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本編後の話 |
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つめたくふるほし 風邪というよりも寝不足だ、と自分でも言っていた通り、しばらく眠ったあと目を覚ましたコウは、随分楽になったような表情をしていた。 夕飯を運んできたのは使用人ではなくて未月だった。ついでにコウの様子を見に来たのだろう。先程よりは元気そうな顔を見て、すぐにまた帰っていった。去り際に、無理はさせるなと言い残される。頷いて、その言葉に応じた。 未月が持ってきたのは持ち手の付いた鍋で、その中身は卵と鶏肉の入った雑炊だった。捧の分もあるらしく、ふたりぶんの取り皿も一緒だ。小鉢に入っていた葱を散らして、美味しそうだと鍋を覗きこむコウの皿に入れて渡してやる。食欲もあるらしく、普段と変わらない調子で食べるその様子に安堵した。 昨日と同じように風呂に湯を張り、今度は湯冷めさせないように、髪を乾かしてそのまま布団に入るまで、傍を離れなかった。楽にはなったらしいが、まだ話す途中で咳込むことが何度かあった。未月に言われたように薬を飲ませて、眠らせる。コウは正月の話をしてくれた。未月が、年明けまでこの家にいることを許可してくれたのだと言う。だから年越しも一緒だし、初詣に行こう、と、そんなことを話した。 同じ布団に入って話をしているうちに、コウは静かになった。また眠ったのだろうと思い、枕元に置いた行灯の明かりを消す。暗くなった部屋の中に目が慣れるうちに、ずっと見上げてきた天井の木目が浮かびあがる。隣に眠るコウを胸に抱いて、その温もりに息を吐く。 怖いのだ、と、ふいに、そう気付いた。 だから、また眠れなくなった。日のあるうちは誰か他の人間と顔を合わせて言葉を交わして、それだけのことで人間らしいことをしている気分になれる。もう、捧がどこに行こうとも、誰と会おうとも、何を話しても聞いても、それを叱る者はいない。そうされる理由がない。けれど、夜になると、またひとりになった。明かりを消して、生まれたときからずっと生活しているこの離れで、これまでのように眠りにつこうとすると、昼間のことを思い出した。あれは何かの間違いだったのではないかと、夢を見たのではないかと考え始めると、目が冴えて閉じられない程だった。あんな風に、まるで普通の人間のような出過ぎた真似をしたことを、今にも咎められるのではないかと、心のどこかで、そう怯えていた。身の程を知らない、最後の「蝶」。他の一族のものは皆、誇りあるその定めを全うしたのに。それなのにただひとり役目を果たさず、普通の人間のような振りをして。何も、出来ないのに。 狩られるためだけに生まれて、そのためだけに育てられた「蝶」に、他に生きる道などないのに。 そのことが、怖い。ずっと生まれた時から籠の中の世界しか知らない蝶は、果たして、どこでも好きなところへ行けばいいと籠から出されると、どうなるのだろうか。広すぎる世界に戸惑い、どこに行ったらいいのか分からず、何をすればいいのか分からないのではないか。四方を狭く区切っていた籠の中こそが、世界そのものだったのに。 その中にいた方が蝶は幸せだった、と、そんなことを思いかけて、コウを抱く腕を少しだけ強くする。寝息を立てるその温かい身体を抱き締めて、目を閉じて柔らかい頬に自分の頬を合わせる。違う。あの中には、彼はいない。その籠を開けて、ここから一緒に出ようと手を差し伸べてくれたのが、コウだ。 コウがいれば生きていける。例え捧が下手な人間の真似事をしているのにすぎないのだとしても、コウなら、それを笑わないで受け入れてくれる。一緒に生きてほしいと、そう願ってくれる。 だから、コウが傍にいてくれれば、眠れた。 自分を粗末に扱うな、という、未月の言葉をまた思い出す。そうすることは先祖にも、コウにも失礼なことだと、そう言っていた。もう少し、その意味を考えたかった。胸に抱く温もりに、緩んでまどろみかけた意識を起こす。そっと起こさないように抱いていた手を外して、しばらく眠る恋人の表情を窺う。