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暁の星



 芝山実波の部屋は、青春の墓場だとつくづく思う。

 ぼく自身の部屋に、あまりにも物が少ないせいでそう思えるのだろうかと考えていたこともあった。だけど、一度、用事があって一緒にこの部屋を訪れた純太も、ぼくと似たような感想を漏らしていたから、きっと誰の目に見てもそうなのだろう。
 実波の部屋は床が見えない。いつ行っても、何か、いろんな物がその辺りに転がっている。それがいつも同じものではなくて、時々入れ替わっているので、いろいろとこの部屋の中での地殻変動が起こっているのだろう。
 以前、テレビで『片づけられない人々』という特集をやっていたのを一緒に見ていて、あれは実波と同じだと言ったら、そんなことはないと反論された。自覚はないらしい。
 雑誌と教科書が一緒になって雪崩れを起こしている本の山を避けて、点々模様のように時折見えているカーペットの色を頼りに、転がっているものを踏まないようにして、安全地帯を目指す。
 この部屋の中で唯一、物の散らかっていない場所はベッドの上しかない。その安全地帯に乗り上げて、部屋の主に言われた通り、大人しく、彼を待つことにする。
 床に倒れていたギターを拾い上げて、寝転がしたまま、琴のように爪で弦を弾いていると、扉が小さくノックされた。
 はい、と声に出して返事をしようとしたけれど、しばらくずっと黙っていたせいか、うまく言えなかった。それでも、ノックの主は静かに扉を開けて、同じようにそっと、顔をのぞかせた。
「ああやっぱり、春日くんだったのね。実波はどうしたの?」
「ちょっと、買いものに、いきました」
 入ってきたのは、実波のお姉さんの、民子さんだった。この家に遊びに来るようになってから、何度か顔を合わせて、話をすることも多い。
 けれども、実波を抜きに、ふたりだけで、という時は、あまり無かった。
「そう」
 なにか、実波に用事でもあったのだろうか。
 民子さんはお医者さんで、毎日とても忙しいらしい。あまり、家にいる時間もないようだった。そういうところは、ぼくの母さんと少し似ている。
 民子さんは部屋に入ろうか、それとも入らずに戻ろうか、しばらく、迷っていたようだった。それでも、やがてなにかを決心したように一度小さく頷いて、開けたドアを静かに閉める。ぼくと同じように、床に転がるものを踏まないように注意しながら、ぼくと隣り合わせになるようにベッドに座った。
「変な子ね。春日くんを置いて、ひとりで行っちゃうなんて」
 ごめんね、と、民子さんがそんな風に言うので、ぼくは首を振った。
「なにを買いに行ったの?」
「そば、です」
「蕎麦?」
「そうです」
「どうして、急に蕎麦なの」
「それは、ぼくが、引っ越したから」
 だと思う、たぶん。さっき、夕飯はここで食べて行けよ、とそういう話をしていて、それで急に、そうだ引っ越し蕎麦だ、と突然思い立って、買い物に出かけてしまった。
 どうして急にそういう発想になったのかは、ぼくも分からない。だいたいぼくの引っ越し自体は、もう一週間前に終わっていて、ちゃんとその時、実波も手伝ってくれたのに。確かに蕎麦はまだ食べていないけれど。
「……変な子ね」
 ぼくが説明をすると、民子さんは笑った。
 この人は笑っていても、どこか寂しそうに見える人だった。とても綺麗な人なのだけれど、実波にはあまり似ていない。けれど、その笑い方は、実波と同じだった。
 長くてまっすぐな髪の毛や、近くに寄るとふわりと漂う甘い香水の香りが、あまりにぼくが思い描いている通りの『お姉さん』なので、ふたりきりになると少し落ち着かない。……ぼくは女の人がちょっと苦手なのもあるし、それ以上に、民子さんがお医者さんだからだ。
 ぼくは小さい頃から、たぶん他の子どもよりもよく医者の世話になってきた。怪我を診てもらったことも多いし、病気を診てもらったことも多いし、何より、心を診てもらったことが多かった。そしてその、心を診てくれたお医者さんに、あまりいい思い出がなかった。
 小さい頃のことなので、はっきりと具体的にいろいろ覚えているわけではないけれど、お医者さんというのは怖いものだというイメージがすっかり染みついてしまっているので、きっと、そういう思いをしたのだろう。
