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本編後、そして「つめたくふるほし」の後の話 
蝶結び

 手帳にいちばん最初に書き込んだのは、コウの誕生日だった。夏の初めの、明るい季節だ。

 その日付を眺めては考えるのが、ここ最近の捧の日課のようになっている。ひと月ほど前からずっと考えているのに、どうしても、良い案を思いつけないでいた。
「あの子のお誕生日プレゼント?」
 出来ることなら、自分だけで考えたかった。けれどもこのままでは悩むだけのような気がして、思い切って相談に乗って貰うことにした。
「あなたがくれる物なら、コウは何でも喜ぶと思いますよ」
「……そうだと、いいのですが」
 最初に頼ったのは、コウの祖母の澄子だった。生まれた時からずっとコウのことを見ている彼女なら、きっと、彼が何を貰ったら喜ぶか知っているだろうと思った。けれども、返ってきたのはそんな答えだった。
 捧も、そうかもしれないとは思う。コウは優しいから、どんなものを贈っても喜んではくれるだろう。けれど、それでは意味がない気がした。もっと、ほんとうに欲しいと思っていて、心から喜んでもらえるものを贈りたかった。
「澄子さんは、これまで、何か贈ったことはありますか」
「それはもう、毎年。けれどあの子は、知っての通り、気遣いさんのぼんやりさんだから、自分から何が欲しいか言うことはなくって。いつも、貴人くんと一緒に考えて貰うの」
 貴人というのは、この家に部屋を借りて住んでいる下宿人の八木貴人のことだ。彼も、コウのことを小さい頃から知っている。何を欲しがっているのか考えることは、長い時間一緒にいても難しい問題なのだろうか。
「あとは、物じゃなければ、特別なご馳走を作って食べさせてあげるとか」
「コウは、何が好きなのでしょう」
 一緒にいるようになってから、もう半年以上の時間が流れている。互いの家を行き来することも、近頃では外で食事を取る機会も増えている。それでも、コウの好きな食べ物を咄嗟に思いつけなかった。心当たりがない、というよりも、コウは何でも出されたものを淡々と食べるからだ。食べ物を粗末にしてはいけないのだと、少しくらい体調が悪くても食事だけはしっかりと取る。捧のところに遊びに来てくれるときは、いつも手土産のように途中で買ってきたお菓子を持ってくるけれど、あれはコウ自身のため、というよりも捧のためだろう。
 コウの祖母は、そうねぇ、と首を傾げた。
「お醤油をかけたご飯かしら」
「醤油?」
「そう。お刺身とか、生卵とかを乗せて、その上からお醤油をかけた白いご飯は好きみたい」
「それは、ご馳走になるのでしょうか」
「……ちょっと違うかしらね」
 意外なことを聞けたが、どうやらそれではあまりお祝いとしては相応しくないらしい。また考え込む捧に、澄子は微笑んだ。
「そんな顔をしないで。誰かのために、何をしてあげようかと考えるのも、楽しいことでしょう。ゆっくり時間をかけて、それを楽しめばいいのよ」
 励ますようにそう言ってくれる。はい、とそれに頷き返しながらも、それでも、どうしようかと悩む心は変わらなかった。


 その日は、牧丘の家に泊めて貰った。
 コウは学校を卒業してから、すぐに働こうとしていたのを家族に反対されて今は予備校に通っている。捧も春から通信制の高校に通うことを父には勧められたが、コウによく話を聞いてもらい、一年見送ることにした。
 もう少し、いろんなことに慣れてからの方がいいんじゃないかな、とコウに言われて、肩の力が抜けたように心が軽くなったのを確かに感じた。自分でも意識出来ないでいたが、まだ様々なことに対しての恐れのようなものはあった。少しずつ、一日一日と、新しいことやものに触れていくことで、徐々にそれが薄れていけばいいと今は思っている。ひとりでは、ないのだから。 
 夕飯の支度をする澄子を手伝い、台所に立つ。
 澄子は捧を、手先が器用で、包丁を使うのが上手だと褒めてくれる。料理は楽しかった。野菜や魚が、ひとの手によって形を変えていく過程は面白い。本に書いてある通りにすれば、写真と同じものが出来上がる。向いているのかもしれない、と、自分でそんなことを思う。つい最近まで、自分の毎日食べているものが、ひとの手によって作られているのだという認識すら持たなかったのに。
 コウは何を出しても美味しいと言い、残さず食べる。自分の作ったものを、コウが食べてくれるのを見るのは、料理をするのと同じくらい好きだった。
「……あらあら」
 食事を終えて、後片付けを済ませてから居間に戻ると、コウはテレビを見る姿勢のまま、うとうとと眠りかけていた。捧と一緒に戻ってきた澄子が、呆れたように笑って風呂の準備をしに行く。
「コウ」
 その傍らに座る。眠そうにしていたコウは、捧の方を見てかすかに笑った。テレビでは、夜のニュース番組が始まっている。本格的に夏の暑さが強まってきていて、熱中症で倒れる人が増えているというニュースを聞きながら、コウに思い切って尋ねてみた。
「何かおれに、してほしいことや、ほしいものはないか」
「……捧さんに?」
 これまでも、何度もこうして聞いている。それでも、大概いつも、ないよと誤魔化されて終わりだった。卑怯な考えではあったが、こんな風に眠りに落ちかけている曖昧な状態ならば、本音が探りだせるのではないかとそんなことを思った。
 コウはしばらく黙っていたが、やがて、座る捧の膝の上に頭を乗せて、そのまま横になる。
「じゃあいま、おれの、枕になってよ」
 いい考えだと言わんばかりに得意気に笑って、そのままコウはうたた寝を始めてしまった。
 その髪を撫でながら、息を吐いた。もっと、立派なものを、贈りたいのに。