何事もなかったように穏やかに寝息を立てる彼に安心して、音を立てないように気を払いながら寝床を出る。 未月の忠告を忘れたわけではなかった。それでも、今はどうしても、あの場所に行きたかった。そこでなら、もっと上手に、考えられそうな気がした。もうずっと、子どもの頃から、いくつものことを静めて、平らに均して心に埋めてきたように。だからゆっくりと雨戸を開けて、庭に降りる。雪は止んでいたが、それでも、昼間の間に少しまた積もったらしい。植え込みの木々の被る雪が分厚くなって、帰ってきた時よりも重たげに枝をしならせていた。 雪を踏みながら、その道を辿る。暗くて明かりがなくても、ここは蝶のための庭だ。だから、捧にとっては昼間明るい中にいるのと何も変わらない。母屋まで幾度も交差する敷石を外れて、庭の奥へ奥へと進む。緩やかに地面に傾斜が付き始めたら、もう少しだ。毎晩のようにこの道を通っているため、雪が積もるままになっている中に一筋だけ、踏みならされた道が出来ている。昨晩、捧が付けた足跡の上に積った雪を踏み、先へ進む。見えたかと顔を上げようとした、その時。 べしゃり、と、背後で音がした。 驚いて、振り向く。なにかが動く気配があった。それなのに、音を聞くまで、それに全く気が付かなかった。意識していてもいなくても、捧は他人の気配を鋭く感じ取る。未月などは、縄張り意識の強い神経質な性格のせいだと時折馬鹿にする。それなのに今は、全く背後の気配に気が付かなかった。 「あ、」 見つかった、と、まるで悪戯したその場面を見られた子どものように、ばつの悪そうな声が聞こえる。それを聞くよりも少しだけ先に、そこにいるのが誰なのかは分かっていた。 「コウ、……どうして」 「ごめん。勝手に、ついてきた」 いつの間にか後ろにいたのは、離れで眠っていたはずの恋人だった。先程の音は、雪で滑って転んでしまったのだろう、首に巻いているマフラーの黄色が濡れて色が変わっている。暗くてはっきりとは見えないが、きっと身体の前半分が雪に突っ伏すようになってしまったのだろう。 捧は自然と、近づく他人の気配を感じ取る。それでもコウだけは、近寄られても分からなかった。おそらく、彼が捧と同じ種類の空気を持っているからなのだろうと、自分ではそう理由づけていた。だから、居ると思っていなかったところに姿があったり、遊びに来るとも何も聞いていない時にふいに顔を覗かせたりすると、予測が出来なくて、それが嬉しかった。 けれども今は、そのせいで驚くばかりだった。 「眠っていたと思った」 「うん。そのつもりだったんだけど、捧さん、ずっと眼鏡したままだっただろ。未月に聞いたことも思い出したし。 ……ちょっと、本気で寝てたけど」 「寒いだろう」 これを、と、離れを出る前に着てきた外套をコウに被せるように着せる。着物用に誂えた角袖のコートは、捧の背丈に合わせて作られたものなので、コウが着るには少し大きい。 「いいよ、捧さんが寒いだろ」 「風邪を引いているのに、身体を冷やしたら悪化する」 自分で言いながら、まるで未月に言われたことをそのまま反射してコウに言っていることに気付く。未月は口は悪いが、心根はどこまでも真直ぐで、優しいところもある。捧は彼と、兄弟のように育ってきたから、そのこともよく知っている。 今、自分がこんな風にコウを思うように、未月も本気で捧のことを案じていたのかもしれない。 「……そんなこと言うなら、捧さんだって、そうだ」 違うことを考えていると、コウもまた、別のことを言い返してきた。 「冷えると、古い傷が痛むんだろ。雪が降ってから、ずっと、右足が痛そうだ」 コウの表情はこちらを責めているようでもあり、何かを悔しく思っているようでもあった。そんなことを思われているなんて、想像もしていなかった。確かに、冷え込むようになってから、子どもの頃の足の傷が以前よりも痛むことがあった。けれども、そんな些細なことに気付かれているとは思わなかった。 「いつも、おれのこと、心配するけど。おれだって、捧さんのこと、心配なんだよ」 「コウ」 「せっかく、一緒に幸せになろうって決めたのに。