 民子さんは心のお医者さんではなくて、身体の怪我を診る方のお医者さんらしいけれど、それでも、つい、身構えてしまうなにかがあった。
「ねえ、春日くん。実波は、新しい学校ではうまくやれている?」
 ふいに、独り言のように、そんな風に尋ねられた。
 世間話のように、さり気なく聞かれたのではなくて、ずっと気になっていたことを思い切って尋ねたような、そんな、さりげなさを装った質問のように感じられた。
 民子さんと実波は、とても仲が良い。だから、いろいろあった弟のことが心配なのだろう。
 自然とそう思えたので、正直に、はい、と頷いて答える。
「うまく、やってると、おもいます」
 あくまで、ぼくの目から見たら、の話だけれど。それでも、転入してきた当時の、どこか尖っていて人を寄せ付けなかった実波の雰囲気は、今はだいぶん和らいだと思う。喧嘩をしたり、先生に反抗したりすることもないし。
「……そう。それなら、いいんだけど」
 それでも、素直に思ったことを答えたぼくにも、民子さんはなぜか完全に納得した様子はなかった。
「春日くん、引っ越したの?」
 突然、話題を変えられる。
 実波の話ならば落ち着いて出来るけれど、ぼく自身のことを話すとなると、少し、言葉に詰まった。
 あまりよく知らないひとに話すこと自体苦手だけど、自分のことについて話すことは、もっと苦手だ。だから、声に出して返事をする代わりに、頷いてそれに答える。
「まだ、受験もこれからなのにね。大変ね、お母さんが再婚されるんでしょう」
 ぼくが民子さんに話した覚えのないことも、既に知っている。ということはつまり、実波が、お姉さんに話したのだろう。ぼくのことについて、実波はよく、民子さんにいろいろと話すようだった。
「いろいろと、辛いこともあるかもしれないけれど、あまり無理はしないでね。わたしたちでよければ、いつでも、力になるから」
「ありがとう、ございます」
 ほんとうならば、家を出てひとり暮らしを始めるのは、もう少し後の予定だった。高校を卒業して、大学に進学したタイミングで、だと思っていた。
 けれども、母さんが再婚して、新しい家庭を築くことになった。新しい旦那さんになる人も、母さんも、出て行くことはないと、何度も言ってはくれたけれど。……どうせ出る家なのだから、それが少し早くなるだけだ。父さんと離婚してからは、仕事ばかりしてきた母さんが幸せになろうとしているのに、邪魔になりたくなかった。
 それでも引っ越しが済んでしまうと、住み慣れた家を離れた寂しさと、ひとりきりの環境に、戸惑うことも少しだけあった。もともと、母さんはあまり家に帰らない人だったから、平気だと思っていたけれど、実際には、そういう問題ではないのだな、と、そんなことに気付いたりもした。
 ……そういえばさっき、蕎麦を買ってくると突然実波が言い出した時は、そんな話をしていたんだった。
「ねえ、春日くん。おかしなことを、聞くけれど」
 どこまで蕎麦を買いに行ったのかな、実波のことだからコンビニなのかな、と、そんなことを考えていると、ぼくの隣に座ったままの民子さんが、また、どこか思い詰めた様子で、口を開く。
 また、実波のことだろうか。そう思って、相手の顔を見上げる。実波が民子さんのことをとても信頼しているように、民子さんもまた、弟の実波のことで心配なことも多いのだろう。
 普段、面と向かって聞きにくいようなこともあるんだろうな、と、ひとりでそう納得した。それに実波が、この家まで連れてくるのはぼくぐらいらしいし、他に彼の様子を探れるような相手も機会も、なかなか無いのだろう。
 見上げた民子さんの目は、どこか、沈痛な、なにかを恐れるような、そんなものだった。
「実波のこと、ほんとうに、好き?」
 真顔でなにを聞かれるのかと覚悟していたけれど、実際に言葉にして聞かれたことは、想像以上に、深刻なものだった。
 思わず、とっさに頭が追いつかなくて、しばらく、固まる。表情も、きっとぽかんと口を開けたまま、しばらく硬直していたと思う。
 民子さんはぼくのその表情を見て、なにかを勝手に読み取ったらしかった。
