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第一章 「蝶」
4. 花檻

 ヒカリは言葉通り、きっかり一時間後に迎えにきた。
「やあ、たくさん仲良くしたようだね」
 コウの顔を見るなり、そんなことを言ってくる。何が言いたいのか分からず答えずにいると、ヒカリは自分の首筋を指差して見せた。その仕草で、気が付く。「仲良くした」痕が残っているのだろう。慌てて、手のひらで隠す。
「先程、当主から、もう直に帰ると連絡があったようだ。……ほんとうは、もう少し一緒にいさせてあげたいのだけれどね」
「それは、誰のために?」
「誰、というのは?」
「どうして、あの人に会わせてくれたんだ」
 それで、何かこの男が得るものがあるのだろうか。その答えは自分に繋がるものではないにしても、捧に関係のあることなのかもしれない。だったら、どんな答えでもいいから、教えて欲しかった。
「きみが望んだからだよ、コウ。……それに、分かっているだろう。あの子だって、それを望んだ。そして、ぼくも、そうしてやりたいと思った。それだけだ」
「……あの人のことを、よく知ってる?」
「どうかな。生まれたときから知ってはいるけれど、きみが先程、ほんの少しの短い間に知ったように、ではないことは確かだ」
 生まれたときから、というヒカリの言葉に、胸の底にかすかに痛みが走った。それは随分と、長いではないか。
 コウがそんな風に感じたことを見抜くように、ヒカリは言葉を続けた。
「あの子のことが、好きかい」
 なにを聞かれたのか、瞬間、理解が出来なかった。
 どうしてそんなおかしなことを訪ねてくるのだろう、と、なぜだかその質問がひどく不思議なものに思えてならなかった。
 そんなの、当たり前のことなのに。
 声にすることはなく、ただ小さく頷く。振り向かずに足を進めるヒカリには、その動作では分からないはずだ。けれどもどうせ、コウの答えを聞きたいわけでも、それを知ってどうしたいわけでもないのだろう。すべてのことに興味があるような、その実どうでもいいと思っているような、そんな男ではないかと感じた。
「花羽未月は、この家の息子なんだろう」
 捧のことではなく、別の人間の話題を出す。顔を合わせたことなどほんの数回しかない、いつも怒っているあの男。清川は未月のことを、コウと似たようなものだと言っていた。周囲に溶け込めず、浮いた存在だと。
「そうだよ。この家を継ぐ、次期の当主だ」
 ヒカリのその言葉に、暗い庭を軽く見渡す。この、どこか薄ら寒い庭もあの屋敷も、やがてはすべてが花羽未月のものになると、そういうことなのだろうか。家を継ぐ、というその言葉自体が、あまり耳慣れない響きをしている。
 捧はコウよりも、確実にいくつか歳上だろう。ということは、未月ともそれだけ歳が離れているということになる。
 あの二人は、一体、互いを、どういう位置においてとらえているのだろう。きっと、兄弟ではない。それにしては、捧と未月は多くのものが違いすぎている。そこまで考えて、そんな自分がおかしくなった。なにを考えても、同じところに、行き着いてしまう。
 後にしてきた、あの離れの方角を振り返る。……この道を、覚えることは出来るだろうか? そうすれば、あの裏口さえ通り抜けられれば、また、会える。
 捧はコウを迎えに来たヒカリの声を耳にして、すぐに、それが誰のものであるか、気が付いたようだった。別れの言葉は無かったし、また会おうとも言われなかった。コウが思わず、嫌だ、と小さく呟くと、まるで、そんなことを言ってはいけない、と諭されるように微笑まれた。そのことが寂しかった。
 八つ当たりをするように、小さく呟く。
「捧、なんて、変わった名前だ」
「そうだね。酷い名前だ」
 それほど大きな声を出したつもりはなかったのに、辺りが静かなものだから、ヒカリの耳にも届いたらしい。苦笑したような声で、そう同意された。
「名前だけじゃない。みんな、変だ。あんなところに、ひとりで住んでいるし、しかも、そこだけが自分の場所だなんて、そんな風に言ってた。どこにも行く必要がないし、他の誰もいらないみたいに。……そんなの、変だ。まともじゃない」
