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1章「蝶」 8.蝶狩り の辺りの話 
「他人には分からない、特別」


 もう豆腐は食べたくない。

 そう思って、夕飯は自分で用意しようと思い、台所に立つ。
 あれだけ大量にあった豆腐は、どうにかなくなった。
 嫌いなわけではないが、それでも、ずいぶん食べ過ぎた。
 さすがに、そろそろ違うものを食べたくなってきている。
 それになにより、いまは、自分ひとりで食事をとるわけでもない。
 所作のひとつひとつに、否が応でも育ちの良さをうかがわせる人に、せめて何か、もっとちゃんとしたものを食べさせたかった。
 後をついて台所に来た捧が、冷蔵庫を覗き込んでいるコウに静かに尋ねてくる。
「コウは、何をしているんだ」
「ご飯。何か、豆腐以外のものにしようと思って」
「豆腐ではいけないのか」
「いけなくはないけど、でも、ちょっと飽きた」
 すると捧は、かすかに、意外なことを聞いた、とでも言いたげな顔を見せた。
「コウは豆腐が凄く好きなのかと思っていた」
「どうして」
「たくさん食べさせてくれたから」
「……あれは、たまたま、豆腐が家にたくさんあったから。普段は違うよ」
「違うのか」
「違います。だから、豆腐じゃないものをなにか、作ろうと思って」
 それを聞いた捧は、納得したようにひとつ頷いた。
「料理をするんだな」
「うん、一応。全然やったことないから、上手には出来ないけど」
 そんなものを客人に食べさせるつもりか、と、考えてみれば失礼な話ではある。
 しかし謙遜ではなく、コウには料理の経験がほとんどなかった。
 かろうじて、家庭科の授業で習った程度だったが、ぼんやりしている質のためそれも曖昧だった。
 とりあえず切ったり焼いたりすれば食べられるものが出来るはず、と思い冷蔵庫をまた覗いていると、捧が両肩に手を掛けてきて、そこから引き離された。
「おれがやろう」
 何を言われたのかと思い、しばらく理解出来なかった。
 じっと見上げていると、安心させるように微笑まれる。
「大丈夫。コウは、座って待っていてくれればいい」
「え……捧さん、料理できるんだ」
「いや、したことはない。おれの場所には、炊事場はないから」
「じゃあ、おれと似たようなものじゃないか。なにが大丈夫なんだ」
「おれは毎日、新聞を読んでいる」
「新聞?」
「金曜日に、生活欄に『きょうの料理』の記事が載っている。それをいつも読んでいる。だから大丈夫だ」
「それ、大丈夫じゃないよ、絶対! 包丁で怪我したら大変だから、おれにやらせて」
「コウが怪我をしたらどうするんだ。それこそ、大変だろう」
「別に、大変じゃないよ。おれ、ぼーっとしてるから、怪我なんてしょっちゅうしてるし」
「おれが大変なんだ」
「……どういうこと?」
「コウは、血の一滴まで全部、おれのものだから」
 じっと、真っ直ぐに見られながら、そんなことを言われる。
「ひとは、そんな大切なものが傷つくかもしれないのを、黙って見ていないだろう」
「……ただの料理だよ。そんな大袈裟な」
「大袈裟ではない。おれにとっては、大きな問題だ。コウが傷付いたら、辛い」
「捧さん」
「はじめて手にした、たったひとつのものなんだ。……大事にしたい」
 どうしてこんな話になったのか、よく分からなくなってしまった。
 真剣そのものの捧に、これ以上反論するのも悪い気がして、コウは話題を変えることにした。
「じゃあ、包丁を使わないでいいものを作ろう。それなら、心配ないよ」
「そんなことが出来るのか」
「できるよ。ほら、これとか」
「……これは?」
「冷凍食品」
 冷凍庫から、適当にいくつか取り出してみせる。
 無精なコウと居候のために、祖母が家を出る前に買い置いてくれたものだ。
 捧はぺたぺたと手のひらで袋の表面を撫でて、コウの言葉をそのまま繰り返した。
「れいとう食品」
「凍らせてあるのを、その電子レンジで溶かして食べる。すぐに出来るし、簡単なんだ」
 コウがそう説明すると、納得したように頷く。
 実物に触れるのははじめてだが、知識はあったのだろう。
 あの家を出てからの捧の言動は、なにもかもを初めて目にする人のものではない。
 新聞を毎日読んでいる、と言っていた。
 きっと、あらかじめ持っている知識と、見たものを結んで一致させているのだ。
「いろいろあるよ。あとは、ご飯と……、あ」
「どうした」
「ご飯、炊くの忘れてた」
 やはり人間、慣れないことを急にやろうと思っても、なかなか上手くはいかないものらしい。
 こんなに簡単なことも出来ない自分に呆れて、コウがほんの少し沈んでいると、捧は、それがそんなに大変なことなのか、と考えているようではあるものの、慰めるようにコウの頭を撫でてきた。
「おれのことなら、気にしなくてもいい。いつも、コウが食べているものを、少し分けてくれれば」
「おれの、いつも食べてるもの」
「そう。おれにとっては、それが一番知りたいことだ」
「……ないわけでは、ないけど……」
 だんだん、最初に目標としていた地点から、遠ざかっている。

