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本編後の話 |
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つめたくふるほし 流れる星を見たことがあるかと聞いたら、恋人はしばらく考えた後、ないと思う、と首を振った。 彼が言うのだから、自分が見たことがないとしても、それは何らおかしいことではないのだろう。ただ単に、確率の問題として、滅多に見られるものではないということだ。 見上げる夜空には、黒の中にほんのわずかに青の名残りがある。冷えた空気に澄む冬の夜空にいくつも浮かぶ星を、何を考えるでもなく、ただ見上げる。そうしていると、時間の流れを忘れた。この季節が一番好きだった。 日が沈んで、暗くなった庭を延々と歩き回り、冷たい空気の中で自分のいなくなった時のことを、よく考えていた。例えば優しくたくさんのことを教えてくれた父はそれを懐かしく思うこともあるだろうか、ということ。自らに課せられた務めのことを語るときは、いつでも眉間に皺を寄せて、言外に嫌悪感を漂わせていた「狩り手」は、嫌がっていたその役目を終えることが出来て、もうあんな顔をしなくなるのだろう、ということ。 誰か、自分という存在を、時には思い出すことがあるのだろうかということ。 考えながら歩き回るうちに指先や耳が冷えて感覚がなくなると、次第に心も冷えて、何か心に浮かびかけたことも静かになって、心地よかった。風邪を引くから止めなさいと何度か注意されたことではあったが、眠れない夜などは、そうしないといつまでも目を閉じられなかった。横になったまま、ただずっと、明かりを消して暗い天井の木目を見ていた。もう、戻ることのない時間のなかのことだ。 小さな白い、光の粒子たち。星の光は遠い遠い宇宙から、人間には決して生きることの出来ないような長い時間を掛けて、地上に届くのだと、本で読んで知ったのはいつのことだっただろう。その時の気持ちは覚えていないが、もしかしたら、今の自分のような気持ちだったかもしれない、と、ふとそんなことを思った。決して辿りつけないはずの、遠い場所についての感情。そんなところに行くことが出来るなんて、少しも考えたことがなかった。 ここはきっと、遥か遠くにある星よりも、もっとずっと遠いところだ。 空を見上げていた目を閉じる。目蓋の裏に浮かんだのは、長い時間見ていた星の残像ではなくて、別のものだった。 時間の感覚というものが、まだ余りよく分からない。時計を見るという習慣が無かったからだ。だから今も、ここに来てからどれだけ時間が経っているのか分からなかった。あまり長い時間姿がないと、ひとりにしてしまった人を不安にさせるかもしれない。 地面に薄く積もった雪を踏みながら、坂道を下る。子どもの頃に見つけたこの道が、今でも変わらずに残っていることを知ったのは、つい先日のことだ。いつものように庭を歩き回っていて、考え事をしているうちに、もっと見える景色が低かった頃のことを思い出した。思い出したこともなかったが、忘れようとしたこともなかったから、方向や道筋は自然と分かった。何も、変わっていなかった。そこから見える夜の空も、白く浮かぶ星たちも。 「……あ、よかった、いた」 冷えて張りつめた空気は、音をよく響かせる。だから聞き慣れた声がこちらに投げ掛けられたのも、すぐに分かった。 「お風呂上がったら、居なくなっちゃってたから。母屋に用事だった?」 軽く頷くだけでそれには答えず、風呂上がりだという彼の頬に触れる。冷たい、と、驚いたような声を上げられた。 「風邪引くよ。早く、戻ろう」 そう言って笑い、彼はこちらの手を取った。体温の違いのせいだろう、いつもは彼の手の方が冷たい。