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第二章 「月」
6. 彼の羽

 離れに戻ると、ヒカリはマリカを連れて、どこかに行ってしまった。気を遣ったのだろうか、と、ふたりの姿が見えなくなってから、そんなことを思った。
 ヒカリはあの後、何も言わなかった。コウが、何も言わなかったからかもしれない。出掛ける支度をするから下がるようにと雨夜の当主に言われ、動きの鈍いコウは、ヒカリに引きずられるようにしてここに戻ってきた。まだ、肩から力が抜けなかった。自分でも、血の気が引いて顔が青いのが分かる。
「コウ」
 立ち尽くしたまま、ぼうっとするだけのコウを心配するように、捧がそっと名前を呼んで、頬に触れてきた。その手のひらの温もりに、はじめて、息を吐いて肩を下ろす。じっと見つめてくる捧を見上げた。
「大丈夫か」
「……うん」
 頷いたものの、表情があまり冴えなかったからだろう。案ずるように頬を撫でられ、そのまま胸に抱かれた。
「なにも、痛いことはされなかったか」
「大丈夫だよ。……なんでもないんだ」
 思い出すだけで、震えてしまいそうなほど、あの男が、怖かった。そんな恐れを捧に知られたくなくて、包みこまれた胸に顔を押し付けるようにして、表情を見られないようにする。目を閉じて、見たものと聞いたことを自分の中から追い出してしまおうとした。それでも、そんなことが出来はしないことも、今は知ってしまっている。
 それは、コウの中にも、あるのだというのだから。
「捧さんは? 大変じゃなかった、あの子の相手」
 話を逸らしたくて、そんなことを聞いてみる。しばらく返事がなかったので、顔を上げて、彼を見た。まるでコウの言葉など聞こえなかったように、不安気な表情は揺らがない。余程、コウがひどい顔をしているのだろうか。そういえば、雨夜の当主にも、そんなことを言われた。
 どうすればいいのか、分からなかった。
(「それがおまえの母親だ、コウ」)
 母親のことなど、考えたことがなかった。両親はふたりとも、コウが物心つくまえに、もういなくなってしまった。祖母からいくつか話くらいなら聞いたことはあるかもしれないが、もともといなかった存在の話を聞いても、想像も出来なくて、よく分からないだけだった。だから、突然、そんな風に言われても戸惑うしかない。信じられるわけがなかった。
(「おかえり、我が血族。正当な、雨夜の狩りを継ぐ者よ」)
 そう言って笑ったあの男の声が、残響のように頭から離れない。ヒカリは、すべて知っていたのだろうか。当主のあの言葉を聞いても、少しも驚いたようではなかった。それに、向き合いなさい、とも言っていた。捧の望みを叶えたいだろう、と。……あれは、どういう、ことだったのだろう。そんなことを知ることが、捧の望みに繋がるとは思えなかった。コウが雨夜の血を受けているのなら、それはつまり。
 コウもまた、「狩る」側の人間であるということだ。
「少し、休むといい」
 今さらのようにそのことに気づいて、愕然としているコウに、捧はそんな風に言ってくる。座るように仕草で促され、大人しくそれに従う。ぼんやりと庭を見ると、またいくつも、黒い蝶が飛んでいた。
 黒い蝶と白い蝶では、黒の方が美しいと思っていた自分が、今は厭わしかった。
 捧はぺたりと座り込んだコウのすぐ近くに、まだ不安が晴れないように見守るように静かに座る。この人にだけは知られたくないと、そんな風に思った。「狩り」を、ずっと否定してきた。千年の間、ずっと続けられてきたのだというその儀式に関わりのない人間として、そんなことはおかしいのだと、コウはずっとそう言ってきた。今でも、その考えは変わらない。他の誰かを生かすために、別の誰かの命を奪わなければならないなんて、嫌な話だと思う。けれど、コウもまた、その檻の中にいる人間だと、そんなことを教えられた。蝶を呪術師に捧げなければ、花羽も雨夜も、両方の家が滅びるのだと何度も聞いた。その中に、コウも含まれているのだろうか。