それなのに、時々、気が付いたらいなくなっちゃってるんじゃないかって、全部おれの都合のいい夢だったんじゃないかって、すごく不安になる」 「……すまない」 さっきは言えずにいた言葉が、自然と出ていた。コウはこちらの顔を見て、唇を噛む。ずっと言いたくて、それでも言わずにいたことなのだろうと、そんな風に感じた。外套の上から、その肩を抱く。布団の中では温かかったその頬が、もう冷たくなり始めていた。 「どこに、行くつもりだったんだ」 言葉なくしばらく抱き合い、やがて、コウがそう尋ねてきた。ほんとうならば、これ以上身体を冷やす前に、早く暖かいところへ帰すべきなのだろう。それでも、そう言ってその問いに答えないのでは、心配して、不安なのだと素直に怯えを打ち明けてくれた恋人に対して不誠実のような気がした。 「おいで」 マフラーの濡れていない部分をしっかりと首に巻きなおしてやり、そう言って手を取る。捧にとっては歩き慣れた道だが、コウには初めて足を踏み入れる場所だ。 「この辺りは、花羽の庭の中ではあるけれど、ほとんど、山の一部になっている。おそらく、もう少し先に行けば、塀の代わりに崖があって、外からは簡単には入られないようになっているはずだ」 「詳しいんだ」 「……子どもの頃、隠れて出歩いていたことがあるから」 「それも、こんな風に、真夜中に?」 頷いて、コウの手を引く。緩やかな坂を上り続けると、やがて、もっと先へ進むために、別の道へと入らなければならない箇所にぶつかる。上へは進まずに、今まで来たのと同じ方向へ山道を入っていくと、少しだけ開けた場所へ出る。今はそこも、雪で白く埋まっていた。 「あ……」 立ち並ぶ木がなくなり、そこからは空がよく見えた。ほとんど遮るもののない、丸い夜空が頭上に広がる。 「すごい」 首をほとんど直角に上向けて、コウがそう呟いた。もう足を滑らせたりしないように、繋いでいる手を少し強くして、引き寄せる。 「いつも、ここに来てたんだ。小さい頃から、ずっと」 コウの声に、頷いて答える。 満天の星という言葉のほんとうの姿を、偶然ここに辿りついた時に初めて理解した。本ではいつも見て、眺めていたものだった。けれども実際は、もっと広くて、両手を伸ばしてもそれよりもずっとずっと大きかった。 「夜になると、母屋の明かりがすべて消えるのを待った。それからひとりで、こんな風にここに来ていた。何もしない、ただ、空を見ているだけだった」 「……どこかに、行きたかった?」 「分からない。けれども、そんな気持ちはなかったような気がする。最も、それもすぐに見つかってしまった。母は、……喜美香様はおれがそんな風に離れを抜け出したことを、絶対に許されない、してはいけないことだとそう言った。もう二度とそんなことをさせないと、足を、」 そんなことを、コウに教えるつもりはなかった。口にしかけた言葉は最後まで言わずに、いつの間にか頭上の星ではなく、捧の表情をじっと見ていたコウに、笑いかける。誰にも、話す必要のないことだ。 母は、決してひとりでは外に出ないという約束に背いた捧の右足に、短い刃を突き立てて深く線を引いた。膝下から足首の少し上あたりまでのその傷痕は、今でも脹脛に残っている。ほんとうならば両足の、それも腱を切って二度と歩けないようにしようとしていたところを、父が止めた。刃の先から滴って落ちる赤い血と、何も言わなかった母と、涙を流しながら止める父を、ぼんやりと見ていた。痛い、とも、怖い、とも、その時は何も思わなかった。ただ、これで、もう二度とこの場所へは来ることが出来ないのだと、そう思うだけだった。 それを悲しいと感じたのだと、今なら分かる。 「……おれはここから、夜の空を見るのが好きだった。丁度、季節は冬で、冷え切った空気の中でたくさんの星が光っているのを見ていた。星が、降るのを待っていた」 「星が降る?」 それまで何も言わずに、ずっと捧の話を聞いていたコウが、それを繰り返す。不思議に思う、というよりは、先を話して、と促すような声だった。 「雪が降るのは、星が降るのだと、そう思っていたんだ」 冬になると、庭に積もる白い雪。手のひらですくってみるとすぐに溶けてしまうけれど、それまでの短い時間で、ひとつひとつの小さな破片が細かく積もっているのだと、そのことに気付いた。