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第三章 「糸」
5. 「幸」

 半分だけ開いた雨戸から、外を覗く。離れには時計がないので時間は分からなかったが、外はもう薄暗かった。
「……八木さん」
 その姿を見つけて、呼びかける。コウがひとりになりたいと言ったから、気を遣って遠慮したのだろうか。八木は、離れから少し距離のある小さな池の近くに立っていた。振り向いて、微笑みながら聞かれる。
「もう大丈夫?」
 それに頷く。八木は珍しく、煙草を吸っていた。あまり、家ではそんな姿を見かけることがなかったので、吸うのか、とそれを意外に思う。八木もそれに気付いたらしく、ああ、と笑った。
「家では吸わないからね。外でだけ」
 見慣れないその姿を見ていると、改めて、この人は大人なのだとそんなことを感じた。コウには知らないことがたくさんある。
「八木さん、ヒカリと知り合いだったのか」
 縁側に座り、そのことを聞いてみる。ヒカリは八木のことを、貴人、と名前で呼んでいた。
 コウの言葉に、八木は苦笑いをする。
「知り合いといえば知り合いだけど。コウくんも昔会ってはいるよ。すごく小さくて、まだやっと喋り始めたような頃だから、覚えてないと思うけどね」
「……ほんとに?」
 そのことに驚きながらも、八木の言葉に、どこか違和感を覚える。コウの記憶と、少し異なるところがあった。八木は確かに、コウがまだ小さい頃に、牧丘の家に来た。けれどそれは、大学に通う為に実家を離れたのだと聞いた覚えがあるから、コウが小学生になるかならない頃かのことのはずだ。
「あ……」
 しまったな、と、自分の失言に気付いたように八木が苦笑する。何か、隠しているのだと分かった。
「黙ってるつもりだったんだけど。でも、こうなったら別に、隠す理由もないかな。おれは子どもの頃も、今みたいに牧丘の家に居候してたんだよ。まだコウくんが生まれたばかりで、そうだな……たぶん、半年も経ってなかったぐらいかな」
 コウから話を促すことはなかったが、言葉にしなくても、それを求める顔をしていたからだろうか。八木は持ち歩いているらしい小さな灰皿で煙草の火を消して、コウの隣になるように縁に座った。
「おれがまだ小学生の時、両親が離婚してね。それで、父親に引き取られて、牧丘の家に住ませてもらうことになった。澄子さんはおれの親父の恩師で、住むところがなくて困っていた親父を助けてくれた」
 コウの祖母は、今は着物の着付けを教えているが、昔は中学校で先生をしていた。生徒に慕われる先生だったらしく、毎年、年賀状もたくさん届く。もう卒業して何十年も経っているような人からも、未だに近況を知らせる手紙が届いたり、近くに来たからと家を訪れて話をしていく者もある。祖母はそのひとりひとりを覚えていた。八木の父親も、そのうちのひとりだったのだろう。
「牧丘の家には、澄子さんと、生まれたばかりのきみと、そして、きみのお父さんがいた」
「……おれの、おとうさん?」
「そう。おれはまだ子どもだったから、詳しい事情はよく分からなかったけれど。不思議な人だと思ってたよ」
 もっと、詳しく聞きたかった。コウの父親。雨夜の本家の血を引く娘によって、あの当主から盗まれた「蝶」。
「おかあさんは?」
「その時には、もういなかった。母親はいないのかと、おれの親父がそんなことを聞いても、何を言われたのかよく分からないみたいに、笑うだけだった。澄子さんが後で、家を出て行ってしまったのだとそう教えてくれたけど。おれの親父は、女房に逃げられた者同士だって妙に親近感を覚えたらしくて、きみのことも嬉しそうに構ってたよ」
「家を、出て行った」
 想像もしていないことを言われた。家を裏切ってまで、一緒になったはずなのに。それなのに、「蝶」も、その間に生まれた自分の子どもも置いて行ってしまったなんて。
「……おかあさんも、おれのこと、あんまり好きじゃなかったのかな」
 コウの父親は、ふたりの間に生まれた子どもを、自分が裏切った雨夜の当主への捧げものとして残したのだと言っていた。それだけでなく、母親にまで、そんな風に思われていたのだとしたら。そんなことを考えると、自然と声が沈んだ。もともと、存在を知らなくて、なんとも思ったことのない人たちのはずだったのに。はじめから、誰からも望まれない存在だったのかと、改めて思い知らされるのは、何も考えないことよりもずっと寂しかった。
「コウくん?」
 八木が、不思議そうにこちらを覗きこんでくる。この人は優しいから、きっと、コウを傷つけるようなことは余り言わないように気を付けているのだろう。だから、それ以上は話そうとしなかった。