 捧はコウの視線の先を追うように、庭を眺めている。黒い蝶を見る眼差しは、静かではあるものの、幾分か柔らかいものに思えた。最後の「蝶」。この人の魂が捧げられなければ、コウも、狩りの一族のひとりとして滅びる、のだろうか。
 雨夜の血を引いている、と一言で告げられたことには、それだけの意味がある。
「コウ?」
 そこまで考えて、コウが息を呑んだのに気付いたのだろう。捧が名前を呼んで、案じるように背中に手を触れようとした。これまでに何度も、そうしてくれたように。
「……っ!」
 それを、思わず、振り払ってしまった。
 これまでにそんな風に、捧の手を跳ねのけたことはない。今だって、それを拒みたいわけではなかった。
 花羽未月や、その一族のことを許せないと思った。あれらが、この人を傷つけるのだと知ってからずっと、その存在を、許してはならないものだとそう思い続けてきた。けれども、コウも、それと同じだった。
 そんなものに、触れさせたくなかった。
「ごめん」
 コウの反応に捧は驚いたような顔をしていたが、そのせいで哀しそうな様子はなかった。触れかけた手を下ろして、かわりに、何か考えるように、しばらく黙り込んでしまう。コウが謝ると、捧は、何事かを思いついたように顔を上げて、安心させるように微笑んだ。
「コウ、手を出して」
「……なに?」
 突然、そんな風に言われて、戸惑う。捧は目を細めてコウがそうするのを待っていたので、素直に右手を彼の前に差し出す。
「良いものをあげる」
 捧は藍色の袂を探り、そこから何かを取り、掴んだ手をコウの手のひらの上に重ねた。かさかさと音のする、小さなものがふたつ。袋に入った、硬くて丸いもののようだった。
 捧を見上げる。彼は時折見せる、まるで子どものようなあの邪気のない笑みを浮かべていた。
「見てもいい?」
 尋ねると、微笑んだまま頷かれる。なんだろうと不思議に思い、手渡されたものを見る。透明な小袋に入った、丸いもの。それがふたつ。ひとつは赤くて、もうひとつは紫色をしていた。想像もしていないものだったから、最初は、それがなんなのか分からなかった。
「……飴?」
 捧が手のひらに載せてくれたのは、ふたつの飴玉だった。
「どうしたんだ、こんなの」
「貰った」
 コウがそう聞くと、捧は短く答える。誰に、と続けて問おうとして、それより先にその相手を思いつく。きっと、マリカだ。
「綺麗だろう」
 捧はコウの手のひらから飴玉をひとつ取り、それを光に翳して見せる。赤く透き通る小さな飴は陽の光を透かして、畳の上に同じ色の小さな影を作った。
「でも、捧さんがもらったんだろ」
「おれはひとつ貰った。だからこれは、コウにあげる」
 そう言いながら、捧はコウの手を飴玉を包むように握らせて、赤いのが苺で、紫色が葡萄なのだと教えてくれる。ありがとうとどうにかコウが小さく呟くと、捧は嬉しそうに笑った。
「捧さん」
 その顔を、見ていられなかった。受け取った飴を手のひらに握りしめたまま、その首筋に強く縋りつく。捧はそれを受け止めて、宥めるように背中を撫でてくれる。たとえ、「蝶」と呼ばれる人々を傷つける力を、コウが持っているのだとしても、そんなこと、関係ない。捧のことだけを考えて、その他のことは、振り払ってしまおうと、そう思った。もし、たとえ自分に、そんなものが流れているのだとしても。
 この人を殺すなんて絶対にしない、と心の中で呟く。そうして、そんなことを考えた自分自身が、まるであの雨夜の当主に負けを認めたようで、嫌だった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 母は三度呼びかけても、返事をしなかった。
「……座敷牢の鍵?」
 やがて、四度目でようやくこちらに気づいたように、目を向けてくる。
「何に使うのですか、あんなものを。もう、何年も使われていないのに」
「始末に困るものを拾ったので」
 言葉に迷いながら、適当に濁してそう答える。この人にだけは、どうしても上手に嘘をつく自信がなかった。だから、正直な気持ちでそう言った。
「そんなもの、早く捨ててしまいなさいな」
