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あの薔薇を砕け
第二話「誰にも届かない心の話」

 また今日も、騒いでいる。
 隣の部屋と、この部屋を隔てる壁が薄いと思ったことはない。音楽を流していても、電話で誰かと会話をしていても、余程の大音量でない限り、音を伝えてしまうことはない。なのに、耳を塞ぎたくなるようなわめき声が聞こえてくる。それはつまり、必要以上に大きな音を立てているからだ。
 聞こえるのは弟の声と、何かを投げつけたらしい鈍い音だけだ。けれどもきっと、隣の部屋には両親のどちらかもいるはずだ。 
 うるさい、と怒鳴っているらしい声に、心の中で、うるさいのはどっちだ、と反論して立ち上がる。止めに行かなければならない。そうでもしないと、ずっと、終わらない。いつだってそうだ。弟はいつまでも自分のことを大声でわめき続けるだけだし、母親はそれを受けて泣くだけだし、父親ならば更に大声で怒鳴り返すだけだ。出来ることならあの間には入りたくはないけれど、そうしないと、いつまでたっても、隣の部屋でそれを聞き続けなくてはならない。……ああそういえば、夜に、電話をすると言われていたな。
 それまでには、部屋が静かになっているといいのだけれど。

「昨日、どうした?」
「ごめん。ちょっと、出られなかった」
 次の日の朝、そう聞かれた。
 昨夜は結局、そのあとずっと、自分の部屋に戻れなかった。怒鳴る弟を押さえつけ、言葉も出せずに座り込んで泣く母親を居間まで連れて行って、その後はずっと、そこで母の話を聞いていた。疲れた、と言い残して母親が眠るのを見届けてから部屋に戻ると、もう深夜と言っていい時間になっていた。携帯電話には着信があったことを告げる表示が出ていたけれど、そんな時間になってから掛け直す訳にもいかなくて、どうにも出来なかった。
 別にどうということのない一日だった。いつもどおりのことがあって、それにいつもどおりに対応しただけだ。だから、悔しい悔しいと泣いていた母親とも違って、少しも疲れてなんていないし、腹が立つとわめきたてながら目覚まし時計を投げつけてきた弟とも違い、少しも苛立つことなんてなかった。
 ただ、電話に出られなかったことだけが、少し残念だった。
「いいよ。別に、大した話があったわけじゃないし。……おまえが忙しいことは知ってるし」
「別に、忙しいわけじゃ」
 彼には家のことを、何も話していない。話したところで楽しいものではないし、男子高校生なんて、そもそもそんなものだろう。けれど、電話に出られなかったり、休みの日に遊びに誘われたりして、その度に家のことが気になってしまい、相手になれなかったことが多々あった。理由を深く説明しないままに断ったりしているうちに、いつの間にか、彼の中では、そんな風になってしまったらしい。何に忙しいのだと思われているのかは、聞いたことがないので分からないが。
「なぁ、今度の日曜、海行こうぜ」
「海? なんで、この寒い時期に」
「や、なんとなく。たまにはいいかなって」
「いいことなんてないよ。この大事な時期に風邪引いたら大変だろ」
 顔を背けながら、早口でそう返した。出来るだけ、冷たい意地悪な声に聞こえるように気を付けた。その温度で、彼が傷つけばいいと思ったからだ。そうして、呆れればいいと思った。もう、何度もこんな態度を取っている。そうしていればいずれ、きっと望むように、こちらを見放してくれるのではないかと試し続けている。
「そうだな。おれはいいけど、おまえはこれからだもんな、受験」
 けれども、逆に、ごめんな、と謝られるだけだった。
 お人好しにもほどがある。