「……もし、無理をしているようなら、正直に言ってほしいの。実波が、春日くんのことを、真面目に考えて、ちゃんと大事にしたいって思ってることは知ってるし、それを信じたい。……けれども、春日くんが、ほんとうに、心の底から、それを望んでいないのなら、……どこかで、実波に無理強いされてるような部分があるなら」
 口早に一気に言われて、しばらく、何を言われているのか、また、追いつけなくなった。
 なにか、おかしなことを言われている、と、そんな違和感だけが先に心に落ちてきて、それが気持ち悪かった。
「もしそうなら、遠慮しないで、わたしに言って欲しいの。実波のことが怖いなら、いくらでも、うまく誤魔化してあげるから。だって、実波は、」
 この人は、何を言っているのだろうと、不思議な気持ちで一杯だった。
 だって、そんな言葉は。
「……実波はあなたに、あんなことをした子だから」
 そんな言葉は、この人の口から出ていいものではない類のものなのに。


 予想通り、買ってきた蕎麦は、コンビニのものだった。
「ほんとは、ちゃんとした所から出前でも取るべきなんだろうけど。まぁ、いいよな、もう何日か経ってるし」
 月見ととろろのどちらがいいかと聞かれて、どちらでもよかったので、先に実波に選んでもらう。実波はしばらく悩んだあと、月見の方を選んだ。
 ベッドの上で食事を取るのは行儀が悪いと思ったけれど、今日は、ぼくがこの場所がいいと言い張った。実波は、ぼくのその提案に、珍しいな、と言いたげではあったけれど、反対はしなかった。
 ダイニングに行けば、今日は休みだと言っていた民子さんと、また顔を合わせることになるだろう。
 ……それを、嫌だと思ってしまった。
「ひとり暮らし、どうだ」
「……ちょっと、だけ、さみしい」
 声にしてそう答えて、その返事がひどく子どもじみている気がした。慌てて、でも平気だけど、と、付け加える。まるでそんな強がりはお見通しだとでも言いたげに、実波には軽く笑われてしまった。
 蕎麦を一本ずつ、少しずつ食べていると、実波がそんなぼくの様子を、じっと見ているのに気がついた。
「なに」
「……や、別に」
「こっちが良くなった?」
「違ぇよ、馬鹿、おれは蕎麦つったら月見なんだよ」
「なんで怒るの」
「怒ってねぇよ」
 変なの、と、そう呟いて、また一本ずつ蕎麦を食べる。ぼくはものを食べるのが下手なうえ、根性がないので、一度にたくさん口に入れることが出来ない。よく考えたら、麺類とはかなり相性が悪いかもしれない。だんだん増えるかな、増えたら実波にあげよう、と、そんな風に考えていた。
 顔を上げると、実波と目が合った。また、ぼくの方を見ていたらしい。
「そんなにほしいの、これ」
「違ぇって! いいだろ、別に、見てたって」
「だから、欲しいなら、あげるって」
「なんでおまえは、いつまでたってもそうなんだよ、ああもう」
 実波が割り箸を振り回して、ため息をつく。
「……可愛いんだよ、いちいち」
 聞こえるか聞こえないか、そんな、小さな声で、そう呟かれた。何のことかと尋ねかけて、その直前でやめる。どう返していいのか分からず、顔をそむけて蕎麦を食べ続けた。……実波は近頃、そういうことをよく言うようになった。嬉しくないわけではないけれど、言われると、どんな顔をしていいかよく分からないで困ってしまうような、そんな言葉ばかりだ。
 今更、そんなことを恥ずかしがるような関係ではないだろうと思わないでもないけれど、でも、これはどうしようもないと自分でも思う。きっと慣れることはないし、それと同時に、もう言わないでほしい、と思うことも、ないのだろう。そんな気がした。
 ……最も、実波に言わせると、ぼくも大概、とんでもないことを平気で言っているらしいのだけど、それは、自分では分からない。実波は大袈裟だ。
「ひとり暮らしすると、独り言が増えるって言うよな」
「うん」
「おまえでも、言うわけ。独り言」
「ううん、ぜんぜん」
「……だろうな」
「ずっと、だまってる。テレビも、つけないし、音楽もきかないから、すごく、しずか」
「寂しくねぇの?」
「実波が、電話、くれるから」
 だからだいじょうぶ、と笑うと、今度は実波が顔をそむけて、無言で蕎麦を食べ出した。