 子どもじみた言葉が、次から次へと溢れる。ほんとうに言いたいのは、そんなことではない。自分の知ることの出来ない何かの気配だけを感じる。空気のように形を持たずに透明なのに、確かにそこに存在を主張する、重たい何かだ。それが、高い塀に囲まれたこの屋敷の中の、至るところに張り巡らされている。全体を取り囲んで、まるで、見えない檻のように、世界との繋がりを遮断している。
 知らず知らずのうちに、呼吸が浅くなっていることに気付く。ここはひどく、空気が薄い。捧といる時は、何も感じずにいられたのに。
「ほら、足下に気をつけなさい。……早くここを出ないと、帰れなくなってしまうよ」
「あの裏口が閉まるのか」
「いや、どうやらね、あそこは鍵が壊れてしまったらしい」
「壊れた?」
 わざとらしいもの言いだった。まるで、壊れた、と、そのことを強調するような、コウに確認させるようなヒカリの言い方に違和感を覚えて繰り返す。
「そう。まあでも、あんなところをそうそう利用するものもいないから、しばらく、放っておくんだそうだ」
「さっきと言っていることが違うけど」
「そうだったかな」
「……壊れたんだ?」
「そう、古いものだからね。さあ、帰るよ。家までは送ってあげられないけれど」
 先を進むヒカリは、それ以上何も言ってはこなかった。
 その背を見失わないように追いながら、何度も後ろを振り返る。
 道は複雑だが、いくら広くても、それは敷地内のことだ。
 あの門さえ潜り抜けられるのならば、この囲いの中に入り込める。それは、つまり。
 また訪れることが可能だと、そういうことだ。


 花羽の屋敷を出た時から、なんだか妙に頭がぼんやりとして、まるで熱があるような心地だった。風邪を引いたことにして、翌日は学校を休んだ。遠くに行っている祖母にだけ、少し申し訳なく思う。
 下宿人は昨夜は帰らなかった。もし帰宅した時に怪しまれてはいけないと思い、服だけ制服を着る。しっかり鍵をかけて、正午を少し回った頃に、誰もいない家を出た。

 もう、花羽の家までの道は、完全に覚えた。途中すれ違う人もいなくはなかったが、特にコウの方に関心を示されることはなかった。真昼のこんな時間に、制服を着た学生を見かけられたら不審に思われるだろうかと思っていたが、相変わらず、人の気配の薄い界隈だった。
 鍵は確かに外れていた。壊れているのかどうかは分からないが、とにかく、あの隠された裏口は、ひっそりと開放されたままになっていた。いくら使うものが少ないとはいえ、こんなに簡単に出入りできる状態にしておいてもいいものなのだろうか。
 そんなことを考えながら、出来るだけ音を立てないように、ゆっくりと木戸を押し開く。かすかに軋む音が鳴った。そっと、囲いの向こう側に足を踏み入れる。今日は、朝から曇っている。もしかしたら、そのうち雨になるかもしれない。
 庭はいつにも増して、薄暗かった。音の無い空間の中、飛石を踏む足音が小さく響いてこだまする。静かすぎて、自分の鼓動が耳につく。陽のあるはずの時間に広がる薄闇は、完全に塗りつぶされた夜の闇よりも不気味だ。
(……ええと、)
 記憶を辿る。大して目印もないこの庭の中を、自在に歩き回っていたヒカリのことを思い出す。捧のことを、生まれた時から知っていたと言っていた。この家の者であるのか、ないのか、それを聞いた時は、はっきりとしないもの言いをされたが、以前から、ここに出入りしているのは間違いないだろう。
 確か途中で、あの不気味な場所を通った。ヒカリが、未月の姉君の庭、と言っていた、白い蝶が打ち付けられた一角。紙で作られた、偽物の白い羽。ひとつひとつ、釘で木に磔にされたあの蝶たち。あれは一体、何だったのだろう。
 思い出すと、背筋に冷たいものが走った。何故だか花羽未月の母親のことを思い出してしまった。当主、とヒカリが呼んでいた。あの人は、苦手だ。ほんのわずかな間しか顔を合わせていないけれど、そんな風に思う。笑った顔が、とても冷たかった。コウを見る目が、優しい形に細められているのに、その奥で鈍く光っていた。あの人ならば、多分。