 弟は夜行性だ。
 昼間は多分、寝ている。その分、夜通し隣の部屋には電気が点いたままで、朝、こちらが学校に行く時も明るい。そんなに広くないあの部屋で、一体毎日何をして過ごしているのだろうとは思うが、特に気になるわけではなかった。出てこないのだから、それで世界が事足りるのだろう。羨ましくはない。弟がどんなつもりでいるか、なんて、全く、興味が持てないだけだ。
 こちらがそんな気持ちでいることを、母親や父親は気付かない。けれども弟だけは、見抜いている。他人から向けられる悪意や無関心には、どういうわけかひどく敏感なのだろう。
 その日の夜も、机に向かって参考書を広げていると、また隣の部屋でいつもの騒ぎが始まった。聞こえるのは母の声だ。近頃、父は帰りが遅くなった気がする。仕事が忙しいのか、それとも、あまり、家にいたくないのかは分からない。代わりに、母親は弟の話をこちらに向けてくる。話といっても、どうしてこんなことになってしまったのか、を繰り返すだけだ。あとは涙。帰宅時間を遅らせているのが父の意思によるものなら、その気持ちも理解できる。静かに黙って聞いて、相槌を打って、そんなことないよ、だいじょうぶだよ、と言葉を返すのは、少し辛い。
 参考書を閉じて、部屋を出る。隣の部屋の扉を開けた途端、何かが飛んできて、額にぶつかった。固くて、それなりに重いもの。骨にぶつかる音をたてて、それは足下に転がった。思いっきり投げつけられたらしいそれは、弟の目覚まし時計だった。殴られたような衝撃に、思わず額に手を当ててうつむく。床に座り込んでいた母親と、目が合った。痛みのせいで少しかすんだ視界の中でも、その目に涙が浮かんでいることは分かった。
「ものを投げるな」
 そう言っても、弟はこちらの方を見ようともしなかった。あらゆるものが雑多に転がった汚い部屋の中で、まるで王様かなにかのように堂々と立ち、こちらと母親とを睨み付けてくる。
 投げつけられた目覚まし時計を拾い上げる。ぶつかったせいだろう、電池が半分外れそうになっているのを戻していると、もう一度、今度はまた違うものが投げられた。右の肩にぶつかったが、時計とは違って薄い漫画本だったので、それほど衝撃はなかった。
「出て行けよ。うるせぇんだよ、毎日毎日、同じことばっかり言いやがって」
 弟のその言葉に、母親が何か反論しかけて、それでも何も言わないまま、ふらりと立ち上がって部屋を出て行った。あの人も、最近めっきり痩せた。もともとそれほどふくよかなわけではないけれど、頬がこけてきた。よく眠れないのだとも言っていた。……これは父親にも相談しなくてはいけない。
 母親が部屋を出て行くと、弟は得意気に鼻を鳴らした。思うとおりになって嬉しいのだろうか。ほんとうにこいつは何を考えているのか分からない。呆れたような気持ちでその顔を見ていると、また、本を投げられた。
「おまえも出て行けよ、このヒマ人」
「暇じゃない。一応、受験生だ」
「はいはい、ご立派ですよねー。どうせおまえのことだから、受験なんて楽にクリアするんだろ。何でもないことみたいに、平気な顔してさ。おまえは昔っからお勉強もできて、お袋にも親父にもたくさん褒められてたもんな。おれとは違うもんな」
「そういうことが言いたいんじゃない」
「うるせえな!」
 弟は会話を打ち切りたくなると、すぐにそう怒鳴る。そして同時に、手元にあるものをこちらに投げつけてくるのだ。決して殴りかかってきたりはしない。真っ向に、こちらの言葉に対して反論してこないのと同様に。
 そして、次に続くのも、いつも同じ喚きだ。
「おまえなんかに、おれの気持ちが分かるはずないだろ!」
 答える代わりに、さっき拾い上げた目覚まし時計を、また床の上に置いた。部屋を出た母親の所に行かなければ、と思い、弟に背を向ける。きっとまた、あの得意そうな顔をするのだろう。
 おれの気持ちなんて分かるはずないだろ、なんて。決まってるじゃないか。
 そうだよ。
 おまえの気持ちなんて、わかるわけがない。