「……それで、あのヒカリとかいう男の話だったね。あいつは、きみのお父さんに会いに、よく家に来ていたよ。自分で言うのもなんだけど、おれはその当時、両親の離婚とか、転校とかで、ちょっと不機嫌なことが多かった。それが目に付いたのか、やたらとちょっかいを掛けられたような記憶がある」
 その様子が、容易に想像出来た。ずっと昔からあのままで長生きしている男なのだから、たかが十数年前と今とでは変わらないだろう。
「子ども心にも、怪しい奴だなって思ったよ」
 そう言って八木は笑った。もっと、両親のことを教えてほしいような気もしたが、これ以上聞いても自分が悲しくなるだけのような気がして、やめた。元々、八木や澄子が進んで言わなかったのは、そんな理由があったからかもしれない。
 この人や祖母は、コウがいなくなったら、それを悲しんでくれるだろう。そう思うと、申し訳ないような、それでも、どこか嬉しいような気持ちがした。
 コウが何も言わなくなったからだろう。八木も、それ以上話すことはなく、しばらくどちらも黙っていた。家でも、居間などで一緒になると、こんな風に何も話さないことがよくあった。
 沈黙を破ったのは、コウの方が早かった。
「未月は?」
「……母屋の方だと思うけど。いろいろ準備することがあるからって言ってた」
「おれ、未月に、言わなきゃいけないことがある」
 八木は見張りを任されていた。だから、ここから離れてどこかに行こうと思ったら、この人に言って許しを得なければならないのだろう。未月に会わなければならない。会って、捧ではなくて、コウを「狩り」の獲物にしてくれるように言わなければならない。
「……おれでよければ、代わりに伝言をするよ」
「駄目だ。おれが、直接言わないと」
 長い時間、ぼんやりと一緒に暮らしていたせいだろうか。はっきりと拒絶の意思を示すコウを怪しむように、八木は、コウの表情をじっと見てきた。
「まさかとは思うけど、コウくん」
 見透かされそうで、目を逸らす。八木はそれまでの優しい表情とは違う、真剣な眼差しでコウを見ている。
「自分が、あの彼の代わりになろうなんて考えてるんじゃないだろうね」
「……っ」
 言い当てられて、息を呑む。コウがようやく辿りついたその方法を、すぐに指摘されてしまったことが悔しかった。
「そんな馬鹿なことを言うのは止めなさい。自分の命を、なんだと思ってるんだ」
「……なんだよ、その言い方……!」
「きみは何も分かってない。そんなことになったら、どれだけ悲しい思いをさせるか」
「じゃあ、八木さんは、あの人ならいいって言うのか。おれは駄目だけど、あの人の命なら、なくなっても構わないって言うのかよ!」
 子どもに言い聞かせるような口調で、ゆっくりと説得される。それが許せなくて、声を上げた。憐れむような目でコウを見ている八木を睨み返す。
「そういうことじゃない。けれど、それだけは駄目だ。誰が許しても、おれが認めない」
「どうして……!」
 反論しようとしたコウを宥めるように、両肩に手を置かれる。それから逃れるために身を捩って、その手を振り払う。八木にそんな風に言われる理由が分からなかった。
「おれなんか、どうなったっていいじゃないか。生きてたって、なんの意味もないんだ。誰も、おれなんて必要じゃなかった。なんの意味もない。おれの命だって、もともと、そのためにあるんだろ!」
 湧き上がるままの感情を、そのままぶつける。今まで、決して口にすることはなかった。けれど、心の底では、ずっとそんな風に思い続けてきた。明確にかたちにしたことはないから、自分がそんなことを考えていたなんて、この瞬間まで分からなかった。けれども、それは確かに、コウの本音だった。
 こんな強い言葉を、この人に投げつけたことは無かった。だからだろうか、八木はしばらく、呆然としたような顔でじっとコウを見てくるだけで、何も言わなかった。呆気に取られているようなその表情のままで固まる八木を、一息で怒鳴ったせいで乱れた息のまま見上げる。
「……なんの意味も、ない?」
 そんな風に呟かれた。そうかと思うと、次の瞬間、頬を一度、乾いた音を立てて打たれていた。
 一瞬、何をされたのか分からなくて、遅れて、痺れるように熱を持った頬に触れる。この人に、叩かれた。
 手錠を掛けられた時でさえ、暴力を振るわれるようなことはなかった。怒っているようではあったけれど、こんな風に、燃えるような怒りを露わにして見下ろされはしなかった。
「きみは何も分かっていない。何も分かってない癖に、そんなことを言うな!」
