月齢二〇〇〇 |
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こいつは絶対に、人を殺したに違いない、と、心の中でそんな風に疑っている男がいた。 今年のはじめに、中途採用で入社してきた、ヤマナシという男である。 地方から出てきたらしく、こっちは右も左も分からないので、と、困ったような顔をしているのをよく見かける。 三十の少し前だろう実年齢よりは、ずっと若く見える。童顔、というよりは、育ちの良さそうで、表情のひとつひとつがあどけない、とでも言うのだろうか。会社の他の人間などは、ヤマナシさんは地方出身だから、都会にすれていないのよ、などと言うものもいるが。 基本的には真面目だった。教えられたこともすぐに覚えていって飲み込みが早いし、言葉遣いが綺麗だ。 そんなヤマナシの奇妙な癖に気が付いたのは、彼が入社して、ふた月ほど経ったあとのことだっただろうか。 ほんの、偶然だったと思う。 会社の休憩スペースには、自動販売機と、横になって寝っ転がろうと思えばなんとか出来なくはない、程度の大きさの長椅子がふたつ並べられている。たまたま外回りから帰ってきて、その前を通りかかったのだ。そこに、ヤマナシが座っていた。飲み物でも飲んで休憩しているのかと思ったら、そうではなかった。 彼は、テレビのニュースをじっと見ていた。 両手を力なく組んで、微動だにしない。その時に流れていたニュースは、たぶん、交通事故で死亡者が出たとか、そんな内容だったと思う。それを、静かに見ていた。 まるで何かを待っているような、そんな、どこか思い詰めた表情をしているようにも、感じた。 その時は、結局、向こうに気づかれた。弾かれたように腕をほどいて、笑顔を作って、お疲れ様です、と頭を下げられた。さっきまで見ていたのが錯覚だったのかと思ってしまうほどの、いつも通りの明るくて礼儀正しいヤマナシだった。 一度そんな場面を目撃してしまったからか、気が付くと、その姿を目で追ってしまうことが、多くなった。 休憩室には、新聞も置いてある。ヤマナシは、それにもよく目を通していた。社会人なのだから新聞くらい読むだろう。それはなにもおかしなことではないのだが、彼はいつも、一面とは逆の方から読んでいた。そこに載っているのは、交通事故や、殺人事件の記事だ。 そこをじっと見て、そうして、あとはパラパラと適当にめくっていた。……途中、もうひとつだけ、手を止めるところがあった。「お悔やみ」の欄だ。 ヤマナシはひと付き合いも如才なくこなす。飲み会でも、周囲の空気を読んで楽しげに上手に振る舞うし、個人的に帰りに一緒に食事をして帰るときも、こちらの誘いに嫌な顔ひとつしない。 それでもどこか、他人を拒絶するものがある気がした。 たとえば、地元のことは聞けば話してくれるものの、あまり自分からその話題を持ち出すことはなかった。あと、恋人の話も、いませんと短く言い切ってしまうだけで、いつもそこで終わらせてしまう。 きっと触れられたくないことがあるのだろう、と、いつか、そんな風に思うようになっていた。それは誰でも気付けることではないだろう。こちらが、ずっと、見ていたから分かってしまっただけだ。ヤマナシは、上手に、色々なものを隠している。 それに、気付いていたはずなのに。 おまえってニュースは熱心に見てるのな、と、軽い気持ちで、ある日、言ってしまった。 いつもよりも早く家を出た時に、たまたま電車で一緒になったのだ。ヤマナシはそう言われて、ふいを付かれたような顔をした。 だって、殺人事件とかあると、何かしてる途中でも、パッと顔上げて、テレビを凝視してるし。 それを咎めるつもりなどはまるでなくて、純粋に、見ていて気付いたから、そう言っただけだった。少なからずこちらのその言葉に動揺したらしいヤマナシに、冗談を言って笑わせようとした。 まさかおまえ、指名手配でもされてんのか。地元で人を殺してきて、それが発覚するの、怖がってんのかよ。 今にして思うと、笑えないにも程がある。ヤマナシは黙ってしまった。笑顔すらなかった。それからはずっと、電車を降りるまで、無言でうつむいてしまった。 