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第二章 「月」
4. 降夜の真昼

 沈む水は、重たくて生温い。
 目を開けても閉じても、見えるものは変わらない。閃光のようにいくつも焼き付く、見たことも聞いたこともないはずの誰かの記憶と衝撃。これまで生きてきて、生命のおしまいの淵を覗きこむような、そんな大きな怪我はしたことがない。まったく経験したことのないものなのに、いまは、それがどんなものなのか、分かる。
 正確な回数を覚えていられないほどたくさん、何度も、殺された。
 首を絞められ、刃で貫かれ、弓矢で射られた。痛みを自分のものとして感じることはなかったが、見ている誰かが傷付けられるたびに、身体の一部をえぐり取られ、もぎ取られていくような喪失感と哀しみに襲われた。目を閉じたくても、それを許さない何かが身中に棲みついていて、決して目を逸らすことが出来なかった。見ている誰かが与えられるのと同じだけの強さと深さで、この身体も傷つけられて失われていく。
 何度も、殺された。いまこの身体が沈んでいるのは、すべて、傷口から流れ出た血の池の中だ。だからこんなに、重たくて、苦しくて、哀しい。泣きたかったけれど、声を上げて叫びたかったけれど、目は見開いたまま、唇はかたく結ばれて閉ざされたまま、何を逃すことも出来なかった。使えないこの目は、そういえば、もう、ずっと慕っていたあの人たちに抉り取られたのだった。だから何も見ることは出来ないし、涙なんて、流すこともない。声を出すことが出来ないのも、真っ直ぐに線を引くように、なんのためらいもなく喉を斬られたからだ。指の先を曲げようとして、手のひらをすでになくしていることを思い出す。足も、腕も、耳も、血の一滴まで、残らずにぜんぶ。
 もう、全部ない。いま、この重たくて温い赤い池に沈んでいるのも、ただの夢か錯覚だ。身体はすべて、なくなった。そうして、そこに納まっていたはずの、魂も。それさえも、もう、取られてしまったはずだ。
 このまま沈み続ければ、やがて底にたどり着くだろうか。そこにはきっと、同じような、かつて何かだったものたちの残骸が積み重なっている。そこを目指せばいいのだろうか。それとも、このまま、赤い水のなかにすべて溶けて消えてしまおうか。どちらでもいい気もした。何も考えられなかったし、もう、何を考える必要もない気がした。
 ……哀れな。愚かな策略に踊らされた、幼な子よ。
 決めあぐねていると、ふとどこからか、そんな声が聞こえた気がした。耳で聞いたのではない。身体に纏う赤い水そのものに響くその言葉には、どこかで聞いたことのある、誰かの声に似た哀しさが溶けている。もっと聞いていたくて、なくしたはずの耳のことを、思いだそうとする。何度も繰り返し繰り返し、引き千切られて切り取られた耳。
 ……ここはおまえの来るところではない。帰るべき場所へ、戻るといい。
 響く声に、斬りおとされてなくしたはずの首を横に振る。帰る場所なんて、知らない。それに、もう、なにもかも取られてしまった。身体も、魂も、信じていたはずのあの人も、なにもかも。ずっとずっと、何百年にも渡って繰り返して、何度も何度も。
 ……痛いだろう。苦しくて、辛いだろう。彼奴らは、人を傷つけることが好きで仕方がないのだ。それでもおまえは、まだ失われてはいない。待つものの元へ、いまは戻るといい。
 待つもの、というその言葉が、なくしたはずの耳に届いた。それが何の事なのかまでは分からなかったが、意味も分からず、胸が痛んだ。誰かのことを、思いだしそうな気がする。大切で、絶対に忘れてはいけないもの。思い出せなくても、心は覚えている。痛むのは失った四肢でも身体でもない。なくしたはずの心だ。まだ、生きて、残っていた。
