あなたは深い海の底 |
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1 予算が足りそうにない。 「ああ……」 電卓を前に、関家湊人は小さく呻った。 「まだ八月だというのに」 何度やり直しても、残念ながら計算結果は変わらなかった。湊人が若干の希望とともに思い浮かべていた数字より、大きな額になってしまう。 「このままじゃ、本が一冊も買えなくなる」 静かな図書室に、電卓を叩く音と湊人の声だけが響く。ひとりきりで仕事をする時間が圧倒的に多いせいか、ここで働き出してから、やたらとひとりごとを言う癖がついてしまった。 「どこを削るか。……また揉めるな」 つい、ため息が出る。交渉事は苦手ではないが、滞りなく進めるための前準備や根回しがひたすら面倒だ。 湊人は自分のこの仕事を天職だと思って止まないが、それでも、頭が痛くなって投げ出してしまいたくなる時もある。たいていは、こうして予算の不足に悩まされる時だ。昨年も、その前の年もさんざん苦労した。聞けば、湊人の前任者も同じことでずっと頭を悩ませていたという。 きっと悩むところまでもが仕事内容に含まれているのだ。 「来週にしよう」 手を止めて、広げていた書類を片づける。参加しなければならない会議の時間が迫っていた。 立ち上がり、制服のように毎日身につけている黒いカーディガンを脱ぐ。ひと気が少ないせいか、図書室は冷房が効きすぎて寒いほどだ。季節を問わず長袖を着る湊人にとっては、理想的な環境ではあった。 暑苦しいと眉をひそめられてしまうので、この部屋を出る時にはカーディガンを脱ぐようにしている。 一枚、皮膚を覆うものを取り去ると、ひやりと背中が冷えた。それは寒気からではなく、不安のせいだった。 会議に必要なファイルを取り出し、カウンターに「外出中」の札を立てる。 「急がないと」 呟いた声が、静かに冷え切った図書室に零れる。無意識のうちに、シャツの上から、左腕を庇うように撫でていた。 湊人の勤務先は、病床数一〇〇〇を超える総合病院だ。 職種は図書室司書。院内で「司書」の肩書きを持つのは、湊人ただひとりだった。 職員用のフロアにある図書室の存在は、病院のホームページにもパンフレットにも記載されていない。医師や看護師をはじめとした、医療者用の専門図書室だし、出入りそのものにもカードキー機能を兼ねた職員証が必要だからだ。置かれているのも、医学の専門書や雑誌ばかりだ。 司書である湊人の勤務時間は八時半から五時までの日勤帯だが、図書室自体は二十四時間いつでも利用が可能だ。そのせいか外来や手術の業務が行われている日中には、図書室を訪れるものもさほどおらず、ほとんどの時間、湊人ひとりしかいない。 しんと静まりかえった、一年を通して冷たい部屋。ひとによっては、耐え難い環境なのかもしれない。 けれど湊人は、賑やかしいよりも静かな場所の方がずっと好きだった。それになにより、ひとりでいることは湊人にとって孤独とイコールではない。 たとえ人間の姿が他になくとも、ここには、およそ三万冊の本が並んでいる。だから、三万人の人間と友達として繋がるよりも、ずっと安心する。 本は湊人の仕事仲間であり、友人であり、仕えるべき存在だった。おそらく人間よりも、ずっと信頼できて、裏切らない。 「すみません、遅くなりました」 時間ぎりぎりに会議室に駆け込み、四角く並べられた長机の、出入り口に近い端に座る。人数分用意された椅子には、いくつも空席があった。 配られた資料を受け取りながら、参加者の顔ぶれを見る。司会者である事務部長の隣に、見事な白髪の院長の姿があった。穏やかに微笑みを浮かべたまま、では、とその人が口を開く。 「定刻になりましたので、はじめましょうか。よろしくお願いいたします」 院長の挨拶を受けて、事務部長が進行を引き受ける。 湊人が委員になっているこの集まりは「お声部会」だ。院内のあちこちに置かれた「お声ポスト」に投稿される、患者をはじめとした来院者から病院へのご意見ご要望を検討する委員会である。 「前回から本日までに回収した『お声』についてご報告します……」 読み上げる声を聞きながら、湊人も資料をめくる。ポストに入れられた「お声」のほとんどは、『待ち時間が長い』だ。他にも食事が美味しくないとか、売店の閉店時間が早いとか、寄せられる意見はだいたい似通っている。それらひとつひとつに、いつも通りの回答を掲示しますがよろしいですか、と承認をとる。 湊人は委員に選出されているものの、個人的に回答を求められる機会はほとんどない。たいてい、過半数の承認を得ました、と記録するための数合わせとして参加するだけだ。 「では、次。夜間に救急外来を受診された患者さんからです。六十歳代の男性の方で……ええと……」 読み上げる事務部長の声が、かすかに震える。 「【若い男の医者が診てくれた。注射をする前に、『おっちゃん! ちょっと痛えからな!!』と言われた。しかも注射が下手で、ちょっとどころではなく痛かった。それに対しての謝罪もなく、失礼きわまりない。ちゃんと教育してください。】」 語尾が揺れる声で読み上げられたその投書に、室内には呆れたような溜息と、こらえきれずに漏れた笑い声が広がった。湊人はどちらでもなく、黙ったままそれを聞いていた。 「これは……どうしましょうか」 「その日、救急に入っていたのが誰か確認してください。当事者が特定できるようなら、次回ここに来てもらって事情を聞きましょう」 白髪の院長が、穏やかなままの声で言う。このように、マニュアル通りの回答を返すのでは済まされない問題だと判断した時には、「お声」が指摘する人物を召喚し、ヒアリングを行うこともあった。 「では、本日の議題は以上です。また次回、ご参加よろしくお願いいたします」 司会者が締めの挨拶をして、黙って座っていただけの会議は終わった。おっちゃんはまずいわねえ、と、隣に座っていた看護師長が事務部長に話しかけているのを聞きながら、湊人は席を立つ。 時計を見ると、定時を十五分ほど過ぎていた。今夜は、人と会う約束があった。待ち合わせの時刻まで、あまり余裕がない。 会議室を出て、蒸し暑い廊下を早足で歩いているうちに、失礼なその若い男の医者のことは、すでに記憶から消えかけていた。 頭に残しておく必要も感じなかった。ただ、来週のこの会議は少し長くなりそうだな、と思っただけだった。 待ち合わせをした相手は、湊人よりも先に店に着いていた。 病院から歩いて五分程度の距離にあるその店は、湊人の行きつけの場所でもあった。昼間はカフェだが、夜はダイニングバーとして営業していて、病院の関係者を見かけることも多い。 「関家さん、こっち」 硝子戸を押し開けて、店内を見回そうとしたその矢先、窓際の席で手を上げる人の姿を見つけた。何度かメールでの遣り取りはしていたが、こうして顔を合わせるのは半年ぶりの相手だ。 「お久しぶりです。すみません、遅くなって」 「俺が早めに来ただけで、時間通りですよ。元気そうでなによりです」 「先生こそ。良かったです、ほんとうにお元気そうで」 お愛想ではなく、心から、そう思う。 名前を声にして呼びかけるのも、半年ぶりのことだ。 「瀬越先生」 湊人と同じ歳の外科医は、優しげな目元を穏やかに細めた。
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