鬼さんこちら |
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13 二階の、荷物を置いた、あの広くてきれいな部屋の扉を開ける。順は結局、ランプを見つけることが出来なかったのか、行きは巧介が振り回すように持っていた懐中電灯を、今度は彼が持っていた。雨がまだ降り続けているせいで薄暗い室内だったが、三階のあの暗さに比べれば、昼間と夜ほど違って感じた。 開けてもらった扉から、中に入る。ベッドに座ると、辰巳が、足の様子を見せてほしいと声をかけてくる。彼は荷物の中から、救急箱のようなものなのだろう、包帯や消毒液らしきものの入った小さな箱を取り出す。さすが医者の卵、と、その手際の良さに思わず感心する。擁なら、そんな物、準備をしておこうとも思わなかっただろう。 辰巳に言われる通り、靴を脱いで、ジーンズの裾も少しまくり上げて、足首を出す。 「とりあえず、冷やして固定しておこう。……ほんとうならこういうのは、順のほうが得意なんだろうけどな」 肉を持ってきていたクーラーボックスの中の氷で簡単な氷嚢を作って、それを包帯で足首に固定してくれる。氷の冷たさが、腫れてきているのだろう、熱を持った感のある足首に心地よかった。 「擁は、昔っから、怪我ばっかりしてたから。今、おれがマネやってるのって、その影響かもな」 辰巳はてきぱきと迷いのない手つきで包帯を巻いていく。隣でそれを見ていた順が、どこか、自嘲気味に笑った。 なんとなく、そそっかしい奴、と遠回しに言われたような気になり、擁は思わず口を尖らしてしまう。 「悪かったな」 「別に、そう言う意味じゃなくてさ。辰巳なら分かるかもしれないけど、なんか、そういうのって楽しいな、って、思うようになったんだよね。怪我の手当とかしてあげられると、人の役に立ってるって実感して、嬉しかったし」 照れたような言い方ではあったものの、それは非常に順らしい言葉だった。 順は高校二年の冬の、引退も近い頃に肘を痛めてしまい、しばらく病院に通わなければならない羽目になってしまった。治ることは治ったが、今後もテニスを続けていくようなら、再発の可能性もある、と医者に言われたと聞いた。だから、もういっそのこと、自分もテニスをすること自体はすっぱり止めてしまうのだと、擁はそんな風に彼に慰められたことがある。 あの夏の事件以来、人のいるところに行くのが怖くなり、学校に通うことも辛いと思いはじめた擁は、やる気がないのなら止めてもらっても構わない、と、当時所属していたテニス部の顧問に、そう言われ退部扱いにされてしまったのだ。厳しい顧問だったので、それも仕方ないとは思う。何しろ、擁の事件の話は夏休み中の出来事で、しかも笹村の家の力で、あまり外では広まっていなかったからだ。だから、突然部活に顔を出さなくなった擁のことを、顧問がそんな風に扱うのも、分からないではなかった。どちらにしても、テニスなんて、もう、したいとも思わなくなっていたし。 けれど、順はそうは思わなかったようだった。高校に入ってしばらくしてから仲良くなり、テニス部に入らないかと誘ってきたのも、順だ。テニスが好きで、それは擁も同じだと思っていたのだろう。だから、退部扱いになったことを知った時には、彼は擁以上に戸惑い、それを悲しんでくれた。順は、いい奴だ。 「出来た。これでいいだろう」 「ありがと」 包帯を巻き終えて、辰巳が顔を上げる。氷の溶けた水で冷やしたタオルを差し出して、それを頭に当てるように言われた。ぶつけたと、そう話したからだろう。 「大丈夫だよ、それは」 「念のため、だからね」 しかし医者の卵にそう言われてしまっては、逆らえない。大人しく、なんとなくこの辺りをぶつけてしまったかな、と思うところにタオルを当てて、目を閉じる。冷たくて、気持ちがよかった。 「擁、少し、休んだら?」 順に言われて、それに首を振る。色々なことがあって、すっかり疲れてしまった。それは他の三人だって同じだろう。けれど、あの事件以来、部屋に閉じこもっていることの多かった擁には、外に出るということだけで、多大なストレスになるのだと、順たち三人はそう思っている。それは間違いではない気もするが、実際のところ、大袈裟な、という気もする。自分の弱さや情けなさを、ストレスという単語に置き換えてしまっているようで、嫌だった。 