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第三章 「糸」
13. そして降るのは彼のうた

 金色の糸を辿って走る。コウが花羽の家の門をくぐった頃には、陽はほとんど沈みかけていた。捧はきっと、コウを待っているだろう。それに、未月も。
 「狩り」の儀式がどこで行われるのかは詳しく聞いていなかった。けれども、それはあの呪術師に捧げられるためのものだ。花羽も雨夜も、祟堂神社の分社を庭に持っているのだと、ヒカリはそう言っていた。だからきっと、そこだろう。この広い庭のどこにあるのか場所は分からないが、糸の続く先に彼がいることは間違いないと思い、それを手繰って庭を駆ける。
 現実のこの世界ではない祟堂神社のことを思い出す。あれは、この世とあの世の中間、なのだとユキは言っていた。そこから戻ってきたはずであるのに、今、この庭の中に満ちている空気は、あの場所で感じていたものとまるで同じだ。千年目の儀式の時を迎えて、それに相応しい空気に変わっているのだろうか。それとも、コウが理解出来なかっただけで、この庭は最初からずっと、そうだったのだろうか。サクラがずっと、千年の間なにもかもを見つめ続けてきたように。
 迷路のような、同じような風景ばかりが続く庭を走りながら、呪術師が見せてくれたもののことを思い出していた。あれが、呪いのはじまり。
 今が千年目。サクラの血を取り込んだことで、千年間その呪縛を受けることになった祟堂という一族と、そこから別れた花羽と雨夜。それを止めることも出来なかった自らと、祟堂に荷担した己の一族を許せなかったユキ。彼は、門倉、と、家のことをそう呼んでいた。だからそれが「蝶」の一族だ。
 すべての呪いが、あともう少しで終わる。たとえ、どんな形になったとしても。
 祟堂神社を出る時、ヒカリがコウに投げ渡してくれたものを握ったまま、ずっと走り続けていた。雨夜の家で借りてきた、神具だという刀だ。コウがこれで捧を仕留めたならば、彼は黒い色の羽を得る。
 けれども、今はそんなことに使うつもりはない。そうしてこれから先も、もうずっと。
「捧さん!」
 糸の繋がる先の、彼の名を叫ぶ。庭の奥に開けた空間があった。捧の暮らすあの離れがある場所に似ていた。けれども、そこにあるのは、古びた小さな社だった。あれが、祟堂神社の花羽の分社なのだろう。そうして今はその前に、木で組まれた儀式用の舞台の上が設けられていた。そこに居る人の姿を見るなり、思わず、声を上げていた。糸は、導いてくれた。
 舞台の上には、白い袴姿の花羽未月と捧がいた。未月は弓矢を手にしている。陽が落ちてもコウが間に合わなかったら、その時は未月が「狩り」を捧げることになっていた。
 けれど、間に合った。
 神社の周りには、誰も人はいなかった。屋敷の周囲には珍しく人が集まっていたので、きっとあれは十五年に一度の儀式のために集まっていたのだろう。儀式の場には、「狩り手」と「蝶」以外は足を踏み入れることを許されないのだと、そんなことが自然と分かった。
 まだ、鈴の音が聞こえる気がした。
「遅い!」
 未月にそう怒鳴られる。息を切らして舞台に上がり、弓を構える未月と、彼と同じような白装束を身に纏う捧との間に入った。
「コウ」
 息急き切ってきたために肩を上下させるコウを目にして、捧は目を細めて笑った。
「……ごめん、遅くなった」
 未月が見ていることを分かった上で、一度だけ、彼に背延びして短く口づけする。呆れたように息を吐くのが背後で聞こえる。
「何か、言うことがあるだろう」
 相変わらず、今日も怒っている。未月にそんな風に言われて、コウは一瞬考えた。
「あ、えっと、……誕生日おめでとう」
 考えた果てに言ったことであるのに、相手に絶句された。おまえは馬鹿か、と、言葉で言われなくても、表情が明らかにそう語っている。
 諦めたように、逆に、向こうから聞かれた。
「何か分かったのか、と聞いているんだ」
 そう聞いてくる未月の声は、いつものように冷たい言い方をしてはいるけれど、どこか、安堵してもいるように聞こえた。それに、ううん、と首を振る。未月は呆れた声を上げた。
「おまえ、何してたんだ!」
「一応、おれが自分でやりたいことは見つけたけど、それが正解かどうかは分からない。それでも、やらせてほしい」
 サクラとの「賭け」のことを説明している時間はない。もし話したとしても、慎重な未月ならば、反対されるかもしれない。
 そんな不確かな勝負に乗ってしまって、もし万が一それが間違っていたのなら、「狩り」の一族は皆すべて滅びることになってしまう。千年目の、最後で。未月は一族の人間を大事に思っているから、駄目だと言われる覚悟はしていた。
「……いいだろう」
 けれど意外に、そう頷いてくれた。