 それに幼馴染みの純太も三日に一度は顔を出すから、と心の中だけで付け加える。純太は心配性なので、ぼくが食事を取らずに倒れていないか、どこでも寝て風邪を引かないか、ちょくちょく様子を見に来てくれる。最近では、彼女の美由紀にまで「純太、お母さんみたい」と呆れられていた。
「だから、ぜんぜん、いやじゃないよ」
 静かな空気は、そこに響く声がよく聞こえるから。
 そんな思いで笑いかけると、実波はまた、ぼくの顔をじっと見て、そしてまた、すぐにそらした。


 新しく引っ越した部屋は、これまでの家と、実波の家の、ちょうど中間ぐらいの位置にある。学校にも駅にも少しだけ近くなって、これまでよりも買い物や通学には便利になった。これまで、家まで送ってくれるたびに「コンビニ行きたいから」と言って付いてきてくれた実波の言い訳も、「本屋に」や「牛丼食いに」という風に、いろいろ新しいバリエーションが生まれてきている。
 今日は、「ちょっと乾電池買いに」、ぼくの帰りに合わせて一緒に部屋を出た。
 民子さんには、帰り際に少しだけ顔を合わせて、挨拶をした。実波がぼくと一緒に外に出ることを告げると、気をつけてね、と、そのきれいな眉を少しだけ不安そうにひそめて、ちらりとぼくの方を見た。
「……みなみ、うち、よってく?」
 隣を歩きながら、そう声をかける。あー、と、肯定とも否定とも取れる変な返事をされた。
「宿題で、わからないところ、あったから、おしえて」
「おまえそれ、誰に頼んでんだよ。おれに聞いたって絶対無理だろ」
「そんなことない、いっしょに考えれば」
「無理だと思うぞ」
 真面目な顔でそう言われる。……ほんとうは、宿題なんて、口実みたいなものだった。けれど、これでは実波は帰ってしまいかねない。
「ほんとは、渡したいものが、ある」
「……渡したいもの?」
「だから、よかったら、寄って」
 ぼくが、おかしなことを言い出したと思ったのだろう。何を渡されるのか、と、不思議がっている様子で、それでも実波は、別にいいけどよ、と、頷いた。


「……何回見ても、殺風景な部屋なんだよな」
 ぼくの新しい部屋を見る度に、実波はそう言って呆れる。物が極端に無いと言いたいのだろう。確かに、ベッドしかない部屋だ。洋服や小物はクローゼットがあるからその中にしまえるし、テーブルになるようなものは持ってこなかったので、ない。ぼくは今、勉強をするときも、食事をするときも、床の上で済ませている。別にそれを不便だと思いはしないけれど、昨日、純太にその姿を目撃されてしまい、何やら複雑そうな顔をされた。きっと、テーブルは買うことになるだろう。
 座布団すらないので、実波は自然と、ぼくのベッドに座る。部屋に物がありすぎても無さすぎても、結局座る場所が寝るところしかないという共通点が、なんだかおかしかった。
 その隣に座ると、自然と、肩から力が抜けた。気を抜くとすぐに目蓋が閉じてしまいそうなほど、急激に、安堵感が満ちる。ここにいれば大丈夫だと、わけも知らず、そんな言葉が浮かぶ。
「寝るか」
「……だいじょうぶ、まだ」
 それでも頭を実波の肩に預ける。受け止められて、拒絶されない。とても、安心した。
「実波、これ、あげる」
 大丈夫とは言ったものの、このままでいたら、確実に心地よさのあまり、すぐに寝てしまいそうだった。その前に、渡してしまわなければならないものがある。
 ポケットの中に、今日一日、持ち歩いていたものを掴み、実波の方に差し出す。実波はそろそろと、どこか恐る恐るといった様子で手を出し、それを受け取った。
 そして、また、恐る恐る、ゆっくりと、受け取った手を開く。
「……鍵?」
 しばらく、それが何であるのか、分からなかったようだった。
 手のひらにあるものと、ぼくの顔を交互に見ながら、実波はもう一度繰り返す。
「鍵だよな」
「うん」
「……どこの鍵だ?」
「この部屋の」
「は? なんでそんなもん人にやるんだよ。おまえが出入り出来なくなるだろ」
「ばか」
 あまりに真面目な顔と声でそんなことを言うものだから、おかしくて笑ってしまった。まさか、そんな反応をされるとは思っていなかった。
「ぼくは、ちゃんと、じぶんのを持ってる。スペアの、鍵だよ」
「……合鍵?」
 信じられないものを見る目で、実波は手のひらの上の鍵をまじまじと見つめている。
 ほんとうは、渡そうかどうしようか、引っ越したその日から、ずっと迷っていた。
