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= 12 =

 純太がいつ帰ったのか、よく覚えていない。
 どんな話をして、どんな顔を見せたのか、それすらも曖昧な記憶しか残っていない。
 ただ、頭の中は、たったひとつ言葉ですべて埋め尽くされていた。
 いけない。いけない、絶対に、駄目だ。
 ――決して、この人に逆らってはいけない。
 ただ、それだけだった。
 
 屋上にいる夢を見た。芝山実波がそこにいた。
 光の降り積もる音すら聞こえそうな、あの静かな風景の夢を見ていた。
 実波がぼくに、何か言って手を差し伸べてきた。ぼくはきっと、……よく覚えていないけれど、その手を取ろうとして、そうだ、その直前で、実波が自分の手を引っ込めたのだ。ぼくの手が宙をかすめたのを見て、実波は笑った。
 ぼくは空しくかすめた手をどうすることも出来ず、ただうつむく。実波はそんなぼくを、ただ楽しそうに見ていた。
 実波がそんな風に楽しそうに笑うことが、とても哀しくて、寂しかった。
 そんな夢だった。
 悲鳴を上げることもなく、目を覚ます。
 悪い夢を見た日のように、汗で前髪が額に張り付いていて、それがひどく不快だった。けれども、いつものように、手のひらを噛んではいなかった。その代わりに、右手が毛布の端を強く握りしめていた。
 夢の中では確かに、実波の手も、何も掴めなかったはずなのに。まるで、すがりつくものを手探りで求めていたように、かたく毛布を掴んでいた手を放す。
 いつも見ていた夢ではない。けれども、あの、ぼくがずっと怯え続けてきたものよりも、ずっと悲しい夢を見てしまったと、そう思った。とても寂しくて、涙が出そうだった。あれは、ただの夢なのに。夢でもなんでもいいけれど、現実にしたって、実波は、そういう奴だろうのに。
 カーテンの隙間から、かすかに白い日差しが差し込んできていた。朝だ。何時頃なんだろうと、枕元の時計を見ようとすると、聞き慣れた声に、名前を呼ばれた気がした。
 空耳かと思って部屋の扉を開けると、おきなさい、と柔らかい声がぼくを呼んだ。
 ずいぶんと、久しぶりに耳にする声。母さんだ。
 昨日になって、ようやく家に帰ってくることが出来たみたいだ。たぶん、いつも通り、明日は休みなんだろう。ぼくがぼんやりとしていると、もう一度、階下から、おきなさい、と繰り返された。
 時計を見ると、普段ならばもう、学校に行く準備がすべて整っていなければならない時間帯だった。たいへんだ、はやく、用意をしなきゃ。ベッドから降りて、制服に着替える。階段を下りようとすると、なぜだか足下がふわふわとする感触がした。
 一階に降りると、母さんがにこにこと嬉しそうな笑みを浮かべていた。久しぶりに目にするその姿に、安心するというよりもむしろ、どこか寂しいような気持ちになる。おはよう、と優しく言って、今日はお母さんがお弁当を作ったからね、と得意気に胸を張る様子は、何故だかぼくを不安にさせた。理由もよく分からないままに、母さんを真っ直ぐに見ることが出来なくて、目を逸らしてしまう。
 そんなぼくのことをさして気にする風もなく、母さんはとても機嫌が良さそうだった。仕事が続いていて疲れているだろうのに、ずいぶんと浮かれている。何か、いいことでもあったのかもしれない。
 いつもならば、起きてから学校に行くまでにすることがたくさんある。けれども今日は、母さんに、それを禁止された。全部お母さんがやってあげるから、真幸は座っていなさい、と言われてしまっては従う他なく、ぼんやりと椅子に腰を下ろす。
 まだ、肩に痛みが残っている気がした。
 昨日の純太はおかしかった。ぼくの知らない人みたいだった。
(「おれだって、好きであんな奴、引き受けてるわけじゃないんだから」)
 あの時、教室で七坂美由紀と会話をしていた時の純太は、きっと、あんな目をしていたのではないだろうか。
 廊下から聞いた声と、昨日、耳元で囁かれた声は、同じもののような気がした。その声が乗せていた言葉は、全く違うものだったのだけど。
 純太が何を考えているのかが分からない。ぼくのことに嫌気が差していると美由紀に打ち明けながらも、ぼく自身には、何も考えずに傍にいればいい、と言う。……分からない。分からない。
 ――だけど、あの人に逆らってはだめだ。
 心の中で、そう教えてくれるものがある。それはどこかで聞いたことのある声だった。純太に逆らってはいけない。そうしないと、きっと。
(「芝山のことは、おれが何とかするから」)
 きっと、なにか良くないことが、起こってしまう。
 冷たく目を細めた、苛立ちに笑う顔。浮かんできた残像を、かたく目を閉じて殺してしまおうとする。
 また、声が響く。
 ――ぜったいに、だめだよ。
 思い出した。
 それは夢の中で繰り返し壁を叩き、ここから出してと泣きわめいていた、幼いぼくの声だ。