「おまえに賭ける。だからしっかりやれ」
「うん。ありがと」
 空を見る。陽はもうあと、ほんの僅かで沈みきる。あれが、完全に沈む前に、すべて終わらせなければならない。
「捧さんも」
 いつも黒っぽい色や、暗い色合いの着物を好んで着ていたから、白一色のその装いに違和感すら覚える。白があんまり似合わないな、と、こんな時なのに呑気なことを考えて、彼の顔を見上げて笑う。
「……ああ」
 捧はいつものように淡く微笑んで、コウの言葉にも短く応じるだけだった。雨夜の家から受け取ってきた、刀の鞘を抜くと、銀色の刀身が沈む陽を受けて煌めいた。鞘を足元に投げ捨てて、刀を構える。剣道の経験もないから、きっと、人から見たらおかしな、みっともない格好だろうとそう思った。けれども、今はもうそんなことに構っていられない。未月が、何をするんだ、とでも言いたげに息を呑むのが分かる。もう任せると決めたのか、それでも、見守ることに徹してくれるようだった。
 未月とは、きっと、仲の良い友達になれる。これまでコウには、何でも言い合える友人なんていなかった。けれど、未月とならば、そうなれるだろうと思った。きっとすべてが終わったら、うまくやれる。
 刀の切っ先を、真っ直ぐに捧に向ける。彼は静かにコウの方を見て、そうして、自分からその場に音を立てずに跪いた。何が起ころうとも受け入れるという意思を、そこから受け取る。もう一度、最後に捧の顔を見た。
「……捧さん、おれ、」
 この人がいてくれて、良かった。たくさんの人が死んで、犠牲になって、そうやって続いてきたのが「蝶狩り」という儀式だ。けれどもそれが無ければ、コウも、捧も、こんな風に存在することも無かっただろう。
 だから、感謝というのはおかしいけれど。
「捧さんに会えて、ほんとうに良かった」
 笑って、そう言える。捧は微笑みを返してくれた。
 糸は、千年前から絡み、今でもすべてのものを縛っている。けれど、千年前に遡ってそれを断ち切るのは、もう、無理だ。起こってしまったことは、もう変えられない。
 これから変えられるのは、ただひとつ、未来だけだ。
「門倉雪之下、……、捧」
 鈴の音がひとつ、確かに聞こえる。縛られる彼らの名を呼んで、世界に無数に絡まる糸の中から、正しい一本を探り当てる。繋がる、金色のただひとつ。
(『……そうだ、それでよい。断ち切られるべきは、わたしなどではなく、』)
 鈴の音とともに響く声が、それを肯定する。切っ先を向けていた刀を振り上げて、目に見える、その金色の糸に向けて振り下ろした。
「おまえを許す」
 刃が触れた先から、金色の糸は細かい光の粒子になって、そのまま宙に弾けた。火花が飛んだように、きらきらと輝いて、そのまま空へと昇っていく。
「……はい」
 捧は神妙な顔でそれに頷いて、そうしてすぐに、眩しそうに目を細めて、笑った。

 陽がすべて沈み切り、千年が終わった。

 八木貴人は庭の中をうろうろと歩き回っていた。未月とあの「蝶」の彼が、もう時間だと言って庭の中に入ったのに確かに付いて行ったはずなのに、いつの間にかひとりで取り残されて庭をぐるぐると回っていた。同じところばかり歩いているような気になって、けれども進む方向を変えても、見える景色が変わらない。ずっとそんな調子で迷っていた。
「花火?」
 ふと、なにかきらきらしたものが空に上がった気がしたのだ。庭はすっかり暗くなっていたので、そんなわずかな灯りでもよく目立つ。
 と、次の瞬間、一斉に庭に明かりが灯った。灯らしきものなどこの庭で見たことが無かったので、それに驚き、光源を探す。それほど強い光ではない。青白く、ほのかに瞬く、幻想的な光だった。それが庭のあちこちにふわふわと漂い、飛んでいた。
「……蝶?」
 無数に庭を照らす光は、ひとつひとつが羽を持つ、蝶のかたちをしていた。
 
 雨夜甚は、苦しそうに息をしていた娘の呼吸が、ふと楽そうになったことに気が付いた。
「鞠花」
 名前を呼んで、その手を取る。弱々しくはあるが、握り返される。思い当たることがあって、縁の雨戸を開けた。庭に自由に舞わせていた黒い羽の蝶たちが、発光したように白く揺れる光の群れになっていた。
 それを見て娘が小さく呟く。
「きれい……」
 ただひとつこの屋敷に出入りを許していたあの黒い羽の蝶も、今頃はもう、ここにはいないだろう。きっと、最後に行きたいところがある。羽を持つものを、本来、どこかに囲って閉じ込めておくことなど、出来はしないのだ。それこそ、あの「蜘蛛」のように飲み込んで、自分のものにでもしてしまわない限りは。
「……勝手にすればいいとは思わぬか、皆」
 どこへでも、行きたいところへいけばいいのだ。