「出来ればそうしたいのですが、そういうわけにもいかない気がするんです。だから、一時的に」
「……わかりました。好きになさい」
 何に使うのか、その具体的なところまでは追及されないまま、母は一度、奥の間へと戻った。すぐに、錆びて古びた鍵束を持って出てくる。
 お好きになさい、と、それを渡されながら、もう一度繰り返された。
「これもすべて、じきにあなたのものになるのですから」
 じゃらりと音を立てる鍵束は重たかった。剥がれかけた錆が、手のひらの皮膚に刺さる。
 まるでその重みを手放して安心したように、母は小さく息を吐いた。
「あの人はどこ?」
「……姉さんのところです。昼過ぎに、何人か弔問に来ると聞いています」
 父の居場所を聞かれたのでそう答えたが、母はそれを聞いても、そう、と短く頷くだけだった。
 姉の変わり果てた姿を見て以来、母はずっと、こんな調子だった。何を話していても、上の空でどこかぼんやりしている様子で、心なしか、小さく見えた。儀式のことや家のことを指示してくることは以前とは変わらないが、その口調も若干、弱くて事務的になった。誇りと威厳に冷たく張り詰めていた空気も、かすかに緩んで綻んだような気がしてならなかった。子どもを失ってしまった母親だと、そんな目で見てしまうからかもしれないが、それでも、大きく見誤っているようには思えない。息子として、そうであってほしいと感じてしまうこちらの気持ちの問題なのかもしれないが。
「あなたに任せます、未月。……駄目な母親でごめんなさいね」
 首を振って、それに応じる。詫びる言葉は、自分ではなく、死んだものに向けられたもののようにも聞こえた。
 少し休みます、と言って、母が私室に向かうのを見届けてから、受け取った鍵の束を鳴らして掴みなおす。
 捧が居なくなったことを、母には言っていなかった。父も、そうした方がいいと同意してくれたのでふたりで話を合わせてある。皮肉なことに、死という穢れに触れたのだから、狩りの儀までは互いに近寄らないでおく、という言い訳が成立した。本来ならば、狩り手である未月も、供物である捧も、身を清めて儀式に臨むための精進潔斎に入らねばならない頃合いであったことが幸いした。いま、母の心を惑わせるようなことはこれ以上言いたくはなかった。
 姉の円の死体が庭で見つかってから、二日が経っていた。
 本来なら、葬儀を行って死者の魂を送り出さなければならない。しかし母はそうすることを拒んだ。死体すらそのままにして、誰も触れさせないようにしようとしたほどだ。さすがにそれは、父の取り成しで引き下がってはくれた。葬儀こそ行わないものの、ひとがひとり死んだことを完全に隠しておくことは出来ない。次第に、誰から聞き付けたのか、弔慰に訪れるものがちらほらと現われては帰っていく。母屋に寝かせた遺体の前で、父がずっとその相手をしていた。
 狩りの儀を行う前に、死者の魂を送ってはいけないのだと、そんな決まりがあったことを、未月自身もすっかり忘れていた。だから今年に入って命を落とした一族のものたちも、姉と同じように皆、葬儀は行われていない。十五年という節目においては、狩りの一族の存在は非常に危うい均衡の上に成り立つのだと、そう聞いている。生と死の間を揺れる天秤のようなものだ。完全に生の方向に傾かせるためには、蝶を捧げなければならない。
 だから、蝶を捧げる前に、死者を送り出してはならない。それは尋常な魂ではないからだ。呪術師様に捕られてしまうのだと、小さい頃はそう聞いた。そうしたら、もう二度と、輪廻を巡ることも出来ない。永遠に、その人の玩具にされてしまうのだと、折りに付けて一族の大人たちに脅されたのを覚えている。千年の間、続いてきたこと。やっと、終わるはずだったのに。
「……それを、今になって」
 思わず、そんな風に呟いていた。鍵の束を片手に、廊下に転がしておいたものを引きずるように運ぶ。自分よりも身体の大きい男だから、当然重たくて、運ぶのも容易ではない。それでも、傷つけないようにと遠慮する気持ちはないので、ずるずるとそのまま引いて歩いた。意識のない人間は、ただでさえ重い。本来なら顔も見たくない男ではあるが、どうしたらいいのか判断が付かないでいた。「蜘蛛」ならば、何か答えられるだろうかと思ったが、今日に限って、現れない。捧と牧丘コウを連れて、この家の外に姿を消した。おそらく、あの男が一緒にいれば、供物としての捧が損なわれることはないだろうから、その点だけは安心出来ることではあるが。
