんも、普通の洋服を着て出かけようか」
 コウがそう言うと、捧はわずかに首を傾げて、不思議そうにコウを見てきた。
「……あんまり、目立つのはよくないかなと思って」
「この格好は、普通ではないんだな」
「そういうわけじゃない。ただ、今から行くようなところだと、あんまり、着物の人はいないから。捧さんがどうしてもって言うなら、そのままでもいいよ」
「おれは、コウの言う通りにする」
 別段、気分を害した様子もなく、捧は頷く。
「じゃあ、そうしよう。でも、おれのじゃ無理だろうな」
 コウの服を貸してあげられればいいのだが、捧は背も高いし、その分手足が長い。コウの普段着ているものを貸すのでは、きっと丈や袖が足りないだろう。下宿人のものを貸してもらうことも思いついたが、勝手に部屋に入り込むのも悪い気がした。どうしようか、と悩んでいると、部屋を狭くしている、ふたつの箪笥が目に入った。
 ひとつは、コウが着替えを入れているものだ。持っている量が少ないので、夏のものも冬のものも、すべての衣服を中にしまっている。そしてもうひとつは、ずっと以前から、この部屋に置いてあるものだった。この部屋を、祖母の息子である人が使っていた時から置かれていたものだろうか。試しに、中を開けてみる。
「なんだ。これ」
 いちばん下の引出しを、最初に見てみた。思わず声を上げたそこには、コウの予想もしなかったものがたくさん詰め込まれていた。興味を引かれたのか、捧もそれを覗き込む。
「……これは、コウの書いたもの?」
「覚えてないけど、そうなんだと思う。名前書いてあるし」
 そこには、画用紙に描いた絵や、何を表しているのかよく分からない、不格好な工作のようなものがいくつも入っていた。作文らしきものが書かれた原稿用紙もある。どれも、上手いとは言い難い字で「まきおかこう」と名前が書かれていた。
「上手だ」
 その中の一枚である画用紙を手に取って、捧が微笑む。子どもらしい、クレヨンの乱雑な線で、何かの建物が描いてあった。もしかしたら、この家を描いたのかもしれない。かすかにそれらしい面影はあった。お世辞にも上手とは言えない。
「お祖母ちゃん、なんでこんなとこに溜め込んでるんだろ。捨てればいいのに」
 恥ずかしくなってそう呟くと、捧が、そんなことを言ってはいけない、と優しく諭す。
「大切なものなんだろう。おれも、見られて嬉しい。……これは?」
 コウとは反対に、上機嫌な様子の捧が、また引出しの中から何かを見つけだす。それは、他のもの以上に丁寧に保管されているらしく、白い薄紙にくるまれていた。
「なんだろう。……竹?」
「笹飾りだろう。七夕の」
「あ、ほんとだ」
 中から現れたのは、小さな笹飾りだった。ずいぶんと昔のもののようで、葉はすっかり干からびているし、飾りの紙も茶色く色が変わっている。小さな輪飾りや、どこか歪な形の、色紙で作られた星は、指で触れたら簡単に崩れてしまいそうだった。
「しあわせになる」
 捧が突然、呟くように、そう口にした。
 コウが顔を上げると、見てごらん、と笹飾りを指差される。そこには、他の飾りと同じように、変色した短冊が下がっていた。捧が読み上げたのは、そこに書かれていた文字だったらしい。文字を覚えたての、大きさの揃わない字で、「しあわせになる  コウ」と紙幅いっぱいに書かれていた。
「……願い事だ」
 拙い文字で書かれたその言葉を、まるで愛おしむように、捧はそっと指先で撫でた。もう一度、しあわせになる、と小さく呟く。
 コウがまったく覚えていないのだから、これは相当幼い頃に書いたものなのだろう。その頃、どんなことを考えていたのかなんて、全然思い出せない。ただ、今の自分と、これまでの自分のことを考えた。
 その無垢な文字を見ていると、自分がひどく汚れた醜いものに思えて、惨めだった。
「コウ」
 そんな表情に気付かれたのだろう。捧が気遣うように名前を呼んで、短冊を撫でていたように、コウの頬に静かに触れる。
「……ほんとに、なんで、こんなものとっておいてるんだろう」
 出来るだけ軽く聞こえるように、そう言って笑う。入っていた時と同じように、笹飾りを紙でくるんで、元通り戻しておく。他の、下手な絵や工作も、はみ出ないように並べて、引出しを閉めた。

 その上の段からは、あとは全て洋服が入っていた。祖母のものらしい女物もいくつかあったが、ほとんどは男物だ。元々のこの部屋の持ち主のものだろうか。古びてはいたが、大事にしまわれていて、きれいなものが多い。シャツを一枚手に取り、捧に合わせてみる。大きさも、丁度良さそうだった。
「これを、着ればいいのか」
「うん、おれのじゃないけど、ちょっと借りよう」
 神妙な顔をして、捧は頷く。洋服は着慣れないと言っていた通り、ボタンを止める指が、少しぎこちなかった。それでも、飾り気のない作りのそれらは、捧によく似合っていた。着替えた本人は、やはり慣れないのか、不思議なものを見るように、服の裾を引っ張り、それを見下ろしている。その仕草が、妙に可愛く見えた。
「……おかしな気がする」
「大丈夫、似合うよ」
 そうしたくてたまらなくなったので、眉を寄せて難しい顔を作っている捧を抱き締める。さらさらしたシャツの布地に顔を埋めると、いつもの香ではなくて、樟脳の匂いがした。
「……もうずっと、このまま、ここにいればいいんだ」
 そんなことを、口にするつもりではなかったのに、自然と呟いていた。捧が、答える言葉に困るように微笑む。