 たとえ傍らに何も居なくなるのだとしても、こうなることを選んだのは、自分自身なのだから。どうなろうとも、後悔はしていない。他の誰もが、きっとそうであるように。楽しみならば、これから先にまだまだある。手を汚しながら、それから必死に目を反らし、自分たちだけは清らかなままのつもりでいる、あの白い家。年若い次代の当主の、愚かしいまでに真っ直ぐに向けてくる敵意の目を思い出すと、先のことを考えて口元が緩む。
 血を分けた、実の娘。そうしてまた、裏切りの末に実らせた、あのふたつの血の混じる存在。
 千年の呪いが終わることが、何だというのだろう。まだまだ、退屈など当分しそうにもないのに。
「……起きられるか、鞠花。滅多に見られぬものが今から始まるぞ」
 娘の背を支えながら、庭を眺める。黒い色をしていた蝶の羽も、今はただ、光の色をしてひらひらとどこかへ羽ばたいていくだけだった。

 花羽未月は目の前で何をされているのか、よく分からなかった。牧丘コウがいきなり刀を抜いたかと思うと、それを捧に向けて、何事か言ったあと突然それを振り下ろした。その途端、ふたりの間に火花が上がったように、そこから光の粒子がきらきらと立ち上りはじめた。
 瞬きをして目を疑っていると、次は庭中の至るところに、光が舞うような、見たことのない色の蝶が舞い出した。あれらは皆、花羽の蝶だったはずだ。伝えられてきた通りの手順で、儀式を進めてきた。長い長い祝詞を千年の呪術師に捧げて、それから、厳かに庭を歩んで、「蝶」の社の戸を開け放った。その時を待っていたように、蝶たちは皆、一斉に庭へと舞い散った。思わず寒気を覚えるほどの、数の多さだった。それでも、その時に見た羽は、確かに花羽の蝶であることを示す、白い色だった。
 それなのに今、庭中を飛び回っているのは、言い伝えでしかその存在を知らない、別のものだった。まるでふたつの家が分かれる前のような、白とも黒とも明確に色を見付けることの出来ない、光そのものの色の蝶だ。
 目の前には、緊張の糸が切れたように座りこんでいるコウと、そのコウに寄り添うようにしている捧がふたりとも居る。それならば、コウのあの「儀式」が、成功したということなのだろう。
 千年を、誰も狩ることなく終えられたということだ。
 息を吐いて、コウの背中を一度だけ叩いて、舞台を降りる。話は後で、沢山聞くことが出来る。もう、終わることは免れたのだから。……そこまで考えて、これから自分のしなければならないことの多さを、今更実感した。母屋に集まった分家の者たちは、儀式に臨む未月を仰々しく送り出してくれた。彼らに、この事態を説明することから始めなくてはならない。果たして一体、どんな言葉を選んだものやら。元々、母が当主だったころから、その遣り方が気に入らないと影で囁くものが少なくなかったというのに。隙を見せたら、若造だと思って、すぐにそこを狙われる。もう、母の後ろ盾を頼ることも出来ないのだから。
 庭を出て彼らの前に姿を現したその瞬間から、未月はもう、この家の当主だ。だから今はまず、そのことを第一に考えなくてはならない。コウも捧も、もう何処にも行かずに、いつでも会えるのだから。
 真っ白な儀式着の袖を払う。使わず終いの弓矢の重たさなど、今はもう、少しも気にならなかった。舞台の上にふたりを残したまま、彼らに背を向けた。日が沈んで闇が落ちてきた庭で、蝶たちはますます羽を輝かせている。社の戸を開けたときにはあれほど不気味に思えたそれらを、今は純粋に、ただ美しいと感じた。
 母屋に集まっている者たちも、この異様な光景に気付いてはいるだろう。丁度良い、演出としても申し分はない。終わりを告げる言葉とともに、彼らにも、この千年の最後を、見せてやらなければと思った。

「……おわった、……?」
 呆然として、そう呟く。自分がしたことが正しいことなのかそうでないのかすら分からない。それでも、サクラが見せてくれたあの千年前の呪いの始まりを見て、言わなければならないと思ったのはただ一言、その言葉だけだった。
 それがすべての解放に繋がるかどうかは分からなかったが、一番根元にあるのは、彼の心のように思えたからだ。
 サクラははじめからすべて分かっていた。自分が一族の者に、どうやって利用され命を奪われることになるのか。生まれた時からそんな力を持っていたというのならば、もしかしたら、生まれた時からずっと。
 だから「呪い」を定めたのは、彼自身の意志ではなく、ユキがそれを乞い願ったからだ。
 もしコウがユキと同じように、捧をあんな風に自分の手で失くすことになったら、きっとそれを悔やんで自分を憎むだろう。たとえそれが、その人の望みを叶えたことであったとしても。そうなるよう陥れた一族の人間のことを恨んで、絶対に許さないと思ったはずだ。
 そうして、もし逆に、捧が自分のことで、そんな強い怒りや恨みの、負の感情に囚われてしまったのなら、それを憐れむだろうと思う。そんなことを、望んでいないのに。