 母屋の地下に、今はもう使われていない部屋があるのは知っていた。数代前までは利用されていたという、地下牢だ。なにを入れておくのかなど、聞かなくても分かる。「狩り」のために、獲物を閉じ込めていたのだ。蝶を入れておく、地下の籠だったのだろう。
 重たい扉を押し開ける。黴臭い空気に顔をしかめて、重たい荷物を引きずりながら、壁を探って灯りを付けた。無いよりはましだというほどの明るさしか灯らなかったが、正直なところ、周りがよく見えない方が有難かったので、そのまま軋む階段を降りる。かつてここで何が行われていたのか想像出来ないほど、子どもではない。そんなものの痕跡を、目の当たりにしたくなかった。
 以前、何かの機会に見取り図を見たことがあったから、大体の構造は把握している。牢は中央の通路を挟んで、両側に二つずつ並んでいたはずだ。階段を降り切って、手前の牢の鍵を開ける。引きずってきた荷物をその中に置いて、また鍵を閉めた。わずかな橙色の明かりに照らされる座敷牢は、ほんの数畳ほどの狭さだ。使われなくなってからも、当主の意向で手入れは行き届いているから、それほど埃を被っても汚れてもいない。食事さえ提供するなら、ここから出られなかったとしても、しばらく生きてはいけるだろう。
 中の畳に仰向けに横たわったまま、動かないその男を、しばらく眺める。
 清川縁示が意識を失って倒れているのを発見したのは、姉の死体のすぐ近くだった。見たところ、目立った外傷もなかったが、いくら叩いても目を覚まさなかった。家に出入りしている医者に見せてみても、特に問題は無さそうだが心配なら病院に連れて行けと言われるだけだった。個人的な感情で言えば、このまま家の外に放り出してしまいたかったが、清川と円が親しげにしていたのが引っ掛かっていた。それに、倒れていたのも姉の死体の近く。目を覚ましたなら何か聞けるだろうかと、こうして牢に放り込んでおくことを思い付いた。
 鉄格子は錆付いてはいるものの、鍵無しでも壊して外に出られるほど脆くはなさそうだった。あとは、また食事でも運びに来るついでに様子を見ればいいだろう。
 暗く、淀んだ空気に、ふと背中が寒くなる。あまり、長居したい場所ではなかった。もう一度、動かない清川に視線を戻して、変化がないことを確認して、背を向ける。嫌な音で鳴る階段を上り、また、重たい戸を閉めて施錠する。
 子どもの笑う声を、聞いたような気がした。

 地下にいる間は圏外で繋がらなかったのだろう。牢から戻った途端、ポケットに入れたままになっていた携帯電話が鳴った。友人らしいものを作らない未月の番号を知っていて、自分から電話してくるような人間は限られている。反対の手で鍵の束を鳴らしながら、相手が誰かも確認しないで、それに出た。
『……未月くん?』
 相手は予想していた通りの人間だった。穏やかなテノールの声で、そんな風に名前を呼ばれる。
『何度も掛けたんだけど、繋がらなくて。ごめんね、おれに電話しただろ』
「聞きたいことがあった」
『おれに? 珍しいね』
「おまえ以外に、聞ける人間を知らない。前置き抜きで聞く。牧丘コウはそこにいるか」
 その名前を口にする時、平常心を乱さないよう、自分に言い聞かせた。その甲斐あってか声は乱れなかった。
 それなのに、こちらの努力を無に帰すように、電話口の相手の声が、明らかにうろたえて揺れた。
『……どうして、そんなことを?』
「いるか、いないか。どっちなんだ。ついでに、背の高い眼鏡の無愛想な男と、見るからに信用の置けなさそうな派手な男もいないか」
『誰もいないよ。……最近、そういえば様子がおかしい気もしたけど。まさか、きみのところの家と何かあったんじゃないだろうね』
「返して貰いたいものがあるだけだ。いないならいい、他を当たる」