そうですよ、と、駅に着いたその時、呟くように言われた。耳を疑うような、言葉だった。 おれは、ひとを殺しているんです。 ……あれは、冗談だったのだろう。こちらがあまりに不謹慎なことを言ったから、それを皮肉るようなつもりで言い返した、そんな言葉だったのだ、きっと。 そう思って、忘れようとした。近頃はヤマナシは、こちらを避けようとしている。同じ部署同士だから、仕事上の関わりはこれまで通りにある。それでも、帰りに飲みに誘おうかと思っても、そのタイミングを与えないように、逃げるように先に帰られてしまうようになった。 つまり、失敗したのだ。 別に。どうだってよかったではないか。ニュースをじっと見ていたって、そういう趣味の人間はたくさんいるだろう。 それを、気付いたから、嬉しそうにわざわざ本人に言ってしまった。 おまえのことが分かったんだ、と打ち明けて、それを嬉しいと思っている自分がいるこを、知って欲しかった。 それがどんな気持ちなのか、子どもではないから、よく分かっている。 せめて一言謝るタイミングを与えてほしい、とそう思っていたのが天に通じたのか、しばらくして、一緒に残業をすることになった。 元々はヤマナシの抱えていた仕事であったのだが、大元の、こちらが用意したデータに間違いがあったのだ。幸い、外に出す前に気が付いたし、量もそれほど多いわけではない。だから、責任を取って、ふたりで居残りで仕事をすることにした。仕事の少ない時期だったから、フロアにはもう、ふたり以外の誰も残っていなかった。 これはチャンスだ、と思った。ヤマナシの方からしてみれば、避けようとしているこちらと二人きりなんて、ずいぶんと運の悪い話ではあるのかもしれないが。 この間は、ごめんな。 黙々と仕事をする同僚に、そう声を掛ける。 顔を上げたヤマナシは、少しだけ驚いたような表情をしていた。 ……いいえ。 そう言って、笑った。 こちらこそ、おかしなことを言ってしまって、すみませんでした。 そう言って、安心したように息を吐く。どうやら、その様子を見ていると、相手もこちらと同じことを考えていたらしい。この間の発言を、取り消さなくては、と。 同じことを考えていたのが、何かおかしかった。小さく笑いあって、そのあとはそれぞれ、黙って仕事をした。 フロアの壁はガラス張りになっている。いまは自分たちのデスクだけしか明かりを付けていないから、写り込むものもなくて、外がよく見えた。この辺りはオフィス街だから、向かい合うビルにも、まばらに明かりの灯る窓があるばかりで、目を楽しませる夜景などは見えないが。 先輩、見てください。 窓際に立ったヤマナシが、そう言って外を指す。 残っていた仕事は、ふたりで手分けしたおかげで、すぐに片付いた。元はといえば自分の責任でもあるので、お詫びの気持ちとして自販機で買ってきたコーヒーを渡した。 ありがとうございます、と笑って、ヤマナシはそれを受け取った。 指さされた方を見る。窓の外だ。立ち並ぶビルとビルの間に、白くて丸い月が出ていた。 満月だ。 ……月は、怖いです。 まるで子どものように、ヤマナシがそんなことをぽつりと口にした。 どんどん大きくなる。まるで、育っているみたいだ。 そう言って、まだ熱いコーヒーを、無理して一口で飲み干してしまおうとする。熱くて無理だったらしく、すぐに止めた。 言われていることは、分からないでもなかった。月の満ち欠けなんて、これまで気にもとめたことがなかったけれど。月は、意外に大きな影響を地球にもたらしていると聞く。たとえば、満月の夜には、殺人や傷害事件が多いとか。 この間、おれ、おかしなことを言ったでしょう。 ひとを殺している、という、あの言葉だろうか。おそるおそると言った調子で口にしたヤマナシに、こちらもコーヒーを飲む振りをしながら、ひとつ頷く。実はもう、カップの中身は空になっていた。 あれはね、嘘じゃないんです。 ……どういうことなんだ? おれは、ひとを殺しています。もちろん、現実に、じゃなくて、心の中でだけど。 口を挟んだりすることはしないで、うん、と頷くだけの相槌を返す。 先輩には、隠し事が出来ない気がする。誰にも言わないでくれる人だと思うから、言っちゃおうと思って。