 こんな紙の蝶じゃない。命を持つ本物の蝶でさえも、きっと手のひらに捕らえて、躊躇なく釘を打ち付ける。
 他人の母親に対して、それも、よく知りもしない相手にそんな印象を抱くのは失礼な話だろう。祖母にはとてもこんなことは言えない。けれども、コウには自分のその勘が間違ったものには思えなかった。そう感じた自分自身の何かを、信じなければならないような気がする。あの時、舞う蝶を見失ってはならないと感じた、そのことのように。
 そんなことを考えながら、適当に、それでも出来るだけ気配を潜めながら、足を進める。いくら思い出そうとしても、今いる場所がこの間も通ったところなのかそうでないのか、それすら分からない。わざとそういう造りにしているとしか思えない、同じ景色ばかりが延々と続く庭を、黙々と進んだ。
「……あ」
 だから、そこにそれまでと違う色が現れたことに、すぐに気がついた。思わず声を上げてしまったのは、見覚えのあるものだったからだ。黒い羽を持つ蝶だ。
 子どもの頃から、深く何かに思い入れることをしてこなかったので、コウは昆虫のことも詳しくは知らなかった。それでも、何故だか、この間と同じ蝶だ、とそう感じた。ふわふわとコウの方に飛んできたので、手を差し伸べる。まるで、飛び疲れて休む場所を探していたように、蝶はすぐにそこに止まった。数度羽を揺らして、静かに閉じる。
(きれいだな)
 手のひらに羽を休める黒い蝶を見下ろして、コウはそんなことを思う。思わず見惚れてしまうほど、その濡れたような闇色は美しかった。羽には、かすかに灰色の細い線の縞模様が斜めに走っている。その模様も、とても繊細で綺麗だ。見ていると、吸い込まれそうな気分になる。他のことが、頭から消える。これを、自分のものにしたいと思った。そのためには、どうすればいいだろうかと考えはじめていた。他の誰のものでもない、自分だけの、ものに。
 逃がさないように、手のひらで閉じこめようとしたその途端、蝶は再び羽ばたき、ふわりと風に舞った。ふと、我に返る。
(……いまのは、なんだ?)
 自分が自分で無かったような、不思議な感覚だった。
 とても喉が渇いていて、水が飲みたいと願う気持ちに少し似ているかもしれない。満たされなくて、苦しくて喉を掻き毟りたくなるほどの狂おしさ。こんな気持ちに、なったことがあるような気がした。
 蝶は庭の奥へと飛んでいこうとしている。
 きっとまた、導いてくれるのだと、訳もなく信じられて、その後を追いかけた。


 捧は今日も、縁側に立ち、こちらの方角に顔を向けていた。黒い蝶を受け止めるためだろう、手のひらを、コウの抜けてきた庭に向けて差し伸べている。コウの姿を認めると、すぐに目を細めて、昨日と同じように手招きをした。
「コウ。……今日は、ひとりで?」
 言葉にせずにそれに頷き、蝶に目線を落とす。それを追い、捧が、ああ、と納得したように息を漏らした。
「連れてきてくれたのか。……ありがとう、この家のものに見つからないうちに、はやくお帰り」
 まるでその言葉を理解したように、蝶はふたたび羽を広げ、風に舞うように捧とコウの間をすり抜けていった。コウがそれを目で追っていると、捧が小さく呟く声が聞こえた。
「夜の黒と、花の白」
「……え?」
 不思議に思い、振り向く。捧はコウのその表情を見て、また目を細めた。
「黒い羽と、白い羽の蝶。コウは、どちらが好き?」
 白い羽の蝶は、この家の中ではまだ見ていない。それこそ、捧のことを初めて目にした日に、門の前で見ただけだ。それでも、目に焼き付いたように、その様を思い出すことが出来る。花びらのような、白い羽。それと、先程の黒い蝶を比べるのならば、考える間もなく、答えは自然と出ていた。
「黒、かな」
 それを聞いて、捧は何故だか、わずかに目を伏せた。しかしそれも短い間のことで、コウが名前を呼ぼうとした時には、既にその翳りは消えていた。
「今日も、一緒にいて、いい?」
 わけも知らず不安なものを感じて、思わずコウはそう尋ねていた。捧は頷いて、昨日と同じように、コウの手を取った。
 小さな離れの中には、相変わらず、捧ひとりしか居ない。そのための場所なのだと言われたことを思い出す。
「昨日、あの後」