 呑気なことを言う相手の声に、苛々した。こんな風に他人に当たってもどうしようもないことは分かっている。これ以上話を続けると、もっと当たり散らしてしまいそうだったので、電話を切ってしまおうとした。聞こうとしていたことは、もう聞けた。
『ああ、ちょっと待って、未月くん』
「まだ何か?」
『いや別に、ちょっと、おれの方でも助けてくれると有難いんだけどなって思ってたことがあって。家、出られる?』
「……夜なら、たぶん」
 切ろうとしたところを呼び止められて、おまけに、家を出られるかと聞かれ、つい素直にそんなことを答えていた。今の母の様子や、ひとりで父が弔問客の相手をしている中家を出るのは気が引けたが、そんな時であるからこそ、しばらくの間なら、気付かれずに抜け出すことが出来るだろうとも思った。
『それならさ、』
 わざわざそんな風に言ってくるのだから、余程、重要なことなのだろう。未月が尋ねたことに関したことなのかもしれないと思って、相手の次の言葉を待った。
「……はあ?」
 しかし言われたことは、意味のよく分からないことだった。思わず、手にしていた鍵の束を取り落す。じゃらりと音をたてて、鍵束は床に落下した。
「豆腐?」
 復唱するように繰り返してしまった自分の声が、ひどく間抜けだった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 人気の少ない方を選んで歩いてきたはずなのに、どういうわけか、よりによって、一番会ってはならないはずの人間に、出食わしてしまった。
「もう帰るのか。そのように慌てて逃げ出さなくてもいいだろうに」
 そう言って、喉の奥で低く笑われる。抜き身の日本刀のような、冷たい眼差しで見降ろされると、やはり、竦んだように身体は硬直する。
 それでも、手を引いて歩いていた捧を、背中に隠すように、自分から彼の前に出た。負けるものかと、怖じ気づきそうな心を奮い立たせる。膝に力を入れて、相手を強く見上げた。
「お世話に、なりました」
「なに。おまえにはそれだけの扱いを受ける権利がある。……後ろに居るのが、『蝶』か」
 黒い蝶を狩る家の当主、雨夜甚はコウの睨むような眼差しは意に介さず、捧に目を遣った。丁度、屋敷を出たところであったらしい。用事があって外出する、と、そんな話をしていたのを思い出した。
「蝶というのは、どれも似たような姿かたちだな」
 捧は何も言葉にはせず、見分するような雨夜の当主の視線に、丁寧に深い礼を返すだけだった。それを眺めて、可笑しそうに、当主は笑う。
「わたしの蝶も、おまえによく似ていた。いまはもう、美しい黒い羽を得て久しいが」
 言葉の終わりの方は、何故か捧ではなく、コウの方に向けられた。その笑みにぞっとするようなものを感じて、コウは捧の手を引いて、その男の前を去ろうとする。この屋敷を、出ようと思っていた。
「どこに行くつもりかは知らないが、送らせよう」
「いい、歩いて帰る」
「そう警戒する必要はない。わたしはそこの『蝶』にはなんの興味もないからな」
「……、え」
 意外な言葉を聞いて、コウは足を止める。思わず捧の顔を見上げて、彼がいつもと変わらない静かな眼差しでコウに微笑みかけたのを確認する。雨夜甚は、コウのその表情を見て、つまらなさそうに、どうでもいいことを語るような調子で続けた。
「それは花羽のものだ。わたしのものにならないことは、もう当の昔から決まっている」
「でも、儀式をしないと、ふたつとも、滅びるんだろ」
「よく知っているな。如何にも、その通りだ。千年の間、馬鹿正直に続けられてきたことだからな」
「だったら、どうでもいいってことはないだろ。花羽だけじゃなくて、あんたや、……あんたの娘の、マリカだって、そうなんだ」
 それに自分も、と、心の中だけで付け加える。まるで、そのことを見透かしているように当主は笑った。
「だから、何だ?」
 その言葉を聞いて、心臓が、凍り付いたように、確かに一瞬動きを止めた。声は上機嫌に、少しも恐ろしげなものを表してはいない。そのことが、ひどく怖くて、堪らなかった。