「だって、おかしいよ。何か悪いことをしたわけでも、するわけでもないのに、ああやって、閉じこめるみたいに」
「それは仕方ない。おれは、そういうものだから」
 わがままを言う子どもを宥めるようにそう言う捧に、それでもコウは納得がいかなかった。以前、どうして外に出られないのか、と聞いた時にも、捧はそんな風に答えたことを思い出す。檻の中に入れられている、動物たちと同じだと。
「捧さんは、嫌じゃないの」
「分からない。おれは、生まれた時からずっと、そういうものだと思っているから。すべて、最初から決まっていることだから、今更おれひとりが何をしたところで、変わらない」
「最初、から」
「そう。生まれる前から、もう、ずっとずっと長い間、決まっていることだ」
「……なにが、決まってるって言うんだ」
 半ば睨むようなつもりで捧を見る。そんな気はしていたが、やはり返事は貰えず、ただ淡く微笑まれるだけだった。歯痒くて、噛み付くように唇を合わせる。
 コウの知らないものが、たくさんある。あの花羽の屋敷にも、庭にも、そして何より、捧の中にも。自分にそれを知る権利がないと、そう言われているような気がした。そのことが悔しかった。
「おれのものだよ」
 コウのすべてが捧のものでありたいとそう思うように、同じように、捧のすべてもコウのものにしたかった。だから、その中に、コウの立ち入れない区域があることが耐え難かった。
「おれが捧さんのものだって言うのなら、捧さんだって、ぜんぶ、おれのものだろ」
 これまでに感じたことのない、激しい怒りに限りなく似た渇望を、どうすれば満たせるのか分からなかった。目の前のこの人を手に入れる以外に、どうやっても満足出来そうにない。捧がコウを少しでも遠ざけようとする気配を感じる程に、そんな自分の渇きを色濃く思い知らされていく。
 そんな、子どもじみた主張をするコウに、捧はそれまでに浮かべていた笑みを消す。
「……そうであれば、よかったな」
 まるで独り言のようにそう口にする捧の表情と声は、どこか悲しげに見えた。
「血も、命も、魂も、おまえになら、喜んですべて捧げよう。おまえのものであれたなら、……何も感じない、今の抜け殻のようなこの身とは違っていただろう」
 淡くやわらかい微笑みが隠す、あの深い色をした目で、射抜くように真っ直ぐに見つめられる。その強い眼差しに囚われるように目を合わせながら耳にした言葉が、意味が分からないままに響く。ふいに、これがいちばん底にあるものだ、と、そう感じた。コウが知らないことはたくさんある。まだ、教えられていないことや、知ることが許されていないものがそこには多く残っている。それでも、そういったものをすべて貫いて、最も深いところにあるものに、触れている。
「おれも、おまえのものでありたかった」
 理由は分からなくても、自分の言葉が、捧をひどく傷つけてしまったような気がした。声にならない声で、ごめん、とコウが囁くと、気にすることはない、とでも言いたげに捧は目を細めた。
「……行こうか、外」
「うん」
「クリーニングだけじゃなくて、あと、他にもいろいろ行ってみよう。食べるものも何か買ってこないといけないし。捧さん、なにか食べたいものがあるなら教えてよ」
「おれはいい。コウの好きなものを食べさせてくれれば構わない」
「おれも、豆腐以外なら、なんでもいい。……とりあえず、じゃあ、行こう」
 笑って、捧の手を取る。
 忙しくてなかなか帰ってこない下宿人が戻ってきたら、相談出来るかもしれない。
 確実にコウの味方になってくれるかどうかは分からないが、少なくとも、詳しい話を聞く前に、コウのしたことを咎めるような人ではない。それに、社会の決まり事については、コウよりずっと詳しいはずだ。
 その人に相談できれば、捧をあの家に帰さなくてもよくなるだろうか。どう考えても、おかしいことだ。生まれてからずっと、外の世界に触れさせずに、あの高い塀に囲まれた狭い世界に、人間をひとり閉じこめておくなんて。きっと、間違っている。それを訴えれば、捧は自由になれるだろうか。
 普段はどう接して良いかと、苦手に思うことすらある人に、こんなことを考える自分は現金な奴だと思う。それでも、コウひとりでは、あまりに心もとなかった。未成年だし、うまく、誰かに今の状況や、どうして欲しいか説明出来る自信がない。
 だからせめて、他人に頼るのならば、まずは下宿人の力を借りたかった。
 昨日の夜は帰ってこられなかったのだから、今晩は帰ってくるだろうか。もし駄目なようならば、時間のありそうな時に電話をしてみてもいい。
 出掛けるために、窓の鍵を閉める。外は晴れていて、昨日よりも少しは気温も高そうだった。空は青く澄んでいて、雲も少ない。出掛けるなら、これ以上ないほどのいい天気だった。
 それなのに、ふと、雨の匂いがした気がした。白い蝶と、地面に出来た血溜まりが、瞬きのように脳裏に蘇る。
 あの血が、捧の言うように、コウのものではないのだとしたら、それは一体、誰のものだというのだろう。
 カーテンを閉める。外からの光が遮られ、薄暗くなった部屋で、捧がそっとコウの手を握る手を強くした。薄れかけていた頭痛が、また少しひどくなる。捧の手を握りかえして、目を閉じてその痛みを堪えた。
 夢の中では塗り潰したように赤く濡れていた、あの自分の手のひらが、妙に今は恋しかった。


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