鬼さんこちら |
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無罪 帰ってこないし連絡も取れないのだと、慌てふためいた口調で擁の母親から順の家に電話があったのは、朝早くのことだった。その前の日も、順は擁と会っていた。夏期講習があったからだ。学校にいる間も、帰り道も、適当にくだらないことを喋ったり、いつもと何も変わらないことをして過ごした。その時の擁も、いつもと何も変わらなかったと思う。夕方には、また明日部活で、と言って別れた。けれども、どうやらそれで家を出たきり、朝になっても擁は家に帰って来ていないらしかった。 携帯で連絡を取ってみようとして、そういえば擁と別れた後に、巧介の家に置いて来てしまっていたことを思い出した。帰りに寄って、貸していたCDを受取りに行って、部屋でしばらく話をして、その時に忘れてきてしまったのだ。 擁のことが気になった。何か知っているかと思い、巧介の家に行くと、午前中のまだ早い時間なのに、家にはいなかった。代わりに、巧介によく似た雰囲気の妹から、渡してくれと頼まれていると携帯を受取った。 電話を掛けてみたけれど、擁は出なかった。最初こそ繋がって、ただ虚しく鳴る呼び出し音を聞いていた。何度も何度も繰り返して、終いには、電源が切れたのか、機械音声が繋がりませんと言ってくるようになった。 辰巳にも心当たりがないか聞いてみた。朝に弱い、まだ眠っていたらしい彼は、ぼんやりとした声で、それでも驚いた様子で、何も知らない、と言うだけだった。どこかに出掛けた巧介にも電話で聞いてみる。彼も、何も知らないと答えた。 学校や、いつも遊び歩いているところを、一通り、擁の姿を探して歩いてみた。 それでも、どこにも見つからなかった。次の日も、その次の日も、毎日、同じところを探して回った。繋がらない電話を何度も掛けて、その度に胸がざわついて、ひどく不安になった。こんなのおかしい、と、そう思えてならなかった。祖父を含めた家族ならばともかく、順や巧介たちに何も言わず、擁がどこかに行ってしまうはずがなかった。 笹村の家にも、何度も擁が帰って来たか、何か連絡があったかと聞いた。返ってくるのはいつも同じ、ない、という言葉だけだった。一度だけ、擁の祖父が電話に出たことがあった。驚いたけれど、擁のことを尋ねた。あんな奴のことは知らん、と、冷たくそう言い切られ、派手な音をたてて電話を切られた。 心配で、眠れない日々が続いた。絶対に、おかしいとそう思った。何かあったに違いない。何か、考えたくもないような怖い目に遭っていて、それで、助けを待っているかもしれないのに。それなのに、祖父の地位のことを考えてのことなのだろうが、あまり真剣に擁のことを探している風のない笹村の家に腹が立った。それならばと、せめて自分たちだけでも何かしようと、情報提供を求めるチラシを作って配ろうとしたら、それも、止められてしまった。ただの家出かもしれないのだから、大事にはしないでほしいと頼まれてしまい、何も出来なくなった。 悔しかった。眠れなくて、夜、目を閉じると、擁のことばかり思い出した。ひとりでブランコを漕いでいた姿や、慰めようと思って触れた肩が震えていたことや、そんな、あまり元気のない、小さな姿ばかり思い浮かんで消えなかった。どこにいるんだ、と、その姿に問いかけて、それでも擁は順の方を見てくれなくて、なにも答えなかった。 最後に擁の顔を見てから、どれくらい経った頃だろう。 笹村の家から、おおっぴらに声を上げて探して回るようなことはやめてくれと言われていた。それでも何もしないではいられなくて、その日も、駅の改札で、通りかかる人に、待ち合わせしていた友人を探しているような振りで、擁のことを聞き続けていた。そんなことをやっても、何の収穫もない。たいていの人は、良くて、知らないと首を振るか、でなければ不審そうに眉をひそめて終わりだ。何も、意味のないことだった。それでも、しないではいられなかった。 見知った顔を発見したのは、日が沈んだ直後ぐらいのことだった。 足早に順の前を通り過ぎようとしたその男に近づき、こういう人を見ませんでしたか、と尋ねる。