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本編後の話 
つめたくふるほし

 雪が降ると、音がしなくなる。日頃から音の少ないこの庭は一層静まり返っていて、雪を踏む足音が鳴るのがよく聞こえた。踏む足がいつもよりも、重いせいだろうか。
 平気だとコウは言ったが、身体が重たそうだったので、背負って離れまで帰った。最初は、自分で歩けるから、と言っていたコウも、やはりいつもとは調子が違うのか、庭を歩くと、縋りつくように肩に顔を埋められた。
 暖房に火を入れて部屋を暖める。布団を敷いて、ぼんやりと座り込んでいる彼に横になるように言うと、素直に頷かれた。
 風邪でもなんでも、病気になったら、辛いはずだ。捧にはあまり、辛いとか苦しいとか、そういう肉体へかかる負荷がよく分からなかった。血が出るほどの怪我をしても、痛いとは思うが、淡々とそう思うだけだった。けれど、他人がそうではないことは分かる。ずっとコウのことを見てきて、それを理解した。身体のどこかが痛んで、苦しくてたまらない思いをしているときのコウを見ていると、どこにも不調のないはずの自分まで痛くて、楽にしてやりたい気持ちになった。数週間前にも、コウは風邪を引いた。もともと、あまり身体が丈夫な方ではないのだと、その時コウの祖母からそんなことを聞いた。我慢をしてしまう性格で、いつも風邪を引いても自分から医者に行こうとはしないし、祖母にも黙っているらしい。いくつになっても困った子だと、そう笑われていた。ほんの小さい子どもの頃から、そうだったらしい。布団に埋まるようにして苦しそうに息をしながら眠るコウを見て、その話を思い出していた。小さい身体で、じっと身を丸めて、痛いことや苦しいことに耐えている幼いコウを想像すると、寂しいような気持ちになって、ずっと傍で髪を撫でていた。風邪はうつせば治るのだと、以前に読んだ本にそんなことが書いてあった。それなら自分にうつればいいのにと思ったが、呆れるほどに頑丈に出来上がっているこの身体は、コウが自分で風邪を治すまで片時も離れずすぐ近くにいても、全く具合が悪くなることは無かった。
「頭は痛くないか」
 自分で着替えようとするのを止めて、暖房の前で寝間着に服を変えてやりながらそう尋ねると、うんと子どものように頷かれた。
「たぶん、熱もないよ。……大袈裟なんだ、未月も捧さんも」
「コウには、少し大袈裟になるくらいで丁度良いのだと、そう言われている」
「そんなこと言うの、八木さんだろ。大丈夫なのに。具合悪いっていうか、たぶんちょっと、寝不足なだけだよ」
「寝不足なのか」
 不満気にそう言うコウの言葉を繰り返すと、彼は、しまった、とでも言いたそうな顔をする。言うつもりではなかったことらしい。未月に、手加減しなさすぎではないのかと言われたことを思い出す。あれは、そういうことだったのか。
「別に、そんな大したことないよ。そんな顔するなよ、捧さんのせいじゃないだろ」
 そう言ってコウがこちらを見上げて、気にしないでと笑う。
「ちょっと昼寝すれば、すぐ治るし。捧さんは、あんまり寝る方じゃないんだっけ」
 睡眠時間を意識したことはなかったが、おそらく、よく眠る方ではないという自覚はあった。横になっていても眠りに落ちるまでには時間が掛ったし、朝が来るまでに途中で目を覚ましてしまうこともしばしばだからだ。それに、コウを見ていて改めて気付いたが、人間は夜寝ていても、昼間にも寝るのだ。捧が本を読んでいると、コウも邪魔をしてはいけないと思うのか、自分でも母屋の方から借りてきた本を広げて読み始める。それでも、大概、次に様子を窺った時には本を開いたまま口を開けて寝ていた。活字は眠くなるのだといつも言われる。そんなことを言う人間もいるのだと、そういえばそれも初めて知った。あまり昼間に寝てしまうと、夜眠れなくなるのではないかと思ったこともあるが、どうやらそうとも限らないらしい。人間には様々な個人差がある。知識としては知っていたはずだったそのことを、改めて、コウという存在を通して理解した過程のひとつだった。
 一緒に寝るかと聞かれて、それには首を振る。自分では大丈夫だと言い張るが、コウの見せる表情はどこか弱っていて、萎れかけた植物を思わせた。手を伸ばして触れて、元気になるようにと撫でてやりたかった。かつては、呪詛を受けた時や弱っていた時にそうして少しでも力を与えられた。今はもう、コウともそんな風に繋がることは出来ない。そうすることで、捧は自由になれた。感謝しなければならないことではあるが、今はどこか、それを悔やんでいるような、ほんとうにそれで良かったのかと迷うような気持ちがあった。だって、そうでもなければ、自分にはもう、何も出来ない。
「おれは傍についている。だから、気にしないで休めばいい。……夕食はここに運んで貰おう」