「みんなも、疲れただろ。……順、明かりになるようなもの、何か、見つかった?」 「ううん。残念ながら。結局分かったことは、擁が心配してることはまずない、ってことぐらいかな」 「おれの、心配?」 「おれたち以外の、他の人間がここにいるかもってこと。さっきから、気にしてただろ」 順がそう言って、擁を安心させるように笑う。それは確かに、気に、していたことではあったが。 しかし、それは、つまり。他に、誰もいないということは。 顔が、青ざめる。考えたくないことに、急に、思い至ってしまった。 「……おい、なんだよ、これ」 その時、それまで黙って、部屋の隅で擁の手当される様を見ていた巧介が、そんな声を上げた。あまり聞くことのないような、驚きと、焦りが滲んだ声だった。 「……どうした?」 辰巳がすぐに聞き返す。何かを見つけたらしい巧介が手に持っているものを自分も見ようと、彼に近づく。ベッドの上に座っている擁と、擁のすぐ傍に立っている順からでは、こちらに背を向けている彼らの表情も、手にしているものも見えなかった。 「なに?」 擁がそう呟いても、順も、戸惑うように巧介と辰巳の方を見ているだけだった。やがて、立ちあがって、彼らに近づこうとする。と。 「来るな!」 巧介が鋭くそう怒鳴って、近づく順を止めた。 突然の大声に、擁は思わずびくりと肩を震わせる。ひどく強い制止の言葉だった。 「なんでだよ」 そう止められる理由が分からなくて、不思議そうに順が聞き返す。辰巳が良くて、順は駄目な理由というのが、擁にも分からなかった。 「順は見ないほうがいい。擁も」 「……おれも?」 辰巳が頷く。嫌な予感がした。辰巳がそう言うのなら、それは擁にとって、良いものではないらしい。 しかし順は、かえって辰巳のその言葉で、余計に彼らの持っているものが何なのか気になってしまったのだろう。ふたりの間に強引に割り込むように、巧介に近づく。 「馬鹿、見んなって……!」 慌てて、巧介が手にしているものを隠そうとする。けれど、それよりも、順がその手を掴んで、中のものを奪い取る方が早かった。 順らしくない、乱暴ですらある動作だった。 「……なんだよ、これ……」 その奪い取ったものを目にして、順が愕然とした声を上げる。擁も、ベッドから立ち上がり、彼に近づき、その手の中にあるものを見た。薄い、紙のようなものが、数枚。葉書のような大きさの、手のひらには少しあまるほどの大きさのものだ。 「だから、見んなって言っただろ」 「なんでだよ! こんなもの、どうして隠そうと……!」 「そんな風にぎゃあぎゃあ言われると思ったからだよ! おまえはそいつのことになると、ほんと、わけ分かんねぇくらい真剣になるから」 「そいつ?」 思わず、声を上げる。巧介はそう言うとき、今は順の手の中にあるものを見ていた。言われた順は、はっとなったように擁の方を見てくる。 「……おれに、関係のあるもの?」 「擁、見ない方がいい。気持ちのいいものではないから」 辰巳の腕と声に、そちらに近づこうとするのを止められる。それは何なのだと問いかけるようなつもりで順を見たが、彼はしばらく、戸惑うようにじっと擁の顔を見たあと、目を逸らしてしまった。巧介は、怒ったような顔をしている。 彼らのその反応で、その「なにか」が、間違いなく擁にかかわるものだということが分かった。それも、あまり見せたくないような、気持ちのいいものではないもの。 「……見せて」 「駄目だ」 巧介が言い切る。それは彼らの気遣いなのだろう。見て、傷つくか気分を悪くするか、そんなものを擁に見せたくないと思うのは親切心だろう。けれど、今はそれが、耐えがたかった。 「いいから見せろよ! おれの、ことなんだろ」 精一杯の力で、それまで擁を止めていた辰巳の腕を振り払う。近づいて、それを見せろと巧介たちを睨みつける。見せろ、と言う擁と、駄目だと断る巧介との睨み合いがしばらく続いた。 「擁」 ふいに、順が、それを擁に差し出してきた。 「あ、こら、おまえ何すんだよ、馬鹿!」 巧介が取ろうとするより先に、順の手からそれを受取る。葉書かと思っていたが、そうではない。 それは写真だった。 「擁の言う通りかもしれない。これはおれたちじゃなくて、他でもない、擁自身のことなんだから」 「だからって、なぁ……!」 