「財布をやれ」
 翌日、花羽の家に帰って未月にも同じことを聞いてみると、そんなことを言われた。
「この間あいつに、ガムテープを貸してくれと言われて、何をするのかと思って見ていたら、財布に貼り出した。小銭入れのところに穴が開いていて、そうしておかないとお金が落ちてしまうらしい」
「それは、あの八木さんというひとが考えているそうだ。あとは、目覚まし時計と」
「目覚まし時計? そんなものを欲しがっているのか」
「いや、特に自分からは言っていない。ただ、以前に使っていたものが壊れたらしいから」
 コウは今、携帯電話の目覚まし機能を使って毎日起きている。捧はその場面を目にしたことはないが、時たま、時間になって鳴る電話を止めて、一体誰と会話しているつもりなのか、ひとりで何やら話していることがあるらしい。寝惚けているらしく、しばらく何事か話したあと、また何もなかったように寝直してしまうのだと、そんなことを言っていた。その話を聞いた時はコウも一緒だった。そんなことしてない、と身に覚えがないことを主張していたが、きっと、実際にやっているのだろうと想像は出来た。コウは時々寝言も言うし、起こしたばかりの時などは言うことが可笑しい時もある。
「おまえの首にリボンでも結んでいけばいい」
「……それではお祝いにならない」
 未月が意地悪な口調でそう言うのに首を振る。捧はすべて、コウのものだ。だから、それを改めて贈ったところで、意味がない。
「未月は、何か考えているのか」
「適当にな。……雨夜のあの娘にさえ、義理とはいえ誕生祝いは毎年贈っている。それであいつに何もないのはおかしいだろう」
 何も聞いていないのに、理由まで教えてくれる。雨夜の当主はひとり娘を溺愛していて、その誕生日には毎年大勢を招いて祝っていると、コウにも聞いたことがあった。それだけの大勢からどんなものを贈られるのだろうと考えていると、未月が釘を打つように冷たく付け加える。
「あんなところまで、話を聞きに行こうなんて考えるなよ」
「いけないのか」
「牧丘コウが自分の誕生日のことを話していなかったら厄介だろう。あの男に、あいつが嫌がることを分かっていて、自分の娘にするのと同じように宴でも開かれたらどうする」
「……わかった」
 未月の言うことは筋が通っている。コウは雨夜の当主のことがあまり好きではない。だから、もし捧のせいでそんなことになってしまったら、きっと嫌がって困るだろう。大人しく頷くと、未月は、確かに、と自分でも悩んでいるように眉を寄せた。
「あいつの欲しがるものを考えるのは難しいな。おまえが、自分にあげられそうなものを考えて、そこから一番ましなものを選べばいいんじゃないか」
 それは確かに、真理だった。


