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ななつめちぎり
ひとつめ
3

 島影が見えはじめてから、そこまで着くのにはたいした時間がかからなかった。
 船に乗っているひとたちは皆、物慣れた様子で荷物を運んでは降ろしていく。静真も、一度船内に戻ってから、荷物を手にまた甲板にあらわれた。紘人と一緒に降りてくれるらしい。大きく膨らんだリュックサックを背負っている紘人とは対照的に、鞄ひとつの、ちょっと買い物にでも行ってきましたとでも言いたげな軽装だった。
「みんな、この島のひとなんですか」
「たぶんね。俺も、全員の顔を覚えてるわけじゃないけど。船は三日に一度だから、本土までいろいろ仕入れに行くらしいよ」
 三日に一度、という言葉に驚く。たまたま、静真が親切に宿を提供してくれることになったからよかったものの、そうでなければ、本格的に野宿をすることになっていたかもしれない。気軽に日帰りできるような島ではなかったのだ。
 船を下りて、港の風景をぐるりと見渡す。海は相変わらず青い。晴れた空から注ぐ光を受けて、波打つ海面がきらきらと輝いている。ひとの話す声に紛れて、かもめが鳴く声が聞こえる。のどかだった。
 小さな港だ。紘人たちが乗ってきた船がひとつ、今日のお役目を終えてつなぎ止められているその他には、少し大きさの違う船がふたつ並んでいるだけだった。離れたところに、いくつかもう少し小さな船が停められている。それで、港はいっぱいだった。
(……あれ、人だ)
 船から降りた人たちの輪を、少し離れたところから見ている人影に気付く。吸い寄せられるように、そこに目が行ってしまうのは、その人が珍しい格好をしていたからだ。
(巫女さん、……じゃないか。男のひとだから)
 楽しげにわあわあ大きな声で話し合いながら、みんなで、船から降ろした荷物を軽トラックの荷台に次々に積み込んでいく。静真も、それを手伝っていた。
 船に乗せてくれた人たちは、運賃を取ろうとはしなかった。せめてものお礼をしようと、紘人も手を貸す。巫女さんの格好をした人のことは、それほど気にしていなかった。きっと、島の人なのだろう、と、そう思っただけだった。 
 荷物を積み終えた軽トラックが、ごとごとと港を出て行くところだった。荷台の上に、何人か島の人が乗って、紘人たちに手を振っていた。それに手を振り返す。
 さきほどの場所に目を戻すと、そこにはもう、誰もいなかった。
 港に残った人たちも、軽トラックのあとを追って、みんなぞろぞろと道を歩いていく。あの人も、そうやってどこかに行ってしまったのだろう。
「矢佐先生」
 紘人の隣で、静真が誰かに呼びかけた。親しげなその声に、おう、と、相手が応じる。港には、去っていった軽トラック以外に、もう一台車が停まっていた。白い車体がくすんだ、ずいぶんと年代を感じさせる普通車だ。矢佐先生と呼ばれた人は、その運転席から降りてきたところだった。
「矢佐先生は、島でたったひとりのお医者さん。……先生、こちらは園井紘人くんです。夏休みということで、遊びに来ました。うちに泊まってもらいます」
 静真が紹介してくれる。紘人はぺこんと頭を下げた。よろしく、と、矢佐先生はやる気がなさそうに短く答えるだけだった。島でたったひとりのお医者さん、というその言葉から想像するイメージとは、少し離れた印象の人だった。年は、紘人より二十くらい上だろうか。ぼさぼさの髪と、無精ひげ。眠そうな目は半開きで、なんだか半分しか生きていないような人だと、そんな失礼なことを思ってしまう。不健康というのではなく、冬眠の最中に無理矢理起こされた動物のようだった。疲れているのだろうか。
「船に、うちの弟が乗ってなかったか」
「先生の? いえ、外からのお客さんは紘人くんだけでしたよ。彼を待っていて、出発が一時間遅れたんです」
「おかしいな。なにやってんだよあいつ、荷物だけ大量に先に送ってきやがって」
 ぶつぶつと、矢佐先生は半開きの口で文句を言う。見れば、車は後部座席だけでなく、助手席までダンボール箱でいっぱいになっていた。あれが、その荷物なのだろうか。
 そんなことより、紘人には気になったことがあった。彼を待っていて、出発が一時間遅れた。
「……あの! その弟さんって、もしかして学生さんですか」
「いい年してバカみたいな格好してるけど、一応学生さんだ。院生だから」
 ああ、と、思わず大きな声を上げてしまう。
「ごめんなさい! 俺のせいだ。俺が、学生さん船にはやく乗りなって言われて、それで乗っちゃったから」
 きっと船の人たちは、矢佐先生の弟の顔を知らないのだろう。だから、紘人を見て、こいつがそうに違いないと思ってしまったのだろう。あれは紘人を待ちかまえていたわけではない。その院生を待っていたのだ。
 考えてみれば当たり前のことなのに、深く考えもせず、渡りに船とはこういうことだとばかりに、ほいほいと船に乗ってしまった。
 そのせいで、本来ならばここに来るべき人を、置いてくることになってしまった。次の船は、三日後にならないと出ないというのに。
「ど、どうしよう。俺、いまからお、泳いで帰る」
「落ち着いて、紘人くん」
