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第二章 「月」
2. 完全な欠け月

 幼い頃から、化け物と呼ばれてきた。

 ものごころついた時に既に傍らにあった存在はふたつ。ひとつは姉。
 姉は子どもの頃から何事に対しても、弟である自分と対抗したがった。そうして、その挙げ句に負けると、そんな勝負は最初から認められていない、と爪をたててこちらに非があると言って聞かなかった。家族だけでなく、誰に対してでも、そんな風にしか接することの出来ない子どもだった。まるで何か大事なものを持っていて、すべての人間が、隙あらばそれを奪おうとしていると、そうとでも思い込んでいるように、いつでも全てを強く睨み、罵り、足蹴にしようとした。
 家と、それがずっと守り続け、自分に与えようとしているものは、重荷でしかなかった。しかし、姉にとってはそうではなかった。彼女にとってこの家は、悪意をもつ世界に、自らの力だと示すことの出来る、強力な武器だった。だから、相手が誰であろうと構わず、その力を振りかざした。千年も時が経てば、いくら、かつては神にも近い力を持っていた一族とはいえ、もうほとんどただの人間だ。それなのに、一部の人間は、どうしてもそれを認めようとしない。姉も、そのひとりだっただけの話だ。
 ただの人間がそんな不気味なことを言い、そして時にはその繰り言が現実になったりもする。ひとがそんな存在を恐れるのは当然だろう。恐怖心は自らを脅かすものに面した際に働く、生きものとしての当たり前のメカニズムだ。
 だから姉は、化け物と呼ばれた。
 姉が化け物ならば、当然、その弟も化け物に違いない。何故なら姉は、いつでも自分の家のことを得意気に口にしていたからだ。その家に繋がるものは、みなすべて、等しく異常だ。あまりに外部で家のことを吹聴し、気に喰わないことがあればすぐに力を行使しようとする姉を、当然のように当主は、一族にとっての害としか見なさなくなった。
 だから、十にもならないうちから、外に出ることを禁じられ、屋敷の中だけで生きていくことを命じられていた。
 そこでなら、どんな気儘も許される。母の言いつけに背かぬ限りは、何をやっても、誰も、咎め立てられることはない。それはある意味、ひどく自由だとは思う。次期の当主である、この身とは違う。
 姉が外に出ることはなくなっても、それでも世間は、そう簡単に異端の存在を忘れはしない。ましてや、それと同じものが、いまだに残っている限りは。
 幼い頃から、自分が果たすべき役目を言い聞かされ、それを受け入れて育ってきた。だから、外の人間に何を言われたところで、いまは何も思わない。
 あれはまだ小学校に上がる前の話だ。幼稚園だったか、それともそんなところとはまた別の、ただ単に子どもが集まっていただけの場所だったかもしれない。はっきりとしたことは記憶にない。ただ覚えているのは、自分と同じくらいの年頃の子どもが、こちらに向けて言ってきた言葉だけだ。化け物、と。
 姉の話をしたからだろうか。他にはない名字から、子どもなりに考え、そう思い至ったのだろうか。あるいは彼らの親が、そう言い聞かせたのだろうか。あれは化け物のおうちの子だから、近寄ってはならないと。
 幼い子どもであっても、それが人間に言うべきでない言葉であることは分かった。口々に声を揃えてそう叫び、ものを投げつけて、こちらの戸惑う顔を見て、笑うものがいたことも覚えている。
 それが許せなかった。だから投げられたものを掴んで、自分がされたように、相手に投げつけた。痛みを与えるものは、自らもその痛みを知らなければならないはずだと、そう信じていた。
 けれど相手は、その程度のことで、簡単に泣き出した。ただ、ほんの一度、身体に積み木かなにか、そんなものをぶつけられた程度で。驚いて、言葉もなくした。
 泣き声を聞いて、顔を青くした大人が現れた。泣いている子どもと、それを取り囲み、こいつがやったのだとこちらを指差してくる子どもたち。保母かなにかだったのだろうその大人は、それを聞くなり、鋭く声を上げた。なんてことをするんでしょう、この子は。
(「見てみなさい、かわいそうに。こんなに泣いて!」)
(「とても痛かったのよ、わかるでしょう、あなたにも。いいですか、覚えておきなさい、ぜったいに、」)
 狩り手は当主のみに許された、ただひとつの役目。自分にしか出来ない、多くのものを救い、未来へ繋げられる、誇るべき宿命。けれども、それは。
 この手の、なすべきことは。
(「ぜったいに、ひとを傷つけるのは、いけないことですよ!」)
 この手は誰かを傷つけることしか出来ない手だと、いちばん最初に気付いたのは、きっとその時だった。

 家を抜け出しておいて、その男は何も変わらない、涼しい顔をしていた。
 幼い頃から常に傍らにあった、その、もうひとつのもの。血の繋がりはないが、兄のように思えと、そう言われているものだ。