知らないと返事が返って来るより先に、意外そうに、波崎、と名前を呼ばれた。 (「なにやってるんだよ、おまえ? 人探しか?」) 最初、それが誰なのか、分からなかった。学校以外の場所で出会う教師は、雰囲気が違う。だから、しばらく、思いだせなかった。 それはあの、入学当初にクラスの担任だった男だった。 擁のことを知っている相手なら、話は早い。順は笹村の家に、他の人間にはあまり口外するなと言われていたことも忘れて、擁のことを尋ねた。もう、ずっと連絡が取れてなくて、家にも帰ってこないんです。何かあったんじゃないかって、心配で。どんなことでもいいんです、何か、知っていたら、 (「……知らないよ、あんな奴のこと」) それでも順の言葉を、相手は不機嫌そのものの声で遮った。 (「どうせ、似た者同士のどうしようもない奴らと遊んでるだけだろ。何をやったって、家がうまいこと誤魔化してくれるんだしな。何かあったら、だって?」) 舌打ちをひとつして、顔を逸らされる。 (「馬鹿にしやがって。あんなふざけたガキ、一度、痛い目に遭えばいいんだよ」) 順は何も言わなかった。その言葉が信じられなくて、何も言えなかった。教師という職業に就いている人間が、元とはいえ、自分の担任していた生徒のことをそんな風に言うことが信じられなかった。そしてそれ以上に、擁のことを、そんな風に思って、どうなってもいいなどと言い放つことが、許せなかった。 言葉を失った順に、相手はもう一度舌打ちをして、雑踏の中へ消えていった。 完全にその姿が見えなくなってから、その後を追って走った。何も考えられなかった。ただ許せなくて、腹が立った。追いかけ、探しているうちに、辺りはすっかり暗くなっていた。ようやく、その後姿に辿りついた時には、もう周りには人の姿も無かった。 夜道を背中を丸めて歩いていくその男の存在が、許せなかった。擁ばかり、傷つける。なにも悪いことをしていないのに。理由もなく怒鳴られることさえ、意味を見出そうと健気に自分に言い聞かせ続けていたのに。 みんな、擁ばかり傷つける。 男が、細い路地に入る角を曲った。それを追いかけようとして、道端の、アスファルトが剥がれていた箇所につまずきそうになる。道路の工事をしている途中のようだった。まばらに灯る街灯の光の中で、歩行者や車が入らないようにするプラスティックのポールを見つけた。考えてそうしたわけではない。気がついたら、それを拾って、あの男を追って角を曲っていた。暗い道の中ほどに、それらしき後姿を見つけて、声にならない声を上げながら、振り向きかけた男に向けて、それを振り下ろしていた。 とんでもないことをしてしまったと、その時も、すぐにそう思って、頭は冷えた。 男は呻くような声を上げて、一度はだらりと地面に倒れかけたけれど、すぐに起き上がり、そのまま、走って逃げて行った。思い切り、力を込めたつもりだった。驚くほど強い衝撃を、自分の腕には感じたのに、相手には、それほどでもなかったようだった。そのことに、安心しながら、どこかでがっかりするような気持ちもあった。 そんな風に、人を殴ったのははじめてだった。もともと、順は温厚な方で、誰かと殴り合いになるような喧嘩をしたこともない。だから、はじめてのことに、身体が震えた。相手を殴りつけた瞬間、伝わった衝撃が振動になって、いつまでも身体に残っていた。頭の天辺から爪先まで痺れて、なかなか、消えなかった。 特に、右手の痺れは、いつまで経っても、消えなかった。 それから後のことは、よく覚えていない。悪い夢だったのだという人がいたら、きっとすぐにそれを信じるだろう。もやもやとした気分の悪さが胸を占める、それなのに色濃く鮮やかに記憶に残る、部分部分の景色や音。それを、忘れきることが出来ない。 まるで死人のように、ふらふらとおぼつかない足取りで順の手を引く彼は、始終、笑っていた。あそぼうと呟く声はひどく無邪気で子どものように幼いのに、そう言ってこちらを見上げる目は、貪欲に、彼が決して順に欲しがるはずもないものを求めてきた。身体中、どこもかしこも傷や痣だらけで、痛そうに血を流しているものもあるのに、まるでそのことに気づきもしないように、ずっと笑っていた。そんな姿を、見たくなかった。