* 「こいびとはロバのみみ」 みほん /一部抜粋 *

 (アルバイト先の店に「会いに行ける王子様」というテーマで雑誌の取材が来ることになり、勇気を出して
 受けることを決めた千晶だったが、 店のオーナーである神野にそれを断られてしまい… という場面です)

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 立ち上がろうとしていた神野の、シャツの袖を掴んで引きとめる。
「神野さん」
 千晶は、取材を受けるのだと張り切っていた。自分が頑張れば、店のためにできることがあるのだと思うと嬉しかった。それはつまり、神野のためにできることがあるということだからだ。
 けれど、その神野が、取材を断ったのだという。千晶はその理由が気になった。
「千晶」 
 引きとめられて、神野はまた、ソファに戻る。眉間に寄った皺のせいで、彼の整った顔はいっそう険しく見える。この人のことをよく知らない誰かの目には、おそろしく不機嫌な表情だと映るだろう。
 目を合わせてほしくて、千晶はシャツの袖をつかまえたまま、神野を見上げる。彼が、さきほどから千晶の眼差しを避けようとするわけを知りたかった。
「……もしかして、俺だからですか。取材の相手が」
 これまでに何度もあったはずの取材と今回との違いは、それが「王子様」なるものに焦点があてられていることだ。だから、神野がそれを店の宣伝としてそぐわないと言い切るのも、納得できなくもない。
 けれど千晶には、まだひっかかることがあった。神野がこの話を素っ気なく打ち切ろうとしている原因は、「王子様」どうこうではなく、その対象が、千晶だからではないだろうか。
「お……俺が、なにをやらかすか分からないから……」
 だから、断ったのではないか。そう考えると、筋が通る。千晶だって、きちんとした受け答えができるかどうかは、はなはだ自信がないのだ。いまはその頻度は減ったとはいえ、肝心な時に、大変な言い間違いなどをしてしまうかもしれない。店の印象を左右する、大事な取材の場だ。その役割を任せるには、千晶は危なっかしい。神野がそう考えても、自然なことだった。
 頭では、わかる。理解できる。けれどそれを、哀しいと思ってしまう気持ちもまた、誤魔化せなかった。
 千晶は指先で、ほとんど力を込めずにシャツの布地を掴んでいるだけだ。それでも神野は、まるで、少しでも動けば命があやうくなる急所を押さえられているように、身じろぎひとつしない。
「それは違う」
 やがて、低く否定される。袖の端をつかまえていた指を外され、神野の大きな手で、手のひらをくるまれる。
「きみはあまり、人目にさらされることを好まないはずだ。それでも、店のことを思って話を受けようと決めてくれたんだろう。気持ちは嬉しいが、無理をさせたくない」
 子どもに言い聞かせるように、神野はゆっくりと言葉を紡ぐ。その低い声と、手のひらに伝わる体温の心地よさに、つい、分かりましたと頷いてしまいそうになる。
 千晶のことが信頼できないわけではない、という神野の言葉に嘘はないだろう。それでも、まだ彼は、千晶の顔を見てくれなかった。
「無理じゃないです。できます」
 何か隠しているのだと、そう思った。言いづらい何かが神野の中にあって、千晶にはそれを見せまいとしている。聞かせてほしくて、首を振った。
「千晶」
「何か、言えないことがあるんじゃないかって、そんな気がします。神野さんはいつも、勘は大事だって言ってる……大切なことは、直感に従うべきだって。だから、それが俺のことなら、聞いた方がいいと思う」
 そんな気がするから、と言うと、神野はそこではじめて、千晶の顔をまっすぐに見てくれた。
「……自分の発言に、背中から刺されたような思いだな」
 物騒な言葉を、独り言のように低く漏らす。言おうか、言うまいか、まだ心が決まらない様子だった。鋭い眼光が、こころなしかかすかに揺れて見える。
 そんなに、言いにくいことなのだろうか。何を伏せているのか、知りたかった。
「俺、誰にも言いませんから……。あ、そうだ」
 これは、何かに似ているかもしれない。そんな気がして、千晶はソファの上に乗り上げる。そのまま、こちらを見て座っている神野の、ほとんど膝の上に乗るように身を乗り出す。両手を伸ばして、彼の頬に触れる。
「ロバの耳です、神野さん。どんな言いにくいことも、俺にだけは言っても大丈夫ですよ。誰にも言わないから」
 あれは確か、秘密を黙っているのがつらいというそんな話だった気がする。神野も、もしかしたら聞いてほしいのではないだろうか。勝手にそう判断して、千晶は神野の両耳を手で塞ぐ真似をした。そして詰め寄る。