 瞬きの方法を思い出して、目を閉じてまた開いてみる。語りかけてくる声の主の姿が、かすかに見えた気がした。
 誰かに、似ている。そう思って、もっとよく見ようと目を凝らすけれど、見えない。表情を隠す、鬼の面がその顔を覆っている。気がつけば水は重くも赤くもなく、いつか沈んだことのあるような、青く澄んだものに変わっていた。心地よい冷たさに包まれる、身体のすべてを思い出す。まだ、ある。たくさん殺されて、すべて奪われたけれど。それでも、いまはまだ、この身体がある。
 ……彼の者が、ずっと、おまえを守っていた。その糸を辿れば、いまならばまだ戻れよう。
 鬼のその言葉に、ふと、指先に絡む糸の存在に気付く。青い水に沈みながら、それを目で追った。光色の羽をもつ蝶の群れと同じ色の糸が、遠すぎてここからでは見えない遥か頭上の水面に続くように、漂うように揺れていた。
 透きとおった水が、肌から滲みて身体いっぱいに行き渡る。鬼の言う、彼の者が誰であるのか、思い出す。指先の糸を手繰り、それを手のひらで強く掴もうとした。
 最初から霞むように淡かった鬼の姿と声が、薄れて消える。
 ……いずれまた。千年目の、最後に。……幼な子よ。
 最後に、何か、言い残された。

 糸を伸ばそうとした手の先に触れたのは、水のなかに揺れていたとは思えない、温かいものだった。冷たい水とは違う。それでも、同じものだと分かった。
「……、コウ?」
 その声が、今度は、はっきりと耳に届く。糸を掴もうと伸ばした指は、逆に誰かの手で強く握り返される。それに応えようとしたけれど、まだうまく身体が動かなかった。意識は明らかなのに、重要な回路が切れた機械のように、どうすれば思う通りの動作が出来るのか、分からなかった。
「コウ」
 声は囁くように、何度か同じ言葉を繰り返す。それが自分の名前であることを理解するまでに、少し時間がかかった。
「……ささぐ、さ」
 目を開く。たくさんのものを嫌というほど見てきたはずなのに、それでも現実のこの瞳は、ずっと閉じたままだった。眩しくて、しばらく何も見えなかった。真っ白なその視界の中に、それでも、自分を呼んでいた人の声の方を探した。霞む景色が、ぼんやりと色を少しずつ取り戻す。
 こちらを覗きこむその人と、目が合った。
「どこにも」
 彼は戸惑ったような、どこか不安気な面持ちをしていた。こちらの声がかすれていて聞き取りにくかったせいだろう。よく聞こうとするように、顔を近づけてくれる。この人が傍にいてくれたことが、嬉しかった。闇の中でたくさん見てきたように、まだ、奪われていない。
 目覚める前からそうしていたのだろう、繋いだままの右手とは反対の手を伸ばす。濃い藍色の、彼の袂の端を、どうにか力の入らない指で掴まえる。
「どこにも、……行っちゃ、だめだ……」
 同じ言葉を、少し前にも、呟いたことがある気がした。あの時も、こうやって、指先ひとつで袂の端を掴むことしか出来なかった。
 それでも、その時は哀しそうな目をした彼は、今度はひとつ、コウの目を見て頷いた。頷いて、右手と同じように、袂を掴む左手も、彼の手に取られる。
「傍にいる」
 傷付けることを恐れているような慎重な手で、そっと両手を包まれる。囁くように、耳元で低く答えるその声に、深い安堵感が満ちた。ずっと悪い夢を見ていた。
 戻れと言われた場所に帰って来たのだと、ふとそんな風に思う。
 あの鬼の声は、どこか、この人に似ていた。


「どこまで覚えているのかな」
 目覚めた時には傍には居なかった。けれども、おそらく近くには居るのだろうと何故だかそんな気はしていた。
 その予想通り、誰が呼ばなくても、すぐにその男は姿を見せた。
「清川が、中に入れてやるって言って、あの人……未月のお姉さんが待ってた所に連れていかれて、」
 聞かれた通りに、記憶を辿る。花羽の家に入り込もうとして、それで、清川に騙されるように円の所に引きずって行かれた。庭の中の小屋のような所に連れて行かれて、そして。