彼が次から次へと聞かせてくれる話を、聞きたくなかった。 自分の中にある、あんな醜いものに、気付きたくなかった。 擁は、行方をくらましてから十五日目に、見つかった。 「……まだあったんだな、ここ」 思わず、そんな風に口にする。答える人間は誰もいない。友人たちにも何も言わず、ひとりでここに来たからだ。言えるはずがない。ずっと、言わずにいることなのだから。順も、辰巳も巧介も。 「やっぱり。……たぶん、設計が同じなんだよな」 独り言を続けながら、その建物の中を歩き回る。数年前に、ほんの一度訪れただけなのに、記憶は正しかった。 友人たちと、夏休みにキャンプに行くことになった。つい先日、決まったことだ。擁はあの事件以来、そうしてその期間の出来事をすべて忘れて以来、ひとが変わったように大人しく、怖がりになってしまった。だから、外にもあまり出たがらない。せっかく、大学生になったのだから、一度くらい楽しい思い出を作ってあげたかった。そんな思いで、順たち三人で決めた計画だった。 辰巳が教えてくれたキャンプ場の場所をネットで調べて、実際に行く前に一度、ひとりで下見してみた。車を運転するのにどれだけの時間がかかるかとか、どんな道を走るのか、それに擁を連れて行こうとしているのがどんな場所か、ちゃんと前もって調べておきたかったからだ。わざわざ言うことではないと思い、誰にも言わずに、ひとりで出かけた。 キャンプ場は確かに、辰巳の言うとおり、山奥で人があまり来なさそうではあったけれど、必要な設備は整えられていて、自然のままの川や森が綺麗なところだった。ここなら、きっと擁も安心できるだろうと思った。 けれども、行きとは別のルートを通って帰ってみようとしたときに、ふとそれを見つけた。ほんの、偶然としか言いようがなかった。山の中にある、古びた建物。どこかで見覚えがある気がして、表は鍵がかかっていたので、裏の方からこっそり中へ入り込んでみた。窓が割れていて、ひとり通れるくらいの隙間があったのだ。 中は荒れ果てた、廃墟だった。埃だらけで、至るところで床が陥没していて、がらくたがたくさん転がっている。それでも元の建物はきれいで、既視感の元をたどるように、あちこちを歩き回った。 やがて、たくさんの個室に均等に並ぶベッドに、病院、という言葉を思い出した。……確かに、似ている気がした。 気のせいだと自分に言い聞かせて忘れてしまうことが、出来なかった。山を下りている間、ずっと、右腕が痺れていた。力を入れると、今でも、時々、そうなった。それに、何もしていなくても、痺れて思うように動かせなくなる時も。それはきっと、罰が当たったのだろうとそう思う。ひとを、傷つけたからだ。 だから、大好きだったテニスもやめた。ラケットを振っていると、どうしても痺れが気になるようになったし、それに、まるで、自分にはそんなものを楽しむ資格がないとじわじわと言い聞かせられているような、そんな気になったからだ。 山を下りて、今度はそのまま、別のところへ車を走らせた。もう二度と足を踏み入れることはないだろうと思っていた、あの、立ち入り禁止になっている区域だ。擁が見つかったゴミ捨て場の近くに隠すように車を停めて、暗くなってきた山道を、ひとりで歩いた。方向なんて全く覚えていなかったはずなのに、何故だか足は自然とそこにたどりついていた。 擁も、こんな風にここに辿りついたのだろうか、と、そんなことを考えながら、その建物に足を踏み入れた。 一階は、あのキャンプ場の山の建物とまったく違う。こちらは外来診療用らしき待合室や、診察室の跡が残る部屋がいくつかあるが、向こうにはそれらしいものは無かった。けれど、二階から上は、よく似ていた。そこだけ見ていたら、全く同じと言ってもいいかもしれない。 日が傾きはじめていた上に、明かりになるものを持っていなかった。上の階をざっと見て、やっぱり同じだと確認だけして、そのまま帰ろうと思った。けれど、一階の、診察室の跡地で、足が止まった。 ここに、連れてこられた。夢を見ている途中のような、ふらふらと歩く擁に、手を引かれて。そうして、そのまま、この汚い床の上で。 「……、っ」 一度に思い出してしまい、追い払うように首を振る。