「お、どうしたんだ、それ」
「……ああ。ちょっと、ぶつけて」
「どこにぶつかったんだよ、危なっかしいやつだなぁ」
 顔を合わせるとすぐに、彼は額に出来た傷に気が付いたようだった。記憶力がいいというのか、マメというのか。きっと付き合う女の子が少しでも髪型を変えたら、すぐにそれに気付いて褒めてやれる男だろうと思う。そんな相手はどうもいないようなので、勿体ない限りだ。
「見せてみろよ。ちゃんと冷やしたか?」
「してない。大丈夫だよ、このくらい」
 いつものことだし、と言いかけて、口をつぐんだ。あぶない。ついうっかり、卑屈になってしまうところだった。こんな傷、たいしたことはない。それでも、あまり見られたくなくて、机の上に広げた参考書に視線を落とすふりをして、彼から目を逸らした。
 前の席に座る彼は、しばらく黙ったあと、やがて静かに口を開いた。 
「なぁ」
 その声が、いつもより低くて、けれどもいつもよりも少しだけ優しかった。
「あんまり、無理するなよ」
 危険な言葉だと、瞬間、そう思った。胸が詰まりそうになって、その言葉が胸に沁みて、余計なことを口にしてしまう前に、咄嗟に素っ気ない言葉を返す。
「いまの時期に無理しなきゃ、受験生として駄目だろ」
「そうだけどさ」
 彼は大学を受験しない。卒業したら家を出て、夏が終わる頃に内定を取った会社で働く。ほとんどの生徒が大学に進学するこの学校では、珍しい進路だった。それでも、彼は自分で、その道を選んだ。いろいろと家庭の事情があるのかもしれないけれど、その辺りのことは詳しく聞いてはいない。彼が話さないからだ。
 時折、特にはっきりとした目的もないまま、ただそうするものだから、と大学に進もうとする自分が、考えなしに思えてしまう。それでも、最近では、試験や模試というものが、一種の救いのように感じられてきた。勉強はいい。やればやるだけ、その結果が出る。点数や、順位になって、自分のしてきたことが、数字になって表れる。こんなことを考える自分はひどく根暗だ。実際に、クラスメイトの大半からはそう思われているのだろうけれど。
 だって、他になにもできないのだから、しかたないではないか。
「でもやっぱり、無理は、しないほうがいいと思う」
 彼には家のことや、根暗な自分のことは一切話していない。
 それでも、そんな風に言わせてしまうということは、やはり、自分から弱さが滲み出てしまっているのだろうか。
「うるさいな」
 だから、素直に受け入れられなかった。そんなみっともない自分が恥ずかしくもあったし、それに、一度それを認めてしまえば、もう駄目になってしまう気がしたからだ。一度甘えてしまえば、きっともう、戻れなくなってしまう。そうなってしまってはいけない。決して、そうなっては、駄目だ。
「きみには関係のないことだろう」
 そう言い放った自分の言葉が、いつも壁越しに怒鳴る弟の言い方に、よく似ていた。

 その日も弟は荒れた。母を泣かせて、散々自分も泣きながら喚いて、そんなことをして居心地が悪くなるのは自分自身だろうのに、椅子を持ちあげて振り回して、部屋の窓硝子を割った。
 母を居間で休ませて、あとで話を聞く約束をしてから、割れた硝子を片づけに弟の部屋に戻った。破片を拾い上げて新聞紙にくるんでいるうちに、ついうっかり指先を傷つけてしまった。右手の薬指だったので、ああ、勉強するのに少し困るな、とぼんやり思いながら、それでも黙々と硝子を拾い続けた。傷つけた指から血が流れて、床にいくつか小さな赤い染みを作ってしまったので、新聞紙を千切ってそれで綺麗にしようとした。それでもなかなか染みは消えない。減らずに、増えていくばかりだった。どうしてだろうと思いながらも、その作業を黙々と続けた。
「おまえ、気持ち悪いよ」
 そんな姿を見て、それまでベッドの上に寝転がっていた弟が、ぼそりと呟くように言ってきた。
「何考えてんのか、全然分かんねぇし。……気持ち悪い」
 弟の声が、どこか哀れむような調子を含んでいて、それが何だか、おかしかった。
 染みが減らないのは、拭いても拭いても、後から流れる血がまた新しく汚れを作ってしまうからだ。唐突にそのことに気付き、自分の馬鹿さに笑いがこみ上げてきて、たまらなくなって声を上げて笑った。
 不気味なものを見るように、弟がこちらを見てくる視線が、少し気持ちが良かった。気持ち悪い、ともう一度繰り返す弟に、ああきっと彼も自分のことをあんな目で見てくる日が来るのかもしれない、と思った。彼は優しい。だからきっといつか、こんな自分の姿を、見せてしまうかもしれない。
 そうなるのが、なによりも、嫌だと思う。