 庭の奥、通い慣れた道を歩く。この道筋は、限られた人間しか知らない。庭が入り組んでいて迷路のようになっているのもあるが、歩き回ってみて、実際の土地面積よりもずっと広く感じるのは、昔々に張り巡らされた結界のせいだと言い伝えられている。庭の主に立ち入ることを許されていないものは、決して屋敷へと辿り着けない、そんなまじないが今でも残っているのだと、そう聞いている。
 庭を抜け、離れが見える。その男はいつもと同じように、部屋の中に静かに座り、こちらの方を見ていた。
「捧、答えろ」
 あの家から連れ戻したその日の夜、母がこの男の元に赴き、しばらく何か話をしていた。それほど長い時間ではない。ほんの、十五分ほどだっただろうか。外からその様子を伺おうにも、離れの障子は閉められていて、暗い縁側が見えるばかりだった。近寄っても、声も聞こえなかった。……母はともかく、もともと、この男は、ほとんど自分からなにかを語ることはないが。
 母にはすべてお見通しだったようで、夕食の時に、立ち聞きのようなお行儀の悪いことはお止めなさい、と叱責された。
「昨日、母さんに、何を言われた?」
 その翌日、未月がそう尋ねても、捧はまるで聞こえていないような素振りで、なにも答えなかった。
 あれだけ家の中を騒がせておいて、と愚痴ろうとして、それを口にすれば嘘になることに気付く。実際、「蝶」がこの屋敷から逃げ出したことはそれほど騒ぎにはなっていない。当主が、それを差したる問題と捉えなかったからだ。すぐに連れ戻します、と言う未月にも、放っておきなさいと冷たく笑うばかりだった。あれは、自分たちの手を差し向ける必要もないと、そんな確信からの笑みだったのだろう。これは当主が、生まれたその瞬間から手塩にかけて育て上げた、完璧な供物だ。蝶は狩られるために、必ずこの庭に戻る。
 果たして、母の思い通りに事が進んだかどうかは、今となっては分からない。未月が、余計な行動を取ったからだ。
 捧だけなら、当主の命令なのだからと、様子を見ただろう。けれども、この男はひとりではなかった。この男を連れ出した、別の人間がいた。……放っておいたら、どうなるか、分からなかった。
 母からは、命に背いて勝手に行動を取ったことについては、何も言われていない。何か言いたそうに冷たい目を向けられたが、隣にいた父が、あの子も無事に戻ってきたことだし、と、それを取りなしてくれ、そこで話は終わった。母がほんとうに、あの男を連れ出したものへ送っていたものを止めたかどうかは分からない。未月も出来る限り、防ごうとはしてみたが、まだ当主ではないこの身で、どこまで対抗出来たのかは怪しいものだった。実際に、その影響で、彼はあんなに苦しんでいたではないか。今日、学校で様子を見ようかと思ったが、どうやら欠席していたようだった。無理もない。しばらくは影響が残るかもしれないが、しかし、それもすぐに消えるだろう。今は、蜘蛛が傍についているようだから。
「おまえの軽率な行動が、何を引き起こしたかよく覚えておけ」
 何も答えない男に、そう言い放つ。てっきり、それも無視されるのだと思っていた。
 しかし捧は、珍しくこちらを見て、こう言い返してきた。
「軽率だったとは思う。家を騒がせたことについては、申し訳なかった」
 そう言って未月を見てくる目が、いつもとは違った。これはぼんやりと、感情をまるで伺わせない、静かに全てを受け入れている目をしていた。子どもの頃からずっと、それこそ生まれた時から常に傍にあったもののはずなのに、そんな顔を初めて見た。
「……けれど、後悔はしていない」
 それは意志をもつ、人間の目だった。
「あの手を取らなかったら、おれはきっと、最後までそれを悔やんだ。務めを果たす瞬間にも、未練を残しただろう」
「黙れ!」
 それ以上聞いていたくなくて、思わず怒鳴る。勝手なことをいうこの男が、憎かった。いつも、平然と儀式のことを語る。己に課せられたその役目を、定めだと心静かに受け入れて、ただその時を待ち続けている。それはそういう風に育て上げた当主のせいだと分かってはいる。分かっているからこそ、同じように育てられた自分とは、何故こんなにも違うのだろうと思ってしまう。
 これまでも、その全てが、充分に憎かったのに。それを、更に、この男は。
「未月」
 怒鳴られたことにも全く動じた様子はなく、捧は静かに続ける。気のせいかもしれないが、まるで挑むようにこちらに強く向けられていたその目が、かすかに笑みのかたちを取ったようにも見えた。
「おれは、あの子を抱いたよ」
 黙れと再び声を上げようとして、しかし、それを聞いて、言葉をなくす。何を言われたのか、よく分からなかった。
 どうして、そんなことを教えてくるのか。まるで、嘲うような、そんな顔をして、
「……とても、熱かった。幸せだった。だから、悔いはない」
 まるで、未月が胸に抱えているもののことなど、すべて分かっているとでも言いたげに。
