index > novel > かれてふるのはかれのはね > 糸/ さくらさくら


第三章 「糸」
10. さくらさくら

 それがその人の名前なのだろうか、と考えた瞬間、ざわりと皮膚が総毛立った。少し離れたところにいたはずのヒカリの姿が、四方を見回しても、もう見えない。
 足元を動き回るものがいると思い目をやると、黒く細長い蛇にも似たものが、白い布の上を無数に這い回っていた。絡み合い、縺れ合いながらいつしか見えない手で持ち上げられるように、中空に浮きあがる。いくつもいくつも描かれたその黒い線が、白い地から立ち上がり、中心に居るコウを呑み込むように伸びて絡まった。目にはっきりと見える太い線だけでなく、細い、絹糸のようなものが無数に絡んで肌に巻きついてくるのが分かる。手足や胴体だけでなく、首にも何重にも巻きつくその糸が獲物を捕えたことを心得たように、次第にきつく食い込んでいった。
「……っ、……!」
 息が苦しくて、それを解こうとする。引き千切ろうとして、手に掛けたその糸は硬く、力を込めた指先の方が先に切られそうだった。息苦しさに喘ぐ意識の中で、天網、と、ふいにその言葉を思い出す。辺りを見回すと、そこはもう、先ほどまで居た社の中ではなかった。どこまでもどこまでも広がる白い空間の中、天井も床もない真っ白な中に、ただ無数の糸だけが張り巡らされて、目で見えることの出来る限り遠くまで広がっていた。幾重にも絡んで、身体を捉え、逃れられない糸。薄れていく意識の中で、今のコウは、まるで蜘蛛の巣に掛った蝶にでもなったような姿だろうと、そんなことをぼんやりと思った。
 ふと、何かが聞こえた気がした。
 鈴を鳴らすような音だ。短く、一度だけ、確かに聞こえた。それでも、頭の中に浮かんだのは音ではなくて、言葉だった。
 ……思い出せ、おまえに繋がる、ただひとつを。
「ただ、ひとつ、……?」
 それさえ忘れなければいいと、ヒカリにも言われていた。自分が何者で、何をしたかったのか。ほんとうに知りたいことはなんなのか。
 コウ、と、自分を呼んでくれる声を思い出す。耳にいつまでも残る、あの穏やかな低い声。生まれた時にその名前を与えてくれて、優しく微笑んでくれた人。そして、何も持っていなかった虚ろなコウに、あたたかくて心地良いものを満たしてくれる人。ふたりの「蝶」の声。
 彼のことを思い出した瞬間、無数に張り巡らされた糸からただひとつ、金色に光る一本を見つける。糸が絡みうまく動かせない腕でもがくようにして、それに手を伸ばし、掴んだ。
「……!」
 掴んだと思った瞬間、それまで宙に浮いていた身体が、がくりと支えを失って落下する。どこまでも落ちると思われたその白い闇に、あやうい一本の細い糸だけで吊るされた状態になった。糸の色は、金色。右手の指先に絡むその糸だけが、コウの身体を宙に支えていた。
 この糸を、知っている。あの赤く沈む夢を見た時にも、こうやって指先から繋がっていた。これを辿れば、待つもののもとへと帰ることが出来ると、あの男……ユキが、そう言っていた。これがあれば、また、帰ることが出来る。指先から繋がるものを手繰り、手のひらで強く掴む。
 次に瞬きをして目を開けたときには、見えるものが変わっていた。
「え……」
 糸は、もう見えない。それだけではなく、何も見えなかった。あたり一面、真っ暗な闇が広がっていた。目を閉じているのか開いているのか、自分でも分からなくなってしまうほどだった。
 足下には、地面が触れている。それなのに身を屈めて自分がどこに立っているのか確認しようと手を伸ばしても、何も指先には触れなかった。ぞっとして、すぐにそこから手を戻す。見えるものがないと、自分の感覚だけが頼りだった。今度は周囲を手のひらで探る。そこにも、何もない。目隠し鬼の遊びでもさせられているような気分だった。