けれども今は、しばらく寒空の下にいたせいで、こちらの方がずっと冷えていた。だから、暖を取る火に手を翳しているように、繋いだ手が温かかった。 母屋とは違い、物心ついた頃からひとりで暮らすように与えられている離れの風呂場は、あまり広くなかった。もともとひとりで使うことを念頭に作られているのだから当然のことなのかもしれないが、ふたりで入るには狭すぎて、どんなに深く絡み合ったあとでも、その後に汗を流すときには、別々に湯船を使うしかない。食べ物でも飲み物でも、熱すぎるものが苦手な恋人は、いつでも順番は後でいいと言う。だから今日も、彼が上がるのを待つ間、庭を少し歩こうと思って、そっと離れを出た。自分を取り巻く環境が変わってからしばらくは、そうすることもなかった。けれども近頃、そんな風に、また夜に庭を歩くことが増えていた。 湯上りの彼は、泊まっていく時のために、と置くようになった寝間着を着ていて、寒さを凌ぐためか、その上からいつもしている黄色いマフラーを首に巻いていた。驚いてそのまますぐに出てきたのか、洗い髪もまだ濡れている。 二日ほど前に降った雪が、庭を白く覆っていた。しんと静まり返った暗い中を、手を引かれて離れに戻る。風呂を出たらそのまま寝てしまうつもりだったので、もう床の支度は整えてあった。 「すごく冷たい」 部屋に上がるとすぐに、彼はこちらに向き直り、両手のひらでこちらの頬を包んでそう呟いた。そうして、まるで体温を分け与えようとするように身を寄せられ、少しだけ背伸びして、頬と頬を合わされる。じわりと伝わる緩い熱が彼そのもののようで、身体よりも胸の内側が温まって、どこか切ないような気持ちになった。 「もう一回、お風呂入る?」 尋ねられて、首を振る。腕の中の温かい身体をそのまま捕まえて、熱を盗み取るように、その唇を軽く食んだ。彼はまた、くすくすと小さく笑う。 「そこも、冷たい」 そうして仕返しされるように、今度は彼の方から重ねられた。皮膚よりも直に熱を伝える口内に舌を割り入れて、同じだけ熱い相手の舌を絡め取る。熱を奪う度に、腕の中の身体が小さく跳ねるように震えた。 「ん、……」 息を漏らして、かたちの良い耳を朱に染めるその表情に目を細めて、抱きこむ腕を強くする。今夜はもう、互いに満足するまで、十分に抱き合った筈なのに、この上まだ欲しがる気持ちが残っている自分の欲深さを宥めて、抱き合ったまま布団に滑り込んだ。甘えるように縋りついてくる身体を胸に抱えて目を閉じ、深く息を吐く。なにも、今夜は外に出なくともよかったのに、と、今更になってそんなことを思う。今夜は、彼がいてくれる。だから、大丈夫。 冷え切っていた布団が人肌で温もる頃には、もう恋人は寝息を立てていた。その顔を見つめて、こんな風に今なお寄り添っていられることを改めて幸福だと思い、堪らずにその寝顔に何度も唇を落とした。 「深夜徘徊?」 間の抜けた声で鸚鵡返しをする牧丘コウの反応があまりに想像通りで、花羽未月は思わず溜息をついた。 「捧さんが?」 そうだと答えて頷くと、コウは不思議そうな顔をした。 「家を出て、どこかに行っちゃうってことか」 「違う。おそらく、敷地の外には出ないんだろう。庭をうろうろと歩き回っているらしい」 「そんなの、別におかしいことじゃないよ。ちょっと眠れなくて、散歩してるんだろ」 「この雪の降るなかに、毎晩か?」 「……日課にしてるとか」 「確かに、そんな感じではあった。それでも、最近は無くなったはずだったんだ」 コウは未月が何を言おうとしているのか把握出来ずにいながらも、それでも、毎晩庭を歩き回っているという捧のことを擁護しようとする。 「元々、そういう癖はあったらしい。父さんが理由を尋ねると、眠れないからだと答えて、それを聞いた母さんが薬を与えていたはずだ」 「薬?」 