「……それで、……薬みたいなものを飲まされた」
 あの液体のことを、円は清川に、蝶の血だと説明していた。どろりと重たく揺れた、甘い匂いのする液体。それがどんな風に喉を流れ落ちていったか、その感触までも覚えている。けれども、捧の前でその話をしたくなかった。
「それから先は?」
「あんまり、覚えてない」
 とりあえず、そんな風に答える。何が起こったのか、全く記憶にないわけではない。それでも、たくさんの夢を一度に見て、それが全部混ざったように、断片的なことしか思いだせなかった。あの血を飲まされた後、現実で何がどうなったのかはよく分からない。発作を起こしたように苦しかったのはおぼろげに覚えているが、おそらく、そのまま意識を失ったのだろう。あの小屋で倒れて、長い夢を見て、目を開いたらここにいた、というぐらいの認識しかなかった。
「よく、無事に帰ってこられたね」
「ん……」
 気分は悪くはなかった。長い時間眠っていたせいで頭がぼんやりとはしていたが、それも大分はっきりしてきた。顔や腕の傷には、包帯が巻かれていたりガーゼを当てられていたり、ひとつひとつ手当をしてもらえている。身体を動かすと痛んだけれど、立ちあがれないほど酷い傷ではない。
 それまで寝ていた布団から出ようとして、それは止められた。捧の手に支えられながら、上半身だけを起こして、その男の話を聞いた。
「長くて痛い夢だったろう。よく耐えたね。……夢の中で、ぼくにも、会ったかい」
「あんたに? いなかったと思うけど。鬼なら、見た」
 突然そんなことを言われたので、すぐに首を振る。知っている人の姿など、あの中には無かった。
 コウのその返事を聞いて、ヒカリは小さく笑った。
「……鬼ではなく、夜叉かな。随分と深いところまで落ちてきたんだね」
「何か、知ってるのか」
「独り言だよ。きみが元気に目を覚ましてくれて、何よりだ」
 その言葉の意味を聞こうとして、そんな風にはぐらかされる。この男との付き合いは決して長くはないが、それでも、それ以上先のことを話してくれる気が無いだろうことは分かった。
「ここは?」
 寝ていた布団は、コウが普段、家で使っているものとは違う。柔らかくて、軽く手を触れただけで深く埋まる。こんな布団に寝るのでは、かえって具合が悪くなりそうに感じられるほど、高価そうなものだ。すぐ傍に捧がいたから、てっきり、彼が暮らしていたあの花羽家の離れに居るのだと思っていた。それでも、見まわしてみて、それが間違っていることに気付く。畳敷きで、綺麗な部屋ではあるが、見覚えがない。
 それまでヒカリと話すコウを見守るようにして、会話には加わらなかった捧に目を遣る。彼はコウの視線を受け止めて、まるで安心させようとするように、静かに小さく頷いた。
「ここは、雨夜」
「あまや?」
「そう。花羽と対になる、もうひとつの狩りの家」
 雨の夜だと、捧がその字を説明してくれる。花羽は、その名の通りに白い蝶を狩る。それと対になる一族の話を、そういえば、ヒカリが以前していた。
「黒い蝶、の」
 呟いたコウに、捧が頷く。目覚める前から触れていた手は、今でも繋がれたまま離されない。
「……どうして、こんなところに?」
「コウを守るために」
「おれを? でも、それなら」
 わざわざ、そんな所を選ぶ必要は無かったのではないだろうか。認めたくないことではあるが、その雨夜家とやらも、蝶の羽の色が違うだけで、狩りを行うことは変わらない人間たちなのだろう。コウのことを守ろうとするなら、ここでなくても、花羽家を出てしまえば良かったのではないだろうか。
 そう考えているのが、表情に出ていたのだろう。ヒカリがいつものように笑った。