 コウを部屋の中に招き入れて、障子を閉めてから、やおら、捧が口を開いた。自分よりも背の高い捧を見上げようと首を上向ける。目が合った。
「コウの言ったことを、思い出していた」
「おれの言ったこと?」
 そう、と頷いて、捧はコウの頬に指で触れる。
「おれはいつもひとりでここにいて、それを、なんとも思ったことがなかったけれど」
 傷の跡を指の腹でなぞるように撫でられて、それだけのことで息が漏れた。
「コウがいなくて、寂しかった。……会いたかった」
 両手のひらで頬を包まれて、そうやって微笑まれる。どう言い表せばいいのか分からない、くすぐったいような、笑い出したいのに、口を開けば泣き出してしまいそうな、そんな様々な気持ちが混じり合って、胸が一杯になった。コウが答えようとするより先に、唇が重ねられて言葉が出なくなる。伺いをたてるように軽く何度も触れられて、舌先だけをわずかに割り入れられ、浅く交わす。表面だけをそっと撫でられているようで、もどかしかった。もっと深く与えてほしくて、コウの方から捧の背に強く腕を回し、口蓋をひらいて、求めた。それでも、捧はまるで敢えて焦らそうとしているように、浅く啄むだけだった。
 両頬に添えられていた手を滑らせて、捧はコウの頭を抱え込んだ。一度は離れた唇が、つむじの辺りに押し当てられる。手のひらと唇で髪を撫でられながら、コウは捧の首筋を探った。喉仏を口に含み、指先で、斜めにはしる血の管をなぞった。舌を這わせて舐め上げると、脈を打つ拍動が響く。この皮膚一枚をくぐれば、そこに赤い血が満ちている、その証だった。
 最初の晩、白い蝶が吸い上げていた、あの、甘い蜜がここにある。嬉しくて、身体が震えた。
 強くしがみついたまま、うっとりと目を閉じて捧の脈拍を聞く。いとおしいと、そう思った。この音も、脈打つ血も、自分を抱き締める腕も、すべて。それらを身のうちにおさめている、すべての主として存在する捧が、愛おしくてたまらなかった。
「ずっと、コウのことを考えていた」
 ふいに、捧がそう呟く。低くて穏やかなその声に耳元で名前を囁かれ、ぞくりと鳥肌が立った。
「おれのこと?」
「そう。……ずっと、こうしたいと思っていた」
 顎に掛けられた手に従うままに顔を上げ、捧を見た。その表情が、優しげに微笑んでいるのに、何故か、寒さや痛みに耐えているように見えた。
「……捧さんは、どうして、ひとりでこんなところに居るんだ?」
 理由は分からないけれど、見ているこちらまで切なくなってしまう。そんな目をさせたくなかった。だから咄嗟に口を開いて、そんなことを尋ねてしまっていた。昨日、答えを貰えなかった質問。問われたヒカリは、あの子に直接尋ねてごらん、とコウをかわした。ただし、ほんとうに、コウがそれを知りたいのならば、と、念を押して。
 捧はコウのその問いに、しばらく、何か考えるように目を伏せた。やがて、コウの髪を手のひらで撫でながら、どうとでも取れる返答を返してきた。
「おれは、そういうものだから」
 それがどういう意味なのか分からずに、じっと見上げる。
「ずっと前、一度だけ、動物園に連れて行ってもらったことがあった。それまで、図鑑でしか見たことのない動物が、たくさんいたよ。兎とか、猿とか」
 突然、兎や猿を持ち出されて、また戸惑う。それと同時に、その物言いがひどく子どもじみていて、コウよりもずっと背が高い、年上であるはずのこの人が幼く感じられた。違和感を覚えるよりも、わけも知らずに胸が締め付けられた。
「みんな、檻に入れられていた」
 そこまで言って、捧は言葉を切った。それで、話は終わりらしい。
 淡々と口にされた、檻、という単語に、不気味な存在感があった。
「それと、同じ?」
 重い予感を吹き消したくて、わざと笑う。捧も何も言わず、コウの髪を撫でながら微笑むだけだった。
「……でも、違うよ。ここには鍵はない。庭は確かにすごく広いけれど、でも、少し行けば、簡単に外に出られる。もし、門や他の入口が閉まっていたって、何か、足台に出来るようなものがあれば、いくらでも塀を乗り越えて、外に行ける」
 捧は首を振った。
「外には行けない」
「どうして!」