 死んで、身体をなくすことは、こんな感じなのだろうか、とそんなことを考える。弱気になっている自分を振り払い、先程確かに見たはずの、あの金色の糸を思い出す。見えないだけで、きっと今も、繋がっているはずだ。それをたぐり寄せるように、何も見えない虚空を掴む。
 もう一度、鈴の音がした。
 かすかな感触があった。それを、もっと強く掴もうとした時だった。
「……え?」
 青白い、いくつもの小さな光の珠が、その暗闇に浮かんだように見えた。それも、コウのすぐ近くで。瞬きをして、目を凝らす。ふわふわと、弱くはあるが、確かに光るものがあった。闇に舞うその光は、ふたつの羽を持っていた。青白い、光色の羽を持つ蝶々だった。
 その蝶の飛んだ軌跡を示すように、青い光の粒が残像のようにまだ消え残っている。それを目にして、その蝶がどこから現れたのか知ることが出来た。
 光の残滓は、コウの制服の胸のポケットから続いていた。
「あ……」
 信じられないような気持ちで、思わず、そこに手を当てる。何を入れていたのか、すぐに思い出した。雨夜の家に行く前に、わざわざ自分の部屋に戻って持ってきた「お守り」だ。
 もっと近づいて、よく見たい、と思った。それでも蝶は、そんなコウから逃れるように、何処か、闇の奥へと飛んで行ってしまう。違う、と、その後を追いながら、コウは内心で気づいた。
 あれは逃げているのではない。導いてくれているのだ。いつも、コウに進むべき道を教えてくれたように。
 何も見えない、何も聞こえないその暗い世界を、少し先に浮かぶ羽を追って、ただひたすらに駆けた。
 どれだけ走った頃だろうか。闇は、急に途切れた。
 ふと目にした自分の指先に、在ると思っていた金色の糸が見つからないことに驚く。それから数秒遅れて、見下ろす手のひらがはっきりと見えることに気付いた。
「……どこだ、ここ?」
 壁に囲まれた空間ではないのに、自分の声がこだまして響く。頭上を仰げば、薄い青灰色の空が広がっている。明るくはなかった。日が沈んだ後の、暗くなり始めた頃合いの空に似ている。黄昏時、と言えばいいのだろうか。
 冷たい風が、頬に触れた。コウが立っているのは、丹塗りの木橋だった。体の幅の二倍ほどしかない、狭い橋だ。それが、目の前にずっと続いている。先の方は、まるで霧に包まれているようにかすんで見えなかった。橋の欄干には間隔を置いて、灯籠が並んでいる。青白い光が、そこにも灯っていた。
 それまでひらひらとコウの近くを飛んでいた蝶が、肩に止まる。欄干に手を掛けて、橋の下を覗いてみた。……水、だろうか。暗くて、よく分からない。橋を支える脚柱が並ぶ以外は、他になにもないように見えた。鏡のような水面に、灯籠の灯が映りこんで鬼火のように浮かんでいる。
 その狭い桟橋を先に進む以外に、行ける場所は無さそうだった。コウが今まで進んできた方向を振り向いても、橋が行き止まりになっているだけだった。
 ここまで案内したことで役目を終えたのか、蝶はコウの肩に止まったまま、居場所を得たようにもう羽ばたこうとはしなかった。白い霧のかかる橋を歩く。ずいぶんと長い橋だ、と思いながら、まったく初めて訪れる場所のはずなのに、どこか懐かしいような、不思議な感情にとらわれていた。
 ふいに、空気が震える。
「来たか」
 それがそんな言葉のように聞こえて、コウは霧の向こうに目を凝らした。橋は、ここで終わりのようだった。代わりに今度は、傾斜の緩やかな階段に続いていた。
 その階段の前に、ひとの姿があった。霧のせいか、その輪郭がかすんでいて、よく見えない。
 それでも、それが誰なのかは、もう知っていた。
「……ユキ」
 こうして目にすることで、思い出せた。あの時、赤い夢に沈んだコウを助けてくれた男だ。清川の身体からは、上手く抜け出せたらしい。
「命を粗末にするなと、おまえの周りのものはそうは言わなかったのか」
