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ななつめちぎり
ひとつめ
1

 海が青い。
 寄せる波の音と、海鳥の鳴く声。潮の匂い。確かにそこは、海だった。
 紘人はペダルを漕いでいた足を止める。意外にあっさりと、目的地に着いてしまった。何日もかけてひたすら自転車だけを友に、旅路を行くつもりだったのに。時計代わりの携帯を見てみると、なんと家を出てからまだ半日も経っていなかった。
「なんでだ……」
 思いがけないこの結果に、とりあえず自転車から降りる。この時間だと、船はみんな漁に出ているのだろう。コンクリートの波止場には、船もなければ人間は誰もいない。
 本来ならば、砂浜に行くはずだった。海を見てたそがれるのならば、波打ち際に座って時を過ごすのが一番だ。そう思って家を出てきたはずなのに、ここはどう見ても港だった。
「でもまぁ、いっか」
 真夏の午後の日差しを遮るものはなにもない。紘人は建物の影に自転車を停め、鍵を掛ける。背中に背負っていた重たいリュックサックから飲み物を出して、一気に半分ほど飲み干した。あまり休憩もとらずに、ここまで来てしまった。途中に坂のきつい山道があって、そこだけ自転車を乗らずに押して歩いた。道幅の狭いところだったので、通る車に何度かクラクションを鳴らされてしまった。たぶん自転車が通るような道ではなかったのだろう。それでも紘人はがんばった。海に行かねばならなかったからだ。
 しかしすでに海に着いてしまった。
 飲み物をリュックに戻す。日焼け防止も兼ねて首にかけていたタオルで額の汗をぬぐう。水分をとったせいか、拭いても拭いても汗があふれてくる気がした。
 荷物は大事なので、背負ったままでふらりと日陰から出る。せっかく海にきたのだから、当初の目的を果たそうと思った。
 青い海と波の音……。
 船を止める綱を結びつけるための、名前の分からないでっぱりに座ってみる。潮風が頬を撫でた。静かだ。
 しばらく、そのままぼんやりしてみる。
 紘人はいま、家出の最中である。家を出たのは今朝の朝はやくで、まだ陽が昇るまえのことだった。家族が起きてこないうちに、昨日のうちから用意してあった荷物を背負って、こっそりリビングの窓から抜け出した。玄関だと、戸を開ける音が少々目立ってしまうからだ。
 なにも言わずにいなくなるのはまずい、と思ったから、リビングのテーブルの上に「しばらく出かけてきます」と置き手紙を残した。皆が寝静まった家のなかで、誰かの動く気配を察したのか、飼っている猫のネルが静かにあらわれて、メモを書く紘人を眺めていた。元気でな、とネルを抱き上げて頬を寄せようとしたが、嫌そうに身をよじって逃げていってしまった。
 また携帯を取り出して、今度は二通届いているメールを見てみることにする。まずは母からのものを開く。
『熱中症には気をつけて』
 それだけの、短いメールだった。怒られるのかと思ったらそうでもなかった。
 家出をしたのは、家族に心配をかけるためではない。だから、あまり心配している様子のないことが分かって、それについては安心した。紘人は普段から友達の家に泊まりにいくことが多かったから、今度もそんなところだと思われたのだろう。
 もう一通来ていたメールは、見なかったことにした。差出人の名前を見て、苦い気持ちが胸に満ちる。名前だけでこんなに、どう言ったらいいか分からない気持ちになる。何が書いてあるのか知らないけれど、見てしまったらたぶん、もっとつらい。
 それが、紘人を直接この家出に駆り立てた原因だった。
 紘人は失恋したのだ。夏休みが入ってすぐに出来たはじめての彼氏に、三日前にふられてしまった。
 彼女の間違いではないし、紘人がこんな名前で女子であるという話でもない。紘人は同性に恋愛感情を抱く男子高校生だ。初恋は幼稚園の先生(20代後半・笑顔が素敵なゆういち先生)だった。それ以来、好きになる相手は全員が同じ性別で、なかには玉砕覚悟で告白をこころみた相手もいたけれど、その誰ともおつきあいにまでは発展しなかった。この夏を迎えるまでは。