 頬は痺れてはいたけれど、力は加減されていた。だから、それほど痛くはない。強い言葉でそう言い放たれて、怯みそうになる。じっとこちらを見ているその人に、何か言い返そうとして、別の声に割り込まれた。
「また喧嘩しているな。大きな声を出すから、庭の中まで聞こえていたよ」
「……ヒカリ」
 呆れたように肩をすくめて笑うのは、先程話題にしていた「蜘蛛」だった。
「まあ、兄弟は喧嘩をするものだ。ぼくのところなんか、顔を合わせれば毎日喧嘩ばかりしていたからね」
 笑いかけられて、八木はその視線から逃れるように目を逸らす。逸らしたまま、呟くようにコウに謝ってきた。
「ごめん。痛かったろう」
 それには答えずに、黙っている。ヒカリには何があったのか分かっているのか、離れの縁から少し距離を置いた位置から、ふたりを眺めていた。
「手を上げたことは謝る。だけど、きみが間違っていることを訂正するつもりはない」
「なんで……」
 どうして、そこまで言われるのか分からなかった。何も知らない癖に、とそんな風に怒鳴られても、誰も、教えてくれないのに。コウに分かるのは、自分が感じる疎外感と、捧と一緒にいる時以外はずっと空気のように満ちていた寂しさと、ひとから傷付けられ蔑まれて初めて得られる、間違った安息だけだ。
「おれは、あの男への、捧げものなんだって言われた」
 うつむいて、そのことを口にする。雨夜の当主が言っていたことだ。
「おれのおとうさんは、雨夜を裏切ってしまったから。だから、その代わりに、おれを残したんだって」
 言っていて、自分で惨めになった。捧で、きれいに千年目が終わるはずだったのに、コウがいるせいで、それが無駄になってしまうかもしれない。雨夜甚が何を考えているのかは分からないけれど、コウが捧と一緒にいることを望むのならば、そうするしか道はないのだと言われた。そうなればどちらかの色の蝶がひとつ、必ず余る。
 どちらかが、滅んでしまう。
「……誰が、そんなことを」
「雨夜の当主様だろう。あの方らしいお言葉だな」
 うなだれるコウと、その言葉を怪訝そうに聞く八木に、ヒカリは声を立てて笑った。
「だから、おれが未月に狩られる。そうすれば捧さんは生きてくれるから」
「おや、そんなことまで言い出したのか。……未月がそれを受け入れると思うかい」
「だって、未月にとっては、どっちでも同じだろ。それとも、半分しか血が入ってないから、それじゃ駄目なのか」
 雨夜の当主は、コウを狩るなら片羽ぐらいは得られるだろうと言っていた。それでは、ひとつとして数えられないのだろうか。
「それは大丈夫だとは思うけれどね。片羽でも、数は数だから。きみのその申し出を受け入れるかどうかは、未月の気持ち次第だろう。あれは手強いよ」
「説得する」
 頑として譲らないつもりのコウに、八木はまた苛立ったように言ってくる。
「まだそんなことを……!」
 何を言われても聞かない、と告げるつもりで、そちらの方は見ない。もう、決めたのだ。
 ヒカリはしばらく、コウと八木とを交互に見ていた。そうして、どちらも自分の意見を変えるつもりがないのだと、そのことを確認したように、また肩をすくめて笑う。
「コウの気持ちは分かる。けれど、貴人の言いたいことも分かる。甚様は意地悪だな、そんなことを言うなんて」
 分かっていたことだけれどね、とそんな風に続けながら、縁側にまた座ったコウに近づいてきて、腫れた頬に手のひらで触れられた。
「あと、ひとつだけ足りていなかったみたいだね。もう少しだけ、またお休み」
 目を覗きこまれるようにして、微笑みながらそんな風に言われる。触れてきた手は温かくも冷たくもない。囁くような言葉は静かで、まるでおまじないのようだった。
「きみの父がどんなつもりでいたのかなんて、今となっては知りようがない」
 悲しくて悔しくて、どろどろと胸を渦巻いていた感情から、切り離されたように少しずつ遠ざかる。ヒカリの声が耳に響いて、強張らせていた身体から自然と力が抜けた。目を開けていられなくて、閉じてしまう。
 身をかがめられて、額にほんの一瞬だけ、唇で触れられる。
「……だからせめて、自分が何を祈られた存在なのか、全部、思い出しておいで」
 その言葉を最後に、また、意識が白い闇に溶けた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ……見覚えのある景色が開ける。何か、音が聞こえる。
 そこに流れてくるのは、知っているものとは少し異なっているけれど、聞き間違えるはずのない、祖母の声だと分かった。ラジオの電波にノイズが混じるように、聞こえてくる音が、ところどころうまく拾えない。見える風景も白くぼやけたように霞んでいて、はっきりとそこに立つ人々の造作までを細かく見分けることは出来なかった。