 コウに向けて言ってくるその声が、どこか説教じみていた。コウがほんとうに「夜叉乞い」を行ったことについて、呆れているような物言いだった。
「言ったよ。でも、おれがやるって言い切ったから。……ここは?」
 ユキの表情は見えない。あの夢の中で見た通り、その顔は鬼の面で隠されていた。夜叉だとヒカリは言っていたが、コウには違いがよく分からなかった。
 近づいてみる。モデルのような、華やかな装いを好んでいたヒカリとは対照的に、ユキは古めかしい装束を纏っていた。剣、だと、自分のことをそんな風に言っていた。見れば、確かに長い刀らしいものを帯びている。姿勢のよい、武人の出で立ちだった。
「此岸と彼岸の、狭間」
「しがんとひがんのはざま?」
「……この世とあの世の中間、だ」
 分からない言葉に聞き返すコウに、そんな風に言い直す。それならば、理解出来た。
「呪術師に会いたい」
 よくよく見れば、ユキの表を覆う鬼の面は、所々がひび割れている。その下から、わずかに片目と、コウの言ったことに不満気に結ばれた口元が見えた。
「おまえがここにたどり着けたのならば、それは我が君が導いた故。お望みになっているのは、あのお方も同じようだ」
 そう言って、コウに背を向ける。後に続くよう、そんな仕草をされた気がした。段の広い階段を上る。橋と同じように、等間隔で両端に並ぶ灯籠の青い光だけが道を照らしていた。橋を降りて、霧が晴れた辺りから、周囲の闇が濃くなった気がした。この世とあの世の中間だというのならば、ここから先に進むほど、それはあの世に近くなっているということなのだろうか。
 階段は長く、上り続けるうちに一段の幅が少しずつ狭くなる。身体はあの小さな神社に置いてきているはずなのに、息の上がる自分が奇妙だった。
 先を歩いていたユキの背中が消える。着いた、らしい。
 長い階段の先に現れたその光景に、思わずコウは声を上げた。
「……祟堂神社?」
 目に入ってきたのは、コウの家の近くにある神社の風景と全く同じだった。違うのは、灯籠と、あの小さな社の扉が開かれていることぐらいだろうか。
 入りなさい、とユキに促され、その社に足を踏み入れる。その瞬間、それまで感じていた既知感が錯覚に過ぎなかったことを知った。
 見た目こそ、コウの知る現実と同じだった。それでもその内部は、遙かに天井が高く、太い柱が天を支えるようにいくつも立っていて、先が見えない。見渡しても視界が足りないほどに奥深さのある、そこはまさに神殿だった。
 灯籠の代わりに並ぶのは、青白い篝火。空気が冷たく澄んで張り詰めている。花羽の庭に満ちていたものに、よく似ている気がした。
「お連れ致しました」
 尊い人を祀るため、だろう。神殿の最奥になるらしいそこで、ユキは足を止めて跪く。その名前は、ヒカリが教えてくれたものと同じだ。
 壇になっているその奥は、御簾に隔てられて、誰の影も見えない。それでも、コウも自然と、ユキと同じように膝を付いていた。雨夜の当主と向き合った時や、花羽の、未月の母に弓を向けられた時に、同じようになった。それでも、向けられる力が圧倒的に強い。逆らおうなどと、微塵も思えない。従わなければ、瞬間で押し潰されてしまいそうな力を、確かに、感じた。
『上げよ』
 鈴が鳴った。それなのに、頭に響くのは、そんな言葉だった。耳で聞いたのではない。頭蓋骨の内側に、直接音を流し込まれたようだった。どこかまだ硬い、幼い声であることが少しだけ意外だった。
 その声はユキにも聞こえるのだろう。彼が立ち上がり、声の命ずる通りに、隔てていた御簾を上げた。
『そなたの返した血、たしかに受け取ったぞ、千年の童よ』
 そう言って、少しだけ、含むように笑う声。呆けたように見上げてしまい、コウよりも少しだけ高い位置にある瞳と目が合う。ばちりと、それを見た瞬間、身体に強い電気が走ったような衝撃を感じた。自然と、頭を下げていた。