「きみがまた、大変な目に遭ったからな。これ以上は外に置いておくのは危険だろうと思ってね。前にも言ったように、花羽と雨夜は非常に仲が悪い。どうしても外せない用がある時でさえ、訪れることを嫌がる程にね。だから、追いかけて来られないような場所としてここを選んだ。まあ、最も」
 そこで一度言葉を切り、コウから離れようとしない捧を見て、軽く肩をすくめる。
「この子も一緒に来てしまったから、さすがに、何の御咎めも無しというわけにはいかないだろうけれど」
 どういうことなのか、よく分からなかった。捧は花羽家にとって、決して損なわれることがあってはならない存在だと、彼からも彼以外の者からも、もう何度も聞いている。だから花羽未月も、あんな怖い顔をして連れ戻しに来た。それなのに、また、出て来てしまったというのだろうか。
「言っておくけれど、これは完全にこの子の意思だ。一応止めたし、そのことがどれだけの意味を持つのか、考えてみるよう忠告もした。その上で選んだらしいよ」
 またぼくがそそのかしたように言われるのは不本意だからな、と、ヒカリが呆れたように息を吐く。
 手を繋いでいる、すぐ傍らに座る捧を見上げる。微笑む彼には、まるでヒカリの言ったことなど聞こえていないようだった。
「おれが逃げようって言った時は、嫌がったくせに」
 伝わる熱が温かくて、胸が詰まった。静かに笑みを浮かべるその顔を見続けていると、自然とそんな子どもじみたことを口にしていた。こんなことを言いたいのではないのにと思いながら、うつむく。
 捧は何も言わなかった。それでも、それがコウの本心ではないことは分かっていると伝えるように、頭をそっと撫でられる。
「また、未月に怒られるよ」
「……そうだな」
 触れたままの手を強く握り返すと、捧はコウの髪を指で梳きながら、囁くようにかすかに笑った。
「邪魔をするのは大変忍びないけれど、少しぼくの話を聞いて貰えると有難い」
 呆れた口調のままのヒカリがそう声を掛けてきたので、顔を上げる。この男がコウに聞かせようとする話なら、きっとあまり良い話ではないだろう。分かってはいるが、それでも、聞かなければならない。
 コウが真面目な顔で向き直ると、ヒカリはまるでその態度が可笑しいとでも言いたげに笑った。
「少し前にした、蝶比べの話を覚えているかな」
「呪術師の一族が、仲が悪くて蝶の羽の色が分かれたって話?」
「そうそう。コウは賢いね」
 軽口は聞き流す。確か、もともとは狩る蝶の羽の色はひとつだったと言っていた。けれど時代の流れを経てふたつの家に分かれて、そして蝶の色も白と黒に分かれた。それが、花羽と雨夜。仲が悪くて、まるで子どものようにずっと昔から喧嘩をしているようなものだと、そんな風にこの男は言っていた。
 そのふたつの家が、古来から続けてきたのが、蝶狩り。
「蝶の羽の色を違えることを決めたのも、呪術師様だ。蝶と狩りと、ふたつの血をそう定めた、いちばん始めのね」
「もともとは、どんな色だったんだ?」
「どう言ったら正確に伝わるか、よく分からないな。『魂を光色をうつす羽の蝶に転じて、未来永劫この庭を満たせ』。光の色、かな」
「あんたの名前と同じだ」
「……そうだね」
 どうでもいいことなのだろうが、ふと、思いついたのでそう言ってしまっていた。ヒカリはいつものように笑って、また話を続ける。
「狩りの一族が白と黒、ふたつの色に分かれることを定めたその時、呪術師様は新たに、糸を絡めるように呪を重ねた。それが、蝶比べだ」
「十五年に一度、『狩り』の儀式をするだけじゃなくて?」
「そう。儀式は千年続ける。それは変わらないけれど、またルールが追加された。どういう意図なのかは、ぼくのような凡夫には完全には伝えかねるけれど、まあ、そんなに仲が悪いならずっと喧嘩でもしていろという所かな」
「なんだよ、それ」
「勝ち負けは単純に数の差で決まり、決着がつくのは呪いが終わる千年目。花羽と雨夜、その両家が蝶狩りを続けた最後の瞬間に、どちらの色の蝶が多いか。子どもにも分かる、簡単な話だろう」