「なぁ、……卒業したらさ」
 いつも言葉に迷いのない彼が、その日は珍しく口ごもっていた。何を言おうとしているのだろう、と珍しく思い、じっと見てしまった。彼も、言いにくそうに視線をあちこちさまよわせながら、やがて、ふと目を止める。その先に、適当に巻いてきた、薬指の絆創膏があった。消毒も止血もせずに、ただ傷をそのままにして人前に晒すのはあまり良いことではないかなと思い、ほんとうにただ巻いただけの絆創膏だ。だから、少し赤い血が滲んでいた。後で取り替えなければ、と思っていると、彼は心を決めたように、口を開いた。
「卒業したら、おれと一緒に暮らさないか」
「……なんで?」
「え、いや、その」
 冷静に聞き返すと、彼は困ったらしい様子で、また言葉に詰まってしまった。気のせいだろうか、かすかに耳が赤くなっているように見える。微笑みの形に綻びかけた口元を、慌てて引き締める。嬉しいと、思ってしまった。
「駄目だよ」
 けれども、そうなってしまったら、ほんとうにおしまいだ。
「なんでだよ」
 不満そうに、彼は口を尖らせた。もしかして、断られるとは思っていなかったのだろうか。そういえば、やたらとこれまでも、卒業したら住みたいところや、置きたい家具などの話をされた。それを話している間、ずっと彼の頭の中では、自分も一緒にいることになっていたのだろうか。勝手に決めるなよと内心で苦笑しつつ、彼らしくて、とてもいいと思った。
 彼のことが好きだ。それがどんな意味のある気持ちなのか、もう随分と前から薄々と勘づいていた。もしかしたら、彼もそんな風に感じているのかもしれないと、自惚れるようなこともあった。それは最後の砦のような気がしていた。そこに足を踏み入れてしまえば、もう、後には行くところがない。もし、それを無くしてしまったら。
 どこにも、逃げる場所が、無くなってしまう。
「おれはきっと、きみを置いていってしまうから」
 そう言って笑うと、彼はぽかんとした顔をした。呆れられたのだと思った。失敗した、と思うと同時に、これでいいのだとも思った。
 絆創膏の下で、傷が疼く。その時になって初めて、それをひどく痛いと感じた。

 夜は眠れない。
 最近では母は、以前よりも、少し調子は良さそうに見える。あまり思い詰めないことが重要だと気付いたのだろうか。これまで毎晩のように叱っていた声も、あまり聞こえてこなくなった。その代わり、外出したり、自分の好きなことをするようになった。
 叱るものがいなくなったので、弟も静かになった。ひとりで暴れたりはしない。ただ黙々と、弟もまた自分の好きなことをして過ごしているのだろう。部屋を隔てる壁の向こうからは、かすかに物音が聞こえてくる程度だ。
 静かな部屋の中で、他にすることも思いつかず、毎日机に向かう。
 母親は受験のことについては何も言わない。信頼されているのか、どうでもいいと思われているのか、どちらかは分からない。父親にしても、あまり変わりはないだろう。模試の結果を見せると、一応褒め言葉らしきものを貰える。ほんとうにおまえはいい子だと、そう言って貰える。昔からおまえはほんとうにいい子だったと。そんな風に言われて、嬉しかったような記憶が残っている。覚えていないけれど、その時の自分は、確かに嬉しかったのだろうと思う。 
 ……こうしていることは、決して無駄なことではない。
 だから、それでいいんだ。ずっと、このままでいい。これで、良かったのだ。心の中で繰り返す。
 今、弟があの時と同じ言葉を言ってくれればいい。何を考えているのか分からないと、今そう言ってきたのなら、心の中を簡単にさらけ出して説明してやれるのに。それなのに、弟は最近、ひどく大人しい。それに合わせるかのように、母親もあまり、愚痴を言ってきたり泣いたりしなくなった。父親も早く家に帰ってくるようになった。
  彼はあの日以来、電話を掛けてこなくなった。丁度、月が変わって席替えをしたものだから、それまで前後だった席も離れてしまった。言葉を交わすことはあったが、それでも、ただ、それだけだった。
 やっと、望んでいた通りになった。
 そこに行き着きたくてたまらないのに、けれども実際に伸ばした指先が届きそうになると、思った以上にはっきりとした手触りに怯えてしまう。それを知ったら、二度と戻れなくなりそうな何かが、その先にはある。
 ……そんなことばかりを考えてしまうから、夜は眠れない。

 寝不足は着実に溜まっていく一方だった。そして何日目かで、頭が、正しく働かなくなった。
 テキストに並ぶ数式を眺めても、まるで数字が突然読めなくなったように、何も頭に入ってこない。英文を訳しようと思っても、単語の意味ひとつひとつは分かるのに、それらをまとめ上げて、ひとつの文章にすることが出来ない。ものごとを覚えようとして、たとえば歴史の年号を口に出して何十回も呟いたのに、暗記することが出来ない。
 それまでざわめいていて、賑やかだった昼休みの教室の中が、急に静まりかえって、音が全部消えた。目の前が真っ白になって、そのうちだんだんと黒く滲んで、何も見えなくなった。
 誰かが呼んでいる声だけが、どこか遠いところから響くように、頭の中をこだましていた。