太陽を浴びると、透明な硝子のようにきらきらと反射して、瞬く光の細かな粒子。初めてこの場所に来て、頭上いっぱいに広がる星空を見たときに、あのきらきらとしたきれいなものは、あんなに高いところから降ってくるのだと、そう思った。落ちてくる瞬間を見られないかと、じっと待っていた。 「けれども、違った。いつまで見ていても、降ってくるはずのないものを、ずっと待っていたんだ」 父は優しかったし、母は不自由のない待遇を与えてくれた。籠の中での暮らしは、足りないもののない、穏やかなものだった。だから、そこから外に出てはいけない。たとえ出たところで、なにひとつ、自分に出来ることなど、ないのだから。星が、いつまでも降らないように。 「捧さん」 「……おれは、怖い」 呟くと、コウが背中から、腰の辺りにしがみつくように腕を回して、そっと抱き締めてきた。 「おれはもう、何も出来ない。コウを助けることも出来ないし、命を捧げて、未月たちを守ることももう無い。なにも、ないんだ」 「……当たり前だよ、そんなの」 腰に回されたコウの手が、少し強くなる。声が背中に響いて、いつもより近く聞こえた。 「捧さんに、今までのものは、もうなにもない。おれが、全部壊したんだから」 風邪のせいか、鼻にかかった声で、そう続けられる。回された手を暖めるようなつもりで手のひらを重ねる。 冷えていると思ったその手は、驚くほど温かかった。 「檻は、もうない。そんなもののない世界を、見てほしい。何もないんじゃない。まだ、何も持ってないだけだよ」 だからこれから、ひとつずつ手に入れていけばいいんだ、と、コウは呟いた。鼻声のせいで、まるで、泣いているように聞こえる声だった。 回された腕をほどいて、振り向く。 顔を見られたくないのか、うつむこうとしてしまうコウに目線を合わせるために少しだけ身を屈める。なんだよ、見るなよ、と、それでも顔を逸らされてしまう。 「笑うなよ。……っ、ひとが、いっしょうけんめい、言ってるのに……!」 その顔と言い方が可愛くて、つい、笑ってしまった。謝って、冷えたその身体を胸に抱く。未月の言いたいことを、やっと理解出来た気がした。こんなに、大切だと思うものがある。 何よりも傍にいたいものと、一緒にいられること。決して望めるはずのなかった、許されることのなかったはずの幸福。いまは、この腕の中にある。そうして出来るのなら、この先もずっと。 望むことも、それを叶えたいと願うことも、いまは許されている。 星の降るような、奇跡だ。 コウはその翌日から高い熱を出して、しばらくずっと寝込んでいた。具合が良くないのに、あんな風に外を歩き回って、その上雪の上に転んで濡れたせいだ。昨日の夜から、ようやく起き上がれるようになり、今朝は少しだけれど食事も取れた。それでも、まだ、安静にしていなければいけないはずだ。あまりの熱に、未月が医者を呼んで往診を頼んだ。その医者が、そんな風に言っていた。完全に回復するまでは激しい運動も駄目だと、何故か未月にも何度も注意された。 それなのに、空になった朝食の器を母屋に戻して離れに帰ると、コウの姿が見当たらなかった。 探し回って、母屋にまた引き返す。未月に頼んで、携帯電話に連絡して貰うと、用事があるから一度家に帰るとそう言われたらしい。捧はまだ、あまり家電製品に触れない。近頃ようやく、テレビのリモコンを自由に使えるようになった。そのうち、電話も使えるようになりたいと思う。そうすれば、離れていても、コウの声を聞くことが出来る。 眠れない夜は、まだ完全に無くなったわけではない。具体的な事象に対するものではない、世界そのものに対する不安は輪郭が曖昧でぼんやりとしていて、消すために掴むことも出来ない。けれどもそれを、怖いと思うことは、以前よりも少なくなっていた。庭を歩かなくなったわけではないが、その回数も時間も少なくなっている。コウの風邪が治ったら、また一緒に星を見に行こうと約束をした。寒くないように、しっかりと厚着をして。 年越しの準備はほぼ終わり、あとは新年を迎えるだけだという。父としばらく、これからのことを話したあとに離れに戻る。春になったら、学校に通ってみないかと、そんなことを言われた。