「睡眠薬みたいなものだろう、たぶん」 「……そんなの、あんまり飲んでなさそうだったけど」 それはおまえが一緒にいるときなら、そもそも眠る気も起きないか、または薬に頼る必要もないほど疲れ果てるまで離さないからだろう、と内心ではそう思ったものの、口には出さなかった。あまりに品のない発想だと、自分でも自覚があったからだ。おそらく、ほとんど事実であることには違いないだろうが。 「あいつの置かれた環境から考えても、そんな状態に陥っても何ら不自然は無かった。だから、それは仕方のないことだとは思う。……ぼくがこんなことを言うのでは、おまえは面白くないだろうけれどな」 自分でも偽善的に聞こえた言葉に、最後に自嘲するようにそう付け加える。コウは大して気にする様子もなく、そんなことないけど、と呟くだけだった。 大晦日までもうあと数日という日になって、花羽の家でも新しい年を迎える準備が始まっていた。特に今年と次の年は、大きな節目となる大切な一年だ。未月にとっては決して、良いことばかりだった年ではないが、それでも、もう、個人的なことを考えていられる立場ではない。これからは自分が、この家を背負わなければならないのだから。当主の襲名は終えたものの、まだ学生の間は、父が手助けをしてくれることになっている。本来ならば、母が為すべきはずだったその役目は、今は父に任されていた。母はもう、この家にいない。小さい頃からずっと苦手だった姉も。残ったふたりだけで、これからは家を支えなければならない。 使用人たちが屋敷中を掃除している中で、未月とコウは奥の座敷で餅を丸めていた。だだっ広いだけでとにかく冷え込むこの家には、先祖代々の暮らしを重んじるあまりに、ろくな暖房設備が備わっていない。古いストーブでどうにか暖かくしているが、そもそも座敷が広すぎてあまり役には立っていなかった。本来ならば男手は、屋根や来客用の駐車場の雪掻きに回したかったが、どうも牧丘コウは朝に顔を合わせたときから咳込むことが多く、声の調子も少しおかしかった。風邪を引いているらしい人間に、この雪の中で作業をさせるわけにはいかないと思い、厨房に頼み、この仕事を貰ってきた。年明けの挨拶に訪れる一族の者たちに振舞われる、雑煮用の餅を形を整えては並べていくのだ。 捧は父と共に、外での雪掻きをしている。コウもそちらの仕事を手伝いたがったが、捧にも暖かいところにいるように言われて、おとなしく餅を丸めていた。未月が一緒なのには、特に理由は無かった。大学受験を控えて、風邪など引いたら大変なことになる。父にもそう言われて家の中にいるが、よく考えたら、風邪を引いている人間の近くにいるのでは、あまり意味はないかもしれない。 しかし慣れない手つきで餅を固まりから千切り、困ったような顔をしつつ手のひらで丸めるコウが、呆れるほどに不器用だったので、とてもひとりでは任せられなかった。だいたいこんな感じで、と厨房の者から最初に丁寧に教えてもらい、それに素直に頷いていたのに、全然違うものを淡々と並べている。ひとつひとつの大きさが全く揃っていないし、丸というよりは平たいヒトデのような不格好な餅がたくさん並んでいた。 「おまえ……、不器用なんだな」 「悪かったな。苦手なんだよ、手先を使ったり、美的感覚を求められるようなこと」 「そんなの、言われなくても分かる。これを見れば」 ヒトデをひとつずつ手に取り、丸い形に整え直す。コウはそれを気にする風でもなく、本人なりの精一杯なのだろう、中途半端な丸さの餅を並べ続けていく。 「そういえば、この間、おれ、風邪引いてさ。体調悪くて、吐いたりしてたんだけど」 何を思ったのか、ふと口を開き、そんなことを言ってくる。この間風邪を引いて、などと言っている口ぶりからすると、もしかしたら今は体調を崩しているという自覚はないのかもしれない。