 それを、伝えたかった。定められた糸で、かたときも離れることなく引き寄せられることを、絆だと呼ぶのならば。
 悔恨と憎悪で結びつけられる、そんな絆などは要らない。
 それが、答えのような、そんな気がした。
 ぼうっとして、庭を見る。糸を断ち切ったことで上がった火花と同じ色の光が、そこだけではなくて他のところにも浮かんで空へ向かうように漂っている。あれは、あの狭間の世界で見た。サクラの蝶と同じ色の羽だ。
「……あれは、花羽の蝶だったもの。魂が、もとのかたちへ還る」
 傍らの捧がそんなことを教えるように低く囁く。千年の間、魂を縛っていた戒めが解けたからだろうか。白や黒や、狩るものの家に染められた羽ではなく、魂そのものの色である、あの輝く淡い色の羽。
 いくつもいくつも、庭の中に舞っている。この光景を、見たことがある気がした。
「庭」
 あの扇に描かれた絵が、こんな景色を描いていた。暗い夜の中、影として浮かび上がる木々の葉に止まる蝶の羽の色は光り、まるで輝く色の花がそこにたくさん咲いたようだ。それがいくつも。そうして、解放を喜ぶように庭を自由に舞う蝶たちも。
 花が満ちた、蝶の舞う庭だ。この庭を作ろうと、約束した。
「捧さん」
 その人の手を取り、立ち上がる。温かい、確かに生きている人の、熱をもつ手のひら。それを温かいと感じることの出来る、自分の手のひら。
 千年の間繋がっていた、ふたつの血を繋ぐ糸はもう斬ってしまった。それでもまだ、捧はコウのことを、想ってくれるのだろうか。
「……コウ」
 そう思い、不安になり彼の顔を見上げようとするよりも早く、その腕に強く抱かれた。
「コウ」
「うん」
「有難う」
 それに、おれは何もしてないよ、と言って笑い返す。目を細めて微笑む捧の顔を見ているだけで、胸がいっぱいになって、幸せだった。糸は切れた。もう、これまでの絆が、ふたりの間を繋ぐことはないというのならば。
 簡単なことだ。また新しく、この人と、はじめればいい。呪いや、「狩り」とは関係のない、ただの恋。
「おれも捧さんも、死なないでいられるってことは、護ってくれたんだ」
 他の誰も、この結末に導けるものはいない。何のことなのか、と聞きたがっている様子の捧に、サクラのことを説明しようとした。そうして、ふと、思い出す。捧には、夜叉乞いのことは詳しく説明していなかった。そんな時間もなかったし、それに、余計な心配をさせたくなかったからだ。
 口を開きかけて、途中で止めたコウを、捧は不思議そうに見ていた。
 どう言ったらいいかな、と、言葉に迷っていると、ふと、耳慣れた声がする。
「おめでとう、ふたりとも」
 手を叩く音がしたかと思うと、見慣れた華やかな男が舞台の縁に立ち、こちらを見ていた。
「ヒカリ」
「これで、千年だ。よくやったね、コウ」
「おれじゃないよ。サクラ様が、」
 まるでコウひとりの手柄のようにそんなことを言ってきたので、首を振ってそれを否定する。
「それでも、きみが命と引き替えにお願いしなければ、あの方が聞き入れてくださることはなかったはずだよ。胸を張りなさい。千年の間、誰も成し得なかったことをしたのだから」
「……いのち?」
 ヒカリのその言葉に、捧がそれまで浮かべていた微笑みを消す。余計なことを言うな、とヒカリを軽く睨んだものの、「蜘蛛」は軽く笑うだけだった。意図的に口にした言葉のようだった。
「そうだよ、捧。感謝することだ、何の犠牲もなく終わったわけではない」
「どういうことなんだ」
 彼らしい、落ち着いた言葉ではあったものの、その声はどこか、追及するようでもあった。
「この子は禁じられた術を使ったんだ。自分の命を祟堂様にお返しして、その代償を捧げる代わりに、その方に直接お会いして来たんだよ」
「説明するならちゃんと言えよ。ほんとなら死んじゃう術だけど、でもおれは、半分しか祟堂の血が入っていないから、だから半分死ぬだけで済んだんだって」
 嫌がらせのような返答をするヒカリに、だから心配することはないのだとコウは付け加えた。それでも捧は、表情を曇らせる。そんな顔をさせたくなかった。
「大丈夫だよ、おれ」
 安心させるように、その手を強く握った。
「どんな風に説明していいか、よく分かんないけど。……でも、えっと。その、祟堂様が、おれたちみんなが死ななくてすむように、護ってくれたんだ」
 よく分かんないけど、と、もう一度最後に繰り返す。見てきたすべてを人に伝えようとすると、どうしても、そんな間抜けな言葉になってしまった。
 「蜘蛛」は、そんなコウの様子を見て、いつものように笑った。
「祟堂の血に呪が絡む瞬間を、見ただろう。千年という時間は、それが完全に消える為に必要な時間だ」
「……どういうことだ?」