「いくら受験前だからって、ちゃんと寝ないと駄目だろ」
 気が付くと、保健室のベッドの上だった。聞き覚えのある声が自分を叱っていると思ったら、すぐ傍に、彼がいた。何が起こったのかよく分からなくて、寝転がったまま彼を見ると、教室で倒れたからここまで運んでくれたのだと説明してくれた。ありがとうと言うと、彼は少し、気まずそうに笑うだけだった。
 頭がまだ重かったけれど、さっきまでの気持ち悪さは、軽くなっていた。なんだ寝不足だっただけか、と、自分の大袈裟さに少し呆れる。
「ありがとう、ごめん、迷惑かけて。もう平気だから、」
「なぁ」
 だから先に戻っていてくれればいいよ、と言おうとした。これ以上一緒にいたら、この間の話のことについて、何か言われてしまうかもしれないと思ったからだ。
 それなのに、彼は妙に改まった調子で、こちらの言葉を遮ってきた。
「なんでも、知りたいことを教えてくれる薔薇って、知ってるか?」
 突然なにを言い出すのだろう、と思いながらも、それに頷く。よくある、噂話のひとつだ。どこから発祥したのかは分からないけれど、少し前に、聞いたことがある。そういうサイトがあって、選ばれた人だけが、その薔薇に答えを貰えるのだとか。馬鹿馬鹿しいと思って、サイトを見にいったことはなかった。
 しかし、どうして彼は、そんなことを急に口にしたのだろう。不思議に思って、じっと横になったまま見上げた。
「おれはさ。……おれはさ、ずっと、おまえの考えてることが、分からなくて」
 生真面目な声だった。背筋をぴんと伸ばして、まるで語る言葉に欠片も嘘はないのだと言いたげな姿勢で、彼は続けた。弟が言っていたことと同じだということには、気付いたが何も思わなかった。そんな風に言われるのが嫌だと思っていた自分が不思議に思える程だった。
「ずっと分からなくて、すごく知りたくて、でもおまえは、そういうのが、すごく嫌なんだろうと思ったから、聞かなかった。だけどおまえが、ひとりで何でも抱え込んで、それでそのまま沈もうとしてるみたいに見えたから。……どうしても、放っておけないと思って、だからおれは」
 彼が何を言おうとしているのか分からなくて、ただ話を聞くばかりでいた。薔薇の話がほんとうなのかどうかは、この際どうでもいいと思っていた。
 けれども、彼が次に言ったことに、思わず、心臓が跳ねた。
「おれはその薔薇に、おまえがどんな世界を見ているのか、それを教えてもらおうと思ったんだ」
 一瞬、何を言っているのか分からなくて、そして次第に、噂で聞いていたことが思い出されてきた。なんでも、知りたいことを、見たいものを、見せてくれる薔薇。一生に一度だけ、ただひとつの例外をのぞいて、どんな問いかけにも答えをくれる薔薇。それが、人の心でさえも、見せてくれるというのだとしたら。
 悲鳴を上げそうになった。彼に、そんなものを、見せたくなかった。嫌われても、関心を持たれなくなってもいい。だけど、そんな醜いものだけは、見て欲しくなかった。
「……でも、やめた」
 こちらの表情に気付いたのだろうか。彼は安心させるように首を振って、そして続けた。
「やめた。駄目だと思った。そんなのは違う気がして。おれが勝手に、おまえの心の中を覗き見して、それで、何かを分かったような気になるのは、間違いなんだ。そんなことしたって、何も変わらない。それで、違う質問にした。薔薇の持ち主には、最初に言ってたのと違うなんてって散々文句を言われたけど、でも」
「何を、聞いたんだ」
 思わず、身構える。けれども彼の答えは、拍子抜けするようなものだった。
「『あいつがいちばん好きな食べものは何か』」
「……は?」
「で、それで、答えを見せてもらったから、これ」
 言いながら彼は、足下に置いていた小さな紙袋の中から、何かを取りだした。銀色の輝きが、蛍光灯の光を受けてかすかにきらめく。背の低い円形の入れ物と、小さな銀色のスプーンがひとつずつだった。小さな円を底にしたその入れ物を、どうぞ食べてくれ、と言い添えて彼が差し出す。透明なラップがかけられているその中身は、淡い黄色をした、固そうにも柔らかな弾力に富んでいそうにも見えた。どうしてこんなことになったのか、よく理解出来ていないままに、渡された通りにスプーンも受け取り、ラップを剥がす。