 母さんが用意してくれた朝食は、半分以上残してしまった。ごめんなさい、と頭を下げると、母さんも真似をするように、ごめんね、とぼくに謝ってきた。ぼくと母さんの会話は、ほとんどがこうして終わる。
 残しておいてくれれば、夜にまた食べるから、とメモ用紙に書いて見せると、母さんはもう一度、ごめんね、と言って首を振った。それから、真幸はほんとうにいい子ね、と続ける。謝る言葉と同じように、それもまた、母さんの口癖のようなものだった。けれどもぼくはその言葉がとても嫌いだ。言われる度に、それなのにどうしてあの時はいい子にしていられなかったの、と、言葉ではない何かが同時にぼくに向けられている気がする。母さんはそんなつもりではないはずだということはよく分かっている。それでも、ぼくの中の何かが、母さんがそう口にすると同時に、心の中で、聞いた覚えもない言葉を再生させる。どうしてあの時はいい子にしていられなかったの、と、母さんの声で。
 ぼくは声が上手に出せない。まるでそれを補うように、たくさんの声がぼくの中に残っている。幼いぼくの声も、純太の声も、母さんの声も、そして、実波の声も。
(「まことの幸い、って、いい名前だよな」)
 ……そう、ちゃんと、残っている。
 実波に会いたい、と、そう思った。
 不思議だった。どうして、そんな風に思うんだろう。純太が何を考えているか分からないから、依存するものを無くしそうだから、その代わりを実波に求めているんだろうか。実波だって、十分、何を考えているのか分からない奴なのに。
 実波に会いたかった。会って、直接、その声を聞きたかった。どんな話でもいい。いつものように、しょうもない話でいいから。何でもいいから、実波の声を聞きたかった。
 自然と、立ち上がっていた。学校に行こう。行けば、実波に会える。 
 突然に椅子から立ったぼくを、母さんが不思議そうに見る。どうしたの、と聞いてくる。それに、もう行くよ、と答えようとしたぼくの囁きを、玄関から鳴り響くチャイムの音が掻き消した。
 その音に、息が詰まる。
 立ち上がったまま動かないぼくに、母さんがもう一度、どうしたの、尋ねてきた。純太くんよ、と、いつもと違うぼくの様子に、首を捻ってそう教えてくれる。いつものぼくなら、チャイムが鳴ったらすぐに、扉を開けに走っていた。
 なんでもない、と首を振ろうとするけれど、身体が動かなかった。逆らっちゃだめだ、と、またそう諭してくる声が聞こえた。幼いぼくが、ぼくの動きを止める。
 玄関の戸が開けられる音がする。ぼくが出て来ないから、純太が自分で開けたのだろう。その音に、母さんがスリッパの音を響かせて居間を出て行く。ぼくの代わりに、純太に朝の挨拶をしている声が聞こえる。
「真幸、行こう」
 純太がぼくを呼ぶ。その声に、引き寄せられるように居間を出る。純太はぼくの姿を見て、おはよう、と笑う。見ると、いつも通りの純太だった。怖い顔なんてしていない。
「……真幸? おい、大丈夫か?」
 純太がぼくを呼ぶ声が、妙に遠く聞こえる。大丈夫か、と尋ねてくるその問いかけに頷く。そんなぼくの顔を見て、純太が眉をひそめた。ふいに手が伸ばされる。ぼくはそれに驚いて、思わず肩を震わせて目を閉じてしまった。一瞬、ためらうように間をあけてから、純太のその手が、ぼくの額に触れた。
「おばさん、真幸が」
 それを聞いた母さんが、どうしたの、と不思議そうに聞いてくる。なんでもないよ、と首を振ろうとする。けれどもそれより先に、純太が口を開いた。
「真幸、熱があるみたいだ。馬鹿だな、そういう時はちゃんと言えよ」
 純太は何を言っているんだろう。ぼくは大丈夫なのに。熱なんてないよ。元気だよ。ほら、そんなことを言うから、母さんが心配そうにしてるじゃないか。はやく、学校に行かないと。
 首を振って、靴を履こうとする。前屈みになった途端に、視界がぐらりと揺れた。足下がふらつく。
「ほら! な、今日は休めよ。それとも」
 純太がぼくを支えてくれる。ありがとう、と、いつもと同じ手に小さくお礼の言葉を囁こうとして、その手がぼくの両肩にあるのに気が付く。
 純太は途切らせた言葉を続ける。
「何か、気になることでもあるのか」
 その声が、妙に響いて聞こえた。耳の中に残り、反響する。肩を支える手に、少し力が込められた気がした。
 瞬間で、昨日のことを思い出す。母さんには聞こえないくらいに低く囁かれたその声に、締め付けられた痛みまでもを思い出し、身体がすくむ。
 気になること。
「……な、おれに任せろよ」
 やめて、と言いたくて、首を振る。大丈夫、学校に行く。行きたい。実波に会いたい。
 熱がある、と純太は言った。確かに、なんだかふわふわする気分だなとは思うけれど。けれど、こんな気分になることなんて、よくあることだ。大丈夫だよ、と、支えてくる手を放してもらおうとする。けれども、その手はぼくを捕らえたまま動かされない。
 逆らっちゃ駄目だよ、と、また、ぼくの中でぼくの声がこだまする。それを聞いてしまうと、もう、身体に力が入らなかった。
「またあとで、見舞いにくるよ。だから」
 純太がそう言って、ぼくの背中を撫でた。だから、の後の言葉は、何故だか上手く聞き取れなかった。
 聞き取れなかった、けれども。
 ――だから、いい子にしているように、と、そう言ったようにも、聞こえた。
 