 今さっき玄関の引き戸から中に足を踏み入れたふたりの人間が、家の中の誰かに、頭を下げている。
(「お世話になりますが、……よろしくお願いします……」)
 ふたり連れは、背の高い身体の大きな男の人と、その人を小さくしたような、親子連れらしかった。それに向かい合っているのは、多分、祖母の澄子だ。その祖母がはじめましてと笑いかける声にも、少年は唇を噛んだまま、小さく頷くだけだった。隣に並んだ父親が、それを叱る。少年はますます意固地になったようにそっぽを向いてしまう。
 彼は寂しいのだ、と、何故だか、それが分かった。ほんとうならば、母親と一緒にいたかった。いま隣に並ぶ父親は、いつも仕事ばかりで、少しも彼のことなど構ってくれなかった。それなのに、別々に住むことが決まった時、彼を引き取ったのは何故か、父親の方だった。それが嫌で、母親と別れることが寂しかった。けれど、別れ際に、必ず迎えにいくからと、母親はそう約束してくれた。しばらくの我慢だからと、そう言われて、何も言わずに頷くしかなかった。
 それまで住んでいた家を出て、今日から、この家に住むことになった。それも、彼には面白くなかった。通っている学校も、変わらなければならなかったからだ。友達もたくさんいて、毎日、楽しいことばかりだったのに。おまけに、今度住むところは他の人の家の部屋を借りるだけだから、父親と同じひとつの部屋で暮らさなければならないのだと言われた。
 嫌なことばかりだった。自分の家だと思ってくれればいいからと、そう言ってくれる大家さんだという人は優しそうだけれど、素直にその顔が見られなかった。
(「……おや、……お孫さんがいらしているんですか」)
(「いいえ、……あなたたちと同じ、お部屋を貸しているひとの……」)
 ふいに、家の奥から聞こえてきた子どもの泣き声に、父親がそんなことを言う。大家である澄子は、それに首を振った。ちょっとごめんなさい、と謝って、親子に中に上がってもらうように頼む。
(「まだ、ちいさな赤ちゃんなの。けれど今は、お母さんがいなくて」)
 そう言って奥へ進む祖母の後を、親子は付いて歩く。父親の方は、これから一緒に住む誰かに顔を見せて挨拶をしようと思っていたし、少年の方は、父も大家もそちらに行くから、他にどこに行くわけにもいかずについて行った。
(「……どうしたの、大丈夫? ……そうそう、上手に出来るようになりましたね」)
 畳敷きの居間は、現在のものとほとんど変わらない。祖母が顔を出すのとほぼ同時に、聞こえていた泣き声は止んだ。入って座るように案内されて、少年は父親と少し距離を開けて、部屋の隅に座った。
(「はじめまして、……八木といいます、……お世話に……」)
 父親がそんな風に頭を下げて、部屋の中にいたひとに挨拶をするのをぼんやりと眺めていた。
 そこにいたのは、ひとりの若い男だった。父親よりはずっと若そうだったけれど、少年よりはずっと年上になるのだろう。痩せているせいか、ずいぶんと背が高く見える。彼は両腕でしっかりと、小さな子どもを抱いていた。
(「……はじめまして」)
 彼は泣き止んだ赤ん坊をあやしながら、そんな風に答えた。父親と少年を交互にじっと見て、そうしてまた、胸に抱く子どもに目を戻す。眠ったことを確かめて、目を細めてその顔をいつまでも見ていた。
(「お名前は、なんとおっしゃるのですか」)
 父親がそう聞いても、彼はこちらの方を見なかった。まるで聞こえていないようなその様子に、少年も思わずその人をじっと見てしまう。苦笑しながら、祖母が彼に言った。
(「あなたに聞いているのよ。答えてあげて」)
 その声に、彼は顔を上げる。意外そうな表情をして、それでも、はいと頷く。
(「キョウ」)
(「……キョウさんか。どんな字を書くんだ?」)
(「それはわかりません。ぼくは、字が書けません。『くもつ』という意味だそうです。この子は、コウです」)
 礼儀正しい言葉遣いではあったが、その人の話していることが普通ではないことは、少年にも分かった。
(「……『供物』?」)
 言われたことに答えたからか、彼はまた、親子のことを忘れたように子どもを胸に抱いて、それきりその姿勢のまま動かなくなる。
 祖母はどこか困ったように眉を寄せて、それでも笑いながら、親子に家の中の説明をはじめた。

 キョウが普通の人間でないことは、すぐに分かった。