「悔いはない。おまえに、首を斬られるのだとしても」
 声だけが、いつもと同じように静かだった。それ以上聞きたくなくて、顔を見られたくなくて、背を向ける。
 捧も言いたいことはすべて言ってしまって、気が済んだのだろうか。それきり、何も言ってこなくなった。
 その沈黙すら、ひどく満足気なものに感じられて、握りしめた拳が震えた。

「未月、こちらに来なさい」
 母屋に戻ると、当主が待ちかまえていた。
 呼ばれたその声を聞くだけで、あまり、良い話ではないことは分かった。
 当主の言うことには誰も逆らえない。大人しく呼びかけに従い、その後に続く。屋敷の一番奥の間は、本来ならば、当主と当代の「蝶」しか立ち入ることを許されていない。未月は、まだ正式にその座を継いだわけではないが、それもあと数日のことだ。最近になって、そこに出入りすることを許された。
 音を立てず静かに襖を閉めて、母と向き合いになるように座る。
「……もう、あと、わずかになりましたね」
 当主である母が、そう言って微笑む。今ばかりは、冷たさのない、慈愛すら感じるような優しい笑みと声だった。
 それに、黙って頷く。何のことかは言われなくても分かる。儀式だ。
「準備はすべて、滞りなく進んでいます。それが、わたしの最後の仕事ですからね」
「……しばらくは、傍で助けていただかなくてはいけません。ぼくは未熟者です」
 未月がそう言うと、わかっています、と、母は笑った。機嫌が良さそうだった。
「それでは、未月。ひとつ、命じましょう」
 しかしその直後、それまでの空気が、急に変わる。ぴん、と、糸が張りつめられたようなその硬質な空気に、未月も身構えた。
「庭に、鼠が入り込みました」
「鼠?」
「ええ、そうです。入り込んだというよりは、仕掛けていた罠に掛かった、と言うべきでしょうか。それを始末しておいでなさい」
「始末、とは」
「それを決めるのが、あなたの仕事です。自分の責任として、対処してご覧なさいな」
「……分かりました」
 簡単に言い切るが、随分と厄介そうな仕事だ。顔を伏せて、気取られないようにそっと息を吐いて、未月は立ち上がった。一礼をしてその部屋を去ろうとして、ふと、呼び止められる。
「未月。これは当主としてではなく、母親としての意見ですけれども」
「……なんでしょう?」
「お友達は、よく選ばないといけませんよ」
 ね、と、小さな子どもに言い聞かせるように微笑まれる。その笑みを見て、母が何を言いたいのかよく分かった。そして同時に、鼠の正体についても思い至る。
 清川縁示。あの男は、両親にそっくりだ。花とも羽とも姓に戴くことも許されていない、末端ですらない癖に、まるで本家の一員で、いかにもその役割を果たしてきたかのような口ぶりで、この屋敷に堂々と現れる。本家の息子と同じ学校で、しかもクラスまで同じになったような場合、他の分家のものならば、すぐに学校を変えたり、裏で手を回して、せめてクラスを別にして貰うだろう。それは本家がそうするように圧力を掛けたわけでも、そうするべきだと決まっていることではない。ただ、本来ならばそうあるべきだと、そう思われているだけのことで。……そのことを、未月は何とも思ってはいない。しかしそんなことを抜きにしても、元々、清川縁示は嫌な男だった。幼い頃から、何度もこの家には両親に連れられて来ている。年が同じなのだからと、遊び相手になると思われたのだろうか。気が合わず、喧嘩こそしなかったものの、内心では嫌っていた。やたらと家の自慢話をしようとするところも嫌いだった。こんな家、少しも好きではなかった。
「ついに、何か、ろくでもないことをやらかしたんですか」
「口を慎みなさい、未月。……もう一度だけ言います。お友達は、よく考えて、選びなさいね」
 妙に優しい口調でそう繰り返す母親に、わかっています、と答えて、静かに部屋を出る。何か、言いたいことがありそうだった。鼠と簡単に言い切ったが、きっと問題になるようなことが起こっているのだろう。当主の座を正式に継げば、毎日、こんな思いをするのだろうか。……捧のことを思い出す。あの、ふざけた言葉も。
 庭へ降りようとしたところを、今度は父親に呼び止められる。姉の円を知らないかと尋ねられた。昼から姿が見えないのだと、心配そうな顔をする父に、素っ気なく知らないと答える。どうせまた、庭で紙の蝶を苛めて遊んでいるのだろう。
 苛々した。こんな時に、何をしでかしてくれるんだと、誰を相手にしてでもいい、思い切り怒鳴ってやりたかった。母親の言葉は、真実だ。
 友人は、よく選ばなければならない。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「は、なせ……!」
 頬に触れられた冷たい指から逃れたくて、身を捩る。身体を起こそうとして、けれどもすぐに背中を蹴られて、またみっともなく床に倒れる。そのまま、体重を掛けて何度も背中を踏まれた。その度に潰れそうな痛みに息を漏らすと、顔のすぐ近くで、未月の姉がくすくすと笑う。