父が母に反対されながらも、中学までの学校にはせめて籍だけは、と届けを出していたことを、初めて知った。だから、高校に通おうと思えば、今からでも可能なのだと、父はそう教えてくれた。考えさせてほしい、と言って母屋を出て、庭を歩きながらそのことを迷った。上手に、出来るだろうか。まだなにもかも、分からないことばかりなのに。 そんな風に思いながら離れに帰ると、縁に座って靴を脱ごうとしているコウの姿があった。丁度、戻ってきたところらしかった。 「突然いなくなっていたから、心配しただろう」 「ごめん。ちょっと、驚かせたくて」 「……おれを? 確かに、驚いたよ」 そうじゃなくて、とコウは笑う。中に入ろうと手を引かれて部屋に入ると、すぐに、コウから黄色い袋を渡された。大事そうに、なにか抱えているとは思っていたが、それをどうして渡されるのか分からなかった。 「あげる、これ」 「これは?」 「見てみてよ」 言われて、袋を開ける。中に入っていたのは、黒い表紙の、薄い本のようなものだった。皮のような手触りの表紙をつるつると指先で撫でる。これは何なのだろうとコウの顔を見ると、彼はじっとこちらの反応を窺っていた。 表紙を開いて、中身を見る。日付が区切られた枡目に書いてある頁がしばらく続いていた。終わりの方には、何も書かれていない、真っ直ぐな線だけが何本も引かれた頁と、あとは何を表しているのかよく分からない細かい図形などが載っている。 「来年の手帳なんだ」 「手帳?」 「そう。ここがカレンダーになってて、色々、予定を書いていくんだ。書くところが結構たくさんあるから、日記みたいにして使ってもいいらしいよ」 「……これを、おれに?」 うん、と、コウはどこか得意気な顔で頷く。 「捧さんは頭も良いし、字もすごく綺麗だから、きっと文章を書いても上手なんじゃないかなと思って。そこに、これからのことを、たくさん書いていこうよ」 ちゃんと書くものも買ってきたから、と、筆記用具らしき細長いものも渡される。驚かせたかったと言った。これを、買いに行っていたのだろうか。 これからのことを、書く。つまり、未来のことを書いていくのだろう。 「この日に買い物に行くとか、この日にどこかへ遊びに行くとか。そういう、これからのことを、書くんだ。おれとのことだけじゃなくて、未月や、未月のお父さんとのことも。そうやって、ひとつずつ、増やしていこう」 真新しい手帳には、まだ何も書かれていない。けれどもそれは、そこに何も無いからではない。これから訪れることのための空白だ。ひとつずつ、手に入れていくための。 「ありがとう」 そう伝えたかったのに、言葉は溜息のようになってしまう。うん、とコウは頷いて笑った。大切にする、と続けて、そのままコウを抱き寄せる。手帳について言ったのか、それを贈ってくれた恋人について言ったのか、自分でも曖昧だった。きっと、両方だ。 「色んなところに、行こう。ずっと、一緒にいるから」 抱き合ったまま、コウが耳元でそう囁いてくる。それに頷いて、その背中を撫でる。 「でも、まずは、風邪を完全に治さないといけない」 「え、もう平気だよ。元気だってば」 「まだ安静にしているよう、医者に言われているはずだ。あれだけ高い熱が出たのも、前々から引いている風邪を治しきれていないせいだろうと言っていた。だから、未月にも、注意された」 「注意? なにを」 聞かれたので、正直に答える。コウはそれを聞いて、しばらく呆れたような顔をしてから、すぐに笑った。 「おれ、大丈夫だよ」 「駄目だ」 頑として譲らないでいると、コウも分かったよ、と諦めたように息を吐く。 元気になってくれないと、思う存分、可愛がることも出来ない。口づける代わりに、小さくて可愛い耳に唇を落とし、そっと耳朶を噛む。 「……注意、されたんじゃ、なかったのかよ」 くすぐったそうに、笑いながらそう言われるのを聞き逃す。幸せだと、そう思った。もう、星は降らないことを、知っているけれど。 今は何よりも明るく、眩しく輝く星を、この腕の中に掴まえている。
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