「死に絶えるというなら、所詮そうなる末路が最初から定まっていただけのことだろう。何をどう足掻こうと、成るようにしか成らないのが現だ。雨夜も、花羽もな」
 この男は楽しんでいる、と、ふいに、そう直感した。千年続いてきた蝶狩りの儀式も、白と黒のふたつの家の対立も、そしてもしかしたら、そこに紛れ込んだ、コウという異物のことも。すべて、面白い見世物のように、感じている。
 花羽と雨夜は違う、と、ヒカリが話していたことを思い出した。伝統やしきたりを重んじる、真面目な花羽。それと反する、雨夜。この男が、非常に雨夜らしい、と、あの「蜘蛛」がそう評していた意味を、理解した気がした。
「だから、好きにするがいい。何もかもな。どうせ最後に至る道は、もう既に決まっている。……ああ、来たな」
 そう言って、雨夜甚がいま来た方向を見て目を細めたので、コウもそれを追った。
「お父さま!」
 赤い、ひらひらと揺れるもの。当主のひとり娘だというマリカが、父の姿を見つけて、嬉しそうにこちらに駆けてくるのが見えた。
「こら、お姫様。そのお召物はそんな風に走るためのものではないよ。……ああ、甚様。コウと捧も」
 その赤い振袖の後を、そんな風に呆れ声で笑いながら付いて歩くのはヒカリだった。こちらの方に気付いて、肩をすくめて見せる。
「随分、お転婆になられたようですね」
「母親に似たのだろう。あれも、相当な跳ね返りだったからな」
「まぁ、子どもは元気なのが一番です。それより、もう行かれるのですか」
「楽しい用事でもあるまいし、早いうちに済ませておく。……そこの、それを連れて行けば、良い手土産になると思わんでもないがな」
 弾む鞠のように駆けてきた娘を抱き上げて、雨夜甚がそう言って捧に視線を流す。まるで挑発するような物言いに、コウはもう一度、捧の前に立って、彼を背中に庇った。
「わたしがこれから向かうのは、花羽の宗家だ。おまえが頼むのなら、一緒に連れ帰ってやるが?」
 コウには構わず、当主は捧にそう尋ねる。
「おれは、コウの傍に居ます」
 コウが捧の表情を伺おうと振り向くよりも早く、彼は短くそう答えるだけだった。それを聞いて、雨夜の当主は、可笑しそうにまた喉の奥で笑う。
「懐いたものだな。それではおまえに、ひとつ良いことを教えよう」
 止めろ、と、その言葉を遮ろうとした。それなのに、声を上げるよりも先に、雨夜の当主に一度だけ、目を合わされて、それきり身動きが取れなくなってしまう。何を言おうとしているのか、考えなくてもすぐに分かった。だから、それだけは決して、言わせてはならないのに。あの目に軽く見られただけで、身体が竦んで、動かなくなった。
「そこに立つそれは、わたしの甥に当たる。死んだ妹の残した、たったひとりの息子だ」
 それ、と、当主はまるで物のようにコウをそう呼ぶ。
捧はその言葉を耳にして、静かに雨夜甚を見る。
「そう。半分ではあるが、歴とした雨夜の本家の血を継ぐ者だ。……だから、喜べばいい、蝶の子よ」
 意地の悪いことを、と、ヒカリがそんな風に小さく笑うのが、聞こえた気がした。
「おまえは望むものに、羽を捧げることが出来るのだから」
 捧はそれを聞いて、コウを見た。言われたことを考えているようでもあり、その意味を、自分の身体中に理解させようとしているようでもあった。顔を見られたくなかった。コウの中にこの人を害するものがあるのだと、そんな事実を知って欲しくはなかったのに。
 顔を背けようとした。けれどもそれより先に、捧の声で囁くように名前を呼ばれる。だから、目を逸らせなくなってしまった。
「……コウが」
 捧は笑っていた。彼らしい、慎ましい微笑みではあったものの、これまでに見せたことのない、いちばん鮮やかな表情だった。嬉しい、と、そんな言葉が、声にされなくてもたやすく伝わるような。
「コウ」
 元気のないコウを案じるように、飴玉をくれた時となにも変わらない柔らかい声と表情で、彼は笑う。
 どこまでも純粋に、喜びだけを伝える、そんな笑みだった。


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