 ひとが痛めつけられるのを目にして、おかしそうに笑うその声は、常人のものではなかった。
「おまえは可愛い子ね。未月とは、大違い」
 爪の長い指で頬を掴まれ、顔を合わせるように持ち上げられる。コウを見てくる瞳は、やはり血走っていて、こちらを見ているのに、焦点が合っていない。その目に見られると、本能的な恐怖を感じて、身体が動かなかった。
「円さん、いいだろ。しばらく、遊ばせてくれよ」
「駄目よ、これはわたしのもの。……でも、そうね。わたしは未月とは違うから。だから、少しなら、いいわ。でも忘れないで。殺しては、駄目よ」
「分かってるって。『狩り』は、本家の仕事だもんな」
 コウを離れたところで、コウについての話が勝手に纏まる。彼らの中に、コウについて大きな誤解があるらしいとは分かったが、頭がくらくらとして、反論も出来なかった。痛みだけではない。どこか、身体の外側ではない、内側に、もどかしい熱が湧いて、それが苦しかった。血がざわざわとして、熱が出たように指先が熱かった。
「いい気持ちだろ?」
 こちらを見下ろす清川が、得意気に何かを掲げる。ふいに、甘い香りが流れてきた。それまで意識していなかったが、部屋全体に立ちこめていた香りだ。どこかで覚えのあるその香りに、思わず、身を震わせる。懐かしい、と、そう感じた。……捧の胸に顔を埋めた時に、こんな香りがしなかっただろうか。同じのような気もしたし、どこか違うような気もした。
「凄いな、これ」
「蝶を酔わせる香よ。家の、あれに試そうとした時は失敗したけれど。この子は素直なのね。なんて可愛いのかしら」
 滑らかな指が、コウの頬を撫でる。そんな風に触られたくなかった。心では拒否しているのに、身体がやけに敏感になっていて、どんな小さな刺激にも震えてしまう。
「品行方正な花羽に、そんな物があるなんてな」
「残念ながら、それは違うわ。これは、あちらのお家から頂いたものなの」
「ああ、なるほど。あんた、引き籠もりの癖に、交遊が広いんだな」
「お母様と未月に、敵が多いだけの話よ。……あらあら、まだ元気ね。噛み付かれてしまったわ」
 唇を撫でてきた指が、その内側に入ってこようとしたので、思い切りそれに歯を立てる。それでも、自分で思ったほど顎に力が入らなくて、まるで甘噛みするように軽くしか噛みつけなかった。円、と呼ばれた未月の姉はくすくすと笑い、小刻みに跳ねるように震えるコウの顎を指先で摘み、上向かせる。
「それを、飲ませてあげたら、どうかしら。きっと、もっとよくなるわ」
 そんなことを言われているのが、ぼんやりと、どこか遠くから響く。すぐ傍で交わされているはずの会話なのに、音が遠かった。女の細い指先で顎を掴まれているだけなのに、全身の力が入らなくて、そこから逃れられなかった。
「大丈夫なのか、そんなことして?」
「平気よ。だって、それが、何で作られているか分かる? ……、なのよ」
 それを聞いて、清川が、面白い冗談を聞いたように声を上げて笑った。どうして笑うのか、コウには分からなかった。黒い、薬瓶のようなその容器を、口元に押し当てられる。逃れようとして、首を振った。
「っ、や……」
 動けないように、顔を押さえられる。瓶を傾けられ、中からどろりとしたものが、開いたまま閉じられない口の中に流れてきたのを、どうにかして飲み込むまいと、息を詰める。信じられなかった。そんなものを、嬉々としてひとの口に含ませようとする彼らの心情が理解出来なかった。口いっぱいに流し込まれた、その粘ついた液体を外に出したかった。息が出来なくて苦しくて、目に涙が滲む。
「可哀想に、泣いてるわ。苦しいのね」
 同情するような声。優しげですらあったその声の主は、しかし、くすくすと笑いながら、手のひらでコウの喉を、思い切り力を込めて押さえ込んできた。躊躇いのないその手の強さに、反射的に咳き込む。そうすることで、口の中に溜まった液体を半分吐き出して、けれども残りの半分を、喉の方へと流してしまう。唇に触れた瓶はとても冷たかったのに、飲み込んでしまったそれは、喉が灼けたかと思うほど熱かった。
「か、は……っ!」
 息を詰めていたのと、飲み込んだものへの嫌悪感で、身体を丸めて、何度もむせる。喉だけでなく、炎を呑み込んだのかと思うほど、胃の辺りがひどく熱い。見ているものが白く点滅して、目を開けているのか閉じているのかも分からなくなる。全身に響く、心臓の鼓動が耳につく。血の流れが速すぎて、血管が破れてしまいそうだった。捧を連れ出して受けたあの「罰」とは違う。あんな風に、じわじわと痛めつけられるのではない。今の苦しみは、瞬間で気が狂いそうな、ここで意識をなくせば、そのまま自分がすべて消し飛んでしまいそうな、嵐のような強さだった。
「おい、ほんとに大丈夫なのか?」
 身体を丸めて痛みに震えていると、頭上で、清川がそんなことを尋ねていた。
「知らないわ。死んじゃうかしら。だったら、先に殺さないと」