「はい、言ってみましょう! 王様の耳はロバの耳!」
「そんな話ではないだろう」
 何を言い出すのやら、と、近い位置で見る神野の表情に、困惑が浮かんでいる。
「そうでしたっけ」
「違う気がするが。……分かった。きみがそこまで聞きたいなら、正直に話そう」
 まるで、聞かなければよかったと思っても知らないぞ、とでも言いたげな口ぶりだった。そんな風に言われると、余計に気になってしまう。話してくれるという神野の言葉に、千晶はこくこくと何度も頷いた。
 こちらの仕草を真似るように、神野の両手のひらが、千晶の頬に伸ばされる。触れる大きな手から伝わる体温に、つい嬉しくなって、笑ってしまう。
 けれど神野はそんな千晶の顔を見ても、真顔のままだった。生真面目な表情でまっすぐに千晶を見つめながら、彼は口を開いた。
「あの制服はいけない」
「制服? 店のですか」
 突然なにを言い出すのか、千晶には理解できなかった。急に、まるっきり別の話題に変わったのかと思ってしまった。
「そうだ。あれはいけない。あんな格好で、全国規模で売られる雑誌に載るのかと思うと……」
「別に、普通だと思いますけど……」
 千晶を見つめる神野の眉間に、いっそう深い皺が刻まれる。雑誌、という単語を聞いて、どうやら話が変わったわけではないようだと気付く。しかしそのことで、なおさら神野の言おうとしていることが分からなくなってしまった。
 アルバイト先の店の制服は、白いシャツに黒のパンツで、腰に黒いエプロンを巻く。それだけの、ごくごくシンプルでありふれたスタイルだ。それを雑誌の誌面に載せることが、神野にとっては耐え難いものなのだという。意外だった。
「神野さん、あの制服、あんまり好きじゃなかったんですか」
 じゃあどんなものが望ましいと感じているのだろう。そう思って、千晶は考えてみる。これまで行ったことのある飲食店のことを思い浮かべてみても、女の子はともかく、男の従業員の服装というのは、だいたい似通っている気がした。何がいけないのか、千晶には分らなかった。
 ああ、と神野は、小さく声を上げた。
「違う。服装自体ではなく、きみがあれを着るということが問題なんだ」
「え、俺の話なんですか」
 笑えるほど似合っていないとか、そういうことだろうか。店で一緒に働くスタッフや店長からは、特に何か指摘されたことがなかったから、考えたこともなかった。
「で、でも、ジャージ着て働くわけにはいかないし……」
 厨房から出ずに皿を洗うのならともかく、フロアに出てお客さんと接する以上、それなりの格好をしなければならない。
「いくら似合ってなくても、制服は制服だし。そういうものですし……」
 何に対してかよく分からない言い訳をしてしまう。これまでに神野には、何度も制服で働いている姿を見られている。それが彼の目にはどう映っていたのかと思うと、いたたまれないような気持ちになった。
「似合っていない? 誰がそんな話をしたんだ」
「神野さんじゃないんですか」
「少なくとも俺でないことは確かだな。……きみが間違って受け取らないよう、はっきり言う。よく聞きなさい、千晶」
 そう言って神野は、自分の頬に伸ばされた千晶の手を取り、両手のひらでつつむ。神野は千晶に大事な話をする時、必ずそうして、黄金の手で千晶の手のひらに触れる。
「あの制服を着たきみを見ていると、俺は欲情する」
 あたたかい手の優しいぬくもりとともに伝えられるには、少し過激な言葉だった。
「よくじょう……」
「風呂場じゃない」
 淡々と静かな声で言われる。それぐらいは分かります、と返す千晶の声は、しどろもどろになってしまった。
「似合わないなんて、とんでもない。俺にとってはその逆だ。できることなら、きみにだけジャージで仕事してもらっても構わないと思うくらいだ」
 そう言って、神野は千晶をまっすぐに見つめる。顔だちこそ静かな、生真面目な表情のままだったが、その瞳が向けてくるまなざしは、触れた肌が溶けそうに熱い。欲情、という、千晶がこれまで生きてきたなかではじめて向けられる言葉の意味を、じかに教えようとしているような目だった。
「だってあんな、ふつうのシャツにふつうの黒いエプロンじゃないですか……」
 それを着た自分の姿が、神野の目にはどう映っていたのだろう。そう考えると、さきほどとはまったく違う気持ちで、そわそわと落ち着かなくなる。
 これから仕事に行って制服に着替えるたびに、神野の言葉を思い出してしまいそうだった。


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