 ヒカリの声は軽く、それだけ聞いていると、何の話をされているのか分からなくなりそうだった。ね、と同意を求められたが、それには答えず、言われたことを黙って考えて、理解しようとする。
 背筋が、ぞくりと寒くなった。
「嘘だろ、そんな」
 蝶を狩るということは、つまり、「蝶」だとされただけの人間を殺すということだ。それだけでも、もう十分に、許されない話なのに。その上、更に。
「そんな、ひとの命を、まるで、おもちゃにするみたいに」
 より多くの蝶を狩った方が勝ち、というのは、より多くを殺した方が勝ち、と同じだ。血を飲まされたあの夢の中で、いくつも見てきた死を思い出す。あれは、いくつもの、狩りの瞬間だ。まるで弄ぶような、残忍な殺し方。間違いなく、彼らはそれを楽しんでいた。
「……コウ」
 肩に手を回され、捧の囁く声に、際限なく蘇りかけた夢から引き戻される。弾かれたように瞬きをして、捧を見た。綺麗で、清らかな水のような魂を持つ、この人も「蝶」だ。彼はいつもの静かな表情のままで、どこか不安そうにコウを覗きこむだけで、ヒカリの話には余り興味が無さそうだった。きっと、それこそ、生まれた時から言い聞かされ、当たり前のことだと受け入れているからだ。
「儀式は千年目で終わるんだろ。そんな馬鹿げた喧嘩が終わったって、何がどうなるっていうんだ」
「負けた方が滅ぶ」
「……、え?」
「そういうルールだ。千年目の呪いの終焉とともに、ふたつの家の争いも終わる。白と黒、どちらか蝶の数の少ない方が滅んで無くなることでね」
「だって、おかしいだろ、そんなの」
 蝶を呪術師に捧げるのは、狩りの一族が滅びないようにするためだと、捧もヒカリも言っていた。その儀式さえ行っていれば、狩りの家は続き、栄えるのだと。そのために誰かを犠牲にするのが、蝶狩りではないのか。
「なんのために、捧さんの一族が、ずっと」
 聞かされたことに、腹が立った。勝手なことを言うのもいい加減にしろと、相手を間違っていると分かっていてもヒカリにそう掴みかかりそうになって、それを捧に止められる。
「コウ、待って」
 この人をそんなくだらない事に使おうとしていることが許せなかった。それなのに、当の本人が余りに冷静に止めるのでは、もう、何も言えなくなってしまう。唇を噛んで、言葉を投げつける代わりに、ヒカリを強く睨む。
 コウが睨み付ける視線にも、ヒカリは軽く笑うだけだった。
「最後まで聞きなさい。ぼくが言いたかったことはこれからだ。最後の蝶が、花羽ではなく雨夜の元に居るということがどういうことなのか、きみにも教えておかなくてはならない」
 まるで駄々を捏ねる子どもを叱るような物言いだった。宥めるように背中を撫でる捧の手に、反論しようとした言葉を飲み込んで、大人しく話を聞く。
「千年は長い。羽色がふたつに分かれたのも、まだほんの百年ほどの頃でしかなかった。おまけに、彼の人の呪はあまりに強く完璧だ。狩りの血と蝶の血は、互いに抗うことは出来ない。狩りは蝶を求め、蝶は狩りを求める。これほど楽しい遊びはなかった。だから彼らは、蝶の一族を何より大切にした。重要な儀式のための道具であり、同時に最高の玩具として」
「それは昔の話だ。今は違う」
 それまで話に加わらないでいた捧が、ヒカリの言葉を遮った。
「……違う?」
 ヒカリの話すことは嫌な気分になることばかりだったが、捧はそれを否定しようとしている。縋るような気持ちで彼に問いかける。けれども、捧が何か返してくる前に、ヒカリが可笑しそうに笑って、それを打ち消してしまった。
「ほら、完璧だろう。蝶は狩りに背くことは無い。でも、まあ確かに、今は少しは違うよ。散々好きなように遊んでは来たものの、いざ終わりが見え掛けると、狩りの家のものも多少は頭が冷えた。相変わらず仲は悪かったけれど、争うことをやめようと手を結んだくらいだからね」