 親子が部屋を借りている二階ではなく、キョウは小さな赤ん坊とふたりで、一階の小さな和室を使っている。探検をするようなつもりでそこを覗いてみると、箪笥があるだけで、なにもない部屋だった。キョウは一日中ずっと、子どもの傍にいて離れない。泣いている時は抱き上げてあやしたし、寝ている時は、赤ん坊用の小さな布団の横にきれいに膝を揃えて座って、何をするでもなくじっとそれを見ている。ミルクを温めるのだけは別の人間がしていたが、飲ませるのは、キョウがしていた。他のことなどこの世界には存在していないように、彼はずっと、コウという名の子どもから離れなかった。
(「貴人さんは、そんなに小さいのに、賢いのですね」)
 父親はやはり、仕事に行って姿がないことの方が多かった。不思議な雰囲気を持っているキョウに、最初こそ警戒していたものの、少年はすぐにそれに慣れた。父親や大家にするように、少年にもそんな風に同じ話し方をしてくれることが、大人のように扱われているようで得意になった。それに、赤ん坊は可愛いかった。少年はひとりっ子だったから、ずっと、兄弟のいる友達のことを羨ましいと思っていた。男の子なのだというその子は、よく笑う子だった。紅葉のような小さな手に指先をぎゅうと掴まれると、それだけのことがとても幸せなことのように感じた。
(「……こんなの、だれでもできるよ。当たり前だから、ぜんぜんすごくない」)
 少年がコウに絵本を読んでやると、キョウはいつも、それを褒めてくれた。キョウは、字を読んだり書いたりすることが出来なかった。澄子に教わり、最近になってようやく、少しずつ片仮名が書けるようになったのだという。だから、自分の名前を漢字で書いたり、本に書かれた文字を読み上げる度に、それを凄いと言われる。
 気が付いた頃には、当然のように読み書きが出来た少年には、それが不思議でならなかった。

 新しい学校でも、すぐに友達は出来た。誰かが玄関のチャイムを鳴らす音が聞こえると、母親が迎えに来てくれたのだと一番に走って行くことは、時間が経つにつれて、少しずつ少なくなっていった。
 キョウが平仮名を少しずつ書けるようになった頃、コウはひとりで立つことが出来るようになった。皆、手を叩いて喜んだ。キョウはずっと微笑んでそれを見ていた。
 すぐに元気に走り回るようになるのよ、と笑う澄子と一緒に、小さな靴を買って、お祝いした。
 コウは少年や澄子にも、あまり家にいることのない父親にも懐いていて抱き上げれば笑ったけれど、やはり一番落ち着くのはキョウの腕らしかった。機嫌が悪くなったり、何か怖いことがあって泣くような時は、キョウでなければ泣き止まなかった。言葉らしきものはいろいろ口にしてはいたけれど、それでも、一番初めに喋れるようになったのも、父を呼ぶ言葉だった。おとうたんと舌っ足らずに自分のことを呼んでくるコウに、キョウは珍しく声を立てて笑った。
 コウの母親は、子どもを産むとすぐに、もう嫌だと泣いて、元いた家へと帰ってしまったらしい。だから、コウには母親がいない。自分と同じだと思って、少年はそれが少し嬉しかった。

 キョウは足が悪かった。右足に大きな傷があって、そのせいであまり上手に歩けないのだと言っていた。だから、歩くようになって色々なところに行きたがるようになったコウの後を追うのは、少年の役割になった。ひとりでどこでも行ってしまわないように、後を追いかけて、転んで泣き出すと、すぐにキョウのところに抱き上げて連れて行った。
(「貴人さんは、コウの、おにいさんですね」)
 そう言って微笑んでくれるのが誇らしかった。いつまでも、その役を任せて貰えたらいいと、そんな風に思った。

 夏の日のことだ。陽が落ちて暗くなった小さな庭で、花火をした。
 キョウは花火というものを初めて目にするらしく、同じように丸い目を見開いて見入られているコウを胸に抱いたまま、火花が散るのをじっと見ていた。あまり派手なものではコウが怖がるかもしれないので、線香花火を選んで、キョウにも持たせてやった。
(「きれいだね、コウ」)
 そう言って、ずっと、穏やかに笑っていた。

 まとわりつくような蝉の声と、その隙間を縫うように漂う煙の匂い。
(「すごくきれいだね。……コウ」)
 ぱちぱちと小さく爆ぜる火の玉を見つめては、そう語りかけられる。
(「こんなにきれいなものを、もっと、たくさんみられたらいいのに。ああ、でも」)
 抱き止めてくれる温かい腕の、最後の記憶。
(「ぼくは、コウがいれば、それで、いい」)
 胸に抱かれて、その人の顔を見上げる。
(「コウが、いてくれたら、それでいい。……だからどうか、……に」)
 いまは、すべて見えた。穏やかな、優しい微笑みが、かすかな橙色の明かりの中で、とても綺麗で哀しいほどだった。 
(「だからどうか、しあわせに、コウ」) 