この男にはどうも自分の体調に無頓着なところがあるのだと、そんな風に聞いたことがあったことを思い出した。 「……それで?」 「捧さんがずっと傍に付いててくれたんだけど、その時すごい真面目な顔で変なこと言ってさ」 なんだ、ただの惚気か、とそう思い、軽く聞き流すことにした。適当に相槌をうちながら、餅を丸める。 コウはどこか、言うか言うまいか迷っている様子だったので、それで、と、もう一度言ってやると、うん、とひとつ頷いてから、とんでもないことを言った。 「悪阻かもって」 「……はあ?」 思いもしなかったその言葉に、丸めていた餅を落としてしまう。言われた未月はひたすら呆れるしかないが、コウは困ったような顔をしていた。 「おれ、びっくりして、気持ち悪いの治っちゃったよ」 「それで、おまえ、どう答えたんだ」 「『違うと思う』って」 「馬鹿! どうしてそこで、絶対に違うと言わないんだ」 「だって、冗談かもしれないだろ。……すごい真面目な顔だったけど」 捧の深夜徘徊の話から、そういえばこんなことがあった、と記憶が繋がったのだろう。世間知らずなのは育ってきた環境のせいで仕方のないことではあるし、その原因や責任は全て未月たちの一族にある。捧はただの被害者だ。それでも、その境遇を憐れんで、そうして別の道があることを秘かに願いながら、父がずっと、彼に様々なことを教えていた。学校に通わせない代わりに一通りの教養を与え、新聞を毎日読ませ、他人と接する機会が奪われているその代償に、膨大な量の本を読ませた。だからもしかしたら、普通に生活をしている同じ年齢の人間よりも、知識は多いかもしれない程だ。……それだけの教育を受けてきて、まさかそんな基本的なことを飛ばしているとはとても思えないが。 「父さんに、保健体育の勉強はさせたのか聞いておく」 未月がそう言うと、コウは少しだけ笑った。近頃では、そんな顔も時折見せるようになった。笑いかけられる度に一々感じ入る自分が、少し居心地が悪くて、直視しないように目を逸らして餅を丸める。 「おまえ、このところ毎日来ているけれど、家はいいのか」 牧丘コウは血の繋がらない祖母に生れた頃から育てられた。今でも祖母と、家に下宿している居候との三人で暮らしている。未月は数回しか彼の祖母とは顔を合わせたことはないが、上品な、表情も仕草も柔らかい人だった。何においてもぼんやりとしているコウが、時折見せる驚くほどの意思の強さや、自分を計算に入れることさえ忘れてしまうその性格は、この人が育てたものなのだと思うと、無条件に尊敬したくなった。コウも、祖母のことはただひとりの家族だとして大切にしている。それなのに、ここ数日間は、ずっと家には帰っていないようだった。昼間は母屋の方にふらふらと現われて、その辺りにいる使用人と一緒に窓を拭いたり、廊下の雑巾掛けをしたり、頼んでもいないのに大掃除の手伝いをしている。夕飯を食べると、捧と共に離れに帰って行き、そうしてまた朝になると朝食を食べにやって来た。確認はしていないが、おそらく、家に帰らずにそのまま捧の離れに泊まっているのだろう。年末なのだから、自分の家でも、年越しの準備でしなければならないことがあるのではないだろうか。特に下宿人のあの男は、ろくに休みが貰えそうにないと嘆いていたのだから、こういう時に孫が祖母を助けなければならないのではないだろうかと、余計なことを考えていた。 コウは未月のその言葉に、あまり聞かれたくないことに触れられた、とでも言いたげに、うん、と頷いた。 「今、ほら、年末だから。……お祖母ちゃんの、ほんとの家族が帰って来てて」 そう答える声が、だからごめん、と謝っているようにも聞こえて、悪いことを聞いてしまったのかと感じる。それでも、初めて聞く話だった。祖母の、ほんとうの家族。コウと祖母は家族なのだから、だったら彼らも、コウの家族ではないのだろうか。