 この人を、真っ直ぐに見るなんて、そんなことはしてはいけない。
 赤い色のその目は、人間のものではない。夜叉、と、皆がそう呼んでいたことを思う。声に見合った幼い体躯を包むのは、神楽を舞う巫女の衣装にも似た、淡い色の揃えだった。金色の額飾りにはいくつもの色の輝石が光り、黒髪に留める金色の鎖が目映くて、瞬間見ただけなのに、目蓋にちかちかと残像が残っていた。
 けれども、何よりも目についたのは、その人を閉じこめる、黒色の囲いだった。
『驚いたか。わたしは千年、これより出られぬ身であるからな』 
 それは檻だった。
『面をあげよ。わたしに会いに参ったのだろう』
「……はい」
『そのように畏まるな。わたしが憎かろう、存分に睨めばよい。ここに居るこれこそが、そなたら皆を苦しめる、すべての根源であるぞ』
 赤い目のその人が笑い声を上げると、どこからともなく鈴の音が響く。先程の、金色の糸の存在を思い出させたのもこの声だと、そう思った。
「サクラ様」
 咎めるような声で、その檻の傍らに控えたユキが短くその名を呼ぶ。
『おまえは下がれ、ユキ。……久方振りの客人だ』
 しかし逆に、主からそう命じられてしまう。それ以上は何も言わず、はい、と一度短く応えたかと思うと、その姿は掻き消えるように暗闇に溶けた。
 コウは顔を上げた。それを許されたから、というよりは、これもまた、自分ではない外側からの干渉で操られているような心地だった。
『さあ、語れ。命を返して、なにを求める』
 その人はコウを見ていた。手にした扇を広げて、顔の半分を隠すようにし、その陰で笑う。
「……サクラ様、お願いがあります」
 聞いていた名前で、その人を呼ぶ。両手を床について、乞い願うようにその人を見上げた。あの、無数に絡む幾億の糸を生まれながらに目にすることが出来て、それを操ることも出来る存在。そんなことを聞いていなくても、こうしてこの人を前にすれば、誰だってそのことを理解する。たとえ誰に指示されなくても、この人を目の前にすれば、自然と膝を折って、額を地に付けていた。
 この人に逆らえるものなど、誰もいない。
「『蝶狩り』の儀式の呪いを、解いてください」
『それはできない』
 頭を下げたコウに、しかしサクラは軽やかに笑うだけで一蹴した。細かい絵が描かれた扇を閉じてはまた広げ、手遊びのように玩びながら、ゆらりと表情の定まらない目でコウを見る。
『あれはすでに、成した術だ。千年を経て完成する、ひとつの長い呪。ことのはじめに、すべてはもう終わっている』
「……、そんな、」
『花羽の小さいのが言っていたであろう。そなたら祟堂の一族は、わたしの呪によって生きながらえた。それは零から壱を作り出すのではなく、壱と壱との名を書き換えているに過ぎない』
 花羽の小さいの、とは誰のことだろうと思ったが、それはどうやら、未月がコウに教えてくれたことのようだった。未月のことらしい。
 壱と壱との名前を書き換える。その言葉の意味を考える。……「狩り」と、「蝶」、だろうか。
 コウがそう思い浮かべたことなど、きっと筒抜けなのだろう。サクラは檻の中で、その赤い瞳を一度だけ瞬かせた。
『死すべき定めを、別の一族に肩代わりさせているということになる。「蝶」は、その約束を果たしているという証代わりだ』
「……どうして、蝶、なんですか?」
『魂は蝶のかたちをしていると言われるではないか?』
 まるで謎掛けをして遊ぶ子どものように、サクラはまた扇を揺らして笑う。そういう風に、言われるものなのだろうか。コウには聞き覚えのない言い伝えではあったが、確かに、あのふわふわと風に舞う様子は、ひとの魂がさまよう姿だと言われれば、それらしい気もした。
『わたしの趣味だ。……あれは美しい。羽をもって、何処でも自由に舞える』
