index > novel > イタイイタイも恋のうち



= イタイイタイも恋のうち =

 私事で恐縮だが、腹が痛いのだ。
 理由はわからない。かれこれ三日ぐらい前から、間隔を置いて周期的に腹が痛くなる。三日前といえばちょうど春休みが終わって、学校が始まった日だ。留年することもなく、なんの問題もなく進学は出来た。
 この痛みはなんなのだろう。腹だ。大学に通う兄に聞いてみたところ、「そこは胃だな」と言われた。胃が痛いということは、ストレスで潰瘍でもできているのだろうか。春休みはのびのびと心おきなく遊びほうけたが、もう学校になんて行きたくないと思ってしまうほどではなかった。確かにそうしてまた一歩、学年が上に上がったということで受験に近づいたという問題はあるが、元来の呑気な性質と、いくらなんでもまだ一年先のことだ、と思っているから、それがそんなにストレスになっているとは思わない。
 しかしそもそもいくら大学生とは言え、工学部でロボットとかを作っているような奴の言うことだ。あまり深く考えるのはやめておこう。

 ああそれにしても、腹が痛いのだ。

「どしたの、顔青いけど」
 机の天板をひたすらに睨み付けていると、前方から、そう聞いてくる声があった。前の席に座る男だ。
「……、じょぶ、だ」
「ジョブ? しごと?」
「だいじょうぶ、だ!」
 こちらの様子がおかしいことに気付き、心配してくれているのだろう。有難いことだと思った。始業式が終わったその日から前後の席になり、いくつか言葉も交わしたが、実はまだ名前を覚えていない。なぜならその日から腹痛が始まり、それどころではなくなってしまったからだ。
 仲良くなりたいと思う。だからこういう場合は、そんな優しい言葉をかけてくれたことに感謝をして、そこからまた別の話題に会話を繋げていくべきなのだろうとは思う。
 けれどもたまたま、その親切な問いかけに、ことさら深い痛みの波が重なってしまった。襲いかかってくるようなはげしい痛みに顔を歪めて、穏やかに紳士的に何でもないのだと答えようと思った声が、ひどく攻撃的なものになってしまった。
「ふーん……そんならいいけど。さいきんずっと唸ってるからさ。前に座る者としては気になるんですけど」
 ギリギリギリギリと痛みが腹部を締め付けてくる。何やら耳からもそれらしき音が聞こえると思い、ついにこの謎の腹痛が音までともなうようになったのかと数秒のあいだ絶望しかけた。そしてすぐに、思い切り力を入れて自分が奥歯を噛みしめていることに気付く。痛みを堪えようとして、そのまま歯ぎしりをしてしまったのであろうか。
「あのさ、保健室いく? 手ぇ貸そうか?」
「……じょ!」
「はいはい、わかったよ」
 大丈夫だと言おうとしたその言葉も、また波に重なってしまい、極端に縮まってしまった。
 それでも相手はこちらの言おうとしたことを汲んでくれたようで、なかば呆れたように数回頷く。そして、あんまり無理するなよ、と付け加えて、前を向いた。なんといい奴だろうか。自分が恨めしかった。もっと話をしたいと思ってはいるのに。おはようからまた明日に至る、普通の挨拶でさえ今は出来ていない。
 いつか治るだろうか。医者に行けば原因が分かって治るだろうか。
 そうしたらこの前に座る親切な奴とも、放課後一緒に牛丼を食べて帰ったり出来るようになるだろうか。
 そんなことを考えるとまたキリキリと鋭い痛みにおそわれた。思わず呻くと、一度だけ、ちらりと前の席からこちらをうかがうような視線を送られた。心配してくれているのだろうか。ほんとうにいいやつだなぁと思うとまた同じところが痛む。ああまったく、ひとの親切に感動している余裕もない……。

「どこにも、わるいところはありませんねぇ」
 その日の放課後、病院に行った。からだの内側が痛いので、いつも風邪を引いたときなどにお世話になる近所の内科に行ったのだが、白髪のおじいちゃん先生はそう言ってやさしく笑うだけだった。
「ほらこれね、レントゲンの写真ね。うーん、ちょっと胃が荒れてるかな。でもおおきな病気とかはないですからね、だいじょうぶですよ」
 指差された先を見ると、確かに胃らしきところにはなにか目立つものはないような気がする。よく分からないが医者の言うことなのだからそうなのだろう。それでも腹が痛いんですけれど、と、なんだか申し訳ないような気になりながら主張すると、それはストレスかもしれませんねぇと温厚にそう返された。
 悩みがあるなら相談しなさいね、とのお言葉と、胃薬をもらって家に帰った。
 
 学校を出てから今まで、痛みは来ていない。いったい自分になんのストレスがあるというのだろう。
 考えても分からないし、思いつかない。
 その日は朝まで、謎の腹痛に悩まされることなく、快適に時を過ごすことが出来た。