おれはね、ゲイなんです。 打ち明けられたその事実に、少しだけ驚く。けれどもあくまで、少しだけ、だった。なんとなく、納得できるような気もした。それに、それ以上に、ヤマナシがこちらのことをそんな風に思っているということの方が、大事なことのような気がした。 もしかして、地元を離れたのも、それが原因? 黙っているのでは、相手を不安にさせる気がした。だから、そう聞いてみる。 ヤマナシは小さく首を傾げて、困ったように笑った。 それもあるかな。……ううん、そうですね。それが原因です。おれには、好きな奴がいました。 こちらはとっくにコーヒーを飲んでしまったのに、ヤマナシは未だに手の中でカップをもてあそんでいる。もしかして、猫舌なのだろうか。こんな時なのに、その一挙一動を細かく見てしまう自分に、少し呆れた。 ……つきあってた? 違いますよ。相手は、普通の奴だったから。ちゃんと彼女がいたし、いまは、もう結婚してます。もうすぐ、父親になるんですよ。 そうか、としか、返せなかった。明るく、軽い調子で話してはいるものの、それは彼にとって、ほんとうはそんな言い方で纏められるものではない気がした。 それは、つらかっただろ。 事情をよく知りもしないのに、知った風に慰めるのでは誠実ではない。 それでも、何か言わずにいられなかった。 ヤマナシはそれにはなにも返してこなかった。 ……高校時代からの、親友でした。だからおれは、いつでも傍にいたし、彼女が出来たときも、結婚が決まったときも、いちばん最初に報告してくれた。いつでも、それを、いちばん喜んだ振りをしていました。 だけど、だめだった。独り言のようにそう続けて、彼はこちらを見て、また笑った。 先輩に言われた通り、おれは人殺しなんです。だって、あいつにはじめて彼女が出来たときから、おれは何回も、あいつらを殺しているから。 おめでとうと、表面上はにこにこと笑いながら。ひとりになると、はやく別れればいいと、そんなことばかり思ってきた。喧嘩をしたと相談する度に、心の中では、やったと喜んでいた。 新聞やニュースで、若い男女が事故や事件で死んだと聞く度に、それがあいつらの名前でないかどうか、じっと耳を澄ました。違うことを確認して、安心したのか、落胆したのか、どちらとも分からない感情に、毎回肩を落とした。 ……最低でしょう、おれ。 自嘲するように笑うヤマナシに、今度こそ、なにも言えなかった。 だから、あいつらの居ないところに行こうと思って。だって、そうしないと。 だってそうしないと、今度は、生まれてくる子どものことも、そんな風に思うようになるから。 距離さえあれば、どうとでも言える。忙しくて帰れないから、生まれた子の顔を見に来てくれと言われても、断れる。だから、そうするしかなかった。これ以上、なにも悪いことをしていない誰かを、呪いたくなかった。 女のひとはいいな、と、硝子の外の月を見上げて、ヤマナシはまた呟く。 好きなひとが出来て、愛し合って、そうしたら、その人との子どもが産めるから。おれの恋は、なににもならない。ただ、どんどん大きくなって、それでも、欠けることを知らない。 それはまるで、育つように膨らみ続ける、月のようだ。 窓の方を向いたまま、身動きしないヤマナシのその肩に、そっと手を置く。そこから、かすかに震えが伝わってきた。 さっきのように、気軽な慰めの言葉を、もう口に出せなかった。だからせめて、肩を数回、励ましてやるようなつもりで軽く叩くことしか出来なかった。 ……なあ、ヤマナシ。おれがどうして、おまえのこと、いろいろ気付いたと思う。 今はまだ、心の中だけで、そう伝える。 いつでも、見てたからだよ。 それなのに、まるでそれが伝わってしまったかのように、彼は顔を上げて、こちらを見た。 先輩、 短くそれだけ言葉にして、ヤマナシはまだ、それきり黙る。 後から後から溢れて流れる涙の粒が、ぽろぽろと床に落ちた。 白い光をわずかに反射して光るその水滴は、まるで彼の中に大きく育ちすぎた月が剥がれて、 破片になってこぼれ落ちるようだった。
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