 その途端、甘い匂いがした。
「それ、おれが作ったんだ」
「きみが? ……ねぇこれ、プリンだよね」
「そうだよ」
「よくそんなもの、作れたね」
「違うよ。なんか凄い便利なやつが売ってるんだよ。簡単に作れるんだ。卵と牛乳混ぜて固めるだけの、プリンの素ってのがあるんだよ」
「……そう、なんだ」
 スプーンで一口ぶん、すくってみる。市販されているプリンでさえ、最近では食べなくなっていた。……言われてみるまで、忘れていた。子どもの頃、確かに、これが大好きだった。それも、売っているやつではなくて、母親が作ってくれたものだ。
「馬鹿だな。あの質問って、一生にたったひとつしかできないって話だろ」
 甘い匂い。口に含むと、少しだけ粉っぽい舌触りがした。十分に混ぜなかったのかもしれない。ざらざらするプリンを呑み込む。つるりと喉を滑り落ちたのに、何故だか胸が詰まった。
 懐かしいと思った。確かに、これと同じ味だった。なんだ。ずっと手作りだと思っていたのに。こんなに作るのが難しそうなものを、自分のために母親が作ってくれたのだと、すごく喜んでいたのに。自分にとって大切なものは、あの場所だけだと思ってきたのに。それを、簡単に作れるだなんて、一言で纏めやがって。
「それなのに、そんなこと、わざわざ聞くなんて」
 小さな頃から弟は癇癪持ちで、気に入らないことがあると泣きわめき、暴れた。寂しがり屋で、常に誰かに構ってもらえないといられないから、人の注目を集めようとする。けれどもそうやって甘えた後に見せる笑顔が、とても愛らしかった。今では、それは面影も残っていないけれども。……もしかしたら、両親にとっては、今でも、変わらないものに映っているのかもしれない。
 弟がそうだったから、なのかどうかは分からないが、兄である自分は、子どもの頃からやはり、こんな性質だった。甘えん坊の弟と、手のかからないいい子の兄。周囲が、そうやっていい子だと褒めてくれるたび、そんな自分を誇らしく思ってきた。そんないい子な自分を、きっと両親も好きでいてくれると信じていた。ずっと、長いあいだ。
 何のことはない。いつからか、母も父も自分のことを褒めてくれなくなった。両親は弟ばかりを見ている。ほんとうはずっと、気付いていた。誰も自分のことを見ていないと、ずっと前から分かっていた。
 だから何を言っても、どんな言葉を並べてもそれは素通りされるばかりで、何をしようと、気にも留めてもらえない。
 それを、この彼は、足を止めて、耳を傾けてくれた。
 好きになってもらいたがっていたはずなのに、それを積極的に示されると、怖くなった。自分が手にしたことのないものを与えてもらうようで、それに何をどう返せばいいのか分からなかった。返せるものを自分が持っているのかどうかも、分からなかった。
 だからそれまでと同じように、小さな頃からずっとそこにいた、小さな枠の中に止まり続けた。学校に行かず、暴れてばかりいる弟と、それに手を焼き、困っている両親。その間に立って、いい兄であり続けること。だけど違った。ほんとうは、最初からそんなもの、必要ではなかったのだ、きっと。どこにでも見つかる、誰にでも作れる、簡単なもののひとつに過ぎないのかもしれない。
 家を出よう。
 一緒に来いと手を伸ばしてくれる人を選んで、そこを、出てしまおう。
「……なぁ、もう一回、言うけど、」
 銀色の入れ物の底がすべて見えるようになると、コアラの絵が浮き彫りになっているのが分かった。きっとプリンの素を流し込んで、それで入れ物に入れたままではなく、皿などにひっくり返して食べると、天辺にこの絵が模様になって出てくるのだろう。今度は、そうやって食べてみたいと思った。
 すごく美味しかった。 
「卒業したら、一緒に暮らそう、な」
 顔を上げると、彼はそう言ってこちらを見ていた。少しだけ照れ臭そうに一度笑って、答えを待っていた。
 眼の縁に滲んだ涙を拭う。 

 今度は、しっかりと頷いて、それに応えた。


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