「サクラ様が、完全に御自分の力を取り戻すのに、それだけ掛かったということだ。その力を少しずつお返ししてきたのが『蝶狩り』という儀式だよ。だからそれを繰り返して、一度は神にも近かった祟堂の力は、時を経るにつれて弱っていった」
 サクラの死んだ歳が、十五。だから、この儀式は十五年に一度だったのだ。
 もしかしたら、夜叉だと呼ばれ、人々に畏れられてきたのは、ユキの方だったのではないだろうか。すべてを奪われ尽くした主の力を取り戻すために、ずっとひとりで、夜叉の面を被り続けていたのではないかと、そんな気がしてならなかった。「蝶狩り」の儀式を定めて、それをサクラに捧げることを約束させたのも、おそらく、彼だ。
「『蝶狩り』っていうのは、つまり」
 千年を見てきて、なんとなく、分かったことがあった。決して、そうだと誰かに教えられたわけではないけれど。
「祟堂の一族が、自分たちの代わりとして、『蝶』の一族の命を生贄にしていたってことなんだろ」
 奪ったものを元の持ち主に返すことを、呪術師の従者は求めた。それでも、祟堂の一族はそれを受け入れずに、同じように呪われた別の一族を「蝶」として狩り、供物として捧げることで自分たちを守った。
 奴らはひとを傷つけることが好きで仕方がないのだと、ユキはそう言っていた。
 血を返す儀式。ほんとうに捧げるように求められていたのは、蝶ではない。蝶は証の代わりにすぎないと、サクラもそう言っていたではないか。
 耳の奥で、また鈴の音がする。
 先ほどから、段々その音が強くなっている気がした。やけに視界がぼやけると思って目を擦り瞬きをすると、捧が不安そうに顔を覗き込んできた。それに応えるよりも先に、霞んだ視界でも、その表情が曇るのが分かる。
「……コウ」
 左目の視力が、極端に落ちていた。反対の目を閉じて見るのでは、ものの輪郭も危ういほどで、これまでそんな世界を見たことがないから、逆に新鮮だった。思い当たることはあった。
「おれが、返したからだ」
 「夜叉乞い」だ。祟堂の血を返せば、コウの半分は死ぬだろうとユキも、雨夜の当主もそう言っていた。今はまだぼやけるだけでなんとなく見えてはいるが、きっともうしばらくしたら、完全に光を失うのだろうと感じた。目だけではない、きっと、命も、もう半分しか残らない。
「だからだろ。半分だけど」
 サクラを呼ぶために零したあの一滴の血は、コウに流れる祟堂の血だ。
「どうかな。それは、当の御本人様にお聞きするしかないけれど」
 ヒカリはそう笑って肩をすくめた。この男に聞いても分からないようなことは、コウがいくら考えたって答えは出ない。こうして今、生きていられることがすべてだ。
 大丈夫だよ、と、沈痛な面持ちの捧を見上げる。せっかくすべてがうまくいったのに、そんな顔をしてほしくなかった。
 まだ半分残っているのだから。もっと大切なものを、全部なくしてしまうよりも、ずっといい。
 庭を舞う蝶たちは、細かい青白い光の粒を零しながら、暗い庭を舞っている。花のように木に羽を飾り、風に揺れる、たくさんの魂たち。
「……きれいだね」
 繋いだ手を放さないで、傍らの人に、そう笑う。と、その時。
 視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 見えるものが変わる。木で作られた、庭の分社の前の舞台に居るはずなのに。足下は確かに同じ舞台のままだった。それでも、そこから先が、急に変わる。
『これで千年!』
 また、頭の中に直接、その声が響いてくる。多くを見せて、多くを与えた、あの人の声だった。
 そこは、分社ではない、あの、狭間の世界にある祟堂神社だった。空が暗いのは、いまは現実の世界でも変わらない。だからこそ、見えているものが幻なのかそうでないのか、はっきりしなかった。捧の手を繋いでいた手のひらに、力を込める。いまは、そこに居るはずだった人の姿はない。けれども繋ぐ指先には、確かにその体温が伝わってきた。一緒に、居るのだ。
『祟堂と蝶を繋ぐ糸は、千年のこの時の末にあの童が断ち切った。もう、おまえがわたしに縛られる由もない』
 その声の主は、社の前に居た。衣の裾を翻して、くるりと廻る。弾むように語られるその声は、喜びを浮かべていた。
 それで、気付く。あの人を閉じ込めていた檻は、もう、ない。
 千年出られない、と言っていたあの黒い格子から、この人は自由になることが出来たのだ。それはヒカリの言っていた通り、長い年月をかけて、すべての力を取り戻すことが出来たから、なのだろう。誰かにそう教えられたわけではないが、窮屈さから逃れられたことが嬉しくてたまらないように伸びをしている呪術師の姿を見ると、自然とそう思えた。千年前の、呪いのはじまりの時にユキと過ごしていた幻の中でさえ、あんなに溌溂とした笑みは見せていなかった。