 でも、もうそれも終わってしまった。ふられてしまったから。
 つまり紘人は、恋に破れて、その傷を癒すためにこうして海までやって来たのだ。波打ち際でたそがれて、心を癒そうと思っていた。ついでに、海パンのお兄さんを鑑賞することもちょっと期待していた。
 けれど少し方向性を間違えて、港にきてしまった。
 こうなったら真っ黒に日焼けした、たくましい漁師さんでもいい。そう思って探すけれど、漁に出る時間とも帰る時間とも重なっていないせいか、誰もいない。 
 周りを見回す。水面すれすれを低く飛んでいる鳥は、カモメだろうか。砂浜ならば貝殻でも探すところだったが、あいにくここはコンクリートで作られた港だ。しばらく強い日光に照らされ続けていたせいか、頭がふらふらしそうだった。この日差しのせいか、釣り人のひとりもいない。
 さて、これからどうしようか。
 予定では、一週間程度の家出をするつもりだった。こつこつ貯めたお小遣いをごっそり持ってきていた。小銭が多くて、若干そのせいで鞄が重たい。海の家か、それでなければ民宿にでも泊まるつもりだった。最悪、野宿でも構わないと覚悟してきた。とにかく、いつもとは違う環境に身を置いて、この夏休みに起きたいろいろなことを、少し忘れてみたかった。
 カモメの鳴く声を聞きながら、気が済むまでぼんやりする。やがて、とりあえずここにいてもしょうがないしな……とそんな現実的なことを胸のなかで呟いて立ち上がる。海を見に来たのに、実際来てしまうとなにをしていいのか分からなかった。
 失恋しても、さみしくてもおなかは空く。野宿になるかもしれない夜のことを考えて、なにか食べ物を売っているようなところを探しにいこうと、紘人は気を取り直して立ち上がった。

 自転車を回収して、港を一度離れる。ひとの姿を探して、海沿いをしばらく走ってみた。
 海風が吹いてきて、心地がいい。このままどこまでも行けたら、胸のなかをずっともやもやとしているものも、いつか晴れてきれいになくなるだろうか。
 それは悲しさとか、寂しいとか、そういった失恋による感情なんだろうか。寂しいのは事実だし、こんなはずじゃなかったのに、としょんぼりする気持ちでいまも頭はいっぱいだ。
 けれどそれとは別に、ずっと胸をはなれないものもある。それがなんなのか、紘人にはいくら考えても分からないのだ。正体がみえないこのもやもやが、もう結構長い間、胸に住み着いて消えない。たぶん、まだ彼氏がいた時からだ。
 それがなんなのか、どうしてそんなものがあるのか、紘人にはずっとその理由が分からなかった。
 もっと強く風を感じたくて、ペダルを漕ぐ速度をあげる。ぐんぐん風を切りながら海沿いの道を走っていると、ふいに風にのってひとの声が聞こえてきた。ひさしぶりに聞く人間の声に、紘人は興味をひかれる。海パンか、と海のほうを見てみる。けれど、見下ろした先にあるのも、どうやらさっきのところと似た港のようだった。漁師さんのほうか、と思い、そちらの方に降りられるらしき道にハンドルを切る。
 坂になっている道を降りる。そこは港といっても、先程のものに比べると狭くて小さかった。船が一艘、停まってそのまわりに人が何人かいた。にぎやかなその様子に、つい人恋しくなって目が引き寄せられてしまう。漁師さん、というよりも、どこかへの移動に使われる、定期船なのだろうか。近くに停められたライトバンから、ダンボールを何箱も船に詰め込んでいる。残念ながらそこにいるほとんどがお年寄りだった。紘人はどちらかというと年上好みだったが、さすがに自分の親より年上は恋愛対象としては見られなかった。
 と、そのなかのひとりが、紘人に気付いて顔を上げた。反射的に頭を下げる。
「学生さん!」
 痩せた身体から出ているとは思えない、驚くほどの大声でそう呼びかけられる。