 それを受けた円の声は、それでも笑っていた。怖い女だな、と、それを聞いて清川が呆れたように言う。
 どれだけ咳き込んでも、喉の奥が熱いのが収まらない。熱はいつの間にか全身に広がっていて、気を失いそうな痛みが、やがて、溶けるように、ゆっくりと痺れに変わっていく。様子が変わったのに気付いたのか、清川がこちらを覗き込んで、妙に嬉しそうな顔をした。
「……凄いな。さっきより、全然いい。もう、すぐにでも欲しいって顔してるぜ、おまえ」
「ち、が……」
「何が違うんだよ、こんなにしやがって」
「……っ、!」
 足の付け根を、思い切り靴裏で踏まれ、強く押しつけられる。それだけで達してしまいそうなほど、いつの間にか、張りつめていた。強い痺れに、痙攣のように身体が震えて止まらない。それを、面白くてたまらないとでもいいたげに見下ろして、清川は笑う。
「この淫乱。おまえは、痛いのとか、強引にされるのが好きなんだもんな、牧丘?」
「ひ、あ、……ぁ」
「分かってるよ、おまえが喜ぶように、ちゃんとしてやる。……円さん、あんた、そこで見てるか?」
 せせら笑うような清川の声に、女がどう答えたのかは、コウには分からなかった。庭を引き摺られて土にまみれた制服の上着を、引き剥がすように脱がされる。触られるのが嫌で、絡みつく腕を振り払うと、また思い切り胸を蹴飛ばされ、何度も踏みつけられた。
 部屋に立ちこめる甘い香りが、今は、コウの体内にもある。飲み込まされた、あのどろりとした粘着いた液体。黒い蝶と、白い蝶の舞う姿を思う。そうして、最後に、捧のことも。それを飲んで、こんな風になる自分の身体が、嫌で嫌でたまらなかった。
「可愛いな、おまえ」
 与えられた殴打と、飲んだものの作用で、もう全身に力が入らなかった。覗き込む清川の目は、赤く血走っている。花羽円の目と、同じだった。この目にだけは負けまいと、消えそうな意識を奮い起こし、赤い目を睨む。それを鼻で笑って、清川がコウの黄色いマフラーに手をかけた、その時だった。
 円が、舌打ちをして立ち上がる。忌々しげに、何か呟いた。清川がそれを聞いて、この小屋のような建物の、入口らしき方角に目をやった。
 風が吹いてきた。扉が開けられて、外の空気が流れてきたのだろう。それに混じって、声が聞こえた。 
「……鼠が」
 凍り付くように冷ややかな声。聞き覚えのあるもののような気がしたが、もう、何も考えられなかった。
 ただ、その声の冷たさが、熱で溶けそうな身体に、少し心地が良かった。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 庭に紛れ込んだ異物の場所は、すぐに分かった。濃い、嫌な空気があったからだ。そちらを目指せば、すぐに探すものは見つかった。
「邪魔をしないで、未月。折角、楽しく遊んでいるのだから」
 鼠はやはり、思った通り、清川縁示で間違いないようだった。ただ、そこには想像していなかった顔が他にもふたつあった。姉の円と、そして、もうひとりは、すぐには分からなかった。それが牧丘コウだと分かっても、その事実に思考が追いつかなかった。だから、冷静なままでいられた。
「友達を選ぶように、と、母さんからのお達しだ。……清川も。今すぐ、ここから出て行け」
「偉そうに。まだ儀式も終わってないのに、当主気取りか?」
「ぼくが偉そうなのに当主云々は関係ない。元々の性格だ。いいから早く出て行け」
「嫌だって言ったら?」
「別に、それでもいい。ぼくの言うことでは聞かないようだから、と言って、当主様にご登場願うだけだ」
 未月が淡々とそう言うと、清川はつまらなさそうに、それまで腕に抱えていた牧丘コウを乱暴に床に放り投げた。
「やっぱ、おれ、おまえ嫌いだわ」
「気が合うな。ぼくも同じだ」
「行くぞ、円さん。……あんた、当主様にこれ以上叱られたくないだろ」
 円はそれでも、未月のことを睨み付けていたが、やがて、清川の言う通りだと思ったのだろうか。早々とこの場を去った清川の後を、派手な髪飾りを揺らして、庭へと消えていった。
「……おまえも出て行け、牧丘コウ。早く起きろ」
 残ったもうひとりにそう呼びかけても、反応がない。
 不審に思って、うつぶせに倒れたままのその身体を仰向けにする。まるで泣いているように、小刻みに震えている。何も言わないから、意識を失っているのかと思ったが、そうではないようだった。ぼんやりと開いている目が、未月の方を見た。
 その酷い有様に、次に言おうとした言葉を忘れた。制服は泥だらけで、シャツには清川のものだろう、靴で踏まれた痕がいくつも残っている。殴られたせいで頬は腫れているし、口の端から血が流れていた。何が起きたのかは分からないが、この様子を見る限り、やはりろくでもないことをされていたのだということは分かる。しかも、その相手が、円と清川。