 柔らかく笑う、この命を与えてくれた人の、言葉だ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 未月は母屋にいた。どこに行けば会えるのか分からなくて、適当に開いていた窓から入りこもうとしているところを、驚いた顔をする中年の男の人に見つかった。逃げようとしたら、待ちなさいと捕まる。未月に用事なら呼んで来てあげるから、そこで待っているように、と言われた。大人しく、その通りにする。あれはもしかして、未月の父親かもしれないとふとそう思った。捧も、よく話していた人だろうか。少し気が弱そうだけれど、それでも、優しそうな人だった。
 八木は離れで待っていて貰っている。絶対に外には行かないからと約束して、それを信じてくれた。
 ごめん、と小さく謝ると、同じくらい小さく、いいよと返してくれた。
「何の用だ、こんな夜中に。あれほどひとりにさせるなと言ったのに、居眠りでもしているのか、あの男は」
「違うよ。おれが、ひとりで行かせてって頼んだんだ。……未月に、頼みたいことがあったから」
 不機嫌の固まりのような顔をして現れた未月は、コウのその言葉を聞いて更に眉間の皺を深くした。
「断る」
「まだ何も言ってないだろ」
 未月はコウの話を聞くつもりはなさそうだった。その、コウが何を言おうとしているのかなど分かり切っているとでも言いたげな苦い顔に、八木のことを思い出す。あの人も、コウが何を考えたのか、すぐに分かってしまったようだった。他人にとって、コウはそれだけ分かりやすい人間なのかもしれない。
 けれど、今はそんなことを頼みに来たのではない。だから首を振った。
「違うよ。……捧さんに会わせてほしいんだ」
 揺れそうになる声を抑えて、呟くようにそう頼む。
 未月はわずかな間、驚いたような、怒ったような顔をした。そしてすぐに、また首を振る。
「それは出来ない。雨夜の人間をあいつに近寄らせるつもりはないし、それになにより、あいつ自身が、もうおまえの顔は見たくないとそう言った」
 その言葉を受けて、それが真実なのだと信じかけてしまう。捧が、自分からコウと離れることを選んだのはほんとうのことだろう。けれどもそれは、コウのことが嫌になって、会いたくないからではないはずだ。自惚れでしかないのかもしれないが、自然とそう思った。
「頼む。ほんのちょっとの時間でいいんだ。十分でも、五分でもいい。おれが捧さんに何かするんじゃないかって心配なら、見張っていてくれても構わないから」
「……、おまえ」
 口早にそう訴えるコウを不審に思ったように、未月がこちらを覗きこんでくる。顔を見られたくなくて、少しうつむいた。奥歯を噛みしめて、胸の中を落ち着かせようとする。だから、と言葉を続けようとした唇が震えていて、それ以上うまく喋れなかった。
「……分かった」
 それに気付かれただろうか。しばらく押し黙ったあと、未月はそう言って頷いた。
「おかしなことをする素振りがあったら、すぐに引っ張り出すからな」
「ありがとう」
 聞き入れてくれるかどうか、実際に頼んでみるまで分からなかった。もし駄目だったら、勝手にこの敷地の中をひとりで探して回ろうと思っていた。未月にも、それが分かったのかもしれない。だから、そんなことをされるよりは、目の届く範囲で監視出来たほうがいいと考えたのだろうか。渋い顔をしてはいたけれど、それを承諾してくれたことに安堵して息を吐く。素直に感謝の言葉を口にすると、未月は面白くなさそうな顔をした。
「ついて来い。誰にも気付かれないように、静かに歩け」
 うん、とそれに頷き、靴を脱いで縁廊下から母屋の中に足を踏み入れる。それを待たずに、未月は先にひとりでコウに背を向けて先に行ってしまう。言われた通りに、出来るだけ足音を立てないように、そのあとを追った。
 長い廊下を歩いて、いくつも部屋があるのだろう、閉められた襖の前を通り過ぎる。ずっと同じところを歩いているのだろうかと思いそうなほど、母屋の中は広かった。
 人目に付かないようにするためだろう、未月は明かりを付けずに暗い中を真っ直ぐに進んでいく。少し先に見える、闇の中にどうにか浮かぶその背中を追う。長い廊下の突き当たりで、その背中は止まった。
 じゃらりと金属の鳴る音がする。何かと思い暗い中で目を凝らすと、固いものがぶつかるような音が数度聞こえた。鍵を開けたのだと気付いたのは、突き当たりの壁が軋む音を立てて動いてからだった。
「……ここ?」
「そうだ。昔から使われていた、地下牢になる」
「牢」
 声を潜めながらも、その言葉に、息を呑む。うんざりしたように未月が溜息を吐くのが、相手の姿も顔も見えなくても手に取るように分かった。
「心配しなくても、ただ鍵の掛る狭いところに居るというだけで、待遇は外にいるときと全く同じだ。食事も与えているし、寒くないように空調も効かせている」