 母さんと純太のふたりに反対され、結局、学校を休むことになってしまった。
 病院に行きましょうと何度も言い張る母さんに、それは必要ないと首を振る。熱を計ってみると、確かに38度に近い数字が表示された。自分で薬箱から風邪薬を出してきて、これを飲んで寝ているから、と母さんに伝えると、ようやく病院に連れて行くことを諦めてくれたようだった。
 母さんは普段の埋め合わせをしようとしているように、あれもこれもとぼくの面倒を見たがった。小さな子どもになったみたいで、妙に気恥ずかしくて布団の中で寝たふりをする。するとしばらくして、母さんはそっとぼくの頭を撫でて、部屋を出て行ったようだった。せっかくの休みの日なのに。悪いことをしてしまった。
 朝よりも寒気がひどくて、身体を動かすのも億劫だった。きっと、風邪だ。熱がある、と純太はすぐにぼくの顔を見てそれに気がついた。それだけ、普段からぼくを見てくれているということなのだろう。……今となっては、それがどんな理由での眼差しなのか、もう分からなくなってしまったけれど。
 毛布の中で身体を丸めて、寒さに耐えていると、薬が効いてきたのか、徐々に眠気が訪れてきた。その波に揺られて、意識がぼんやりとし始めた頃、枕元で何かが震えた。
 携帯電話だ。……純太かな。壁にかかった時計がお昼を指しているのを確認する。丁度、昼休みの
時間だった。きっと、純太だろう。ぼくがいい子にしているかどうかの確認かもしれない。
 そう思って、なかなか手に取れなかった。きっと優しい言葉で綴られたメールなのだろうけれど、どうしても、見る気になれなかった。ごめんね、と心の中だけで呟いて、放っておくことにする。
 けれどもそれは、いつまで立っても震え続けていた。おかしい。メールならば、10秒ほどしか反応しない設定にしてあるのに。まさか、電話でも掛けてきたんだろうか。そう思って、電話に手を伸ばす。
 折りたたんだ外側の小さな画面には『着信』という二文字が表示されていて、やっぱり、電話が掛かってきていることを知らせていた。それは想像通りだった。けれども、サブディスプレイに浮かび上がった名前に、思わず目を疑う。
 なんで。
 どうして、あの男が。
 慌てて、通話ボタンを押す。押したあとで、取ってもどうにも出来ないことに気が付く。……ぼくは声が出せない。
 電話に耳を押し当てて、じっと、向こうが話してくれるのを待つ。しばらく黙ったままだった相手は、やがて、こう言ってきた。
『おれだけど』
 いつ登録したんだろう。……あの時だろうか。保健室で、眠るぼくに付き添ってくれていた彼。鳴っていてうるさいから、と、勝手にぼくの携帯の電源を落としてしまった彼。その時に、ぼくの電話番号を見て、ついでに、自分の番号も登録しておいたのだろう。勝手に。
『風邪でも引いたんだろ。……こないだ、屋上寒かったもんな? 保健室も』
 そう言って笑うのは、紛れもない、芝山実波の声だった。
 何なのだろう。わざわざ電話まで掛けてきて、実波が何をやりたいのかが分からなくて、ぼくはただ、彼の言葉に耳を傾ける。すると、意外なことを言われた。
『おれ、道もおまえの家も、大体覚えてるし。……お見舞いに行ってやるよ』
 そんなに暇なのだろうか。そういえば、昨日だって、買い物に行くと言ったぼくに付いてきた。どうしてだかは分からないけれど、とても、楽しそうだった。
『なんか、欲しいもんとか、ないか』
 電話越しに聞く実波の声は、いつもより少しだけ高く聞こえた。電波の状況があまりよくないのか、声を霞ませるようにときおりノイズが入る。
 目を閉じて、耳を澄ます。
『んー? ないのか?』
 この男は、ほんとうに何を考えているのだろう。ぼくが喋れないことなんて、よく分かっているはずなのに。それなのに、わざわざこうして電話をかけてくるなんて。ほんとうに、何を考えているのだろう。
 とても、可笑しかった。身体はとても怠くて気分も悪いはずなのに、可笑しくてたまらなかった。
『じゃあ今から行くぞ。待ってろよな』
 うん、と、頷く。そんな風に動作で応えたところで、電話の向こうの相手には伝わらないということぐらいはよく分かっていた。
 けれども、実波ならば、そのことに気付いてくれそうな気がした。少し笑ったようなかすれた音を残して、通話は切れる。
 二つ折りの携帯を畳んで、両手に抱える。
 待ってろよな、と、こちらの反応などお構いなしにそう投げかけてくる、彼の声。
 それに、まってるよ、と、そんな言葉で応えられたら、どんなにいいだろうかと、そう思った。

 
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