 考え込むコウが可笑しかったのか、そんな風に言葉を加えられる。まるで喉の奥で笑うような、そんな仕草ではあったが、やはりその声は耳からは聞こえない。先程から笑い声を上げてはいるものの、この人は一度も口を開くことはしていない。きっと喋るのも聞くのも、人間がそれを必要とする器官を通すことなく自在に行えるのだ。
 だから、コウがサクラのその返答を聞いて落胆したことも、きっと手に取るように鮮やかに伝えてしまったのだろう。分かっている。誰も、こうしたところで、呪いを解く方法を教えて貰えるとは言わなかった。それを、勝手にその可能性があるかもしれないと言って賭けたのはコウだ。だから、誰も悪くはない。
 けれど、もう他にどうすることも思いつかなかった。この人が出来ないというのならば、それはもう、ほんとうに何をどうしても変えることが出来ないことなのだろう。そう思うと、強張らせていた肩から力が抜けてしまった。途方に暮れる。
『……ならば、賭けをせぬか、千年目の童よ』
 その様子が、目に余るとでも言いたげに、檻の中の呪術師がそんな風に誘いかけてきた。
「賭け?」
『そう。黙って聞け、どうせ近くで、あれが聞き耳を立てている』
 あれは細かくて叶わん、と、サクラはそう笑うように扇を揺らした。あれ、とはユキのことだろうか。……そういえば、以前ヒカリも、そんなことを言っていた気がした。
 細かいことを考えるのが好きな奴、と、この「儀式」のことについて決めている誰かのことを、そんな風に話していた。夜叉の面から覗く、あの目を思い出す。確かに、生真面目そうな印象はあった。
「叱られるんですか」
『叱るぞ』
「……サクラ様は、神様なのに?」
 思わず、素直にそんなことを言ってしまう。コウが自由に言葉を発することが出来るのも、きっとそれをサクラが許しているからだ。だから、まるで普段通りに、そんなことを口に出してしまった。
『神ではない。鬼だ』
「同じようなものじゃないんですか」
 コウにとっては、そのふたつが、それほど異なっているようには思えなかった。
『人ならざるものであるには変わらぬな。……寄れ、童よ』
 ユキに聞かれないようにするためか、近づくよう、扇で招かれる。それに気後れしながらも、大人しく従う。赤い毛氈の敷かれた壇に上がり、黒く四角い檻の縁へと身を寄せた。檻はコウの背よりも低い。サクラの見た目はコウよりも若干幼く見えるが、それでも、この中で立ち上がろうとするのは無理だろう。
 何でも知っていて、何でも出来るはずの強い力を持った人なのに、どうして、こんなところに入っているのだろう、と、純粋にそれを不思議に思った。どういう材質で出来ているのかは分からないが、その格子に指で触れて見ると、金属のように冷たかった。
『そなたは千年の呪を解きたいのだろう』
 頭に直接語りかけられるその声は、内緒話をするような、どこか押さえた調子のものだった。同じように、コウも声をひそめて、はい、と頷く。
『その願いを聞くことは出来ない。時は天から降る砂粒のようなものだ。重なり、固まり、やがて過去となる。そこに埋めてしまったものには、もはや干渉出来ぬ。そなたらを縛る呪の根本は、千年前に遡る。故に、そなたらの居る時からではすべてを解き放つことは為らぬのだ。……分かるか?』
「なんとなく」
 過去の呪いを無かったことにでもしない限り、呪いを解くということは不可能、ということなのだろう。ということはつまり、この人の力があるおかげで生きていられるという事実がある限り、「儀式」は必要不可欠になるということだ。
『成した術は、解けぬ。それならば、新しく呪を重ねればよいのだ』
「……どういうことですか?」
 今度は、サクラが何を言いたいのか分からなかった。呪いを解くために、また新しく呪う? それではまた、別の苦しみが続くだけではないのか。
『そなたらを苛む呪は、千年前のわたしの呪詛。ならば、千年目のわたしが、それからそなたらを護ろう』