親戚一族が多くて、一体どこまでを家族と区切っていいのか分からない未月には、コウがそんな風に言い訳のように口にしたことが、あまり理解出来なかった。 「おれ、あの人たちがちょっと苦手で。八木さんもずっと仕事で、帰って来ても夜中だし、居づらくて」 「向こうは、おまえがいなくて寂しいんじゃないのか。折角帰ってきているんだろう」 「多分、そんなことないと思う。お祖母ちゃんはそう思ってくれるかもしれないけど」 去年までは他に行くところもないから、居たたまれない思いでずっと部屋に籠っていたのだとコウは言った。 「年明けまでこの家にいるつもりか」 「捧さんは、そうすればいいって言ってくれた。でも、なんか、お客さんもいっぱい来るんだろ。おれは、ほんとならここに出入り出来る立場じゃないし。今日か明日には、帰るよ」 別にそれを咎めるつもりではなかったのに、コウにはそう聞こえてしまったのだろう。途中何度か咳をしながら、独り言のようにそんなことを言われる。 「帰りたくないんだろう」 「そういうわけじゃないよ。ただちょっと、居づらいだけで。あっちの家に来いっても誘われたけど、あんまり行きたくなくて」 「あっちの家?」 「……雨夜だよ」 言いにくそうに口にされたその名前に、自分でも視線が尖るのが分かる。あの家のことは、話題に出されるのも嫌なほど、嫌いだった。長い時間を掛けて培われた、作られた感情であることは未月にも分かっている。家に対してはそうかもしれない。それでも、自分と相対する位置にある、その一族を率いるあの男のことだけは、純粋に人間として苦手だった。コウも、そのことをよく知っている。だから、その家のことを話す時はいつも、苦々しい顔をして、出来るだけ早く会話を打ち切ろうとしてしまう。雨夜は、コウにとっては縁の深い家だ。 「あんなところに行くくらいなら、どこかで野宿した方がましだ」 「どっちみち、一回くらいは顔を出さないと。マリカにもお年玉あげるって約束してるし」 「おまえな。自分がどんな扱いをされたのか、全部忘れたのか」 「忘れたわけじゃないけど。でも、一応、親戚だし」 あんまり行きたくないけどさ、と付け加えて、コウはまたおかしな形の餅を並べていく。あと少しで、終わりだ。 「年が明ければ、母屋の方は人の出入りが多くなる。ぼくも父さんも、ずっとその相手をすることになる」 相変わらず綺麗な丸ではない餅を整え直しながら、出来るだけ嫌な言い方にならないよう、注意して言葉を選びながら話す。 「雪も降るし、外は寒い。だから、離れにいれば、誰とも顔を合わせなくて済むだろう。元々、捧にも少し挨拶して貰う以外は、ずっとそこに居てくれと頼むつもりでいた。まだ余り、多くの人間の前に出るのは気が進まないようだしな」 コウは餅から顔を上げて、未月を見た。うん、と、話す内容に頷くものの、こちらの言いたいことは伝わってはいなさそうな表情だった。大変なんだなとでも言いたそうな顔をしている。 「だから、構わない。捧も、おまえが居た方が落ち着くだろうし」 「何が?」 「……おまえがこの家にいたいなら、気が済むまでいればいいと言っているんだ」 「え、でも」 「ぼくがいいと言っているんだから、誰も文句を言わない。ひとの親切はありがたく受け取れ」 「……そっか」 そんなことを言われるとは思ってみなかったのか、コウはしばらく意外そうな顔をしていたものの、やがて、また少しだけ笑って頷いた。 「未月は、もう、当主なんだもんな」 そう呟いた声が、どこか寂しげだった。何か、いろいろなことを思い出したのだろう。いつもの黄色いマフラーの端を、無意識なのだろう、指先で触りながら、ありがとうと小さく言った。 やっと餅をあるだけ丸められて、コウが満足気に息を吐く。あまりに形がいびつなものは未月が整えて丸くしたため、それほど見た目は悪くなかった。