 食欲はないのかもしれないが、おそらく、少しでも栄養を取った方がいいはずだ。それに、薬を飲む時は空腹ではいけないと、これもコウの祖母から聞いた。
 寝間着に着替えたコウを布団に入らせて、顔の見えるすぐ近くに座る。コウが頻繁にこの離れに寝泊まりするようになってからは、母屋からもう一組寝具を運んできた。抱き合う夜でもただ寄り添うだけの夜でも、大概、片方の布団だけしか使わないので、実際にそちらの方を使うことはほとんどない。それでも、父にそのことを言おうとしたら未月に止められた。こういうことは、あまり口にするべきではないのだと言われた。
 そのあまり使われていない方の布団に横になり、寒いのか目が隠れるあたりまで潜りながら、コウがこちらを見ていた。それに安心させるように頷き返すと、何か言いたげな顔をされた。
「どうした」
「……捧さん、薬、飲んでる?」
「薬?」
 突然、何を言われるのかと思った。どうしてコウがそんなことを尋ねてくるのか分からない。不思議に思って聞き返すと、うん、と、どこか言いにくそうに、それでもコウは口元を覆っていた掛け布団を少しずらした。
「未月が言ってた。眠れなくて、薬飲んでたって。今でも?」
「……ああ」
 そのことか、と、それを聞いてコウの言いたいことを理解した。そんなこと、自分でも言われなければ思い出さなかった。そういえば、そんなこともあった。
「今は、もう使っていない。必要がないから」
「ほんとに?」
 心配するようなその顔に、もう一度頷く。それは事実だ。そんなものを使っていたことさえ、忘れていたほどだったのだから。コウはそれを聞いて安心したように息を吐いた。
「眠れなかった?」
「うん」
「おれは、いつでも寝られるから、あんまりそういうの、ないんだけど。辛かっただろ」
 部屋の空気と布団が温まってきたからだろうか、少しずつ眠くなってきたのか、こちらに向けられる言葉もだんだん朦朧としたものになっていく。声にして答えることはしないで、首を振る。
 辛かったのだとは思わない。眠れないことは苦痛ではなかった。ただ、暗い部屋の天井を見上げていると、言葉では言い表せないようなことをいくつも思い浮かべては消してを繰り返していた。父がいつも持ってきてくれる本の内容や、読ませて貰う新聞に書かれていたことを思い出して、少しだけ、外のことを想像してみたこともある。考えることはいくらでもあったから、そうやって夜を過ごすことは辛くはなかった。薬を服用してまで眠っていたのは、そうしなければ、健康を害すると母が考えたからだ。
「捧さんは、そういうの、全然言わないから」
 いつも周りからは自分自身がそんな風に思われていることを知ってか知らずか、コウはそう言って眠たげに瞬きをした。頭を撫でて、眠るように言う。彼はまだ何か言いたそうに一度だけ顔を上げかけたが、やがて、大人しく目を閉じる。掛け布団を直してやり、その寝顔を眺めた。
 コウは、よく夢を見るのだと言っていた。時折聞かせてくれるその内容は、日によって異なり、筋道立ったものもあれば、聞いている方も話している方も理解できないようなおかしなものまで様々だった。現れる人は大体知っているものばかりで、たまに、もう会えない人のことも夢に見るらしい。そういう時のコウは、少しだけ寂しそうな、それでも懐かしむような顔をする。現実では、もう会うことの適わない相手だからだ。
 きっとコウは、捧がこの世界からいなくなったとしても、あんな風に、夢に見てくれるだろう。そうして、それを嬉しいと思ってくれるだろう。
 そう考えると、心が安らいだ。
「……捧」
 苦しくはないのだろう、穏やかなその寝顔を見ていると、ふいに名前を呼ばれた。立ち上がり、部屋の障子を開ける。
 半分だけ閉めた雨戸の向こうに、未月が立っていた。
「寝たか」
 手のひらに収まるほどの大きさの箱を渡しながら、そう聞かれる。コウのことだろうと思い、それに頷く。箱に入っていたのは、透明な硝子瓶だった。中に、白い錠剤がたくさん詰まっている。
「もう少ししたら、何か消化によさそうなものを運ばせる。それを食べたあとで飲ませろ」
「ありがとう」
 礼を言ってそれを受取る。熱を計るものも持ってきて貰った方がいいだろうかと考えていると、未月が何か、気になることがあるようにこちらを見ているのに気付いた。
「どうした」
「捧、おまえ、また近頃、夜中に庭を歩き回っているだろう」
 言われて、少しだけ驚く。未月にそれを知られているとは思わなかった。誰にも顔を合わせたことはないし、だからこそ、夜も更けてから離れを出ているのに。
「ぼくはこれでも受験生だからな。一応、夜遅くまで勉強している。……この間、おまえに辞書を貸しっぱなしになっていたことを思い出して、休憩ついでに取りに行った」
 そうしたら居なかった、ということだろうか。未月の声には咎めるような響きはなかったが、どこか呆れているような風ではあった。