 紘人は高校生だ。だからその呼びかけには当てはまる。思わず、はい、と同じような大声で返事をした。
「待っとったよ! 早く来なさい、船出すよ!」
「え? あ、はい」
 何を言われたのかよく考えずに、とりあえず頷いてしまう。自転車を引いて、彼らに近づく。船のまわりに集まっていた4、5人の人たちが、紘人を見てよかったよかったと顔を見合わせた。
「ちょうどいま、もう置いてっちまおうかって話してたとこだよ。遅かったなぁ」
「はぁ。すみません」
 状況がよく分からないまま、ぺこぺこ頭を下げる。
「あの……この船、どこに行くんですか?」
「どこって、茅吊島だよ。あんた夏休みで、観光にいくんだろ。ほら乗った、ほかのお客さんもずっと待ってたんよ」
「かやつり島」
 行き先として言われた名前を繰り返す。聞いたことのない島の名前だった。観光、というからには、それなりのところなのだろうか。泊まるところはあるだろうか。
 誰か、ひとに話したなら、なんという考えなしだと言われるかもしれない。けれどこの時、紘人は、その見知らぬ島へ行くことが、自分の運命のように感じた。砂浜でたそがれる予定が間違って港に出てしまったことも、すべてはこの船に乗るためだったのだ。
 島にリゾートに行こう。何泊か泊まらせてもらって、そしてこの胸の傷を癒そう。
 どんなところに行くのか、分からないままに行くんなんて無謀すぎるかもしれない。でも、ここにいる人たちもいい人そうだし、それに定期船なのだから、思ったのと違ったのなら、また帰ってくればいいだけだ。考えなしなんて、青春なんだから、そんなものだろう。
「乗ります! いきます」
「はいはい。じゃあ自転車、そこの小屋の倉庫に停めときな」
 言われた通りに自転車を移動させて、港から船体に渡された板を踏んで、船に乗り込む。とん、と飛び跳ねて板を渡り終えると、背負ったリュックの中から、かすかにじゃらりと小銭の触れあう音がした。
 船に乗ってどこかに行くなんて、はじめてだ。隅田川下りぐらいなら幼い子どもの頃に連れて行ってもらったような記憶があるけれど、あれとこれでは、話が違う。
 待っていた、という通り、紘人が乗り込んだのを合図にするように、それまで港にいた人々も続々と船に乗り出す。荷物も完全に積み込みを終えたのか、ライトバンの運転手らしい人だけが残って、帽子を掲げて挨拶をしていた。紘人もその人に頭を下げて、手を振る。
 出発の合図はないまま、船がゆったりと港を離れる。好きなところに居ればいいと言われたので、紘人は船の船首のほうに陣取る。
 他の人々は皆、ほとんどが荷物を運んで船室へと入っていった。様子を見ていると皆、船なんて乗り慣れている人ばかりのようだった。海風に吹かれながら水平線を眺めることも、あの人たちにとったら見飽きた風景なのかもしれない。それになにより、甲板には日差しを遮るものがない。皆、少しでも涼しいところにいたいのだろう。気持ちは分かる。
 ひとり、甲板にたたずんで海を見る。鞄を足下に置いて、縁に手をかけ、少し身体を乗り出してみる。海の水は青緑色をしている。魚でも見えないかと思ってその影を探すが、船が進むにつれて起きる波で、なにも見えない。水のはねる音と、船のエンジンがたてる音。そして、船室のほうから聞こえてくる話し声や笑い声。
 目を閉じてみる。風と、耳に入ってくるそれらの音が心地よかった。
 勇気がなくて、結局見ることもできないまま放っておいたメールのことを思い出す。まだ、見ようという気にはなれなかった。
 これから向かう場所がどんなところなのかは行ってみるまでは分からないけれど、きっといいところに違いない、という不思議な予感があった。
 そこでなら、きっと、こんな気持ちいい場所にいてもまだ胸から消えない、このもやもやとした想いも、どこかにいってしまうだろう。そんな、気がした。


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