最初、何が写っているのか、よく分からなかった。暗いところで写されたものなのだろうか、被写体がよく見えない。暗いなかに、白い影のようなものが、どの写真にも写っている。 「……こ、れ」 自分の見たものが間違いであると、誰かに否定して欲しくて、順の顔を見た。辰巳と、巧介の顔も。彼らはみんな、すぐに目を逸らすか、黙って苦い表情を作るだけだった。 そこに写っていたのは、擁の姿だった。それも、どれひとつとして、全く服を着ていない。焦点の合っていない、下手な写真ではあったけれど、それでも、よくわかることがいくつもあった。例えば、両手を黒い紐のようなもので縛られて、それを頭上に掲げるようにしているらしい姿。足を閉じられないように、それぞれの足首に嵌められた錆びた色をした手錠。そうやって、いっぱいに、みっともないくらいに足を開かされている誰か。この人物が誰なのか知っている気がした。名前も、住んでいるところも、いま、何をしているのかも、すべて。 一枚、顔がはっきりと写っているものがあった。醜い顔だと、なによりもまず先に、そう感じた。おくれて、その正体に気付く。泣き出す直前のような、笑い出す直前のような、曖昧な目をしている、笹村擁の表情。 「……っ、!」 写真の中の自分と、目が合った。投げつけるようにそれをすべて、床に放り落す。そんなはずはないけれど、その目が、自分のことを見て、笑ったような気がした。 「擁、落ち着いて」 順の、言い聞かせるように穏やかな声が、耳をすり抜けていく。これは、なんだろう。どうして。どうして、こんなものが。 口元を押さえる。悲鳴が出そうだった。がくがくと震えている指先で、声を漏らさないように、同じように震えている唇を押さえた。震えは膝にも伝わって、立っていられなくて崩れるように床に座り込む。 「なんで……」 「知らねぇよ。この棚の上に置いてあったんだ。さっきは無かった。間違いない」 擁の呟きに、律儀な巧介が答える。それは写真のことだろう。置いて、あった? この館には、いま、ここにいる四人だけしか、いないはずなのに? 「誰が……、どうして、そんなもの」 知らねぇよ、と巧介が同じ言葉を繰り返す。ぶっきらぼうな言い方ではあったけれど、声にはどこか、擁を労わるような同情めいたものが含まれていた。辰巳がそっと、擁には見せないように、だろう。写真を裏返しにして、床に散らばった写真を拾い集める。そんなもの、触らないで欲しかった。けれども自分では触りたくもない。拾ってどうするつもりだろうと、震える身体を押さえながら、それを見ていた。 「待って、辰巳」 しかし、それを止める声があった。順だ。 「なに?」 「ちょっと、見せて、それ。……擁、ごめん。でも、写真じゃなくて、裏面だから」 わざわざ謝ることではないのに、擁に断りを入れてから、順は辰巳の集めていた写真の中の一枚を抜き出す。決して、表面の、写っている擁の姿が見えないように、裏返したまま。 そこには、赤い文字で、なにか書かれていた。 「……『このなかに、嘘つきがいる』……?」 それを読み上げる順の声が、静まり返った部屋に響いた。恐る恐る覗き込んだ擁がその文字を目にするのと、順がそれを読み上げるのが全く同時だったので、まるで文字自体が声を出して語りかけてきたようにさえ感じられて、不気味だった。赤い、まるで血で書かれたような、生々しい、不吉な文字。 一瞬の稲光。少し遅れて、雷がまた落ちる。誰も、その場から動かなかった。 ずっと考えないようにしていた。 タイヤに傷がなかった、と言っていたはずなのに、少し後になって、車が走れないのはタイヤの傷のせいだと、そう話した順。 辰巳は、順と巧介の、そのどちらともふたりきりにならないように、と忠告してきた。 そしてあの写真。巧介は、部屋に戻ってきたときにすでに棚の上に置いてあった、と、そう言った。 ……『このなかに、嘘つきがいる』? 館を隅々まで見て回った巧介も、そして順までもが、ここにはいま、擁を含めたこの三人しかいないと言っていた。 他に誰もひとがいないのだとしたら、つまり、あの手は。 擁に、あんなことをしてきた、あの手の主の、誰かは。 この三人のうちの、誰か、なのだろうか。
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