「いくらおまえが頑丈でも、この寒い中に毎晩のように出歩けば、いつかそいつみたいに風邪を引くぞ。普段病気をしない人間は、一旦患うと酷くなることも多いんだ」
「心配してくれているのか」
「別に。……おまえがそんなことになったら、面倒なくらいに取り乱す奴がいるからな」
 それが誰のことを言おうとしているのかは、尋ねなくても分かった。
「人は、精密な機械よりももっと、複雑に出来ている」
 コウの休んでいる部屋の中に目を遣っていると、未月がそんなことを言い出した。
「外側から見ていても全く気付かないような小さな故障で、全体がおかしくなることもある。それは誰にでも共通する仕組みだ。だから、これからは、自分の身におかしなことがあったら、父さんでも、牧丘コウにでもいい、誰でもいいから、必ず言え」
 未月が何のことを言いたいのか分からなくて、ただそれを黙って聞いていた。
「たまたま一日だけそうなんじゃなくて、ずっと眠れないというなら、それは異常だ。母さんがしていたように、薬を使って身体を無理矢理眠らせることも出来る。けれどもそれは、コンピュータの終了作業が上手く実行出来ないから、仕方なく電源を切って終わらせるのと同じ、ただの力技だ。……どこに不具合があるのか、それをいつまでも確かめずにそんな強引な手法にばかり頼っていては、いつか手の施しようもないことになりかねない」
「どうして、そんなことを言うんだ」
「はあ? ひとが折角心配してやってるのに、なんだその言い草は」
「だって、おれはもう、未月たちにとって、そんな風に心配しなくてはならない存在ではないだろう」
 似たようなことを、物心ついた時から、母に言われ続けていたのを思い出す。けれどもそれは、捧が大切な「供物」だったからだ。必要になるその時まで、魂を生かさなくてはならないから。だから、その入れ物である身体が損なわれないように、母は細心の注意を払い、捧も自覚を持って気を付けるようにと、よく言われた。
 だから、未月が何を言いたいのか、分からなかった。もう、そうやって守らなければならないような利用価値は、捧には無い。
「……奴隷根性というやつだな」
 未月は捧の言葉を聞いて、溜息を吐いた。
「おまえは、もう自分にそんな価値がないから、粗末に扱ってもいいと思ってるのか」
 ふざけるな、と、鋭く言葉が投げつけられる。 
「千年に渡って、自分たちの命と引き換えに『狩り』の一族を助け続けた先祖のことを、何だと思っているんだ。その血を受け継ぐ最後のひとりとして、よりによって考えるのはそんなことか!」
 真直ぐな目と言葉で、未月はそう言い放った。彼が射る矢のような、強くて迷いの無い目だった。
「……そんなことを思うのは、彼らに対して失礼な話だとは思わないか。それに、牧丘コウにも」
 声を上げたことを反省したように、続けられた言葉は少しだけ柔らかくなる。捧が何か答えようとする前に、未月は苛々したように自分の髪を掻き毟った。
「感情的になった。許せ。……おまえがそんな風に考えるのも、ぼくたち花羽の人間の責任なのにな」
「いや」
 若い当主に頭を下げられて、それに首を振る。確かに、その通りだと思った。
「こんな話をしたいわけじゃない。とにかく、無闇におかしなことをするな」
「分かった。ありがとう、未月」
 純粋に感謝の気持ちを伝えたくてそう言ったのに、何故か未月はおもしろくなさそうな、むくれた子どものような顔をして、そのまま背を向けて母屋に戻って行ってしまった。なにが気に入らなかったのだろうと不思議に思い、その背中を見送る。コウのことも分からないことは多いが、それとはまた別の意味で、未月の考えていることはもっと分からなかった。
 また、雪が降り出していた。ひらひらと風に舞い、庭に白く積もった雪の上に重なるのが花のようで、そんな言葉があったことを思い出す。これまでの冬も、同じ場所から同じ景色を見てきたはずなのに、まるで初めて訪れた場所に立っているような錯覚を覚えた。こんなに、この庭が綺麗だとは思ったことがなかった。
 部屋に戻り、またもとの通り、布団のすぐ近くに座る。コウは捧が部屋を出る前と同じ格好で眠り続けていた。基本的に、一度眠るとコウはずっと同じ姿勢で目覚めるまで動かない。それなのに、朝起きると、いつも必ず髪の毛のどこかに寝癖が付いているのがおかしかった。
 未月から受け取った薬の箱を枕元に置いて、眠るコウの手をそっと取る。眠っている人間は、体温が高くなる。温かくて、幸せな手だとそう思った。
「……コウ」
 無意識のうちに、そう囁く。すまない、と続けようとして、それでも、そう口にすることがなにか間違っているような気もした。何故謝らなくてはならないのか、まだ、ほんとうにそこまで思い至れていないように感じられた。
 温かなその手を握ったまま、その後は未月の言ったことを、ずっと考えていた。

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