手に付いた片栗粉を払いながら、寒くなったのか、また咳をする。未月に気を遣ってだろう、手のひらで口元を覆って背中を丸めるその姿が、朝よりも具合が悪そうに見えた。 「熱はないのか」 「大丈夫だと思う。でも、未月にうつしたら大変だし、どっか、別の場所に行ってるよ。外、手伝ってくる」 「馬鹿、もういいからおまえは休んでいろ」 部屋を出ようと立ち上がりかけたコウを、マフラーを掴んで止める。いつもならそんなことはないだろうが、やはり具合が良くないのか、コウはぐらりとバランスを崩して未月の方に倒れ込んできた。咄嗟に受け止めるが、自然と抱き留めるようなかたちになってしまう。コウは不本意そうに声を上げた。 「なにするんだよ。くっつくなよ、風邪うつるだろ」 「それはこっちの台詞だ!」 思わずうろたえてしまい、突き飛ばすようにその身体を離してしまう。こんなところを捧に見られたら、また何をどう思われるか分からない。物事に心を寄せるということをまるで知らなかったはずの捧は、自分では気付いているのかいないのかは分からないが、コウにだけは特別な執着心を見せる。それこそ、未月が隣に並んで他愛もないことを話しているだけでも、面白くないと言いたげに見てくるほど。子どもじゃあるまいし、とそれを馬鹿馬鹿しく思いつつも、同時に、少しだけ羨ましいような気もした。捧は、それだけのことを、許されている。 「……おまえ、ほんとうに、受験はしないのか」 少し休もう、と、炬燵のある居間へとコウを連れていく。並べ終えた餅や空になった容器を厨房に戻す。ふたりぶんの茶を淹れて貰った湯呑を受取り、熱でもあるのかと疑わしくなるほどぼうっとしているコウに早く炬燵に入るよう促す。どちらかというと意志の強そうな顔立ちなのに、コウはいつでも表情がぼんやりしている。視線が定まらないというか、何を見ているのか、何を考えているのかよく分からない顔をすることが多いのだ。今は、怒ったり、笑ったりする顔をいくつか見て知ってはいるものの、こんな風に接することのなかった頃は、何に対しても心が動かなさそうな、大人しいというよりは達観した人間なのだと思っていた。実際に接してみたら、その予測とは掛け離れた部分も多かったが。それでも、普段の表情は、やはりその薄らぼんやりした曖昧な顔だ。 ぼうっとしていた目を未月に向けて、コウは困ったように一度瞬きをした。 「うん。もともと、勉強もちゃんとしてなかったし」 「内申はそれほど悪くないだろう。基礎的なことが出来ているなら、今からだって遅くないはずだ」 「いいよ。最初から、大学に行くつもりなんてなかったから」 だから受験料の無駄だし、と、湯呑を引き寄せてコウは呟く。触ってみて熱かったのか、口を付けることはせずに、手を温めるように炬燵の中に戻す。 「……卒業したら、どうするつもりなんだ?」 「分からない。卒業するまでに決めるよ」 「いい加減なんだな」 呆れたような気分でそう言うと、コウは軽く笑った。学校のクラスメイト達などは、間近に控えた大学受験に圧迫されそうな勢いで毎日を過ごしている。未月自身にはそれほど焦る気持ちもなかったが、それでも、こんな風に呑気にしている人間を見ると、逆に大丈夫なのかとこちらが心配しなくてはならないような気になった。 「不安がないわけじゃない。どうなるんだろうって、考えてはいるよ。……将来のことなんて、ずっと、考えたことがなかったから、まだよく分からないんだ。ほんとは、中学だけ出たら、もう働こうと思ってた。それをお祖母ちゃんや八木さんが、高校くらい、って言うから、それに甘えたけど」 独り言のようなコウのその言葉に、未月は改めてコウの家族環境を思い出す。血の繋がらない祖母と、ちょっと苦手だというその家族。なんでも、望めば当たり前のように与えられる環境ではないのかもしれない。 