 あのふたりが妙に親しげだったのが、気に掛かる。同じ一族の末端であると言えるかどうかも怪しい清川と、仮にも本家の娘。接点があることが、不吉だった。当主に報告するべきことかもしれない、と、そんなことを考えながら、牧丘コウを抱き起こそうとする。とにかく、こんなところに、置いておくわけにはいかない。この男は、花羽の一族にとって、とんでもない過失を与えるところだった。当主に見つかれば、それこそろくな目に遭わないだろう。
 折角、見逃してやろうと思ったのに。
 あのまま大人しく捧やこの家のことを忘れてくれれば、元の通りの生活に戻れたはずだ。蜘蛛にも、そのことはよく言って聞かせるように頼んだのに。それを、また。自分から来たのか、それとも清川に連れてこられたのかは分からないが、どちらにしても、腹が立った。当主の命に背いてまで助けてやったのに、またこんな目に遭っているこの男が許せなかった。
「ほら、しっかりしろ」
 目は未月を見ているのに、苦しそうに短く息をするだけで、何の反応も見せない。肩を揺さぶると、その勢いでがくがくと頭が揺れるだけだった。様子が、おかしかった。潤んだ目と、上気した頬。熱に浮かされたような、忙しない呼吸。
 楽しく遊んでいた、と円が言っていた。思い当たることがあって、コウの口の端に残る血を指ですくい、その匂いを確かめる。甘い。コウが怪我をして流した血ではなさそうだった。何か、飲まされたのだろう。
「……は、」
 口の端を拭う時、未月の指先がコウの唇に触れた。それだけの刺激に、コウが切なそうな息を吐いた。もどかしそうに身を捩らせて、また倒れ込みそうになったので、慌てて支える。どういう状況なのか、把握出来た。
「しばらくひとりにしてやる。自分で済ませろ」
 出来るだけ冷淡に、突き放すように、そう言い放った。言われたことがどの程度まで伝わったかどうかは分からない。もう、正常にものを考えることすら出来ていないのではないかと、その虚ろな目を見ているとそう思えた。
 床にその身体をそっと横たえる。飲まされたもののせいか、身動きを取ることも出来ないようだった。
「……ああ、もう」
 開けたままだった扉を閉める。この建物がなんの為に置かれているのかは覚えていないが、庭の手入れをするための道具を仕舞っておく、物置のようなものだった気もする。
「後ろを向け」
 そう言いながら、自分でコウの身体を転がしてうつ伏せにする。腰に腕を回して膝を立てさせ、四つん這いにさせた。身体の一部に触れるたびに、コウが息を漏らす。
「いま、楽にしてやる。……少し、我慢しろ」
 覆い被さるようになり、耳元でそう囁く。言われたことが分かったのか、コウが一度、頷く仕草を見せたような気もした。早く解放されたくて仕方がないのだろうか。相手が男で良かったと、そんなことを考えた。どうすればいいのか、分かるからだ。
 ベルトを外して、制服の布地を少しだけ下ろす。下着の上からそっと指でなぞると、そこは驚くほど固かった。
「ひ、ぁ」
 少し触れただけで、コウが背中をのけぞらせる。左腕で腰を抱き込んで捕まえたまま、あまり刺激しないように、そっと下着をずらしてやる。張りつめた熱を、直に手のひらで握る。びくん、と、大きく身体が震えた。
「あ……!」
 顔は見えない。それでも、らしくない派手な色のマフラーからわずかに覗く紅潮した首筋に、汗が滲むのがひどく艶っぽかった。自分には何の刺激も与えられていないのに、何故か、未月まで、吐く息が熱い気がした。熱に添えた手を、少しずつ、宥めるように動かしてやると、甘えるように腰を押しつけられた。
「あ、あぁ、……っ、ぁ」
 こんなかたちで、触れたくなかった。心はそう思うのに、自分の手だけが、今、この腕の中にある身体に声を上げさせているのだと思うと、喜びのようなものがこみ上げてくる。もっと、泣かせてみたくなる。苛めるように、わざと手を止めては、まだ欲しいかと耳元で尋ねる。顔をこちらに向けて、懇願するように何度も頷くその様に、ひどく興奮した。
「ひ、や、……も、」
 果てが近いのだと、その泣くような声で分かる。可愛くて、もっとその顔を見ていたいと思うのと、可哀想で早く楽にしてやりたい思いの両方で、手で犯し続ける。ひ、と、喉の奥で高い声を一度上げて、コウの身体の震えが、抱いた腰から未月にも伝わる。達する時には、ひときわ強く抱き締めた。……その最後の瞬間の声を、聞くまでは。
「……っ、ささぐ、さ、……!」
 吐き出された白が、汚れた木の床に零れ飛ぶ音も、聞こえた。
 絡めていた手を離し、意識が飛んだのだろう、ぐったりと力を失ったその身体の、服を直してやる。未月が自分の手のひらを見ると、そこにも少し、白いものが飛んでいた。
 捧。
(「おれは、あの子を抱いたよ」)
 余計なことを、思い出した。……それとも、忘れていた、のだろうか。
 手のひらを地面に擦りつけて、汚れを落とす。さっきまで、あんなに、満たされた気分だったのに。急速に醒めた熱は、必要以上に、体温を下げていく。いま、自分は、なにをした?