 彼の人の傍らには、いまも、夜叉の面を外さない従者が控えていた。まるで、浮かれている主を諌めようとするように、低い声で注進する。
「彼奴らは老獪です。あなた様がたとえ本来の御力を取り戻されても、それでも完全にはこの場所からは離れられぬよう、結界を張られている」
『祟堂の血が続く限りは、それに甘んじよう。社も用意されていることだしな』
 あれよりは良い、と、かつての荒屋を引き合いに出して、夜叉の子は笑う。
「……それならば、わたしもお側におります」
『良い事は無いぞ。せいぜい祟堂と門倉の末裔に祀られるくらいで、後は大人しく社の守りを務めるつもりでいるからな』
「彼奴らがまた調子に乗ったらどうするのです。あなた様はなんでも快く許しすぎます。……あれだけの仕打ちを受けたというのに」
『言っただろう、忘れるのだと。おまえの幼い弟たちも、わたしも、みな忘れた。あの童が許した。だからおまえも、忘れて良いのだ、ユキ。すべて許されて、還れ』
「……わたしはあなた様のように、力を持ちません。忘れても、すぐに、思い出します」
 諭すように言う主に、それでも従者は首を振る。
「何年経とうと。どれだけの時間を得ようとも、忘れることなど出来ません。例え許されようと、わたしは必ず、思い出す」
「おまえは、ほんとうに頭の固い男だな」
 頑なに、この後の及んでも許されることを拒もうとする従者に、サクラはそう笑った。
 まだ命があった頃のように、跪いたユキの頬を両の手のひらで包む。そこにはまだ、彼が被り続けた夜叉の面が張り付いていた。それを、幼い小さな手が、静かに外す。
「それならばわたしも、おまえの主らしく、ひとつ思い出そう。もう、とうに忘れたことだが」
 夜叉の面を外した下からあらわれるその素顔は、ずいぶんと懐かしいものだった。ずっと傍で、千年、過ごしてきたというのに。まるで、ようやく、再び会うことが出来たようだった。
 神聖な言葉を授けるように、サクラは少しだけ身を屈めて、ユキにだけ聞こえるように、耳元でそっと短く囁いた。
「……、あ……」
 それはもう遥か昔に、白く凍える雪の下に置き忘れた、彼のほんとうの名前だった。
「わたしの主は、あなた様ただひとりです」
 言葉をなくして、彼はただ主を見つめる。やがて、くしゃりと子どものように歪みかけた顔を、誰にも見られぬように、またうつむけた。
「どこへも行きはしません。あなた様が在る限り、お側に」
 狭間の世界に、迷い込んだ蝶たちが舞い込む。ここは蝶たちにとっても、きっと居心地が良いだろう。呪術師はそれを見て目を細める。跪いた従者に、許しの言葉を与える代わりに、左手を差し伸べる。それを受けて、従者は誓いを立てるように、爪の欠けた小指に口付けて触れた。
「……あの幼な子と、あなた様が顔を付き合わせてお話をされる様子は、たいそう可愛らしいものでした」
 真面目な顔でそう言うユキに、やはり覗いていたな、と、主は声を立てて笑った。
「お引き留めすれば良かったのです。そうすれば、いずれ蝶もここへ訪れた。そうなれば幼な子とその蝶を、ふたりでこの地に住まわせてやれました。あれは、あなた様の良き供になったでしょうに」
『悪くはない』
 主のためというよりは、単に自分がそうなれば良かったと思っているような口ぶりであった。
『あれは可笑しな童であったな。わたしに、鬼も神も同じようなものだと言うたぞ』
 そんなことを、と、ユキはそれを聞いて呆れた顔をした。
『それも、悪くはない。だがな、ユキ』
 閉じ込めて、囲うのではつまらない。何処でも行ける、羽があるのだから。 
『蝶はやはり、自在に飛んで舞う姿こそが、いちばん美しいだろう』
 自由に気のままに舞わせて、その行方を愛でる方が、よほど目を楽しませる。
「……仰せの通りです、我が君」
 賛同の意を得て、満足そうにサクラは手にしていた扇を開いた。
『さあ、舞うぞ。縛られた魂を、この千年目のサクラが導こう。童や、見えておるだろう?』
 そうして立ち上がり、ふと、扇の先をこちらに向けた。まるで最初から、見ていたことに気付いていたように語りかけられる。……そもそも、見ていた、のではない。本来ならばこの人の姿は、命と引き替えにしなければ見ることの叶わないものであるのだから。はじめから、すべて、見せられていたのだ。
『ひとりそこで、浮かない顔をするものがいるな。案ずるなと伝えておくがいい、つがいの蝶を、片割れだけにはせぬ』
 傍らに、ユキが主を見守るように跪く。
『かつてそなたが口にした遣り方を選んでやろう。せめてもの、餞に』
 もう、狭い檻はどこにもない。呪術師を縛るものも、現世のものたちを縛るものも。
 神と畏れられた鬼の子は、両手を広げて、開いた扇を翻すように、くるりと舞い、笑った。
『……そなたの勝ちだ、童よ!』 

「……捧、さん?」