 それを聞いて、安心するような気持ちでコウは扉の奥を覗きこんだ。急な階段が続いていて、まるで闇の底に続いているようだった。未月が壁を探ると、橙色の薄い光が灯る。弱い光だったが、どうにか、足元は見える。先に行けと促されて、飛び降りてしまいたい衝動を抑えて、一段ずつ階段を降りる。足を乗せる度に木の軋む音がして、その空間に響いた。
「ぼくはここにいる。……捧はそこの、奥だ。手前の方は覗くな」
 階段を最後まで下りた未月に、そんなことを言われる。地下には左右に向かい合う部屋が並んでいた。部屋の扉に当たる箇所に、格子が嵌め込まれている。未月の言葉からすると、捧がいる以外にも、使われているのだろうか。そう思ったけれど、今は、気にしている余裕がなかった。
 分かったとそれに頷くと、さっさと行けと追い払うような手つきをされる。
「……捧さん」
 薄暗くて、よく見えない。ここでは外が全く見えないけれど、時間は真夜中のはずだ。寝ているだろうかと思い、格子の前に膝を付き、そっとそう呼びかける。
 目の前の暗がりに、動くものの気配があった。
 コウ、と、名前を呼ばれる。その声に、胸に押しとどめていたものが一度に緩んだ。指を伸ばして、冷たい格子に触れる。どうにか、その間から手首を通すことぐらいは出来そうだった。闇を掴むようなつもりで、その向こうに手を伸ばす。
「あ……」
 その指が温かくて柔らかいものに受け止められて、包まれる。応えるように、指を絡めた。
「大丈夫?」
 囁くように、そう聞く自分の声が掠れていた。薄暗がりの格子の向こうに、彼の輪郭を少しずつ見つけていく。一度にその姿を目にしてしまうと、おかしくなってしまいそうな気がした。
 淡く微笑むその人と、目を合わせる。大丈夫かと尋ねたコウに、捧は頷いた。
「……コウは、少し痩せた」
「そんなことないよ。だって、たかが一日のことだろ」
 コウと同じように声を低くしてそう言ってくる捧の声は、それを痛ましく思っているような、不安そうなものだった。それを、気のせいだと笑い飛ばす。
「変なの。おれはもう十八年も、捧さんのことなんて全然知らないで、それでも普通に生きてたのに」
 指先を絡めているのと反対の手を、捧が格子の外へと伸ばす。その手のひらで頬に触れられて、目を閉じてその熱を感じた。笑おうと思ったのに、声が震える。
「たった一日、離れた、だけなのに」
 今は、それだけのことが、もう耐えられない。出来ることなら、その胸に抱かれたかった。両腕で力いっぱいこの人の背中を抱き締めて、優しく受け止めてくれる温もりに甘えたかった。けれども、間を隔てる格子が邪魔で、これ以上は先に進めない。すぐ近くに居るのに、手を伸ばして触れることしか出来ない。その中に入ることを、捧が自ら望んだ。コウを守る為だと、それを嬉しそうに笑って受け入れて、自分から。
 この人に、聞いてほしいことがあった。
「……捧さん。捧さんが、前に、おれの部屋に来たときのことを覚えてる?」
 震える声でそう聞くと、捧は静かに頷いた。
「あの時、外に出掛けようって言って、だけど、着物だと目立つからって、洋服を着ただろ」
 コウが最初にこの人を「盗んだ」ときのことだ。それまでずっと、花羽の屋敷の中だけで生活していたというこの人に外を見せたくて、けれど人目につくことを避けるために、洋服を着てもらった。コウのものでは大きさが合わないから、ずっと昔から部屋にあった箪笥を開けて、その中のものを出した。
「一番下の引出しに、おかしなものがいっぱい入ってた。下手な落書きとか、無理やり書かされた作文とか、何のつもりで作ったのか分からない、変な工作とか。……触ったら崩れそうな、古い七夕の笹飾りとか」
 覚えている、と、捧はコウの言葉にひとつひとつ応えるように頷いて、その度に、震えるコウを宥めるように頬を撫でてくれた。
「……『しあわせになる』?」
 捧が口にしたその言葉に、頷くことも出来なかった。この人の低い、穏やかな声で音にされるその願いごとに、それまでは胸の中だけにわだかまっていた感情の波が溢れて、瞬きをすると涙になって頬を伝った。捧の声は、あの人に似ている。優しくて、懐かしい。
「あれは、おれが自分で書いたんだと思ってた。だって、あんな字、どう見たって、子どもの字だから。大人は、あんな字を書かない。大きさもばらばらで、最後の方は書くところが少なくなって、全部書くために字が小さくなっちゃってた。あんなの、……あんなの……」