 清川のことを、心から軽蔑した。こんなところに誰かを連れ込んで、殴って蹴って散々痛めつけた上で、おかしくなる薬まで飲ませて。それで、自分のいいようにしようなんて、最低の人間のすることだ。
 しかし、それなら、自分は? 意識の曖昧なのを良いことに、……あれは、仕方のないことだと、牧丘コウのためなのだと自分に言い聞かせようとして、それを振り払う。
「ぼくも、あいつと、同じだな」
 その呟きさえも、偽善的に耳に響いた。ひどい自己嫌悪と、なにに対してかは明確ではない、強い苛立ち。
 気を失ったままのコウの身体を担ぎ上げる。こんな面倒な荷物は、はやく目の届かないところに放ってしまいたかった。
 しかし、その前に。
 自分でも驚くくらい、心が冷えていた。こんなに残酷な気持ちになれるのかと、そんな自分自身に、驚きに近いものすら抱いた。どうせ、ここまで、取り返しのつかないことになってしまったのだ。ならば、せめて。
 せめて、見せつけてやりたかった。

 日はすっかり沈み、庭は闇一色だった。今夜は月が明るいはずなのに、厚い雲で覆われた空には、その姿が見つからない。牧丘コウを背中に担いで、ひとり黙々と、庭を進んだ。この男の処分については、当主に決して知られてはならない。蜘蛛に引き渡さなければならない。あの男は、いつでも、未月が居て欲しいと思うような時には、必ずその場にいる。だからきっと、今度も、これから行く場所に、すぐに現れるだろう。不気味な存在だ。
「捧」
 いつものように、離れの縁の傍に立ち、そう呼びかける。起きているのは分かる。気配があった。
 空気が淀んで、重い。すぐに雨が降り出すだろう。
 未月のその声に、静かに閉められた障子が開けられる。声の調子で、穏やかな用件でないことは察しているのだろう。明かりのない夜の闇の中で、捧は言葉なく、真っ直ぐに未月を見てきた。しばらく、その視線を受け止めて、黙っていた。背負っているものが、相手には分からないだろう。目の当たりにして、せいぜい、思い知ればいい。この手を取ったことを悔いてはいないと、幸せだったと、そんな風に思ったことが、どんな結果をもたらしたのか。……思い知ればいい。
「おまえのせいだ」
 自分の声が、ひどく子どもじみていた。背負っていたコウを、思い切り、地面に放り落とす。ざらりと音を立てて、そのまま、砂利の上に転がる身体。何が起こっているのか、捧にすぐに理解出来たとも思えない。
 彼は、裸足のまま縁から降り、砂利の上のその身体を抱き起こした。
「……、コウ?」
 低いその声が、名前を呼ぶ。明かりのない中で、どれほど、その様子が分かっただろうか。それでも、抱いている身体がひどく弱っていて、洋服も肌も、ぼろぼろに汚されていることぐらいは見て取れたのだろう。
「何をした」
 強い言葉だった。問いかけではなくて、まるで、非難そのもののような。
「おれが戻れば、コウには危害は加えないと、そう約束しただろう」
「……何とでも言う。ぼくにとって大事なのは、この家と、儀式だけだからな」
 実際には、もっと酷い目に遭いそうになっていたのを、助けてやっただけだというのに。捧にとって、コウを傷つけたのは未月以外に考えられないのだろう。笑いが込み上げてきた。おかしくて、たまらなかった。
「愚か者が。思い知れ、人でもないのに、人の振りをしようとした、これがその報いだ」
 捧がそう考えるのも当然だ。彼にとって、未月は、ひとを傷つけ、殺し、それを誰かのためだと胸を張る、そんな存在でしかないのだ。ひとを傷つけて当たり前の、化け物でしかないのだから。
「蜘蛛に、そいつを処分させる。死なせたくないのなら、今度こそ、二度とこの家には関わるなと、そう言っておけ!」
 言い放って、捧に背を向ける。
 砂利の上で、牧丘コウを抱えたまま、捧はまるで影そのものになったように、じっとそこを動かなかった。
 庭の中に足を踏み入れても、こちらを見ている強い視線だけを、ずっと、背中に感じ続けていた。

 母屋に帰れば、当主に、庭での出来事を報告しにいかなければならない。