 思わず、声を荒らげてしまったコウにも、捧は静かに、諭すように静かに返す。
「おれには、ここ以外、居るべき場所がないから」
「そんなの、」
 そんなのは自分だって同じだと言い返そうとした。いつだって、自分と周囲との間には、ほんの少しの小さな溝が空いているような気分がしていた。何が起こっても、誰が何を言ってきても、すべてはその溝に落ちてどこかへ流れていくばかりで、自分のところまで届かない。そこまで考えて、捧の言いたいことはコウの言いたいこととは違うことに気付く。どこにも居場所がないのではない。ここが、自分の居場所だと、そう言っているのだ。コウには、そんな風に言える場所はない。
「そんなの……」
 間違っている、と言おうとして、口をつぐむ。それまでずっとコウに笑みを向けていた捧が、障子越しに外の方向に顔を上げた。何かに気付いたように、静かに、という仕草を見せる。その張りつめた糸のような目線に、思わずコウは息を呑んだ。
 衝立の影になっているから、外の様子は分からない。それでも、かすかに、土を踏む足音のようなものが聞こえた気がした。誰か、居る。
「捧」
 聞き覚えのある声が、耳に割り込む。いつもそうなのか、それともコウがそんな調子のものしか耳にしていないからなのかは分からないが、今日も、機嫌の悪そうな声だった。
 苛立ちが低く漂うその声は、花羽未月のものだった。
 捧を見上げると、安心させるように口元を緩めて、ひとつ頷かれた。許可を与えなければ、誰もここに踏み入ることはないと言っていた。しかし声から伝わってくる未月の苛々した様子や、以前、コウをここから門の前まで引きずり出した強引さを思い出すと、不安になった。自分が責められるのならば、何も問題はない。勝手に人様の家に入り込んでいるのだから、叱られても仕方がない。けれども、そのせいで捧まで巻き添えにしてしまうかもしれない。当主に見つからないように、と、正体の不明瞭な善意でコウの侵入を助けてくれたヒカリの言葉を思い出す。どうなるのかはよく分からないけれど、少なくとも、内緒にしておいた方が穏便に済むのは確かだろう。
 思わず、守るようなつもりで、捧を抱き締める。
「捧、答えろ」
「聞いている。あまり、大きな声を出さないでほしい」
 外に向けてそう答えた捧の声は、これまでコウが耳にしていたものとは冷淡で、温度が低かった。まるで別人のようなその声に驚き、顔を見上げようとして、抱え込まれた腕に阻まれる。動かないように、とでも言いたげなその腕に従い、コウはそのまま、大人しくすることにした。
「蜘蛛が、おまえに何かおかしなことを言っただろう」
「あの男の言うことは、いつだっておかしいよ」
「真面目に答えろ」
「……欲しいものがあるなら、用意してやろうと言われた。それだけだ」
 捧はそこで、かすかに低く笑った。傍にいるコウでやっと聞こえたほどの小さなものだったから、離れた未月には分からなかっただろう。それでも、まるで、その仕草に、馬鹿にするなとでも返したげに、未月はことさらに苛立った声を上げる。
「身の程知らずが」
 吐き捨てられたその言葉に、コウは思わず捧の腕を掴む指に力を込めてしまった。どうして、同じことを言うのだろう。こんなに人を見下した言葉を、こんなに冷徹な声で。……清川縁示と同じだ。
 身体を強ばらせたコウを宥めるように、捧の指が背中を撫でてくる。膝の上に抱きかかえられてそんな風に撫でられると、まるで猫か何かにでもなったような心地だった。息を吐いて、指を緩める。
「話は、それだけか」
「余計なことは考えるなと、そう言いに来た。おまえの処遇については、母さんがすべて決めている。決して、不自由な思いはさせないはずだ」
「最後まで?」
 どこか皮肉るような調子で捧がそう言うと、未月は離れの外で言葉に詰まったようだった。地面を蹴ったのだろうか、短く、砂利の鳴る音がした。また、捧が小さく笑う。未月はしばらく、何も言ってこなかったが、ややあって、また、押し殺した声で聞いてきた。
「……あの怪我は、姉さんだろう」