 淀みなく話し続ける彼は、楽しげですらあった。この男は何者だろうと、ふいにそんな疑問に襲われる。そんな風に思わなかった瞬間はないけれども、得体の知れない存在だと、今になって改めてそう感じた。蝶を食べる「蜘蛛」だと、そう呼ばれる男。
「勝敗が数の差で決まってしまうというのなら、それを引き分けに導けばいい。そうすれば、どちらの家も滅びはしない。彼らはそう考えたんだな」
「そんなの、引き分けにして、どっちの家も滅びたらどうするんだ」
「そういうこともあるかもしれない。けれども、割り算の問題だからね。ひとつのところに向かうものを、ふたつのところで分け合えば、それぞれが食らう負担は軽い。無傷ではいられないかもしれないが、根こそぎ死滅することはないだろう。たぶんね」
「……ずいぶん、いい加減な話なんだな」
 コウのその言葉に、ヒカリは肩をすくめる。
「前向きな発想ではあるね。彼らはそのために、長い計画を立てた。千年目までに、どれだけの儀式が必要か。その時に勝負を引き分けに持ち込むには、どちらの色をどれだけ狩ればいいか。そうやって、最後に白と黒、どちらの蝶も同じ数になるように取り決められた。これが、近代の話」
 ヒカリがコウに何を言おうとしているのか、そこまで聞いて、ようやく分かった。最後の蝶が、花羽ではなく雨夜の元に居るということがどういうことなのか、その意味。
「彼らはもともと閉じ込め、管理下に置いてきた蝶の一族を、自分たちのその計画に合わせて増やし、間引き、決めた通りにそれぞれの色で狩った。花羽も雨夜も、自分たちの存続を第一に考えて計画を遂行してきた。そうして無事に滞りなく千年目。最後は、花羽の手番だ。当主の喜美香様の御意向で、次期の当主が十八になるその日まで儀式の日が延ばされてはいるものの、それ以外にはなんの問題もない。あとは、白い蝶をもうひとつ増やすだけ。それですべてが終わりだ」
 おしまい、と付け加えて、ヒカリは立ち上がった。長い話が、そこで終わったらしい。どこに行くつもりなのか、この部屋を出て行こうとする。咄嗟に引き止めようとして、すぐに、呼び止めたところでこれ以上なにを話すべきか分からなくなり、やめる。
 開けられた障子の間から、外が見えた。ここも、捧の居たところと同じように、縁側から庭が見える。覗くその庭に、黒い羽が舞っているのが見えた。ひとつではなく、いくつも。
「花羽は蝶を厳重に庭に囲い込んでいるけれど、雨夜は放し飼いに近い。……きみも、もう少し休んでから、庭に出てみるといい。雨夜の当主様も、花羽から運び込まれた怪我人に興味津々の御様子だったしね」
 コウが黒い蝶を見つけてそれに目を奪われていると、振り向いたヒカリがそんなことを言ってきた。雨夜の当主、というその言葉に、言うつもりではなかったが、自然と、口を開いていた。
「捧さんが、最後の『蝶』なら」
 これがどういう状況なのか、ヒカリの話を聞いた今なら、分かった。
「羽の色が白でないと、花羽が滅ぶってことなんだろ」
 千年目に同数になるよう、計画を重ねて調整してきたというのなら、つまりはそういうことなのだろう。花羽が最後で引き分けになって終わり、ということは、現在、黒い蝶が白よりもひとつ多いという状況だ。何としても、次の蝶は白でなければならない。
「もし、おれがこのまま、捧さんを連れて逃げたら?」
「もっと酷い話になる。儀式を取り行えなくて、両家とも負けだ」
「なんだよ、それ……」
 どうして、何を話していても、誰かが死ぬ話になってしまうのだろう。呟いてうなだれると、急に全身の力が抜けた。糸が切れたように、身体を支えられなくて倒れそうになり、隣にいる捧に支えられる。