 近頃では、ひとりで外を歩くことも増えた。
 そういう時は普段着にしている着物では人目を引くので、少しだけ揃えてもらった洋服を着て出かける。出会って間もない頃、コウにそんな風に教えられたことがあったことを思い出す。あの時、生まれて初めて、洋服というものを着た。今でもやはり慣れないせいか、どこか落ち着かなくて動きにくい気はする。それでも、最初ほど、鏡にうつる自分の姿に違和感を覚えることはない。
 花羽の家を出てから、コウの住む家までは歩いて三十分ほどの距離になる。電車に乗れば二駅で、歩くよりもずっと早く着く。けれど、歩いて、いろいろなものを見るのが好きだった。それに、駅から直接コウの家に行くのでは、途中で寄れないところがある。神社と、商店街の中にあるコンビニだ。
 捧はまだ、仕事をしていないから収入はない。お金は、必要になるものがあると父から貰っている。それに、自由に欲しいものを買いなさいと渡される分もある。まだ自分で何かを選ぶのには不慣れで、店に行くとたくさんのものが並びすぎていて、その中からどれを手に取ればいいのか分からなくなる。
 コンビニというのは比較的店舗が小さくて、並んでいるものをすべて見ていっても、あまり時間がかからない。それにこの場所は、コウと一緒に花羽の家から最初抜け出した時に、連れて来てくれたところだった。足を踏み入れると、いつでも、その時のことを思い出して、もう随分と昔のように懐かしく感じる。
 それよりも先に、立ち並ぶ家の間の細い路地を通って、裏道に入る。
 今日は休日ではなくて、それに昼下がりの暑い時間だから、道を歩いている人はほとんどいない。蝉の声を聞きながら、色の褪せた鳥居をくぐる。
 コウの家に行く時は、この神社にもいつも寄っている。今では町の奥へと追いやられるようにひっそりとした、小さな社。周囲を取り囲む鎮守の木々だけが青々と繁り、夏の強い日差しを遮っていて、木陰に入ると大分涼しい。
 この社に祀られている神様には、特別な縁があった。かつての捧があったのも、そうして、今の捧がこうしてあるのも、すべて、この神様の力に依るところが大きい。だから、その感謝と、敬意の気持ちを込めて参拝していた。コウにとってもそれは同じだから、ふたりで来ることも多い。
「……祟堂様。今日は、コウの誕生日です」
 柏手を打ってから、そんな風に呟く。こうして語れば、きっとその人に届く。
「彼という存在を授けてくださり、有難うございます」
 目を閉じて、もう一度深く礼をする。
 ここに来ると、心が落ち着く。神社とは元々そんな場所ではあるようだったが、この祟堂神社は特別、そう思う。守られている、と、強く感じることが出来る。
 もう少し居たいような気もしたが、今日は、コウも昼からは家にいるはずだった。花羽の家を出る時に、今から行くと電話をしたから、きっと待っている。そう思って、本殿に背を向けた時だった。
「……、?」
 何かが背中に投げつけられた感覚に、振り向く。小さな、軽いものの感触だった。不思議に思い、足元を見ると、そこには銀色の硬貨が一枚落ちていた。拾い上げてみる。百円玉だった。
 捧が先ほど賽銭として投げ入れたものとは違う。不思議に思いながら、拾ったそれを賽銭箱に投げ入れた。
 けれども背を向けるとすぐに、背中に同じものがぶつかる。投げたはずの百円玉がまた落ちていた。
 首を傾げながら戻って、また投げる。去ろうとすると、同じことがもう一回。何度か、それを繰り返した。けれど、何度やっても、百円玉は戻ってきた。
「……これを、持っていけということでしょうか」
 そんな罰当たりな真似は出来ない。けれど、更に何回か戻そうとして、それでも背を向けるたびに跳ね返ってきた百円玉に、諦めて、それを手のひらに包む。
 誕生日のことを言ったから、だろうか。何となく、そんな気がした。
「わかりました。これで、コウを祝います」
 有難うございます、ともう一度深く礼をする。社は静かで、時折吹く風に木の葉が揺れる音と蝉の声だけが響いていた。