 捧はそれには答えず、コウの頬を撫でて微笑むだけだった。怪我、というその言葉に、コウの方が目線を外の方に向けてしまう。あの日、雨の中で見た光景のことを思い出す。地面に血溜まりを残すほどなのだから、決して浅いものではなかっただろう。捧に尋ねたその時は、大丈夫だと、何事も無かったかのように返されたけれども。
「姉さんがひとりでおまえに会いに来るようなことは、これまでには無かったはずだ。……屋敷の中だからと、油断していた。おまえに言っても無駄だとは思うが、念のため、忠告しておく。ぼくも母さんも目を光らせてはいるが」
 未月の言う、姉さん、とは、ヒカリの言っていた姉君と同じなのだろうか。だとしたら、あの紙の蝶の打ち付けられた庭の持ち主だということになる。思い出して、目蓋の奥がちかちかした。錆びた釘。偽物の蝶を貫く金属。雨の日。血溜まりの蝶。
 あの、赤い血。鮮やかに蘇る記憶に、胸が高鳴る。
 抑えきれない衝動のままに、コウは捧の首筋に手をかけた。軽く力を込めると、手のひらに脈拍が響いて伝わる。無意識のうちに笑みが零れて、目を細めてこちらを見てくる捧に、そのまま口づけた。甘いと、そう思った。ずっと求めていたものが、ここにある。あの雨の夜からか、それとも、もっとずっと昔からか。この人をずっと探していた。ずっと目にすることが出来なかったから、他の何かでは、代わりにならないから。だから、分からないままだった。初めて理解した、狂おしい、気が触れるような渇き。はじめて、白い蝶に導かれ、この人を見つけた、その時に知った。
「もう、時間はそれほど無い。ぼくにとっても、おまえにとっても。だから、せめて、」
 花羽未月の声が、まだ何か言っている。その言葉を捧が遮った。
「未月」
 静かに、外に向けてそう呼びかけながら、捧は親指の先でコウの唇を撫でる。それを口に含んで、軽く歯を立てて捉えた。撫でられるように指の腹で舌をなぞられ、応えるように舐め上げると、軽く舌先に爪を立てられた。声が漏れそうになって、それを殺すために、もっと深くくわえ込み、蹂躙するように口内を愛撫する指に舌を絡める。残りの指でコウの首筋を撫でながら、捧は低く呟いた。
「おれは、欲しいものがあるんだ」
 そのまま、コウの口端から零れた唾液を舌先で掬い上げて、嫣然と微笑む。ゆっくりと指を抜いて、息を荒くしているコウが口元を覆おうとするより先に、捧が唇でそれを塞いだ。未月は何も言ってこない。まるで絶句したような沈黙は、唇を離されるまで続いた。
 冷ややかな声が、身の程知らずが、と、もう一度繰り返す。
「……おまえが見たのは、幻のようなものだ。望んだって、決して手には入らない。忘れろ」
 最後にそれだけを言い残して、足音は遠ざかっていった。


 いつの間にか、雨が降り出していた。
 元から薄暗かった庭は、まるで真夜中のように真っ暗で、手を伸ばせば自分の指先すら見えないほどだった。
 雨に打たれながら、飛石の上を歩き続ける。足下もよくは見えないけれども、石が等間隔に並んでいるので、歩幅でなんとなく感覚が分かった。うつむいて、どの方角に進んだらいいのかを考えることもせず、ただ足を進める。
 花羽未月の去ったすぐ後、家に帰るよう、捧に言われてしまった。当主が会いにくる時間らしい。息子である未月とは違い、顔を見せなければならない相手なのだと言っていた。コウが最初にこの屋敷に入り込んだ時に、門を開けてくれたあの人だ。コウも、顔を合わせたいわけではなかった。けれども、ほんとうは、帰りたくなかった。
 長い時間、一緒にいた。まるで身体の半分を置いてきてしまったような、心許ない気持ちだった。強い力で引き裂かれたように、触れていた皮膚の先がちりちりと痛んだ。何度も、歩いてきた方角の方を振り向いた。立ち止まって、戻りかけて、その度に捧の悲しそうな目を思い出して、首を振った。きっと、戻ったって、あんな目をされる。
 帰り道は分からない。導いてくれたヒカリも、蝶も、今はいない。半ば自棄になって、適当に進む。そうするしかなかった。
 花羽未月は、何者だろう。いつも怒っている、あの男。コウには理解の出来ないことばかり言っていた。
 未月だけではない。この家はおかしい。当主だというあの母親。とらえどころのないヒカリ。
 檻の中にいる、捧。