「先のことなんて、考えたことがなかった。ただ、お祖母ちゃんには、世話を掛けた分、恩返ししなきゃって思ってはいたけど。それだけだった。でも、今は、違うから」 だから大丈夫、と、珍しく、牧丘コウはたくさん喋った。未月も向かい合うように足を入れている炬燵の温度は、まだそれほど熱くはない。それなのに、もうのぼせたように頬をかすかに赤くしているのは、もしかしたらほんとうに熱が出たのだろうか。いつになく多弁なのも、そのせいかもしれない。 「……そうか」 「うん」 今は、違うのだという。それだけの言葉で、コウが何を感じているのか分かった。 湯呑に手を付けず、炬燵の天板に頭を乗せて目を閉じている。眠いのかと聞くと、曖昧な返事しかかえってこなかった。溜息をついて立ち上がり、膝掛けを探してきて丸まった背中に掛けてやる。目を閉じてうたた寝を始めたらしいその額に触れてみようと、手を伸ばしかけた。 けれどもすぐに足音が聞こえてきて、触れないままに戻す。 「ご苦労さま、未月。厨房の人たちが有難うと言っていたよ」 廊下に面した襖が開けられ、父の声がそう言ってきた。雪掻きをするに当たって、厚着をしすぎたのか、暑そうに汗すら額に浮かんでいる。それを拭いながら、父はコウを見て笑った。この子はいつも寝ているねぇ、と、確かにその通りかもしれないことを言う。 父の後から少し遅れて部屋に入ってきた捧も、すぐに毛布を被って眠るコウを見て、目を細めた。動きやすいように、と、普段は身に着けない袴姿の捧を見て、今朝方コウが嬉しそうにしていたのを思い出してしまった。 「風邪を引いているらしい」 着替えてくる、と父が自室へ向かったのを見届けてから、捧に向けてそう教えてやる。 「風邪?」 「そう。おまえが手加減しなさすぎなんじゃないのか」 意地の悪い気持ちになり、ついそんなことを言ってしまう。しかし捧は、それを気にする様子もなく、炬燵に突っ伏して眠っているコウの寝顔を窺うように、傍に膝をついた。先程、未月がしようとしていたように手を伸ばして、その額に触れる。見ているだけの未月には、それがどれほどの熱を持っていたのかは分からなかった。 「……ささぐさん?」 外から入ってきたばかりらしいから、きっとその手は冷たかったのだろう。触れられたことで目を覚ましたらしいコウが、ぼんやりとその名前を呼んだ。いつの間にか寝ていたのか、と自分を不思議に思うように、未月が肩に掛けた膝掛けを半覚醒の目で見ていた。 「熱があるかもしれない。……昨日、湯冷めしたんだろう」 低くそう言う捧に、コウは平気だよと笑う。捧は笑い返すことはしないで、未月を見た。 「どうすればいい」 「薬を飲んで暖かくして寝ていれば治る。でなきゃ医者に連れていって、注射だ」 未月がそう言い切ると、コウが、そんな大袈裟な、と声を上げる。確かに、今すぐ医者に見せなければならないほどの症状ではなさそうだった。捧には、きっとそれも分からない。生まれた頃からの周囲の努力の賜物か、捧はこの年まで、病気らしい病気をしたことがないはずだ。未月や本家のものが風邪を引いていても、そんな時には絶対に離れには近寄らないようにと言われていたので、病人というものを見る機会も極端に少なかった。苦しんで血を吐いたり、怪我をして意識のない状態にある人間など、捧はきっと、コウしか見たことがないはずだ。 「薬を持っていってやる。離れで寝ろ」 その程度でいいのだと言い聞かせるようなつもりでそう言うと、コウは何度か咳をして、それに頷いた。 捧は咳込むその背中を撫でていた。不安そうにコウの表情から逸らされないその目が、何故だかどこか、自分を責めているもののようにも感じた。
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