 今しがたコウの目に映ったものが、捧にも見えていただろうか。名前を呼んでそっとその表情をうかがったが、彼はいつものように、静かに微笑んでいるだけだった。
「見えた?」
 コウが見て、聞いたものを捧も受け取っただろうか、とそう尋ねると、ひとつ頷かれた。
「祟堂様は、おれの願いを聞いてくれた」
「え、……願い?」
 コウに向けて言っていたことには、それらしきものはなかった。それならば、コウと捧で、見ていたものが違うのだろうか。だとしても、何も、おかしいことはない。何でも知っていて、何でも出来る人なのだから。
 捧はコウの目を見て、にこりと笑った。時折見せる、あの、子どものような笑顔だ。
「おれの命も、半分、貰っていただいた」
 その無邪気な笑顔には似つかわしくない言葉だった。驚いて、しばらく何も言えなかった。捧はコウの、光を失いかけた左目の目蓋に、短く口付ける。まるで先程の、呪術師の従者の真似をしたように、恭しい仕草だった。
「コウが言っていただろう。半分ずつ、死のうと」
 瞬きをしてみると、目を閉じて開くごとに、視界がはっきりと晴れていく。やがて、元の通りに、よく見えるようになった。
「だから、おれも半分。ふたりの分を合わせれば、それで、ひとり分の命だ」
 まだ、「蝶狩り」の呪いのことをほとんど知らなかった頃、確かにコウが言ったことだった。ひとりの命が生贄として必要ならば、コウと捧で半分ずつ死ねばいいのだと、そう言ったのを思い出せる。それを、まさか捧が覚えていたとは、思わなかったが。
 かつて、口にした遣り方を選んでくれると、サクラはそんな風に言っていた。きっと、そのことなのだろう。
「馬鹿だな、捧さん」
 たまらなくなって、その首筋にすがりついた。固く抱きしめて、涙が出そうな気分で、笑う。
「必要ないのに、そんなの。……ばかだ、ほんとに」
 つがいの蝶を、片割れだけにはしない。あれは、こういう意味だったのだろう。祟堂の血を返してしまえば、コウに残る寿命はほんの僅かだと、雨夜の当主が言っていた。元々、「蝶」は短命の一族なのだから、と。だから、そのままでは、コウが先にいなくなってしまうことになる。半分しか、もう残っていないから。
 だから、それは嫌だから、同じになるように。分かっていたならば、そんなことはするなと止められたのに。
「一緒がいい」
 けれど、もし逆の立場なら、コウも同じことをしていた。泣き笑いの表情のまま、穏やかに微笑む捧を見上げる。
「最後も、一緒がいいから」
 幼い子どものような物言いに、うん、と、頷き返す。
 寄り添ったまま離れない二人に、ヒカリが感心したように息をついた。
「……良かったね。きみたちなら、きっと死んでも、同じところに行けるんだろうな」
 彼はいつものように笑っていた。それでも、気のせいかもしれないが、その声が少しだけ、寂しそうにも聞こえる。
 千年が終わったら、この男はどうなるのだろう。コウがそんなことを考えたのに気付いたように、行き先を教えてくれる。
「ぼくも、還るよ。楽しかった。これからも仲良くね」
「かえるって……」
 いなくなる、ということだろうか。何を考えているのか分からない、敵でも味方でもない男。けれど彼はいつでもコウを助けてくれた。生まれる前から、ずっと。
「これ、返さないと、」
 そう言って、ずっと借りていた黄色いマフラーを外そうとする。ヒカリがくれたものだ。
「いいよ、あげる。きみに似合っているしね。ぼくの思い出として貰ってくれないか」
「……ごめん」
 この男がいなくなることを、考えていなかった。魂を縛るものが消えた他の蝶たちと同じように、その糸が切れれば、ヒカリの存在もまた終わるかもしれないなんて。
 謝ると、ヒカリは笑った。
「そんな顔をするんじゃないよ。こんなに素晴らしいお終いなのに。捧もね。……ほら、ご覧」 
 そう言って、コウに手のひらを差し出して見せる。そこには光の色の小さな蝶が止まっていた。大切そうに持つヒカリのその手つきに、かつて聞いたことを思い出す。
「美しい羽だろう」
 あれが、ヒカリの「蝶」だ。
「ぼくはずっと、この時を待っていた。蝶は狩りの血に従い、そして求めるのは蝶だけ。……けれど、そんな呪いが全部なくなれば、この子も、ただのひとりとして、ぼくを見てくれるかな」
 だからいいんだ、と言って、いつものように肩をすくめて笑う。その姿から、金色の粒子がこぼれるように流れていくのが綺麗だった。
「それじゃあね」
 笑ったかと思うと、きらきらと零れる金色の光に崩れていくその破片を手を伸ばして捕らえようとする。けれど、光の粒は指の間をすり抜けるばかりで、何もそこには残らなかった。
「……ああ、やっと会えた」
  舞い散る金色の粒が消えてしまう寸前に、そう呟く声が聞こえた。