 言われたそのことは、まったく予想もつかないものだった。
『おそらく今ならば、力は互角。失われたものを取り返して遣ることは出来ぬが、奪われぬように護ることならば出来る』
「ほんとうに?」
 思わずコウが尋ね返すと、ほんとうだ、とサクラは笑う。扇を広げて閉じて、それでコウを指す。
『ただし、そなたがわたしとの賭けに勝てたら、の話だが』
 願ってもない提案ではあるが、神だと言われる人が何を持ちかけてくるのかと思うと、素直に喜べなかった。
『容易いものだ。……わたしの望みを、叶えてくれるだけでよい』
「望み?」
『そう。それを、そなたが叶えられるかどうか。それを、賭けとしよう』
「……いったい、何をすればいいんですか?」
『わたしには、ひとつだけ解けぬ糸があるのだ。ただひとつ、それだけが千年に渡ってもほどけぬ。それを、解け』
「え、……それって」
『これより先は言わぬ。否、言えぬのだ。今この時にも、縛られている故にな』
 簡単だと、サクラは言った。けれどもコウには、容易いことだとはとても思えなかった。抽象的すぎて、それが何をどうすればいいのかなんて、全く思いつかなかった。それでも、この機を逃せば、もうほんとうに、コウに選べる道はなくなる。捧にも、未来を授けてやれなくなってしまう。
「わかった」
 だから半ば、自棄で請け負った。どうにでもなれという気持ちもあったし、絶対にどうにかしてやるという強い気持ちもあった。それを見透かしたのか、サクラは扇をまた開き、それをゆらりと揺らしてコウを見る。
『案ずるな。すべて、見てくればよいだけのことではないか』
「おれが?」
『わたしは千年さきまで、この糸をたぐり、手を伸ばした。ならばそなたが、それを逆巻けばよいだけのこと。そなたと、そなたが解き放ちたいと願うものに絡むこの糸を、千年を逆にたどり、底に落ちればよい』
「そんなこと、できるのか」
 言われたことがあまりに途方もないことなので、つい、いつもの口調が出てしまう。サクラは別段それに気分を害した様子もなく、できる、と扇の陰で笑うだけだった。
『そなたは狩りと蝶が絡む血を持つもの。そのどちらの根源にも、望めば遡れよう』
 そこまで言ったあと、サクラは扇を畳んで、コウの方を見てにこりと満面の笑みを浮かべた。そんな風にされると、まるきり、ただの変わった格好をした子どもにしか見えない。……もうずっと昔からこうして存在しているのだろう人に、そんなことを考えることは失礼なのかもしれないが。未月などに言ったら、きっともの凄く怒られてしまうだろう。
『なにが、そなたらを千年の長きに渡って縛ることになったのか、その目で見るがよい。さすれば、わたしの望むものも分かるやもしれんぞ』
 それでも、そう言って笑う顔は、こちらが拍子抜けするほど子どもじみていた。
 どうする、とでも問いかけるようにコウを見据えるその人の赤い瞳に、一度、頷く。どんなことでも、可能性があるのならば、試してみなければ分からない。
 光の羽を持つ蝶がひとつ、ふわりとコウの方へ舞った。それがふたつの羽を広げて、コウの両目を覆い隠すように眉間に止まったかと思うと、そのままふわりと皮膚の中へ溶けたように、消えてしまった。
 驚いて顔を上げると、また扇に顔の半ばを隠したサクラが何か言ったらしいのを目にする。今度は、頭に直接話しかけてくるのではない。はじめて耳にする、口を開いての、ほんものの声だった。
「……あれは頭が固いぞ! そなたに、解く手筈が見つかるかな」
 溶けて滲むように、視界がまた白い闇に染まる。そう言って笑ったサクラの声と表情は、鬼と呼ぶにも神と呼ぶにも、どちらにしてもあまりに幼く、邪気のないものだった。

<< 戻    次 >>



糸 / さくらさくら <  かれてふるのはかれのはね <  novel < index