 慌てる紘人に、静真が優しく、笑って声をかけてくれる。確かに、紘人が泳いで帰ったところで、なんの解決にもならない。
「気にしなくてもいい。だいたい、一時間も待たせて、結局来なかったんだろ。こっちにもなんの連絡もないし、悪いのは全部あいつだ」
 あとで電話しとくから、と面倒そうに手を振られる。
「送ってやりたいところだけど、見ての通り座席が占領されてる。悪いな」
「お気になさらず。あとで、診療所のほうにうかがいます」
 お土産があるので、と、静真は微笑んで手にした鞄を掲げて見せる。それにひとつ曖昧に頷いて、矢佐先生は車に戻った。
「よい夏休みを、紘人くん」
 去り際に、そう声をかけられる。紘人はまだ申し訳ない気持ちだったが、頭を下げて、車を見送った。積み込んだ荷物がよほど重いのか、タイヤが少し沈んでいるように見えた。
「じゃあ、俺たちも行こうか」
 港にはもう、紘人と静真のふたりしか残っていない。はい、と頷きかけて、ふと、視界の端になにか、きらきらと光るものが映ったような気がした。そちらを見る。海のほう。コンクリートの端で、もうあと半歩も進めば海に落ちてしまうという場所に、さっきの、男の巫女さんがいた。この言い方は不適切なのかもしれないが、紘人には他になんといったらいいのか分からない。
 みんな、行ってしまったと思っていたのに。ひとり、取り残されたようにその人は立ちつくしていた。 
 目線が固まってしまって、そこから目を反らせなくなった。
 白い衣に、浅黄色の袴。少し離れているけれど、何故か、彼がとてもきれいな顔だちをしていることが、よく見えた。涼しそうな目もと、すっと通った品のいい鼻筋、何かを伝えようとする直前のような、少し開かれた薄い唇。静真のような、ぱっと目を引く華やかさではなくて、静かで、凛としたきれいさ。
 なんという透明感、と、心の中で呟く。きらきらと、透き通った光を浴びているように、輝く人だ。
 その人は、何かを探すように、じっと虚空を見ていた。その目は、海の方に向けられている。
 誰かを、待っているのだ。
 ふと、そう思ってしまった。人々の輪から取り残されて、ひとりでたたずむその様子が、少し、哀しそうに見えたせいだろうか。
(……あ)
 その目が、ゆっくりと動く。じっと見つめていたことに気付かれたのか、彼が紘人を見た。目が合う。すると、きれいな目元が、わずかに細められた。花がかすかにほころぶような、つつましい微笑み。
 ばちん、と、目に見えない弾で、額を撃ち抜かれた気がした。こんなにきれいな人は、見たことがないと、そう思った。動かない身体の足元が、ぐらりとふらつく。
「紘人くん?」
 大丈夫、と、声をかけられる。静真だ。
 はっと、われにかえる。瞬きを何度も繰り返す。金縛りがとけた後のようだった。心臓がまるで今まで止まっていて、急に動き始めたみたいに、どくどく激しく音を立てている。
「大丈夫です、ちょっと、ぼーっとして……」
「熱射病かな。家まで5分ほど歩くから、少し日陰で休んでいこうか」
 気遣う言葉に、平気、と首を振る。あの人がいた場所に目を戻すと、その姿は消えていた。まるで、最初からそこには、誰もいなかったようだった。見回しても、周囲にはそれらしい影もない。どこに行ってしまったのだろう。 
(また、会えるかな)
 会いたい、と、そう思った。会って、名前を聞きたい。声を聞いて、話を聞いて、どんな人なのか、知りたい。どきどきと、鳴りやまない心臓の上にそっと手のひらを当てる。
 ここに導かれた、小さな偶然の積み重ねに、感謝したい気持ちになる。
 なんて、素敵な島だろう。あんな人に、出会えるなんて。……置いていくことになってしまった矢佐先生の弟さんには、申し訳ないことをしてしまったけれど。三日後の船で、島に来ることが出来るだろうか。その時には、頭を下げてちゃんと謝ろう。
 道を案内するように歩き始めた静真のあとをついていく。からりと晴れ渡った青い空には、雲ひとつない。かもめがなく声と、波の音だけが聞こえる。なんて、静かな島だろう。港から島へと続く道はコンクリートで舗装されているけれど、車一台ぶんの幅しかない一本道だ。あとは、名前も知らない草が伸びる、目にまぶしいほどの緑色が広がっている。見渡すと、ちらほらと、民家らしい建物が見える。
「なにもないところだけど、いいところだよ」
 紘人を振り返って、静真がそんな風に笑う。それに、同意する気持ちを込めて頷いた。ほんとうに、いいところだ。もうずっと長い間、胸に抱え込んでいたもやもやとしたものが、今はもう、驚くほど軽くなっている。
 失恋を忘れるのにいちばんいい方法は、新しい恋をすることだ、と、どこかで耳にしたような言葉を思い出す。まことその通りだ、と、心のなかで感激する。紘人はもう、終わった恋にふんぎりをつけられた。なぜなら、ついさっき、新しい恋に、出会ってしまったからだ。
(ぜったい、会いたいな……)
 あの、透き通るような美しい人を思い出す。目を合わせて微笑みをくれた、その瞬間を思い出すだけで、胸を甘い痛みが突き刺した。重たいリュックを背負っていても、身体も心も、羽が生えたように軽い。
 紛れもない、一目惚れであった。


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