 鍵を渡すのが嫌だったわけではない。そうではなくて、実波にはちゃんと帰る家があって、そこに待っていてくれる家族もいて、そういう居場所がちゃんとあることを考えると、どうしても、気が引けてしまった。ちゃんと、帰りたい場所があって、その場所もまた、実波を待っていてくれるのならば、新しい鍵を渡すことは、とても差し出がましいような気がしていた。
 けれど、駄目だった。聞いてしまった。
(「……実波はあなたに、あんなことをした子だから」)
 誰よりも、実波のことを信じているのだと思っていた。
 誰よりも深く理解していて、それで、そばにいてあげることを選択したのだと、あの人のことを、そう思っていた。
 民子さんはすごく優しい人だ。すごく、いいお姉さんなのだと思う。だから、たぶん自分でも、そのことに気付いている。気付いているから、なおさら、隠さなければいけないと思ってしまって、余計に強く意識してしまう。
 あの人が心のどこかで、実波のことを怖がっていることに、気付いてしまった。
「……、おれに?」
 実波はまだ、手のひらをじっと見下ろして、なにを渡されたのか、よく理解出来ていないようだった。
 そうだよ、と、声にはせずに頷く。受け取ってほしい、と、その気持ちを伝えるために、その手のひらを取って、鍵を握らせる。いらないと言われても、受け取らせるつもりだった。
「だって、おまえ、……あいつに渡さなくていいのかよ」
「あいつって、だれ」
「なに怒ってんだ」
「おこってない」
「……川里だよ」
 また、そんなことを言う。実波は純太のことを面白く思っていない癖に、肝心なところで、何故だか、純太に譲ろうとする。
 それは、これまでにさんざん見せてきた、ぼくが純太に依存してきた姿のせいなのだということは分かっている。原因がぼくであることは分かっていても、今は、腹が立った。
「いいんだ」
 短く言い切って、鍵を握らせた手のひらを、ぐいぐいと押しつける。
「これは、みなみの、もの」
 実波は心から、民子さんのことを信じている。自分を受け入れてくれて、分かってくれていると思っている。それは実波が愚かだからじゃない。誰も、彼を責めることは許さない。
 民子さんはいいお姉さんだと思う。最初に顔を合わせたその時から、そんな風に思ってきた。
 けれど、あの人は、心のどこかで、実波のことを恐れている。恐れて、信じられないでいるのに、それを表面上には表さずに、完全に味方であるような、そんな振りをしている。
 それが実波を傷つけないために、いちばん良い方法だと思ってのことなのだろう。でも、だからこそ、許せなかった。
 信じなければと強く言い聞かせなければならないのは、どうしても、信じることが出来ないからだ。
「じぶんの、家だと、思ってくれて、いいから」
 そんな風に、奥深くでひそかに裏切られている実波のことを思うと、胸が詰まった。
「……だから」
 ぼくは実波のことなんて、少しも怖いと思わない。
 実波の言ったことは、全部信じている。
「だから、持っていて」
 ほんとうに大事だと、心の底から、その存在を望んでいる。
 言葉に出して伝える代わりに、この小さな鍵が、少しでも、その証明になればいいと思った。
「そんなこと、言っちまって、いいのか」
「……いいよ。だって、」
 その続きの言葉は、声にはしないで、そっと耳元で囁く。くすぐったそうに、実波が肩をすくめて、小さく笑った。返事の代わりに、背中に手を回されて、ぎゅうと抱き締められる。
「自分の家だと思っていいなら、まずはあれを買うぞ」
「なに?」
「テーブル」
 実波がそう言ったので、床にノートを広げて勉強をしているぼくを見ていた、純太の渋い顔を思い出してしまった。……なんだ、実波も、気になってたのか。おかしくて、声をたてて笑ってしまった。
 実波にはぼくがどうして笑ったのかは分からなかっただろうけれど、つられてだろうか、ぼくと同じように、笑う。
 そんなこと言ってもいいのか、なんて、そんなの、聞く必要はないんだ。どんな風に、言ってしまっても、いい。だって、


 だってきみとは、ずっと一緒にいたいと、そう思っているのだから。

 



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