 しかし翌日はやはり駄目だった。
 学校に行く途中で急に、いつものように腹が痛くなった。もうあと十歩ほどで校門を抜けるといった地点に来たときのことだった。自分がいちばん戸惑った。まさか、自分ではそうだと気が付いていないだけで、実はとっても学校に行くのが嫌なのではないだろうか……。しかし学校が嫌になる理由が思いつかない。授業は確かにそう面白くはないが、逃げ出したくなるほどつまらないとは思わない。部活は特にやりたいことがなかったから肩書きだけ、活動をほとんどしていない書道部に籍を置いている。それを別にやましいとも思わない。そろそろアルバイトをしようかなと考えているが、それは金が必要になったからではなくてただ単にレジ打ちというものがやってみたいからだ。今日だって、朝ちょっと台所を覗き見してみたらゴボウのキンピラがテーブルの上に乗っていた。あれはきっと昼の弁当に入っている。大好きだ。だから朝から昼が楽しみだった。
 どこにも胃を痛めるような問題点がみつからない。キンピラを食べたいという気持ちが湧くのだから、なにか根本的に間違っているのかもしれない。こころが痛むと身体も痛むのだと、昨日おじいちゃん先生は言っていた。それならば次は、こころのお医者さんに行かなくてはならないのだろうか。しかし心も、特にどこも痛くはないはずなのであるが。

 痛む腹を押さえてなだめながら、教室に入って自分の席に着く。
「おはよ」
 前の席の男は今日も先に来ていた。それに返事をしようとして、突き刺すような腹痛に言葉が止まる。はぅ、と変な声が出てしまった。それをどう受け止めたのかは分からないが、彼は何事もなかったかのように前を向いてしまった。
 ああまた返事ができなかった。ちくしょう、この腹痛さえなければ……。
 悔しい思いをしながら、鞄をあけて昨日医者でもらってきた胃薬を取り出す。このために用意してきたペットボトルの水で苦い薬を喉に流し込んで顔を下ろすと、また、前の席の男がこちらを見ていた。
「クスリ? 医者行ってきたんだ、休んでなくていいの?」
「……うぅ」
「すっごい顔になってるぞ。死にそうだ。あのさ、辛くなったら、授業中とかでも無理すんなよ? なんだったらおれの背中突っつけよな。保健室連れてってやるし」
「ぐぅ」
「な」
 うれしくて、ありがとうと言いたいのに痛みがひどくなる一方だった。薬を飲んだ直後だというのに。
 このままではもしほんとうに授業中に死にそうになっても、この親切な奴の背中を突くことすら出来ないかもしれない。
 ただでさえ挨拶もまともに出来ない状況なのに。
 もっとこいつと、いろいろ話したり、したいのに。
 気を紛らわすために、楽しいことを想像してみる。前の席の親切なこの男と、学校帰りにゲームセンターに遊びに行くのだ。意外に可愛いぬいぐるみが好きで、目にとまったUFOキャッチャーの景品を、しかし欲しいとは言わずにちらちらと気にし続けている。そこをこちらがすかさず、なんだあんなものおれが取ってやるよと何気なく言ってたった一回きりの挑戦でそれに成功するのだ。そうしてぬいぐるみを差し出すと相手は少しだけ戸惑い恥ずかしそうにしながらそれでもありがとうと言って受け取るのだ。その頬は少し赤く染まっているかもしれない。それから、……
 そんなことを考えていると痛みは和らぐどころか一層激しさを増してきた。いつのまに体内に一寸法師が侵入したのかと言う勢いでチクチクとする。
「ちょ、マジでやばそうなんだけど今の顔。今日帰れよ。な」
「う、うぁぁぁ」
「だから無理すんなって。ほら、保健室行けよ。手ぇ要るか?」
 そうか分かった。この痛みとそれが酷くなるそのタイミングの法則。
 この男が話しかけてくると、その声の抑揚に併せて腹がズキンと痛いのだ。それだけじゃない。顔を見ても駄目だ。この男のことを考えるだけでも駄目だ。近くにいるだけでも駄目だ。近くに行くと思うだけでも駄目だ。
 ……これはなんだろう。
「カバン持ってくか? でもそれよりまず横になったほうがいいよな。じゃ、おれで良かったらあとで持ってくよ」
「あフ」
「うん、先生にも言っとくし。ほら、肩貸せよ。ちょっとの距離だからがんばれ」
 親切なその男がそう言って手を差し出したので、素直にそれに従い立ち上がる。すると、弱った人間にはこうしてやるのが当然だと言わんばかりの自然さで肩を組まれた。いきなりの接触だった。
 ピギャァと怪獣じみた悲鳴が口から漏れた。教室にいるクラスメイトたちも心配そうな目を向けてくれている気がしたが、それどころではない。これまでにいちばん激しい波だった。心の中に精神世界が築かれているとする。その世界まるごと飲み込んでさらってしまうような大規模な津波だった。
「毎日、かなり辛そうだもんな。どっか悪いんじゃないといいけど。あっほら、しっかりしろよ、もうちょっとだぞ」
 
 理由もわからないまま、もしかしたら自分はこの男のせいで死ぬかもしれないとすら思った。
 しかし同時にそうなってもまぁいいかもしれないと思ってしまったりもした。

 痛むのは腹ではなくて胸だということに気がついたのは、それから一週間あとのことだった。


 



イタイイタイも恋のうち <  novel < index