 買い物をしてからようやく牧丘の家に着くと、コウが玄関に座って捧を待っていた。
「遅かったから、何かあったのかって心配してた」
 安心したように立ち上がり、そう言って笑う。それに笑い返して、中に上がらせてもらう。
「今日は、澄子さんたちは」
「お祖母ちゃんは夕方には戻るよ。友達と買い物だってさ。八木さんは、夜勤。さっきまでいた」
 それに頷く。だから誰もいないんだと言う恋人の腕を掴まえて、軽く触れるだけの口づけをして緩く抱き合う。
 廊下の、庭に面した硝子戸は開け放たれていて、そこに吊るした風鈴が涼やかな音で鳴った。
「誕生日、おめでとう」
 胸に抱いたままのコウの耳元で、囁くように告げる。彼は少しだけ照れたように笑って、ありがとう、と短く呟いた。
「コウに、貰ってほしいものがある」
「おれに?」
「そう。気に入ってもらえるか、分からないけれど」
 そう言って腕を離すと、コウはどこか困ったような顔をした。そんな顔をしないで、というようなつもりで微笑んで、その頬を撫でる。
「ほんとうならばもっと、ちゃんとしたものをあげたかった。けれども、おれは今、自分の力で収入を得ているわけではないから」
 だから、お金をかけて高価なものを買うのは、何だかおかしい気がした。もっと違うことが出来ないかと思っていて、ふと、澄子の仕事を手伝っていて、思いついた。
「受け取ってくれないか」
 鞄に入れてきた包みを、コウに渡す。彼は戸惑いながらも大人しくそれを受取った。両手で包みを手にして、申し訳なさそうな顔をしてはいるが、同時に、中身はなんだろうと気にしているような表情もあった。見てもいいかと聞かれたので、頷く。コウはゆっくりとその包みをほどいていく。
「え。……着物?」
 驚いたように、声が上がる。
「違う。浴衣だ……これを、おれに?」
 木綿の手触りを指でなぞりながら、コウは捧を見上げた。包みに一緒に入れておいた紺色の帯を取る。
「帯は、もとからあったものしか用意出来なかった。けれどそれは、澄子さんに教わって、おれが生地から仕立てた」
「捧さんが!」
「そう。初めてだから、上手でないところもあるかもしれないけれど」
 細い縦縞の入った、灰色のその浴衣をコウに合わせてみる。思っていた通り、よく似合いそうだった。
「大変だっただろ」
「楽しかった。おれは手先が器用だと、澄子さんはよく褒めてくれる」
「凄いな。……着てみてもいい?」
「ああ」
 着ていた洋服を脱がせて、自分で仕立てた浴衣を着付けてやる。以前、帯の結び方がいつまでたっても覚えられない、と言っていたコウのために、帯は兵児帯を持って来ていた。これなら簡単に結べるし、それにコウにはそちらの方が似合う気がした。
 凄い、と、コウはもう一度呟く。
「袖も、裾もぴったりだ。売ってるやつみたい」
 寸法は、コウが眠っている時にひそかに計った。澄子に和裁の基礎を教わって、コウが留守にしている時や、自分の離れに持ち帰って、ひとりで針を進めた。ずっとコウのことを考えていたから、少しも飽きなかった。
 端絞りの紺色の兵児帯を結んでやり、正面に回って衿元を整える。少し引いて、全身を見る。
「よく似合う」
 コウのために誂えた、ただひとつの浴衣だ。考えていたよりもずっと、選んだ生地の色はコウの肌と表情に映える。惚れ惚れしてその姿を眺めると、少し恥かしげに袖を振り、コウは自分を見下ろした。
 ありがとう、と、小さな声でもう一度言われた。
「それと、もうひとつ」
 出来るならもっと眺めていたかったが、そちらも早く渡したかった。途中のコンビニで買ってきたものの入っている、小さなビニール袋を受け取って、コウは不思議そうに中身を見た。
「これは?」
「もうひとつの、誕生日の贈り物」
「……饅頭?」
 袋の中にひとつだけ入っていた、手のひらに簡単に納まってしまうほどの小さな饅頭を見て、更に不思議そうな顔をされる。お祝いの品と言えそうなもので、その上百円玉ひとつで買えるものを探すことのほうが、浴衣を仕立てるよりもずっと難しかった。
「嫌いだったか」
「ううん、そうじゃないけど」
「それなら良かった」
 浴衣姿で饅頭を手にして首を傾げているコウは可愛かった。思わず髪の毛を撫でて、嬉しくなって抱き締めてしまう。
 いつもと逆だ、と、コウはそんなことを言って笑った。捧が洋服を着ていて、コウが浴衣だからだろう。
「このままの格好でいてもいいかな。お祖母ちゃんにも、自慢する」
「それなら、少し夕涼みに散歩に出よう」
 捧がそう言うと、コウは驚いたように、目を瞬かせた。
「どうした?」
「……捧さんが、そうやって誘うの、珍しいなって思って」
 言われて初めて、そういえばそうだと自分でも気付く。
 近頃では互いの家以外の場所に行くことも増えたが、それはほとんどコウが場所を決めて、誘ってくれていた。捧の方から、どこかに行こうとコウに呼びかけたことは、これまでに無かった。
 コウは笑って、捧の手を取る。
「どこに行く?」
「祟堂神社に」
「サクラ様の? お参り、今日は行って来なかったんだ」
「いや、来る途中で寄った。けれど、お釣りをお返ししないといけないから」
 饅頭は百円よりも少しだけ安かった。だから、ほんの少しではあるがお釣りがあった。それを、返さないといけない。
「お釣り?」
 何のことだ、と聞きたそうな顔をするコウに微笑んで、重ねた手を強く握り返す。
「行こう」
 そうして、幸せなこの姿を、見て貰おう。
 頷くコウに、一度だけまた口づけをする。買い物に出掛けた澄子は、誕生祝いのケーキを買って帰ってくるはずだった。昨日、そう聞いた。夕飯は御馳走だから、それまでに帰って来て、用意を手伝わなければいけない。
 生温い風が、また風鈴を鳴らす。
 時計を見れば夕刻だったが、夏の陽はまだまだ翳る様子もない。だから、時間はたくさんある。今日も、これからも、この先もまだまだずっと。
「饅頭、半分ずつ分けようよ」
 出掛けるための戸締りをしながら、コウがそんな風に笑った。





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