あれは、悪い夢だ。すべて、無かったことだ。擁が今では、すべて忘れて、なかったことにしているのだから。だから、順も、忘れなくてはならない。 早く出よう、と、そこから目を逸らそうとした、その時だった。この全てが古びて壊れていて、色褪せている景色の中に、ふと見覚えのあるものを見つけた。なんだろうと思い、近づいてみる。がらくたのように転がる様々なものの間に、隠すように床に落ちていたのは、見覚えのあるスポーツバッグだった。泥や埃で、ずいぶん汚れている。 手にとって、持ち上げ、埃を払った。 これは、擁の鞄だ。あの頃、ちょうど姿を消してしまう前に、いつも使っていた。 震える手で、鞄を開ける。中にはその当時、夏期講習で使っていたテキストや、筆記具が入っている。財布と、タオル。これを、返してあげたら、擁は喜ぶだろうか。そんなことを考えたけれど、すぐに、それを振り払う。知らないはずなのだから、駄目だ。こんなものを拾って、その説明をすることも今の擁には必要のないことなのだから。 鞄の中から、携帯電話を見つける。今見ると懐かしささえ感じるような、二年前のデザイン。当然のように電源は切れているが、おそらく、充電するコードは、順が普段使用しているものが使えるはずだ。ぞわりと、背筋に鳥肌が立った。 これは、知っているのだろうか。順の知りたくなかった、擁のあの姿を。あんなことになった理由を。 嫌な予感がした。なかったことにしなければいけないと分かっているのに、だからそんなもの、見なかったことにして処分してしまえばいいのに、どうしても、手を放せなかった。 携帯の中のデータは、誰の仕業か、ほとんど消去されていた。ただ、メモリをすべて使い尽くすほど、写真のデータが大量に保存されていた。写されていたのは、すべて、擁だった。 それは想像していたものよりも、ずっと、酷いものだった。 悪いことをしたら、罰を受ける。順の右手が、いまでも痺れて、いつまでたっても暴力の記憶を拭い去れないように。誰だって、そうでなければ、いけないはずなのに。 それなのに、辰巳も巧介も、どうしてあんなに、平気そうな顔をしているのだろう。 あいつらは、擁に、こんなことをしたのに。こんな、ひどいことをしたのに。それなのにどうして、今、まるで何事もなかったように、擁の友達のような振りをしているのだろう。 許せなかった。あんなに、自分たちだけは擁の味方だよと何度もそう繰り返して、懸命に擁を探す順に手を貸すふりをしておいて。 写真を床に並べる。どれも、擁が写っていた。かわいそうに。かわいそうに、擁。こんなに傷つけられて。 おれが、認めさせてやるから。ひどいことをしましたって、悪いことをしましたって、あいつらに。 荷物を積めながら、しばらく前から痺れはじめた右腕を、左手であやすように撫でる。 擁には、自分の荷物だけでいいと言ってある。必要な物は、すべて順が用意した。だから、大丈夫。 明日は、楽しい、一日に、 「……順?」 不安そうに、そっと囁くような声に、目を覚ます。 「うなされてた。……大丈夫か」 暗闇の中、腕を伸ばして、声の主を求める。応じるように、手を取られた。右手を、労るように撫でられる。 大丈夫、と、それだけ答えて、隣で眠る彼を引き寄せる。昨日、少しだけ言い合いをしてしまった。相手が悪くないことなんて、順にもよく分かっていた。それなのに、つまらない嫉妬心を起こして、それで、困らせるようなことをいくつか言ってしまった。 あんな夢は、もう、そうそう見ない。見るのは必ず、順の気持ちが不安定な時だけだ。それを、隣で眠る彼はよく知っている。 「……悪くない」 だから、そんな夜はいつも、こうして抱き返してくれて、そう囁いてくれる。 「悪くない。順はなんにも、悪くないよ」 ごめん、と呟いて、腕に力を込める。この声がこうして許してくれる時、順はすべての罪から解放される。 おやすみ、と囁かれる声に、目を閉じる。たとえそれが、ほんとうは許されるはずのないことだとしても。彼がそう許してくれることだけが、順にとってのすべてだった。 今はもう、右手は痺れない。
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