 それを引き延ばしたくて、わざと、進まなければならない道から、一本ずれた道を行く。ぐるぐると、同じところを回り続けるような景色。やがて、雨が降り出した。ぽつりと一滴感じたかと思うと、すぐに、土砂降りのように激しく降り出す。極端な雨だ。
 雨が降ると、いつも決まって、思い出すことがある。だから、雨の日は嫌いではなかった。
 化け物と呼ばれたのは、ほんの子どもの頃の話だ。成長するに連れて、子どもは学ぶ。傷つかない人間を悪く言っても、あまり楽しくはない。だから、次第に、そう呼ばれることは少なくなった。
 それでも、どこにでも必ず馬鹿はいる。成長しない人間だ。
(「あいつさぁ、化け物、って呼ばれてたんだぜ。子どもの頃」)
(「なんか、姉ちゃんの頭がおかしくてさ。それで、苛めたりすると、変なことが起こるんだ」)
(「化け物なのかもな、実際。あいつの家の近くまで行くの、肝試しっつってさ、流行ったんだよな」)
 中学に入ってまで、そんなことを言う人間がいた。まだその話を知らないものを相手に、そんなことを言うのは果たして楽しいのだろうか。聞く方も、楽しいとは思えないが。それでも、得意そうに、そんな話をするものは、まだいた。
(「……やめろよ、そういうの」)
 何を言われても平気だった。だから、その時も、聞き流していた。帰り道かなにかだったと思う。通りがかりに聞いた会話の一部だ。
(「おれのおばあちゃんが、いつも言ってる。ひとを悪く言うのは、心を汚すって」)
 しかし、そんな風に、言い返しているのが聞こえてしまい、足が止まった。言った相手を、そっと伺う。立派なことを言っているわりには、本人にはその言葉に実感がなさそうだった。ぼんやりとした、あまり存在感のない生徒。顔を見たことがあるかどうかすらも分からかった。
(「別にいいんだよ、あんな奴。なに言われたって、傷ついたりしねぇよ」)
 楽しい悪口に水を差されて、面白くなかったのだろう。つまらなさそうにそう反論された、そのぼんやりしたその生徒は、更につまらなさそうに、素っ気なく会話を打ち切ってしまった。
(「……そんなことを言われて、まったく傷つかないやつなんて、いないだろ」)
 すぐ傍で本人が聞いていたのにもかかわらず、そんな会話がされたのは、その日が雨の日で、未月は傘を差していたからだ。だから、顔を隠すことが出来た。
 友達はいなかった。ひとりでいるほうが気が楽で、そんなものを作るつもりにもならなかった。
 ひとりで、雨の中を、家まで歩いて帰った。言われた言葉を、ずっと、思い出していた。
 傘をくるくると回した。ひとつのことをずっと考えていると、思い出さないでいいことまでも、浮かび上がってきた。
(「いいですか、覚えておきなさい、ぜったいに、」)
 自分は生まれたときから、人殺しだ。決して許されてはいない、それを定められた、殺人者だ。
(「ぜったいに、ひとを傷つけるのは、いけないことですよ!」)
 ひとを傷つけるために生まれた、化け物だ。
(「……やめろよ、そういうの」)
 その日、途中で傘を差すのをやめた。ずぶ濡れになって、家まで帰った。
(「……そんなことを言われて、まったく傷つかないやつなんて、いないだろ」)
 そうしないと、ぐしゃぐしゃに崩れた顔を隠せなかった。みっともない、そんな弱い自分に、誰にも、気付かれたくなかった。
 雨の降る暗い庭で、足を止める。顔を上げると、頬に、水滴がいくつもいくつも続けて落ちてきた。
「……どうして」
 呟きが漏れる。誰にも聞かせるつもりはない、ただの、独り言だった。
「どうして、あいつなんだ……」
 それが、捧のことなのか、それとも、彼がじっと腕に抱いていたもののことなのかは、未月自身にも分からなかった。
 重たい足を引きずって、母屋へ向かう道へ戻る。こんな姿を、知られたくなかった。
 人を殺す定めと、それによって生き延び、繁栄してきた、この呪われた一族。
 牧丘コウにだけは、自分がほんとうの化け物であることを、知られたくなかった。



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