「ずっと一緒だった。ずっと、一番近くにいた。ふたりだったはずだった」
いつも余裕のある笑みを浮かべていて、人を食ったような態度ばかり取っていた「蜘蛛」のものとは思えない、素直な声だった。
「それでもぼくは、ずっと、ひとりだったよ……」
 何もかも見えなくなる寸前に、その人を抱きしめる、ふたつの腕が見えた気がした。きっと、見間違いではない。
 やっと、会うことが出来たのだろう。
「ありがとう」
 もう、聞こえないかもしれない。それでもきっと届くだろうと、そう思って小さく呟いた。

「……コウくん!」
 庭から駆けてくる人があったかと思うと、今度は八木がふたりの姿を見つけたようだった。彼の周りにも、いくつも光る蝶が羽ばたいている。面喰ったような、何が起こったのかよく分からないという表情でいっぱいだった。
「大丈夫だったのか」
「うん。たぶん」
 心配そうにコウを見てそう問いかけられたので、頷く。安心したように息を吐いて、コウと手を繋いだままの捧にも目をやる。彼が居るということで、すべてうまくいったのだと分かったのだろう。
「……あ、」
 ひらりと、ひとつ蝶が舞いこんできた。他のものと同じ色の、綺麗な羽をもつ蝶だ。コウの差し出した手の先に止まろうとしたかと思うと、淡く光が膨らむ。大きくぼやけた、影のようなものをかたちどった。
 八木がそれを見て、驚いたように息を呑んだ。そこに見えた人の姿に、見覚えがあるようだった。
「……キョウさん、」
 その言葉に、じっと光に目を凝らす。微笑む人の顔が、見えた気がした。
(「コウ」)
 音にはされない、自分の名前を聞く。このひとが名付けてくれた、幸せを祈られたコウの名前。
「おとうさん」
(「コウ、しあわせに。……幸せに、コウ」)
「おとうさん……!」
 触れようと伸ばした手は、宙をかすめる。もう、触れることは出来ない。言葉を交わせるなんて、思ってもみなかった。子どものように、その人を呼んでいた。
 微笑むその人の影は、八木にも何か言葉を向けたのだろう。
「いいえ。……おれは、この子の、お兄さんだから」
 答える八木の声も、少し震えていた。それに、満足したように輝く白い光は薄れていく。
 しあわせに、ともう一度呼びかけられた気がして、ひとつ頷く。大丈夫。もう、幸せになれる。繋いだ捧の手を、強く握り締めた。
 最後までずっとこの人と、一緒にいられるのだから。

 誰かの歌う声が、かすかに、空から降るように聞こえていた。ユキが歌っていた、あの子守歌だと気付いて辺りを見回す。低い穏やかな声で歌われるそれは、きっと魂を送るための歌だ。主の舞いを讃えるような、すべての解放を喜ぶような、これまでに積もった哀しみを、すべて忘れさせるような、優しい歌だった。彼らに導かれて、解き放たれる魂たちは、きっと皆、自由になれる。
「……母屋の方が、すごく賑やかだよ。きっと、宴会が始まるんだと思う」
 八木がそう教えてくれた。そういえば、「狩り」が終わった後は、未月が当主に就任する儀式が行われると聞いたことがある。コウは出入り出来るような立場ではないから、近寄れないけれど。
「未月くんの、お誕生日のお祝いでもしようか。あと、ついでに、他のいろいろのお祝いも兼ねて」
 八木らしい、提案だった。先程コウが、誕生日のお祝いを言った時には呆れたような顔をされた。けれど、八木のすることならば、きっと未月も、仕方ないなと溜息をついて受け取ってくれるだろう。なんとなく、そんな気がした。
「じゃあ、ケーキでも買ってくるよ。きみのお部屋にお邪魔させて貰ってもいいかな」
 そう言って捧に許可を貰い、じゃあね、と、軽く手を上げて離れとは反対の方向へ行ってしまった。まるで道が分かるようにひとりで行ってしまったけれど、大丈夫なのだろうか、と、その後ろ姿を見送っていると、しばらくしてから、振り返られた。
「一時間ちょっとくらいで戻るから」
 だからどうぞ、ごゆっくり、と、そんな風に付け加えられる。わざわざ、気を利かせてくれた、らしかった。
「……だってさ」
 離れで、それを待っていよう。ふたりきりになったら、何もしなくてもいい。ただずっと抱き合って、これから先のことを話そう。もう、誰も、何も、邪魔するものはないのだから。
 捧の手を引いて、足を踏み出す。行こう、と言って笑いかけると、捧も微笑んで、頷いた。
 もう、どこにでも行ける。この人と一緒に。

 蝶はゆっくりと庭を舞い、すこしずつ、空へと還るように高くへ羽ばたいていく。
 まるで空に向けて、降る羽のようだった。 



                                                       〈完〉

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