「まだ体力が完全に回復していないんだろう。雨夜の者には、ぼくが許可するまでは誰もここには立ち入らないよう頼んである。その子とふたりで、休むといい」
 ヒカリの声が、遠くから聞こえる。目を閉じて、支えてくれる捧の手に身を委ねた。そのまま胸に抱かれて、深く息を吐く。何もしていないのに、全身が痺れたように疲れ切っていた。足音は聞こえなかったが、ヒカリが部屋を出て行ったのだろう。柔らかいなにかで額に触れられたかと思うと、続けて瞼と頬に捧の唇が落とされた。
「……捧さん」
 このまま眠ってしまいたかった。それでも目を開いて、彼を見上げる。
 捧は何も言わずに、指先でコウの耳朶に触りながら、コウを見ていた。どこか痛むのかと聞きたくなるような、弱々しい目をしている気がして、両手でそっとその頬を包む。
「ごめん」
 そう言わなければならないような気がして、謝る。捧はそれには答えなかった。それまで、気遣うように緩く回されていた腕が強くなり、抱き締められる。言葉はなくても、その腕の強さと、存在を確かめるように重ねられる頬に、怯える子どものような不安を感じた。
「捧さんは、どうしたい?」
 こんな話を、出来ればしたくはなかった。けれど、聞きたかった。花羽の蝶でなければならない、その役割を受け入れていたはずの彼が、黒い羽の家に来ることを選んだのだと、ヒカリが言った。
 これまで、同じことを彼に聞いたことはない。聞くまでもなく、答えが明らかだったからだ。生まれる前から決まっていた、彼の役目。それを果たすことに迷いを抱くことはなかったのだろうと、コウにもそれぐらいは分かった。
「……わからない」
 低く囁かれる言葉は、戸惑いに満ちていた。
「おれは狩りのためにある存在で、生まれるずっと前から、白の家に捧げられることが定められていた。……それ以外は、なかった」
 コウに向けて語っているというよりは、自分の思考を辿ることで心を知ろうとしているような、独白のようだった。言葉を挟んだりはせずに、それを聞く。
「嫌だと思ったことはないし、寧ろ、誇るべき役割なのだと、そう思っていた」
「……今は?」
 捧が言葉を切ったので、尋ねてみる。返事はなかった。代わりに、抱き寄せられた手で顔を持ち上げられ、唇を一度、短く重ねられる。
「コウは、おれに会いたいと思ったのか」
「え、……ああ、うん、そうだよ」
 突然、そんなことを聞かれる。何の話なのかと思いかけて、コウが円にあんなものを飲まされるに至った、その理由のことなのだろうかと気付く。花羽の家に再び入り込もうとしたのは、確かに、捧に会いたかったからだ。
 コウが頷くと、捧は淡く微笑んだ。いつもの、どこか哀しそうな目だ。
「会いたいに決まってるだろ。……恋人なんだから」
 そんな目をさせたくなかった。コウの言葉に、捧がまた笑う。そうだな、と、彼は頷いた。
「おれも、コウの傍にいたい」
 耳元で、低くそう囁かれる。そうだと言われたわけではないが、それが、今はどうなのか、と尋ねたコウに対する答えのような気がした。
「どんな最後を迎えるのだとしても、それでも、その最後の瞬間まで、コウの傍にいたい」
 子どものような、素直な言葉だった。それに頷き返して、捧の胸に顔を埋める。温かくて、もうすっかり覚えた彼の香りがした。円と清川に飲まされたあの液体に少し似ていて、それでも、こちらの方が、ずっと甘くて酔える。
 髪を撫でてくれる指が心地よくて、目を閉じる。おやすみ、と、そんな風に囁かれたような気がした。
 休めばいいとヒカリにも言われた。けれど、時間がもうないことを、コウも知っている。安穏としていられない場所にいることも分かっている。それでも、今は、このまま目を閉じていたかった。
 最後まで、という彼の言葉が、いつまでも胸に残って、哀しかった。 


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