 一瞬、雨に濡れる庭が、真っ白に点滅した。驚いて立ち止まると、数秒遅れて、雷鳴が聞こえた。地面が震えるような音が鳴り終わると同時に、雨が激しさを増す。
 そんな中、ふいに、雨音に混じって、別の種類の何かが聞こえた気がした。軽やかで、ふわふわと浮かぶ、まるで蝶が舞うような、そんな音だ。また、稲光が庭を照らす。ほんの短い間だったが、確かに、そこに見えたものがあった。首筋から入り込んだ雨の粒が、背中を伝う。気持ちが悪くて、鳥肌が立った。
 木の幹に打ち付けられた偽物の蝶と、錆びた釘。いくつも取り巻く、生きていない蝶たちの死骸。
 未月の姉の庭。
 そこに、長い髪の、女がひとり、いた。
「……おまえ」
 コウが相手に気が付いたように、相手もまた、コウに気が付いたのだろう。言い知れぬ異様なものが漂うその姿に立ちすくんでいたコウに、呼びかけられる声があった。楽しげで弾むような若い女の声に、先程の音の正体に気付く。この人が、笑っていたのだろう。
「何をしているの、ここで。もう、戻る身体もないことを忘れて、逃げ出してきたの?」
 相手はコウに近付き、早口でそう呟いた後、甲高い笑い声を上げた。闇の中ではよく分からないが、淡い色の着物を着ている。生地が薄くて、濡れて肌に張り付いているから、着物ではなくて、襦袢なのかもしれない。腰の辺りまである長い髪も、雨に濡れてひどく重たげだった。
「おまえは、蝶ね?」
 そう言ってコウに詰め寄る、白い顔の中で瞳がぎらついていた。コウの方に向けられているのに、コウを見てはいない。闇の中、浮かび上がるように白い手をコウの方に伸ばしてくる。咄嗟に、それから逃れた。
「蝶の、匂いがするわ」
 伸ばされた手にあったものが、稲光に浮かんで、目を灼くように瞬いた。何本もの、大きな、釘だった。
 背を向けて、いま来た道を駆け戻る。雨音は激しさを増す一方なのに、狂ったように長く続く、女の笑い声がどこまでも追いかけてくる気がした。
 すべてのものを振り落としたくて、全速力で、雨降る闇の中を走った。
(「なぁに、もう、あと少しじゃないか」)
 この庭を歩いていた、ふたりの男の会話。
(「次で最後なんだ。もう、あれで、終わるんだから」)
 なんでもないことのように、軽い調子でそう語っていた男たちの来た方角には、あの離れがあった。
 特別措置だ、と言って、得意気に笑ったヒカリ。コウを見て目の奥を光らせた当主。雨の中、紙の蝶々を釘で打ち付ける狂女の笑い声。広い屋敷と庭を囲む、高い塀。導く黒い羽の蝶と、血を呑む白い羽の蝶。
(「もう、時間はそれほど無い。ぼくにとっても、おまえにとっても。だから、せめて、」)
 最後まで、と、まるで自嘲するように笑った捧に返した、花羽未月のあの言葉。
 微笑んでいるのに、寂しい目をするのはどんな理由があるのだろう。どこにでも行けるはずなのに、そこに檻があるのだと、縛り付けるものは。
(「未月」)
 ここにいてはいけない。
 雨の中、血を流していたあの人。コウに触れる指が熱かった。指以外で感じた熱は、もっと熱くて、確かだった。
 あの人はコウと同じだ。ずっと、探していたものだ。それをやっと見つけることが出来たのに、触れることも出来たのに、それを置いていってはいけない。そうしなければ、
(「おれは、欲しいものがあるんだ」)
 すべてのものが、それは、いずれ失われるものだと、そう告げている。
 林のような庭を抜ける。荒れ果てた草を掻き分けて、一度は去った離れに、再び辿り着いた。
 捧はまだ、コウを見送った時と同じ縁側に立っていた。息を切らせて、ずぶ濡れになって走ってきたコウを目にして、驚いたように名前を呼んでくる。
「コウ」
「捧、さん」
 立ち止まると、前髪からぽたぽたと雫になって雨粒が落ちた。心臓が早鐘を打って呼吸をするのを邪魔する。いつでもコウの目線に合わせるために跪いてくれる、捧のその手を取った。
 温かいこの手を、なくしたくなかった。
「ここから、出よう」
 だから、目を見上げて、握った手に力を込めた。
「おれと、いっしょに、行こう」 


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