 キョウというのは「供物」という意味なのだと、そう言っていた。けれど、父にはそれがどう書くのかすら分からなかった。生まれてから、あんな風に背が伸びて子どもを抱き上げるようになるまで、ずっと文字を読み書きすることが出来なかった。「供物」にはそんなことは必要ではないから、だから、教わらなかった。
 牧丘の家に身を寄せるようになったのは、ヒカリの手引きがあったからだ。雨夜の家を出たコウの両親を助けてやり、住むところを探して、どこから用意したのかは分からないお金まで渡してくれた。そうでもなければ、箱入り娘の母と、そもそも人間として認められていない父とが、生まれる子どもを育てられるわけがなかった。
 母は、次第に家を裏切ったその事実に耐え切れなくなり、コウを産むとすぐに、逃げてきた家へと戻って行った。父は、共に戻ることを拒んだ。そうすれば、コウを奪われることが分かっていたからだ。
 赤ん坊とふたりで残された父に、祖母は色々なことを教えた。子どものあやし方や、寝かしつける時に歌う子守唄。どんな反応を見せれば喜んでいて、どんな反応をすれば嫌がっているということが分かるのか。食べたり、眠ったり、話したりするのに、誰の許しを得なくてもいいこと。楽しいことや嬉しいと思うことがあった時には、笑っても構わないのだということ。文字の読み方と書き方。
「捧さん、おれの名前はね」
(「この子は、コウです。ぼくが考えて、名前をつけました。ぼくは、まだ片仮名しか書けませんが、」)
 生まれた子どもに名前を付けて、その未来を願うこと。
(「『しあわせ』と、いう意味です」)
 小さな八木と一緒になって、笹飾りを用意した。年に一度、七夕の日にそうやって笹を飾り、短冊には願いごとを書くのだ。八木に教えてもらいながら、慎重な手つきで短冊を作る父を、膝に抱かれて見ていた。
「ほんとは、漢字で、幸って書くんだって。だけど、おれのおとうさんは、字が書けなかったから。おれが生まれて、それで初めて、お祖母ちゃんから字を習うようになった。だから、片仮名しか書けなかったんだって」
 心の中のどこかが壊れたように、一度溢れると、涙は止まらなかった。そんな風に泣きながら言葉を続ける自分をみっともないと思いながらも、それでも、止められなかった。
「『幸』?」
 涙で濡れた頬を指先で拭いながら、捧がそっと、大切な言葉を口にするように、ほんとうの名前を呼ぶ。
「良い名前だ」
 この人には最初からすべて分かっていたのではないかと、ふとそんなことを思った。コウが「蝶」の血を受けていることも、捧は気付いていた。それならば、この名前がなにを祈られたものであるのか、それも知っていたのかもしれない。キョウが願いを込めてそう呼んでいたように、捧もまた、コウのことをいつもそう呼んでくれていたような、そんな気がした。
 泣かないで、と微笑まれ、両方の手のひらで頬を包まれる。こんな風に、誰かの前で涙を流したことなんてなかったから、止め方も分からなかった。
「……捧さん、おれ、」
 だから止められないまま、我儘を言う子どものように、泣きながら彼に告げた。
「おれ、頑張るから。考える。どうやったら、うまくいくか、頑張って考えるから」
 この命は、幸せになるようにと願われた、あんなに愛されていたものだ。それを、例え誰かと引き換えにするのだとしても、簡単に手放してはいけない。そうして同じように、コウも捧のことをそう思っているのだから。
「だから捧さんもあきらめないで、おれと一緒に生きてほしい」
 ひとりでは、しあわせになれない。
「だから……、」
 どうすればいいかなんて、今はまだ、全然分からない。それでも、負けたくなかった。ひとりではなく、この人も一緒に生きられる方法。コウが欲しいのは、命ではなくて未来なのだと、そのことを伝えたかった。このままこうして何もしないままでいれば、確実にそれを失うことだけは分かっている。
 コウを見る捧の目は、いつものような淡い静かなものとは違う気がした。眼鏡の硝子越しに、その深い色をしているのだろう目を見る。明かりが小さくて、その深さまでは、今はよく見ることが出来ない。けれどそこに、光があるような気がして、頷く。それを望んでもいいのだと教えるようなつもりで、目を見たまま笑った。
「おれは、おまえを信じる」
 内緒話をするように、それでも強い声で、彼はそう答えた。頬を包んでいる彼の両手に自分の手を重ねる。
 幼いコウを抱き上げてあやしていた父と、同じだけの温かさを持つ手。うん、ともう一度、捧に頷き返す。この手を失くしたりしない。そうしてまた、それを温かいと感じることのできる、繋ぐ自分のこの手も。
 決して、諦めない。


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