「お湯を沸かす」
 これも存在は知っていたものの、実際に現物を目にするのは初めてのことらしく、捧の目はコウの手にしたものにじっと集中している。
「蓋を開けて、いろいろ入ってる粉とかを、この固まってる麺の上にかける」
 手順をひとつひとつ説明しながら、『料理』をしていく。
 なにかまともな食事をさせてあげたいと思い、けれども、結局辿り着いたのは、買い置きのカップ麺だった。
 言いようのない情けなさを感じたが、捧は一向に気にしている風もなく、むしろ興味深そうに、コウの一挙一動を観察するように見ていた。
「で、お湯が沸いたら、この線まで入れる」
「それで?」
「もう終わり。あとは三分ほど待つだけ」
 言いながら蓋を閉め、重しとしてその上から箸を載せる。
 終わり、と、感心したように、捧がコウの言葉を繰り返して呟いた。
「凄い」
「うん、改めて考えると、凄いかも」
「コウは偉いな。なんでも知っている」
 こんなのは誰にでも出来ることだ、と言いかけて、やめる。
 その言葉はこの人を傷つけるもののような気がした。
 自分のような、たいして賢くもない、物知りでもない、その程度のものがそんな風に眩しそうに見えるのだとしたら、その世界はどれだけ暗いのだろう。
「捧さんは、毎日、どんなものを食べてるんだ」
 考えていたら、自然と顔が曇ってしまいそうだったので、かわりに、そう聞いてみた。
 聞きながらも、自分のことは余り話したがらないこの人が、どこまで答えてくれるだろうかと期待する。
 言葉を選んでいるような間が、数秒だけあった。
「毎日、変わらない。おそらく、知識のある誰かが考えたものだ」
「考えたもの」
「そうだと聞いたわけではないが、きっと誰かに、管理されている。何をどう食べさせたら、適切に栄養を摂取出来て、体調を損なうことがないか。それが第一だから、大体、毎日同じようなものだ」
「美味しい?」
「考えたことがないから分からない。与えられるものが、すべてだから」
「毎日変わらない、似たようなものだけなんて、飽きるだろ」
「……おれには、飽きるということが分からない」
 コウが思わず、心に浮かんだことをそのまま言葉にしてしまうと、捧はよく見せる、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「毎日は同じことの繰り返しで、見えるものもなにも変わらない。それでも、そのことを、当たり前だと思っていた。そういうものなんだと」
 今はどうなのか、と尋ねかけて、やめる。
 聞かなくても、その答えは分かる気がした。
 それまでに見ていた世界が、ほんの一瞬で、反転したように色を変えることがある。
 捧の手を取った時から、コウにとってのすべてが、そうであるように。
 自惚れかもしれないけれど、そんな風に感じた。
「ずっと傍にいれば、コウはやがておれにも、飽きるんだろうか」
 じっと見下ろしていたカップ麺の蓋から顔を上げて、捧がふいに、そんな風に呟く。  
「わからない」
 三分計らなくてはならなかったのに、時計を見るのを忘れていた。
 紙の蓋の端を、少しだけめくってみて中を覗く。湯気で、よく見えなかった。
 もう少し待ったほうがいいかもしれない。
「わからない、けど」 
 そう感じていることはほんとうなのに、それでも、どうしても、捧の顔を真っ直ぐ見ることが出来なかった。  
「でも、飽きてしまうほど、ずっと一緒にいられたらいい」
 まるで、口にすればそれが必ず嘘にしかならないことを、あらかじめ思い知っているかのようだった。
 誰に断言されたわけでもないのに、それが、ひどく難しいことのような予感だけがある。
「そうだな」
 捧はいつものように、目を細めて微笑んで、頷いた。
 けれどもその声が柔らかくかすれていて、どこか弱かった。
 逃げても逃げても、檻の中から出られない。
「ごめん、結局、こんな晩御飯になって」
「謝る必要はないだろう。……とても、感謝している」
「明日は、また、出掛けようよ。ちゃんと買い物をしたり、どこか、外で食事をしたっていいんだ」
 この先にあるのは、きっと、怖くて嫌なものばかりだ。
 だから、未来と繋がっていない、ただ一点であるのみの、断絶されたこの時に奥深く逃げていく。
 そのための方法は、もう、見つけている。
「……捧さん、きょうの夜も、また」
 言葉は不安を絡ませるだけだから、そんなものに頼るのではなくて。
「昨日の、続きをしよう」

 もっと深く沈む方法を、いまは知っている。






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